一枚の絵
本を読んでいると、紙が一枚落ちた。ひっくり返してみると、木の下で鞠つきをしている少女の絵が描かれていた。随分昔、まだ蒼紫が江戸にいた頃に流行した絵師のものだ。当時の流行りに乗って買ったものである。この絵師の作品はいくつか持っていたが、江戸城開城の時に処分してしまった。本に挟まっていたこれだけが残っていたらしい。
今ではもうこんな絵に興味を持つことは無くなってしまったけれど、この絵は懐かしくて捨てる気にはなれない。あの頃、一番気に入っていたせいだろう。
特別素晴らしい絵というわけではないけれど、何となく雰囲気が気に入っていた。壁に貼っていた跡が、紙にも残っている。
「そんなものを見てるなんて珍しいわね」
絵をじっと見ている蒼紫に気付いて、が声をかけた。
「昔買ったものだが、今になって出てきた」
こんなものを見ているのが何となく気恥ずかしくて、蒼紫は隠すように絵を折りたたむ。が、はそれを取り上げて、
「あら、この絵………」
もこの絵を知っていたらしい。江戸であれだけ流行っていたのだから、京都でも流行っていたのかもしれない。
「子供の頃に江戸で流行っていたものだ。京都でも売っていたのか?」
「この作者、京都の人よ。江戸でも売っていたなんて知らなかったわ」
何だかよく分からないが、は嬉しそうだ。もしかしたらもこの絵師が好きだったのかもしれない。
江戸でも京都でも売られていたということは、当時はかなりの売れっ子だったのだろう。そんな絵師の名前も、今はもう聞かない。生きているのか死んでいるのか、名前を変えて活動しているのか、廃業してしまったのか、蒼紫には調べる術も無い。
「昔は他にも持っていたんだが、住んでいた所を引き払った時に処分してしまった。これだけ残ってたんだ」
「ふーん………」
よほどこの絵を気に入ったのか、はじっと見ている。そして嬉しそうに笑って、
「この絵、お気に入りだったの?」
「うん、まあ………」
こんな少女の絵を気に入っていたというのは、何となく恥ずかしい。蒼紫は言葉を濁した。
絵の中の少女は特別美しいというわけではない。構図もありふれたものだが、雰囲気は今見ても魅力のあるものだ。
「雰囲気がな。何となく他の絵よりも惹きつけられるんだ」
「雰囲気ねぇ………」
何が可笑しいのか、はくすくす笑う。蒼紫が少女の絵を愛でるのがそんなに可笑しいのか。
確かに蒼紫自身も、こんな絵に惹きつけられる自分を可笑しいと思う。こんな芸術作品とは程遠いものを保存していたこともだ。
「まあ、こんな絵に雰囲気も何もないが。ただの娯楽絵だ」
自嘲気味にそう言って蒼紫は絵を取り返そうとするが、はその手をかわして、
「いいじゃない。飾っておきましょうよ。昔は飾ってたんでしょ? 跡が付いてる」
「それは………」
何故だか分からないが、恥ずかしい過去を暴かれた気分になった。この少女の絵は何というか、蒼紫の初恋の相手だったのだろう。
会ったことも無い、存在さえも怪しい少女に恋だなんて、馬鹿げていると思う。けれど蒼紫も、当時は子供だったのだ。絵の中の少女に恋をしても、それはそれで良い思い出というやつなのかもしれない。
蒼紫が黙っていると、はいそいそと絵を壁に飾り始めた。
「昔の絵の割には色褪せてないわね。大切にしていたのかしら」
「まあ……気に入ってはいたからな」
はやけにこの絵に拘っているようだが、あまり追求されると蒼紫も気まずい。もしかして、絵の中の少女に嫉妬しているのだろうか。
蒼紫が絵の中の少女を好きだったとしても、それは子供の頃の話だ。しかも、相手は実在するかも怪しい相手である。そんな少女に嫉妬だなんて馬鹿馬鹿しい。
痛くもない腹を探られているようで、蒼紫は何だか腹が立ってきた。いっそ絵を処分してやろうかと立ち上がった時、がとっておきの秘密を明かすように含み笑いをした。
「この絵、私なのよ」
「は?」
何を言っているのかと、蒼紫は間抜けな声を出した。
この少女は絵師の想像の産物ではないのか。仮に基になる誰かがいたにしても、それがだなんて、話が出来すぎている。
確かに絵の中の少女が実在していたとしたら、年齢的にはと同じくらいにはなっているだろう。絵師は京都に住んでいたというし、何かの偶然でと会ったことがあるかもしれない。それにしても、その絵を蒼紫が持っているというのは、いくら何でもありえないことだ。
改めて少女の顔を見てみる。俯き加減の横顔だから、に似ているのか判別が難しい。面影があるといえばあるのかもしれないけれど、別人と言われれば別人のような気もする。要するに、これといった決め手が無いのだ。
「遊んでいた時に、知らないおじさんが絵を描いてたの。記念に下書きを貰ったんだけど、後で有名な絵師だって知ってびっくりしたわ」
そう言って、は押入れを開けると、中から古い紙を引っ張り出した。
「これこれ。いつかお宝になるかもしれないって、大事に取っていたのよ。今となってはただの紙きれだけどね」
が出したのは、色褪せてぼろぼろになった紙だ。の言うことが本当なら同じ頃に描かれたものである筈なのに、蒼紫の持っているものよりも十年以上古いものに見える。
その紙に描かれているのは、蒼紫の絵より雑で構図も微妙に違うものだが、確かに同じ絵である。下書きと言われれば納得するものだ。
「自分の姿絵が江戸でも売られてたなんて不思議なものね。一体どれくらい売れてたのかしら」
知らない人間が自分の絵姿を飾っているというのは、蒼紫にしてみれば不気味なものだが、はそうは思っていないらしい。多くの人間に売れたということは、それだけ自分の姿が世間に認められたのだと思っているのかもしれない。
「江戸ではかなり売れていたと思う。俺も買ったくらいだからな」
お世辞ではなく、客観的な事実だ。当時はあの絵師の絵は飛ぶように売れていたし、流行に疎い蒼紫ですら持っていたのだから、この絵を持っているものは多かっただろう。今も持っているかは分からないが。
「そして蒼紫もこうやって壁に飾ってたのよね」
からかうような口調でが茶化す。飾っていたこともそうだが、こうやって今も持っていたことは、まんざらでもないらしい。
に出会うずっと前から、蒼紫は彼女に会っていたのだ。そしてその頃も絵の中ののことが好きだった。
あの頃好きだった少女が目の前にいて、しかも知らないうちに自分の妻になっていたなんて、こうやって証拠を出された今でも信じられない。ついさっきまで、少女の実在すら疑っていたのだ。
があの絵の少女だというのなら、蒼紫の初恋は思わぬところで実っていたわけである。それも、最良の形で。
「なんだ、俺はずっとと一緒だったのか………」
実際に絵を眺めていた期間は短いものだったが、この絵だけが処分されずに蒼紫の荷物に紛れ込んでいたなんて、運命的なものを感じる。どんな時も蒼紫と共にあって、そして今は絵ではなく本物がいるのだ。この少女はこれからもずっと、蒼紫と共に歳を重ねていくのだろう。
蒼紫はと出会うことが決められていたのだ。寺で初めて見た時にのことが気になっていたのも、心のどこかであの絵の印象が作用していたのかもしれない。
「知らないうちから、ずっと蒼紫の傍にいたなんて、不思議な感じね」
も同じように運命的なものを感じているのだろうか。壁に張った縁線をやって、感慨深げに呟く。
「今までもこれからも、ずっと一緒だ」
昔は互いのことを知らずにずっと一緒だった。十年以上の時を経て互いを知り、一緒にいることを決めた。そして今は、こうなることは最初から決められていたのだと思う。
「この絵を手に入れた時から、こうなることは決まっていたんだ」
未来が決められているなんて思わないけれど、こうも偶然が重なるというのはきっと、との出会いは絵を買ったあの日に―――――否、もしかしたらその前から決められていたのだろう。蒼紫は柄にもないことを考えてしまう。
こんな非現実的なことを考えてしまうなんて、昔の蒼紫には想像もできなかったことだ。誰かの傍にいるだけで幸せだと思うことも、この穏やかな生活も。
これらのことを教えてくれたには感謝している。先代御頭も翁も教えてくれなかったことを、との生活で沢山学んだ。これからも教えられることは沢山あるだろう。
「感謝している」
「どうしたの、急に?」
唐突な蒼紫の言葉に、は可笑しそうにくすくす笑った。
オチが見つからずずっと放置プレイでしたが、やっとオチがつきました。長かった……。サイト開設の頃からのシリーズだから、7年か……。
今回はトーマス・マンのエピソードから思いついたネタです。マンが学生の頃に流行ったお気に入りの絵の中に、後に妻になる少女の姿があったという。そういう偶然って本当にあるものなんですねぇ。
タイトルは散々悩んで、結局捻りのないものに(笑)。本当にラストなのに。