年の初めのご挨拶
炬燵の上に一個だけ残った蜜柑を挟んで、二人はじっと黙り込んでいる。年末に箱買いした蜜柑であるが、二人で調子に乗って食べているうちに、正月二日目にして最後の一個になってしまった。こんなに早く無くなってしまうとは予想外である。
商店が開くのは明後日からだ。炬燵の上に乗っているのは、本当に最後の一個である。
「………食べないのか?」
じっと蜜柑を見詰めたまま、蒼紫が尋ねる。一応譲っているような様子を見せているが、食べたいと思っているのはありありと分かる。
「蒼紫こそ食べないの?」
も、蒼紫の様子をちらちら伺いつつ訊き返す。
蜜柑など簡単に安く手に入るものであるが、不思議なもので最後の一個と思うと貴重な逸品に思えてくるものだ。最後の一個こそ、あの箱の中で一番美味しいものなのではないかとさえ思えてくる。
付き合い初めの頃は蒼紫が快く譲るということが多かったのだが、次第にそういうことも無くなって、今では彼も食べたいという空気を強烈に醸し出すようになった。長く付き合っていると、格好付けてばかりもいられないということだろう。
それならの方が譲ってみたらどうかと思われそうだが、蜜柑は彼女の好物の一つである。最後の一個を目の前で食べられるのは、一寸辛い。一応口では譲ってはみるものの、本当に食べられたら、蒼紫の様子を恨みがましくじっと見詰めてしまいそうだ。蒼紫もそれを予想して手を出せないでいるのだろう。
要するに、二人とも食い意地が張りすぎて、蜜柑が“遠慮の塊”になってしまっているのだ。手を出したら最後、相手に恨まれそうだと互いに警戒している。食い物の恨みは恐ろしいのだ。
それにしても、蜜柑を挟んでの沈黙は重苦しい。傍から見れば滑稽なことこの上ないだろうが、本人たちは真剣である。
「あの―――――」
沈黙を打ち破るように、蒼紫が口を開いた。
「このままじゃアレだから、賭けをしないか?」
「賭け?」
「今日は多分、誰か来るだろう。最初に入ってくるのが男か女か、それを当てた方がこの蜜柑を食べることにしよう」
蒼紫も、たかが蜜柑で微妙な雰囲気が続くのは耐えられなくなったのだろう。確かに正月早々この雰囲気はきつい。
しかも賭けの景品となれば、恨みっこ無しである。食べているところをじっとりと見られても、勝ったのだから心苦しくもない。
「そうね。じゃあ、私は男の人で」
この家に来るのは『葵屋』の翁たちくらいなものだ。そして多分、一番に入ってくるのは主人の翁だと、は睨んでいる。
蒼紫はにやりと笑って、
「じゃあ、俺は女だ」
普通は年長者が一番に家に入って来るものだが、『葵屋』には操がいる。あの活発な少女が翁を押し退けて入ってくるのは十分に考えられることだ。
蒼紫の自信満々な顔を見ていると、彼の選択が正しいような気がしてきた。何しろ蒼紫は、『葵屋』の者たちの性格をよく理解している。
もう一寸考えれば良かったかとは後悔したが、まあ仕方がない。ひょっとしたら操も少し大人になって、翁に先を譲るようになっているかもしれないではないか。
「誰が一番に来るかしらねぇ」
単純な賭けで景品もつまらないものであるが、何だか楽しくなってきた。何とも思っていなかった年始の客であるが、誰が来るのか楽しみだ。
賭けを提案して随分経つが、誰も来ない。『葵屋』では正月二日に初詣を済ませた足で年始の挨拶周りをするのが恒例であるから、もう来ても良さそうな時間である。
「何をしてるんだろうな………」
待ちくたびれたのか、蒼紫がそわそわし始めた。
『葵屋』の者たちが来ないと蜜柑が食べられないこともそうだが、何処にも出かけることができない。二人はまだ初詣に行っていないのだ。
も正直、少し苛々している。蜜柑もそうだが、これからの予定が立てられないのは困るのだ。初詣だって行きたいし、初売りにも行きたい。
「去年はもう来てたのにね。初売りに行ってるのかしら」 初売りに行くのは別に構わないが、こちらは待っているのだ。は炬燵に頬杖をついてぷうっと膨れる。
「もう俺たちも出かけるか?」
再び空気が微妙になってきたことを察して、蒼紫が提案する。彼自身、退屈してきたようでもあるが。
「賭けはどうするの?」
「最初に会った人間がどっちかにすれば良い」
「駄目よ、そんなの」
最初に会った通行人が一人なら良いが、連れがいてそれが男女の組み合わせだったらどうするのか。ここまで待っていたのだから、判定をうやむやにするわけにはいかない。
蜜柑を巡っての賭けだったが、ここまで待ったら賭けの勝敗こそが目的だ。蜜柑はもうおまけである。
「ここまで待ったんだから、誰かが来るまで待つから」
そう宣言して、は意地でも動かないと言うように座り直す。何に対して意地を張っているのか自分でも謎だが、とにかく来客を待つしかないのだ。
「うーん………」
蒼紫は困ったように唸る。自分で言い出したこととはいえ、がここまで本気になると面倒臭くなってきたのだろう。
正月早々こんな微妙な雰囲気では、今年一年が思いやられる。しかもきっかけは、一個の蜜柑なのだ。
二人の雰囲気が微妙になるきっかけは大体、こんな安い食べ物だ。つまらないきっかけであるから仲直りするのも早いのだが、いい歳して食欲に振り回されすぎである。今年こそはこれを最後に、食い物で微妙になりたくないものだとは思う。
手持ち無沙汰になってきたのか、蒼紫は霖霖を炬燵から引っ張りだして構い始めた。気持ち良く眠っていたのか、霖霖は眠たげな顔で迷惑そうだ。
と、玄関の戸を叩く音がした。待ちに待った来客だ。
「来た!」
二人は同時に炬燵から飛び出すと、玄関に駆け出した。
「いらっしゃい!」
勢い良くが玄関を開けると、そこに立っていたのは―――――
「明けましておめでとうございます」
深々と頭を下げたのは、霖霖の友達猫であるデブ猫のトラの飼い主だった。彼女の腕にはトラが抱えられている。
彼女が来たのは予想外だったが、客は客である。
「女かぁ………」
思わずは残念そうに漏らしてしまった。
「はい?」
幸い、相手には聞こえなかったらしく、トラの飼い主は怪訝そうに首を傾げる。
の横から蒼紫が取りなすように、
「いやいや、まさかいらっしゃるとは思ってなかったんで。うちの親類の者が来たのかと思いまして」
蒼紫の声は何となく弾んでいる。賭けに勝った喜びもあるのかもしれないが、美人が来たのが嬉しそうだ。彼も男であるから気持ちは解らないでもないが、には面白くない。
正月早々他の女に鼻の下を伸ばすのは如何なものか。は蒼紫の袖を軽く引っ張ってみるが、彼はそれに気付かない様子で美人を招き入れる。
「さ、どうぞ。こんなところでは寒いでしょう」
「ありがとうございます」
トラの飼い主が家に足を踏み入れようとした時―――――
「ぶにゃあ」
家の奥に霖霖の姿を見付けて、トラが先に家の中に飛び込んだ。
「男だ!」
一直線に霖霖に走っていくトラを見遣って、は嬉しそうな声を上げた。
玄関先までやって来たのは女だが、家に入ってきたのは去勢された猫とはいえ“男”が先だ。これはの勝ちである。今年は良い一年になりそうだ。
「あの、何が………?」
状況が飲み込めないようで、飼い主はますます怪訝な顔をした。まあ当然である。
「一番に家に来た客が男か女か、蜜柑を賭けてたんです」
「ああ、それで。トラちゃんも一応男の子ですものねぇ」
蒼紫の説明でこれまでのの反応をすべて納得したらしく、トラの飼い主は可笑しそうに笑った。続けて、
「あ、これ。貰い物ですけど、蜜柑です。どうぞ」
「あらまあ………」
「ありがとうございます」
思いもよらぬ手土産にが驚いている横から、蒼紫が遠慮なく手提げ袋を受け取った。
中身は大きくて立派な蜜柑だ。二人が賭けていた蜜柑より上等そうである。賭けには勝ったものの、後からもっと上等な蜜柑が持ってこられたとは、何とも微妙だ。
嬉しいやら残念やら複雑な思いでが袋の中を覗き込んでいると、蒼紫が一番大きな蜜柑を手渡した。
「明日の分までありそうだ。良かったな」
微笑んでそう言われると、蜜柑のことも美人に鼻の下を伸ばしたのもどうでも良くなってきた。当たり前のように一番大きな蜜柑を譲ってくれたのも嬉しい。
「うん」
一寸微妙な感じだったけれど、今年一年はやっぱり良い年になりそうだ。人目があるから素直に嬉しさを表せないが、は少しだけ蒼紫に身を寄せて小さく頷いた。
2010年のお正月ネタ。このシリーズ、一番最初に書いたのはサイト開設直後だから、かれこれ6年目に突入か………。
それにしてもこの二人、食い意地が張り過ぎだ。コンビニも無く、初売りも4日以降だったと思われるこの時代、“最後の一個”が貴重なのは解らないでもないけど。
デブ猫のトラちゃんと美人飼い主とは近所付き合いしてたんですね。美人だから蒼紫も近所付き合いに積極的なのか………?