星影

星影 【ほしかげ】 星の光、または星明りのこと。
 この屋敷の食事風景は重苦しいと、阿久里はいつも思う。食事中に会話がないのは実家と同じなのだが、空気が全く違うのだ。
 夫婦仲がうまくいっていないことは、から聞いて知っている。和やかな雰囲気など最初から望んではいないが、こんな空気の中では味も禄に判らない。
 自分から話題を振れば空気が変わるのではないかと思ったこともあったが、今一つ上手くいかなかった。話しかければも伯爵も応えてはくれるのだが、夫婦での会話は成立しないものだから、長くは続かない。変なところで話が途切れたりして、余計に重苦しい雰囲気になってしまうのだ。
 こんな冷えきった夫婦関係なら、が蒼紫に関心を持ってしまうのは仕方の無いことなのかもしれない。だからといって、夫に秘密の文を交わすことが許されるわけではないのだが。
 今のところ、伯爵は手紙のことには気付いてはいないようだ。このまま気付かれぬうちにが飽きてくれることを、阿久里は望んでいる。
 しんと静まり返った部屋の中で、食器が触れ合う小さな音だけが繰り返される。と、が箸を止めた。
「週末、阿久里と出掛けようと思うのですが」
 の声は何気無いが、阿久里はその言葉にぎくりとした。
 昨日、蒼紫からの手紙をに届けた。内容は阿久里には教えてもらえなかったが、多分あれに逢い引きの約束が書かれていたのだろう。
 だけでは使用人が供をすることになるだろうが、阿久里と一緒であれば供が無くても外出することができる。阿久里の用事に付き添うという名目があれば、伯爵に外出先について詮索されることも無い。にとっては一石二鳥だ。
 しかし口実に使われる阿久里はたまったものではない。逢い引きの片棒を担いだことが伯爵に知れては、女学校に通うことさえかなわなくなってしまうかもしれないのだ。
 伯爵が少し考えるような顔をした。何かに気付いたのではないかと、阿久里ははらはらしながら伯爵の表情を伺う。
 実際にはそれほどの間はなかったのかもしれないが、阿久里には伯爵の沈黙がひどく長いものに感じられた。
「暗くなる前に帰るなら構わないが」
 伯爵は何も疑っていないようだ。拍子抜けするほどあっさりと承諾した。
 ほっとしつつも、こんなに調子よくいくものなのだろうかと阿久里は心配になった。妹と一緒だからといって、行き先すら訊かないというのは、どうなのだろう。妻に関心がないから、と言われればそれまでだが、ここまで無関心だと何かあるのではないかと勘ぐってしまう。
 ひょっとして義兄は気付いているのではないだろうか。手紙のことも外出の理由も承知の上で知らぬ振りを決め込んでいるとしたら―――――自分の想像に阿久里はぞっとした。
 手紙は誰にも見付からないように取りに行っている。だって厳重に扱っているはずだ。使用人たちに見付かるはずはない。
 秘密は守られているのだ。阿久里が心配するようなことは何も無い。
 の様子を伺うと、いつもと変わらぬ様子だ。阿久里と違い、伯爵が気付いているかもしれないとは露ほども思っていないらしい。
 は夫を侮っている。伯爵から決定的な証拠を突きつけられるまで、夫は何も知らないと思い続けるのだろう。それとも、蒼紫に会うことで頭が一杯で、伯爵が何を考えているのかなど、想像もしないのだろう。
 恋というものは、あらゆる思考を奪い去るものだという。夫の反応に何の疑問も持たないは、思考が止まっているのかもしれない。
「そんなに遅くはなりませんわ。阿久里が一緒ですもの」
 涼しい声で応える姉の横顔が、阿久里には知らない女のもののように見えた。





 一度お会いしたい、という文字を目にした時、涙が出るほど嬉しかった。あの方に会えるのだと思うと、それだけで今の不幸を忘れることができた。
 周りの目があるから昼間のほんの短い時間しか会えそうにないと蒼紫は書いているが、それだけでも十分だ。明るい場所で彼の顔を見て、話ができるだけでも嬉しい。
 夫から外出の許可が出てすぐに、は蒼紫へ手紙を書いた。そして今日、彼に会いに行く。
「お姉様」
 阿久里が不安げな顔で声をかけた。
「やっぱり帰りましょう。今ならまだ………」
 もう馬車を走らせているというのに、往生際の悪いことだ。
 阿久里が蒼紫とのことを快く思っていないことは解っている。今の自分の生活を守るために、伯爵の機嫌を損ねるような真似をしたくないことも。阿久里にとっては、が“伯爵夫人”として大人しくしているのが最善のことなのだ。
 けれどは、自分の人生を自分のために使いたい。今までずっと家族のために耐えてきたのだ。
 これからの人生は死んだものと思って、家族のために家に嫁いだ。そして結婚してから蒼紫と出会うまでの時間は、本当に死んでいたも同然のものだった。蒼紫と出会って、はもう一度生きることができたのだ。
 若い阿久里にはまだの辛さが解らないのだろう。豪奢な屋敷に住んで、美しく着飾って、上等な食事ができることが幸せだと思っている。そんなもので心が満たされることはないということを知らない。それを知らないというのは幸せなことだ。
「何を言っているの。次はいつになるか分からないのよ」
 蒼紫に会えると思っていたから、今日まで生きることができた。会えばまた、次に会える日まで生きることができる。蒼紫に会うことだけが、今のの支えなのだ。
 元御庭番衆御頭という肩書きより他は何も持たない男だけれど、蒼紫は伯爵が与えてくれなかったものをに与えてくれる。それはが心から求めていたものだ。それを与えてくれた男に、どうして会わずにいられるだろう。
 しかしそれを話したところで、阿久里は理解してはくれないだろう。そんなものが存在することすら知らない子供なのだ。
 は窓を開け、御者に声をかけた。
「此処で止めてちょうだい。阿久里と歩きたいの」
 馬車を降り、帰りは辻馬車を拾うからと御者を帰らせた。待ち合わせの場所まではまだ距離があるが、あまり近くまで使用人を同行させるのはまずい。
「此処からは一人で行くわ。あなたは時間まで好きにしなさい。くれぐれも知り合いに見付からないようにね」
 口止め料も兼ねて多めの小遣いを渡すと、まだ不安げな阿久里を残しては約束の公園に向かった。





 明治なって公園として整備されたものの、雑木林だった名残か鬱蒼と木が生い茂っている場所が残っている。平日の昼間は人も少なく、人目を忍ぶには丁度良い場所だ。
 少し早く着いてしまったのか、蒼紫の姿はまだ無い。時間が自由になると違い、使用人の彼は外出するまでに都合を付けなければならないことがいろいろとあるのだろう。
 けれどこうやって待っている間も、には楽しい。限られた時間なのだから一刻も早く会いたいとは思うのだが、こうして待っている間に蒼紫のことを考えるのは、実際に会うのとはまた別の高揚感がある。こんな感覚は初めてだ。
 こうやって相手のことを考えるだけで胸が高鳴ることを、恋というのだろう。翻訳ものの物語でこんな場面を読んだ時は何のことか解らなかったが、今なら解る。は自分が物語の主人公になったような気がしてきた。
様」
 草を踏む音と共に、背後から蒼紫の声がした。
「四乃森様!」
 振り返り、蒼紫の姿を見た瞬間、は抱きつきたい衝動に駆られた。自分の中にこんな激しい感情があったことが驚きだ。
 蒼紫と出会わなければ、こんな自分がいることも知らないままだった。待つことの楽しさも、姿を見ただけで我を忘れてしまいそうになるほどの嬉しさも。世間に非難されることだとしても、こんな気持ちになれるのは幸せだ。
「遅くなって申し訳ありません。もっと早くに出たかったのですが」
「いいえ。お気になさらないで」
 謝罪する蒼紫に、は首を振る。
 約束の時間より少し遅れたが、待っている間もは楽しかった。そしてこうやって会えたことが何よりも嬉しい。
「こうやってお会いできるだけでも夢のようですわ。この日をどんなに心待ちにしていたことか」
「俺もです」
 蒼紫が穏やかに微笑む。その表情だけで、は気絶しそうなほど胸が高鳴った。
「本当に来ていただけるか、お姿を見るまで心配していました」
「お会いできるなら、どんなことをしても出てきますわ。四乃森様にお会いできると思うから、今日まで生きてこれたのですもの」
「そんな大袈裟な………」
 の芝居がかった言い回しを冗談と思ったのか、蒼紫は苦笑した。
 物語の台詞のようだが、の言葉は真実だ。蒼紫と会うまでは何があっても耐えようと思えたし、耐えられた。顔を合わせるのさえ苦痛だった伯爵にも、普通に接することができるようになった。苦痛を苦痛と思わなくなれたのは、蒼紫がいたからだ。
 が今こうしていられるのは、全て蒼紫のお陰だ。本当に感謝している。
「本当ですのよ。貴方に会えなければ、私はどうなっていたか………。こんなに楽しいと思うことも、本当に初めてですもの」
様………」
 嬉しくてたまらないということを伝えたかったのに、蒼紫は何処か痛むような顔をした。
「どうしてそんな顔をなさるの?」
「そんなことで貴女は―――――」
 蒼紫はそのまま絶句した。
 どうして蒼紫がそんなに辛そうな顔をするのか、には解らない。何か彼を悲しませるようなことを言ってしまったのだろうかと不安になった。
「私、何か悪いことを言ってしまいました? もしそうでしたら、私―――――」
 どうしていいのか分からなくなって、はおろおろしながら蒼紫に手を伸ばす。と、蒼紫がその手を取り、自分の方に引き寄せた。
「あっ………」
 蒼紫に抱き締められているのだと気付いた瞬間、の心臓は爆発しそうになった。それほど強く抱き締められているわけでもないのに、呼吸さえも侭ならない。
 夫以外の男にこうやって抱き締められるなんて、少し前のなら、なんと恐ろしいことだと思っただろう。けれど今は、これまで感じたことの無いくらい幸せだ。
 男に抱き締められることが、こんなにも幸せなことだとは知らなかった。夫のものだと疎ましいとしか思わない体温も身体の感触も、蒼紫のものなら愛おしい。
「貴女のような人が、そんなにも不幸せだとは思いませんでした」
「………………」
 蒼紫の言葉には唖然とした。
 のことを不幸せだと言ったのは、蒼紫が初めてだ。の生活を知る者は皆、家族でさえも、幸せそうで羨ましいと言う。自分の境遇を本当に理解してもらえたのだと思うと、蒼紫の口から出た“不幸せ”という言葉が甘美なものに思える。
 やはりのことを本当に理解できるのは、蒼紫だけなのだ。世界中で彼だけが自分の味方なのだと思うと、急速に愛しさが増した。
「四乃森様がいらっしゃるから、私は幸せですわ。こうしていただけるだけで、本当に………」
 今日のことを思い出せば、次に会える日までは幸せでいられる。豪華なだけで寒々としたあの屋敷にも、のことを理解できない阿久里の責めるような視線にも耐えられる。
 人を好きになるということは、自分でも信じられないくらいの力を与えてくれる。この力が“希望”というものなのだろう。今まで誰もに与えてくれなかったものだ。
「俺に貴女を守る力があったら………。あの屋敷から貴女を連れ出したい」
 絞り出すような蒼紫の言葉は、きっと真実のものなのだろう。その言葉だけでは救われた気がした。
<あとがき>
 自分の世界へ突っ走り続ける二人に対し、苦悩が深くなる妹………。この話では阿久里が一番苦労しているようです。
 手元にある本によると、明治大正期の上流女性の不倫は結構あったようです。電話もメールも無い時代、どうやって連絡を取り合ってたんだ? 昔の上流婦人は行動力があるなあ。
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