すれ違い<

 戊辰戦争第四の戦役・会津戦争――――新政府軍の圧倒的な軍事力を前に、会津藩は鶴ヶ城に籠城を余儀なくされていた。若松城下では、城に入れなかった会津藩士の家族の自害や、進軍してきた新政府軍の狼藉が相次ぎ、さながら地獄絵図の様相を呈している。
 新選組も若松城下に取り残された組で、城に入ることも出来ず、仕方なく天寧寺で今後の方針を話し合うことになった。
「会津に残るって、どういうこと?!」
 話し合いが終わり、部屋を出て行った斉藤一の後を走って追いかけたが、彼の着物の袂を掴んで問い詰めた。
 彼女はかつて、新選組が新選組らしかった頃、斎藤の直属の部下だった少女だ。本来ならこんなところまで付いてくることを許される人間ではないのだが、今は亡き沖田総司を髣髴とさせる剣の腕を見込まれて、会津行きを許されたのである。
 袂を掴んでいるの手を軽く払い、斎藤は無表情のまま言う。
「新選組は元々、会津藩預かりから始まったもの。その大恩ある会津藩を見捨てて、俺たちだけ庄内に行くわけにはいかん」
「此処に残っていたって、無駄死にするだけじゃないの」
 庄内藩には最新鋭の武器がある。奥州諸藩の中で一番兵力が充実しているところだ。勿論、庄内に行ったところで共に新政府軍と戦ってくれるという保証は無いが、降伏が時間の問題の会津に留まっているよりはマシだ。
 確かに会津藩に恩義があることは、にも解る。が入隊した時は既に新選組は大きな組織になっていたが、斎藤が入隊した頃はとんでもない貧乏所帯だったそうだから、それを拾ってくれた会津藩には彼は以上に恩義を感じているのだろう。受けた恩に報いるのが人の道であろうが、それでも降伏が目に見えている会津に残るというのは納得がいかない。
 壊滅したとはいえ、二人は新選組の隊士なのだ。副長の土方が会津を脱出して庄内に行くと言うのなら、それに従うべきだとは思う。それとも他に、会津を離れられない理由があるのだろうか。
 ふと、の脳裏に一人の女性の姿が浮かぶ。
「あの人がいるから?」
「は?」
 押し殺したような声で問うの言葉に、斎藤は訝しげな顔で聞き返す。
「高木時尾さん」
 会津藩士大目付高木小十郎の娘・高木時尾――――会津に入って、斎藤が親しくしている女性だ。武家の御令嬢で、には無い品と淑やかさを持っている。かといって、なよなよとした役立たずというわけではなく、武芸も嗜み、何より凛とした美貌の持ち主なのだ。も美しい少女なのだが、まだまだ幼さが残っていて、時尾のような大人の色香というものがない。
 浪人上がりの斎藤にとっては、時尾のような女は高嶺の花のような存在だろう。世が世なら、口を利くことも出来なかった女だ。そんな彼女が、の見立てでは斎藤に好意を寄せている。彼もそれに気付いているだろう。会津藩への恩義がどうこうというのは口実で、本当は時尾に未練を残しているのではないかと、は思う。
 あの人には斎藤を渡したくない。の中で、黒い澱のような感情がわだかまる。
 斎藤と共に戦って、いつも彼の隣にいたのは自分なのだ。誰よりも信頼されているし、女としても特別な存在だと思いたい。17の時に初めて抱かれてから、斎藤は以外の女を抱いていないはずだ。時尾が知らない斎藤を、は沢山知っている。
 けれど、京都を離れてからは戦いに次ぐ戦いで、斎藤とはいつもすれ違いの生活。おまけにには、土方の怪我の看病という仕事まで与えられて、斎藤とこうやって話をするのも久し振りという状態なのだ。そんな時に時尾のような女が現れたら、斎藤の心がそっちに移ってしまってもおかしくはない。彼の心を疑いたくはないが、京都にいた頃の隊士たちの女性関係を思い起こすと、どうしてもの中に猜疑心が芽生えてしまう。
「どうしてそこで時尾さんの名前が出てくるんだ?」
 斎藤があからさまに不快そうな顔をする。
 苗字ではなく名前で、しかも親しげに時尾の名を呼ぶことに、の中の黒い澱が更に大きくなるのを感じた。その澱は生き物のように蠢き出し、の心を支配しようとする。
「へーえ、“時尾さん”なんて呼んでるんだ?」
 言ってしまって、は激しく後悔した。それは自分の声とは思えないくらい皮肉っぽくて、そんなことを言う自分の顔はきっと醜い。
 の言葉に、斎藤の表情はますます硬くなる。
「何だ、その言い方は? 時尾さんを“時尾さん”と呼んで、何が悪い?」
「随分と仲良しだなー、って思ってさ。仲良しの時尾さんと離れたくないから、会津に残るんでしょ? 新選組なんて、崩壊したも同然なんだしね」
 そんなことを言ったら斎藤を怒らせるだけだと解っているのに、口が止まらない。黒い澱に身体を支配されて、頭では言ってはいけないと解っていることを、次々と口走ってしまうのだ。
 黒い澱の正体は判っている。“嫉妬”という名の化け物だ。こいつはいつの間にか身体の中に入り込んで、気が付いた時には全身を絡め取られて逃げられなくなってしまう。もこの黒い化け物を振り払おうと足掻くが、逃げようとすればするほど、更にねっとりと絡み付いてくる。
 斎藤は心底呆れたような冷たい目をして、を見下ろす。もう、まともに会話をすることすら馬鹿馬鹿しいと思っているようだ。
「阿呆が……。俺は、主君である会津藩に殉じるだけだ。それが士道というものだろう。時尾さんは関係無い」
 それだけ言い放つと、斎藤は踵を返してその場を立ち去ろうとする。
「待ちなさいよ!」
 その腕を掴み、は再び斎藤を引き止める。
 “主君に殉じる”だの“士道”だの、そんなのは詭弁にしか聞こえない。たとえそれが詭弁でなかったとしても、斎藤が会津に残るという事実が許せない。彼が此処に残ったら、きっと今まで以上に時尾と親しくなる。新政府軍の狼藉からあの美しい人を守るという、男としてこの上ない使命があるから。は一人でも身を守れるから、きっとそのまま放っておかれる。そんなの、耐えられない。
 斎藤を時尾から引き離さなければ。そうしなければ、彼はあの女のところに行ってしまう。男というものは、共に闘う強い女よりも、守ってあげたくなるような女の方が良いのだと、隊士の誰かが昔言っていた。それが本当なら、このままでは確実にに分が悪い。
「私、庄内に行く」
「何だと?!」
 驚いた顔をして、斎藤はの顔を見た。
「庄内に行ったところで、協力を得られる保証は何も無いんだぞ? 協力を得られたところで、今更戦況は変わらん。それこそ犬死だ」
「何もしないで此処で犬死するよりマシだわ。私は新選組よ。新選組隊士として土方さんに付いていく」
 これは、の最後の賭けだ。斎藤が時尾よりを大事に思っているのなら、一緒に庄内に行ってくれるはずだから。会津も庄内も、戦場であることには変わりない。そして、土方の性格からして、庄内でも新選組は最前線に出張るだろう。そうなれば、の方が時尾よりも危険な場所にいることになるのだから。
 は真剣な顔で斎藤を見上げる。が、斎藤は鼻先で冷笑して、
「“土方さん”か……。こっちに来てから、お前は随分と土方さんを慕っているからなあ。昼も夜も一緒にいれば、当然か」
「………どういう意味よ?」
 予想外の斎藤の台詞に、は不審げに上目遣いで見上げる。
 斎藤は皮肉っぽく口の端を歪めて、
「どういう意味も何も、言ってる通りの意味だが。昼も夜も一緒なんだから、片時だって離れたくないんだろ? 歳の差がありすぎるが、あの人はあの通り、男の俺から見ても色男だからな」
「ばっ……馬っ鹿じゃないの?! そんなことあるわけないでしょ!!」
 顔を真っ赤にして、は思わず叫んだ。そんなの、邪推もいいところだ。確かには昼も夜も付きっきりで土方の看病をしている時もあるが、誓って斎藤が考えているような関係は無い。
 だが、斎藤はそうは思っていない。昼も夜も一緒なのは、土方の世話をしているのではなく、が土方の方に心を傾けているからなのだと思い込んでいるのだ。
 つと、斎藤の身体が動いた――――と思う間も無く、の身体が壁に叩きつけられる。そのまま肩の骨が軋むほどに押さえ込まれ、は身動きが出来ない。
「痛……何する――――」
 抗議の声を上げながら斎藤の顔を見上げた刹那、はそのまま固まってしまった。彼の目は今まで見たことが無いくらいに冷たく、そのまま殺されてしまうのではないかと思うほどに凍り付いていたのだ。人を斬る時でさえ、そんな目をしているのを見たことが無い。
 蛇に睨まれた蛙のように、目を大きく見開いたままカタカタと震えるに顔を近づけ、斎藤は何の感情も表さない声で囁く。
「あの人に、何回やらせた?」
「………な…によ………それ………?」
 震える声で辛うじてそれだけ言いながら、このまま殺されるかもしれないと、は思う。どんな剣客を相手にした時も、大砲や銃弾の雨の下をくぐった時も感じたことの無かった死の恐怖を、今感じている。誰よりも好きな人なのに、その人から死の恐怖を与えられることが、情けなくて、悲しかった。
 が斎藤と時尾の仲に嫉妬しているように、彼もと土方の仲を邪推している。すれ違いの生活の中で、いつの間にお互いを信じることが出来なくなってしまったのだろう。相手の言葉を信じることが出来ないから、どんなに言葉を重ねても、すれ違いは広がっていくばかりだ。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。何処から二人がすれ違ってしまったのか、にはもう分からない。
「もう、駄目だわ、私たち………」
 吐き捨てるように吐息混じりにそう言うと、は堪えきれなくなって涙を流した。
 真実が何処にあるかなんて、もうどうでも良くなっていた。互いが互いのことを信じられなくなってしまった時点で、もう二人の関係は終わってしまっていたのだ。嫉妬と邪推に囚われてしまった二人の目には、もう真実は映らない。
 声を殺して泣くを見下ろしていた斎藤も、同じ事を思ったらしい。を押さえつけていた手を離し、そのまま苦しげに額に手を当てる。
「そうだな………」
「さよなら」
 ここで別れてしまったら、もう二度と生きて会うことは無いだろう。は斎藤の顔を忘れないように、網膜に焼き付けるようにしっかりと見詰めた。
 





 明治11年 東京―――――
「来月の下旬には生まれるんだって」
 産院の帰り、は大きく膨らんだ腹を撫でながら、夫に報告する。
「そうかぁ……。最初は女の子がいいなあ。お前に似た女の子がいい」
 夫も待ち遠しそうにそう言うと、愛しげにの腹に手を当てた。
 斎藤と別れたあの日から、10年以上が過ぎた。結局、庄内に渡っても戦況は変わらず、たちは旧幕臣たちと新天地を求めて蝦夷に渡った。蝦夷に新しい国家を作るのだと、旧幕臣の榎本とかいう男が夢みたいなことを言っていたが、実際夢物語だった。新政府軍との激戦で土方も戦死し、その四日後に函館新選組は降伏。五稜郭が陥ちたのは、更にそれから四日後のことである。
 函館戦争が終わってからのことは、はよく憶えていない。とにかく生き延びることに必死で、どうやって蝦夷から内地に戻ったのかさえ思い出せない。とにかく、内地に戻って賊軍狩りの目を掻い潜る逃亡生活の中で、今の夫に出会ったのだ。
 夫に出会った時のことは、鮮明に憶えている。月の明るい夜だった。共に逃亡していた連れがドジを踏んで、賊軍狩りに見つかったのだ。は、連れを見捨てて逃げた。捕まったら殺されるだけでは済まないことくらい、にだって判っている。追っ手も、逃げたもう一人が若い娘であるらしいことに気付いていたから、別の意味でも執拗に追跡していた。その時に逃げ込んだ納屋の持ち主が、今の夫だった。
 納屋で小さくなって蹲っていたを見た時、心臓が止まるほど驚いたと、夫は今でも笑って言う。女とはいえ、賊軍が逃げ込んできたのだから、当然だろう。だが、彼はそのまま何も訊かずに黙ってを匿ってくれた。それどころか食事と風呂を与えてくれ、時勢が落ち着くまで自分の家の仕事をしながら此処に住めば良いとまで言ってくれたのだ。行くところも無いがこの話に飛びついたのは、言うまでもない。よくよく考えれば怪しい申し出なのだが、官軍の人間に辱められて殺されるよりはマシだと思ったのだ。
 夫は機織はたおりを生業としていて、も彼に手取り足取り教えられながら、毎日はたを織って暮らした。彼はいつになってもの過去を訊こうとしなかったし、それに甘えて彼女も自分の過去については一言も話さなかった。が新選組だったことは、明治が10年過ぎた今でも、夫は知らない。も、死ぬまで黙っていようと思っている。
 新選組時代に較べると、変化の無い静かな生活だが、は幸せだと思う。夫は優しい人で、何一つ不満は無い。来月には子供も生まれる。こうやって静かに過ぎていく人生も、悪くない。
「どうした? どこか痛いのか?」
 急に黙りこくってしまったに、夫が心配そうに声をかける。
 その声にはっとして、は慌てて笑顔を作った。
「うぅん。何だか、怖いくらい幸せだなあ、って思って。優しい旦那様がいて、もうすぐ生まれる赤ちゃんがいて、本当に私は幸せ者だわ」
「なーに言ってんだ、今更」
 の臆面もない言葉に、夫は照れくさそうに顔を赤くする。続けて、
「俺も、皆から言われてるんだ。“お前みたいな男のところに、こんな働き者の美人の嫁が来るなんて、一生分の運を使ったな”って。俺の方こそ幸せ者だよ」
「やだ、もぉ……」
 も恥ずかしくなって、夫の腕を軽く叩いた。
 斎藤とは、こうやって笑い合うことは一度も無かったと、ふと思った。明治になって、一度も思い出すことの無かった男のこと。彼は会津で戦死したと聞いた。彼は死ぬまで“士道”とやらを貫いたのだろうか。
 もし斎藤が生きていたら、今の自分を見てどう思うだろう。すっかり落ち着いてしまった姿を見て、笑うだろうか。
 そんなことを考えていると、すれ違いざまに立っていた人とぶつかった。
「あ、すみませ―――――」
 よろめきながらも相手に謝りながら顔を上げたは、相手の顔を見て愕然とした。
 ぶつかった相手は、死んだはずの斎藤――――
「さ………」
「五郎さん」
 男の名を呼ぼうとした時、小間物屋から出てきた女の声が遮った。
 その女は、会津であんなにも嫉妬した高木時尾。昔と同じく上品で美しく、腕には小さな男の子を抱いていた。斎藤の子供だろうか。
 けれど、その姿を見ても、もうの中に嫉妬は無かった。もう、二人が揃っている姿を見ても、心は動かない。
 斎藤は時尾を一寸振り返ると、に向けて穏やかな微笑を見せた。
「失礼」
 それだけ言うと、斎藤は時尾の方に駆け寄り、腕に抱いていた子供を受け取る。その姿は何処にでもいる平凡な家族そのもので、もうが知っている“新選組の斎藤一”ではない。“五郎さん”という名の、ただの家庭人だ。
 斎藤もと同じように、落ち着いた人生を見つけたのだ。名前を変えて、全く違う人間として。嬉しいような切ないような不思議な気持ちで、は去って行く三人を見送る。
「どうした? 知ってる人か?」
 立ち尽くして親子連れを見送るに、何も知らない夫が尋ねる。
 は晴れやかに微笑んで答えた。
「うぅん、ぜんぜんしらないひとよ」
<あとがき>
 すれ違いっぱなしかよっ!! ととりあえず突っ込んでおく(笑)。
 お題が“すれ違い”ということで、主人公さん視点と斎藤視点の二部構成になっています。斎藤視点はこちら
 書いている途中で気が付いたんですけど、会津にいる頃って、斎藤って“斎藤一”じゃなくて“山口二郎”なんですよね。とはいえ、『山口は……』なんて表記すると、一体誰なんだか……ってカンジだし、難しいところだ。つか、斎藤、名前変えすぎ。
 しかしまあ、毎度のことなんだけど、ラブラブなシーンが無いなあ。今回は、口論のシーンしかないじゃんか。ドリームじゃねぇじゃん、こんなの。と、とりあえず自分ツッコミ。悲恋系ドリーム小説サイトの看板を掲げるかな、こりゃ(もうヤケ)。
 でも、すれ違ってもそれぞれ新しい人生を選択して強く生きているということで、一種ハッピーエンドだとは思うんですけど、如何でしょう? あ、やっぱり駄目ですか? すみません。
 こんなお話ですが、ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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