月華
月華 【げっか】 月の光、または月の光で明るいこと。
伯爵家に引き取られて以来、阿久里は馬車で女学校に通っている。徒歩で通うには遠くなってしまったせいだ。学校は遠くなってしまったが、阿久里は今の生活に満足している。洋館に住み、馬車で通学する生徒は、家族や士族の娘ばかりの女学校でも一握りだ。友人たちは皆、阿久里を羨ましがっている。
義兄である伯爵との関係も、良好といって良いだろう。無口で話しかけづらい男だが、阿久里を夜会に連れて行ったり、積極的に社交界に出してくれている。女学校への入学を勧めてくれたのも伯爵だ。
気難しそうな男ではあるが、悪い人ではないのだろう。との結婚以来、彼女の実家に援助を続けているのだから、多分いい人なのだろうと阿久里は思っている。
伯爵は良い人だ。実家に援助してくれるのも、阿久里を女学校に通わせてくれるのも、自分の体面を保つためだとは言うけれど、そうだとしても阿久里は感謝している。
「今日はお友達と用事があるから、迎えはいらないわ」
馬車を降りながら、阿久里は御者に伝える。
今日は郵便局に寄って、蒼紫からの手紙を取りに行く日だ。への郵便は使用人たちの手を介して届けられるため、秘密の手紙は屋敷に届けられないようにされている。
蒼紫のことは、に何度も聞かされた。元御庭番衆御頭で、今は武田観柳という実業家の護衛をしているのだという。立ち居振る舞いに品があって、手紙一つとっても教養が感じられる男らしい。
御庭番衆御頭といえば、世が世なら将軍お目見えの立場であるから、それ相応の教育を受けているのだろう。下級武士上がりの伯爵など比べものにならないかもしれない。けれど、人妻であると秘密の手紙を遣り取りするような男というところで、阿久里は軽蔑している。
勿論、蒼紫だけが悪いわけではないことは理解している。だって同罪だ。否、実家語と保護してくれている伯爵を裏切っているのだから、彼女の方が罪は重いだろう。
そんな姉に協力する阿久里も、伯爵から見れば同じだ。二人を責められる立場ではない。
の行動は一時の気の迷いだろうとは思う。巷で流行っている恋愛小説の真似事をしてみたいだけなのだと思いたい。たまたま小説のような出会いがあって、その相手が自分の“物語”に相応しい男だったから夢中になっているだけだ。きっとすぐに目を醒ますに決まっている。
そう自分に言い聞かせてみるが、それで阿久里の罪が軽くなるわけではない。一時の気の迷いだとしても、これは立派な不貞行為だ。
時々、上流婦人の密通が新聞をにぎわせることがある。それを目にする度に、何と恐ろしいことだろうと思っていたが、まさか自分がその片棒を担ぐことになるとは思わなかった。もしのことが表沙汰になった場合、阿久里も不貞に協力した妹として新聞に載るのだろうか。それが彼女には何よりも恐ろしい。
事が表沙汰になる前に、がこの“物語”に飽きてくれないものか。今の阿久里にはそれを祈るしかない。
罪悪感に苛まれる阿久里の気も知らず、は上機嫌だ。きっと手紙に良いことが書いてあったのだろう。
夫である伯爵の前では殆ど無表情のくせに、蒼紫からの手紙を読む時は娘のように華やいでいる。そういうの態度が、阿久里には不愉快だ。
今のや阿久里、そして実家にいる家族の生活があるのは、みんな伯爵のお陰ではないか。それを忘れて他所の男からの手紙に浮かれているの姿は、一時の気の迷いと思ってはいても、許せるものではない。
「あら、どうしたの、阿久里?」
漸く不機嫌な阿久里の視線に気付いて、が怪訝な顔をした。
驚くことに、には阿久里の気持ちが全く解らないようだ。恋は盲目というが、相手に対してだけでなく、善悪の判断もつかなくなるものらしい。
「もうこんなことはおやめになって。もしお義兄様がお気付きになったら、大変なことになってしまうわ」
「大丈夫よ。あの人が気付くわけないもの」
阿久里の忠告を、は鼻で嗤って一蹴する。伯爵は成り上がり者だから、そんな細かいことに気が回らないと高を括っているのだろう。
二人の結婚が金と血筋だけで繋がっていることは、阿久里も薄々感じている。けれど、そんな夫婦であっても、相手に全く関心を持たないということは無いはずだ。の様子に変化があれば、伯爵もおかしいと思うだろう。
「お義兄様は敏い方よ。油断したら大変な目に遭うかも」
は成り上がり者と見下しているが、逆に見れば己の才覚一つで今の地位を手に入れた男だ。時流に乗れたのも、それを見極める才があったということだろう。そんな伯爵が、家の恥となる妻の不貞を見過ごすはずがないと、阿久里は思う。
自分は高貴な家の出だから、何をしても咎められないと思っているのだろうか。徳川の時代ならいざ知らず、今は伯爵の方が立場が遥かに上だ。を追い出して、別の血筋の良い女を娶ることもできる。そのことをは全く理解していない。
「あなたは余計な心配をしなくてもいいの。私の言うことだけを聞いていればいいのよ」
阿久里がいくらやきもきしても、は何処吹く風だ。どうしたらそう能天気になれるのか、阿久里には不思議でならない。
「でも―――――」
「阿久里」
反論しようとする阿久里を、は睨みつける。
「あなたは私の味方じゃないの? あの人の味方なの?」
「私は………」
阿久里は誰の味方をするつもりも無い。ただ姉が人の道を踏み外そうとしているのを見過ごせないだけだ。
だって、この生活を失いたくはないはずだ。阿久里もそうだ。だから、には今のうちに思いとどまって欲しい。
「今ならお義兄様に気付かれずに済むと思うの。だから四乃森さんと会うなんて、馬鹿なことは言わないで」
阿久里は必死になって懇願する。伯爵の味方をするつもりは無くても、自分を守ろうと思えば、こう言うしかない。
阿久里の言葉に、は憎々しげに顔を歪める。
「すっかりあの人に手懐けられたのね。女学校に行かせてもらったからって、血を分けた私よりも下賤なあの人を取るの?」
「下賤だなんて………」
伯爵は生まれこそ下級武士だが、決して賤しい人間ではない。今の地位に相応しい人間になるために、欧米事情について勉強しているのだ。阿久里を卒業まで女学校へ行かせるつもりでいるのも、学問の大切さを知っている証拠だ。
お義兄様のことを悪く言わないで、と言いそうになるのを、阿久里は寸でのところで堪えた。それを言えば、は怒り狂うだろう。
今のには蒼紫しか見えていない。それほどまでにを夢中にさせるなんて、一体どんな男なのだろう。
伯爵と比べてどれほど素晴らしい男なのか知らないが、何とも忌々しい。まだ見たことも無い蒼紫にも、目の前で浮かれるにも、阿久里はどうしようもなく苛立った。
妹が家に引き取られて以来、からの手紙が目に見えて頻繁になった。こんなに出して大丈夫なのかと蒼紫が心配するほどだ。
しかも今回の手紙には、二人きりで会いたいと書かれている。妹の外出に付き添うことを口実にするようだ。一人での外出は難しいが、妹が一緒なら伯爵の警戒も緩くなると踏んだのだろう。
怪しまれないのなら良いが、あまり派手に動かれると蒼紫は困ってしまう。協力者が血を分けた妹なら大丈夫だと思うが、秘密を知る者を増やしたくはない。
「―――――蒼紫様」
「ああ」
天井裏からの声に、蒼紫はさり気なく手紙を隠した。
秘密を知る者は、こちら側にも一人いる。誰よりも蒼紫に忠実だが、それゆえに厄介な相手だ。
「互いの立場は心得ている。妙なことは考えるな」
こちらはただの護衛で、あちらは伯爵夫人。このままずるずると付き合うわけにはいかない。けれど―――――
最初は、不本意な結婚を強いられた貴婦人の慰めになればと思っていた。不満を口にしてはいても、いつかは現実と折り合いを付けて自然消滅すると、軽く考えていた。
ところが、からの手紙は、回を追う毎に熱心になっている。最初はカナリアの様子を綴っていただけのものが、今では自分の感情を隠そうともしない。とにかく会いたいのだと、それだけを熱っぽく語りかけている。一時の現実逃避のはずが、完全に現実を見失ったらしい。
ここで現実と向き合わせるのが蒼紫の役目なのだろうが、このまま夢を見させているのが幸せなのではないかと思えてきた。無理に辛い現実と向き合っても、は不幸にしかならない。
夜会で再会した時、は本当に嬉しそうだった。初めて会った時は勿論だが、邸で二人きりになった時にも見ることの無かった表情に、蒼紫は驚いたものだ。暗い印象しかなかったがあんなに嬉しそうにするのなら、もう一度会っても良いのではないかと思う。
否、全ての責任をに押し付けるのは卑怯だ。蒼紫もまた、に会いたい。
人妻との密会が危険なものであることは理解しているが、の妹が味方に付いているのなら、多分大丈夫だろう。否、あの不幸な貴婦人を慰めることが出来るのなら、多少の危険を冒しても会いたい。
へのこの気持ちが同情なのか、それ以上のものなのか、蒼紫自身にもよく判らない。けれど、会えばきっと、その答えが見つかるはずだ。
そう思うと、何が何でもに会わなければならないと思えてきた。
「蒼紫様」
何かを察したのか、般若が諫めるように呼びかけた。
「ああ」
自分の軽はずみな行動が部下たちを巻き込むことになるかもしれないことは、蒼紫も理解している。そのこと以上に、般若が蒼紫の身を案じていることも。
だが、普段はありがたいと思う般若の気持ちも、今の蒼紫には鬱陶しく感じられる。伯爵のこともそうだが、どうやって般若の目を欺くか。
生返事をしながら、蒼紫は忙しく頭を働かせていた。
姉は自分の都合の良い世界を突っ走っていますが、妹は冷静だ……。阿久里、若いのに現実見てるなあ。
この現実を見ている妹は、ラストまでの重要キャラの予定です。阿久里には絶対言わせたい台詞があるんですよ。