白露
白露 【はくろ】 光って白く見える露。
朝起きたら一番に火鉢の火を熾すのが、最近のの日課だ。新しい家に引っ越してから部屋が広くなって、布団を片付けなくても火鉢を使えるようになったから非常に助かる。今までの家だったら、寒がりの蒼紫を布団から引っ張り出すのも一苦労だったのだ。それが今では、火鉢で部屋が温まった頃には自分から起きてくるようになった。ただ、起きた後は出かけるまで火鉢に張り付きっ放しなのだが。
炭が仄かに赤くなって周りの空気が暖かくなったところで、蒼紫の布団がもぞもぞと動いた。起きてきたのかと思ったら、出てきたのは霖霖だ。
「あら、霖霖の方が早起きさんね」
火鉢にぴったりと張り付くように丸くなる霖霖の喉を擽ってやると、気持ち良さそうに目を細めてゴロゴロ鳴いた。
蒼紫はというと、相変わらず布団の中から出てくる気配が無い。今日は仕事が休みだから、昼まで寝ているつもりなのかもしれない。
通っている頃もそういうところはあったが、一緒に暮らすようになってからは更にだらしなさに拍車がかかってきたような気がする。結婚したらもう格好付ける必要も無くなったということなのだろうか。
四六時中格好付けているのは疲れるかもしれないが、ものには限度がある。この姿を『葵屋』の者に見てもらって、一寸説教して欲しいくらいだ。
部屋を暖かくして蒼紫を起こしてやろうと思っていたのが、甘やかし過ぎていけなかったのかもしれない。こうなったら、一寸厳しくやって躾け直さなければ。
改めて決心すると、は勢い良く立ち上がって雨戸を全開にした。朝の冷たい空気が一気に部屋に入り込んで、思わず身震いする。
「………あら」
庭木や草が少し白っぽくなっているように見えた。もう霜が降る時季になったのかと思ったが、よく見たらそれは朝日を受けて白く光る朝露だった。
この露が霜に変わるのは、もうすぐだ。こうやって吐く息も白くなっていて、冬は近い。
手足が冷たくなってきて、は息を吐きかけながら両手両足を擦り合わせる。
空気は冷たいけれど、この時季の朝は嫌いではない。冷たい空気に触れると全身が引き締まるようで、鳥肌を立てて震えながらも清々しい気分になる。
「そんなに開け広げたら寒いじゃないか」
朝の清々しい空気を胸一杯に吸い込んでいるの後ろで、蒼紫が布団から頭だけ出して不機嫌な声を上げる。
頭だけとはいえ漸く布団から出てきた蒼紫を振り返り、は上機嫌に、
「そう? 気持ち良いじゃない。部屋の空気を入れ換えないと身体に悪いわよ」
「身体に悪くてもいいから閉めてくれ。これでは寒くて布団から出られない」
「火鉢があるでしょ。霖霖はもう火鉢の横で丸くなってるわ。
それより見て、露が霜みたいになってる」
促すようにが庭を指差すが、蒼紫はつまらなそうな顔をするだけで再び布団に潜ってしまった。
そういう反応をされると、の方がもっとつまらない。まったく、自分がいちゃいちゃしたい時は鬱陶しいくらいに寄って来るくせに、そうでない時はが呼んでもこれだ。
火鉢の時もそうだが、寒い朝はよりも布団の方が好きらしい。そのことに腹を立てていたこともあっただが、今ではもうそれにも慣れてしまった。それどころか、そんな蒼紫に対抗する方法まで編み出しているのだ。
は縁側に置いている二つの鳥籠に被せている風呂敷を取ると、それぞれを屋根の下に引っ掛ける。霖霖と一緒に買うようになってから、文鳥たちはこうやって高いところに吊るすようにしたのだ。
「おはよう。ちぃちゃんも寒いのかなぁ?」
首を竦めて丸まると膨れている“ちぃちゃん”に、はくすくす笑いながら話しかける。
「ちぃちゃん、おいで」
籠の出入り口を開けて手を入れると、“ちぃちゃん”はすぐにの手に乗った。“ちぃちゃん”は蒼紫と違ってとても素直だ。
相変わらず“ちぃちゃん”は寒そうに膨れているけれど、その姿がまた可愛い。喉から胸の辺りを指先で擽ってやると、“ちぃちゃん”は気持ち良さそうに目を細めた。
「ちぃちゃんは偉いわねぇ。こんなに寒くても、ちゃぁんとお外に出るんだもの」
そう言った後、後ろで蒼紫がもそもそ動く気配がした。
が“ちぃちゃん”を可愛がったり褒めたりすると、蒼紫は可笑しいくらい“ちぃちゃん”に対抗しようとするのだ。いい大人が文鳥相手に焼き餅を焼くなんて、とはいつも呆れるのだが、こういう時は使える。
が、いつもなら起き上がってに抱きついたりするはずなのに、その気配が全く無い。不審に思って振り返ると、何と蒼紫は掛け布団を背負ったまま火鉢に張り付いていた。
今までに無い蒼紫の行動にが唖然としていると、彼は聞こえよがしに霖霖に話しかける。
「火鉢は暖かいなあ、霖霖。冬はこれが一番だ」
同意するように霖霖は一声鳴くと、蒼紫が背負っている布団に潜り込んだ。
どうやらこの作戦を使いすぎて、蒼紫にはもう通用しないらしい。まあ、いい大人がこんな子供騙しの手に何度も引っ掛かるのも問題なのだが。
火鉢に布団に霖霖と、暖かいものを集めて彼女のことなど眼中に無いような蒼紫の様子に内心むっとしながらも、も負けずに“ちぃちゃん”に楽しげに話しかける。
「ちぃちゃんは本当に良い子だわぁ。誰かさんみたいにだらしなくお布団を背負って亀さんみたいにならないもの」
褒められているのが判るのか、“ちぃちゃん”は上機嫌にちちっと鳴いた。
の当てこすりに蒼紫も一瞬むっとするが、すぐに霖霖に優しく語りかける。
「火鉢は本当に良いなあ。誰かみたいに口煩くないし、黙って俺たちを温めてくれるし。こいつが人間だったら嫁にしたいくらいだ」
この言い草にはもカチンときた。当てこすりなのは解っているが、いくら何でも言って良い事と悪いことがあるだろう。よりにもよって、火鉢が人間だったら嫁にしたいだなんて、それが新妻に言う言葉か。
大体が口煩くなってしまうのは、全部蒼紫のせいではないか。彼さえ朝にきちんと起きてくれれば、だってこんなことは言わない。寒かったら布団からダラダラと出ない男が相手なら、誰だって口煩くなるに決まっている。あの火鉢が人間のように喋れるなら、「四六時中くっ付くな、鬱陶しい!」くらい言うだろう。
は“ちぃちゃん”を籠に戻すと、足を踏み鳴らして蒼紫のところに行く。そして仁王立ちで、
「口煩くて悪かったわね! そんなに火鉢が良いなら、火鉢と再婚したら?」
カンカンになっているを見上げ、蒼紫はにやりと笑う。そして彼女の手首を掴むと、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「あっ………」
引っ張られたが膝をつくと、蒼紫はすかさず布団の中に巻き込んだ。
「火鉢に嫉妬するなんて、相変わらずだな」
「…………………!」
からかうような蒼紫の言葉に、は耳まで真っ赤になる。
そういえば、いつだったかも似たようなことがあった。あの時もこうやって抱き寄せられたような気がする。
似たような手に二度も引っ掛かるなんて、悔しいやら恥ずかしいやら。もうからは呻くような声しか出ない。
そんなの顔が可笑しいのか、蒼紫は小さく笑った。
「火鉢なんかと結婚するわけないだろう。馬鹿だなあ」
「火鉢みたいに黙って暖めてくれる女が良いんでしょ。私は口煩い女だもの」
それくらいで機嫌を直してなるものかと、はぷいっと顔を背ける。
「黙ってるだけの女なんて、つまらないじゃないか。火鉢が人間になっても、の方が良いに決まってる」
そう言うと、蒼紫はの頬に軽く口付ける。
と、突然“ちぃちゃん”が大きな声で威嚇するように鳴きながら暴れ出した。この文鳥は自分を人間だと勘違いしているのか、蒼紫との仲睦まじい姿を見るとこうやって暴れるのだ。
雛の時からが溺愛して育てたから、こんな分を弁えない図々しい文鳥に育ってしまったのだ。鬱陶しい奴だと蒼紫は思うが、所詮は文鳥。人間様に敵うわけがない。
見せ付けるように更にと密着すると、“ちぃちゃん”は益々激怒して大暴れする。どうにか籠の外に出ようと思っているのか、柵をガリガリと齧ったりして、その姿を見ながら蒼紫はにやにやと人の悪い笑いを浮かべる。
「あ、ちぃちゃんが―――――」
ただ事ではないくらいに暴れる“ちぃちゃん”に気付いて、が立ち上がろうとする。が、蒼紫はすぐにそれを制して、
「あいつは独り身だから、俺たちが羨ましいんだろう。放っておけば大人しくなるさ」
「ちぃちゃんもお嫁さんが欲しい年頃なのね」
鳥からも羨ましがられるなんて、何だか嬉しい。ふふっと笑って、は漸く機嫌を直したように蒼紫に凭れかかった。