泡沫

泡沫 【うたかた】 水に浮かぶ泡、はかなさの象徴。
 庭の方から華やかな音楽が聞こえてきた。ダンスが始まったのだろう。
様、もう………」
 庭を気にしながら、蒼紫が促す。
 歓談の間はのことを気にする者はいないかもしれないが、ダンスが始まれば伯爵も妻が消えたことに気付くだろう。伯爵夫人が消えたとなれば会場は大騒ぎになる。
 こんなところを誰かに見付かりでもしたら大変だ。宴に出ていたはずの伯爵夫人が雑木林に迷い込むなどどう考えても不自然なことで、何故こんな所にいるのかと怪しまれるに決まっている。敷地内で迷ったと言い訳したところで、誰も信じはしないだろう。
 だが、は首を振って、
「大丈夫ですわ。あの人は私のことなど気にしませんもの」
「しかし………」
 そう言われても、流石にダンスの時に妻がいないことは不審に思うだろう。社交の意味もあるから妻以外の婦人とも踊るだろうが、一曲目は自分が同伴している婦人と踊るものだ。
 心配げな蒼紫に、は大丈夫だというように微笑んで、
「阿久里が付いているから大丈夫です。今日はあの子のお披露目のための出席ですから、私なんかいてもいなくても同じですもの」
 は気難しいことで知られているから親しい出席者もおらず、今夜の夜会では空気のような存在なのだ。そんな彼女がダンスの席にいなくても、誰も気にも留めない。
 華やかな夜会の席で独りでいるのは寒々しい思いをしていただったが、今はこの自分の立場がこの上ないものに思われる。これまでの夜会の席での孤独も、今夜のためのものだったのではないかと思うほどだ。
 成り上がり者たちとのつまらぬ会話より、蒼紫と過ごす時間の方がにはずっと価値のあるものだ。どうしてそれを捨てて、あのつまらない場所へ戻らねばならないのだろう。
 成り上がり者たちの道化としか思えない夜会には興味はない。古い血筋にしかに価値を見出さない夫にも。が自分の時間を使うに相応しい相手は蒼紫だけだ。
「だから、戻れだなんて仰らないで。あなたにお会い出来ると思って、それだけのために此処へ参りましたのよ」
「ああ………」
 コートを握り締めて懇願されると、蒼紫は何も言えない。
 時流に乗った男の妻に納まったものの、の結婚生活は幸せなものではない。社交界での扱いも良いとは言えないもののようだ。そんな中で頼りとしている蒼紫にまで拒絶されれば、彼女の悲しみは計り知れない。
 誰ものことを気にも留めないというのなら、せめて夜会の間だけは蒼紫が彼女を見ていたい。それでこの淋しい貴婦人の心が慰められるのなら、人目を忍ぶ逢瀬も許されるはずだ。
「それでは演奏が終わるまで。それまでは此処にいましょう」
 ダンスが終われば夜会はお開きだ。今夜は何曲用意されているのか蒼紫は知らないが、の気が済むまで話すだけの時間はあるだろう。
「はい」
 演奏が終わるまでは蒼紫といられる。そう思うと、これまで苦痛でしかなかったダンスの時間がこの上なく貴重なもののように思えてきた。この演奏が永遠に続いたら、どんなに幸せだろう。
 会場ではの代わりに阿久里が夫の相手をしているだろう。夫にとっては姉でも妹でも同じなのだ。それならばいっそ、阿久里を夫に差し出して、自分は蒼紫と逃げてしまおうか。
 華やかな楽曲がの気分を高ぶらせ、そんな恐ろしい考えも許されるのではないかとさえ思えてくる。





 姉の姿が何処にも見当たらない。
 相手を変えてワルツを踊りながら、阿久里の目は忙しくの姿を探している。幸いにも伯爵は阿久里の紹介と社交に熱心で、まだ妻の不在に気付いていないようだ。伯爵が気付く前に何とかしなくては。
 が何処に消えたか、阿久里には分かり切っている。あの四乃森蒼紫とかいう護衛を捜しに行ったのだ。がこの夜会に出席した目的は、それだったのだから。
 阿久里が知っているは、そんな軽率な女ではなかった。体面を重んじ、恥を受けることを何よりも嫌う彼女を、何がそんなにも駆り立てるのだろう。
 四乃森蒼紫という男は、それほどまでにを惹き付けるものを持っているのだろうか。しかし二人が直接会ったのは、たった二回である。いくら手紙のやり取りがあるとはいえ、その程度で相手のことなど解るはずがない。そんな相手にどうして夢中になれるのだろう。
 阿久里にはのことが全く理解できない。彼女の目から見る伯爵は他所に妾を囲っているようでもなく、暴力を振るうわけでもない。それどころか妻の実家に惜しみない援助をしてくれる、阿久里にとってはこれ以上望めないほどの義兄なのだ。
 夫婦のことは当人にしか解らないというけれど、この件はに一方的に非があると阿久里は思う。この結婚が意に副わぬものであったとしても、伯爵がとその実家に与えてくれる者のことを考えれば、恵まれた妻だろう。それなのに夫の目を盗んで他の男に会いに行くなんて、どう言い訳しても許されるわけがない。
「どうしました? 何か気になることでも?」
 忙しなく視線を彷徨わせている阿久里に、ダンスの相手が怪訝そうに尋ねる。
「あ、いえ………」
 阿久里は慌てて視線を相手に向けた。
 ダンスの相手は、伯爵が親しくしている実業家の縁者である。阿久里の様子から何かを感じ取って伯爵に告げ口でもされたら大変だ。
 の見方をする気は無いが、姉の破滅は即ち阿久里の破滅である。この生活を守るためにはこのことを隠し通さなければ。
「こんな席は初めてで緊張してしまって。お恥ずかしいですわ」
 阿久里ははにかむように微笑んでみせた。





 今夜のダンスは七曲だったようだ。それぞれにそれなりの長さの曲であるはずなのだが、蒼紫と共にいるとあっという間に感じられる。
 蒼紫に会えたらあれを話そうこれを話そうと色々考えていたのだが、結局考えていたものの半分も話せなかった。けれど、蒼紫と言葉を交わせたというだけで、の胸は一杯だ。
 蒼紫は相変わらず口数少なく、が一方的に話すだけだったけれど、それでも彼女は満足している。饒舌な男は軽薄な感じがして好きではない。男というものは余計なことは喋らず、大事なことをほんの少し話すくらいで丁度良い。
「夜会ももうお開きですわね」
 会場の音楽が終わり、歓談の声がさざ波のように聞こえる。それぞれに屋敷を辞する挨拶を交わしているのだろう。
 結局、この雑木林には誰も来なかった。使用人がを捜しているような様子も無く、誰もの不在に気付かなかったのだろう。
「結局、誰も私を捜しに来ませんでしたわ」
 事実を述べただけのつもりが思いがけず淋しげな声になって、は驚いた。
 夜会の席を抜けたことに気付かれず、誰も捜しに来なかったのはにとって好都合であるはずなのに、何を淋しく思うことがあるのだろう。心のどこかで誰かが捜しに来ることを望んでいたのだろうか。
 もしかしたらそうかもしれない、とは思う。自分が夜会の席を抜け出したことに夫が気付くか、試していたのかもしれない。
 いくら普段は無関心な夫でも、ダンスの時間に妻がいなければ流石に少しはおかしいと感じるはずだ。そこで何かしらの動きがあれば、はすぐに会場に戻るつもりだった。それなのに宴は恙無く行われ、を無視して終わろうとしている。
 夫にとって、は本当にいてもいなくても同じなのだ。がいなくても、阿久里がいればそれで良いと思っている。その事実を改めて突き付けられ、は暗澹たる思いがした。
 は妻としてどころか、社交の席での装飾品としても夫に求められてはいないのだ。社交が不得手な名ばかりの妻より、素直で華やかな席を好む阿久里を中心にした方が良いと判断したのだろう。
 姉でも妹でも夫にとっては同じだと思っていたが、本当にそんな扱いを受けるのは悲しい。夫にとって自分は“妻”という女ではなく、ただの“戦利品”でしかないのだと思い知らされる。
 夜目にも判るほどに沈んだ表情のを慰めるように、蒼紫は彼女の手を取った。
「このような席で様がいらっしゃらないと騒ぐのは、雰囲気を壊すと遠慮なさったのでしょう。きっと今頃は心配しておいでです」
「そうでしょうか」
 蒼紫の言うことも一理あるが、にはもう好意的に見ることはできない。仮に蒼紫の言う通りだったとしても、それならば妻の身よりも体面を取ったということではないか。
 やはりには蒼紫しかいない。が悲しい思いをしている時、夫は一度だってこうやって手を取ってくれたことは無かった。けれど蒼紫はこうやっての悲しみに共感してくれる。
 黙りこくるに、蒼紫は言葉を続ける。
「たとえそうでなくても、俺はいつもあなたのことを思っています。あなたの慰めになるのなら、俺は―――――」
 これ以上は言葉にしてはならないと思ったか、蒼紫は口を噤んだ。
「私の慰めになるのなら?」
 言葉の続きを求めるように、は蒼紫の目をじっと見詰める。
 が欲しいのは、その続きだ。その言葉があれば、の心は次に蒼紫に会える日まで幸福で満たされる。
 だが蒼紫はそれ以上口を開かない。その言葉を口にすれば、破滅へと突き進むしかないことが解っているからだ。
 蒼紫には四人の部下がいて、には夫と彼の援助を受ける実家がある。自分の思うままに動くには、捨てなければならないものが大き過ぎる。
 も蒼紫の思うことは理解している。彼女自身、蒼紫のために自分が守らねばならないものを捨てられるかと問われたら、答えることはできない。
 蒼紫には捨てられないものがあり、には守らなければならないものがある。蒼紫の言葉の続きが全てを打ち壊すものなら、それはもう一生胸に収めておくしかない。
 その言葉を得る代わりに、は蒼紫の目を見詰めて尋ねる。
「またいつか、会っていただけますか?」
 こんな曖昧な約束しか求められない自分の身の上が恨めしい。蒼紫に爵位があれば、或いはに伯爵夫人という称号がなければ、もっとはっきりとした約束を求められたものを。
 御一新さえ無ければ、二人はきっと誰の目を憚ることなく会うことができたはずだ。こんな雑木林ではなく、華やかな宴の席で会うこともできただろう。
 十年前の、あの日に戻りたい。江戸城での茶会の日、あの時に今のように話すことができていたなら、きっと今日とは違う今があったはずだ。
 見上げるの目を、蒼紫も見詰め返す。
「必ず。またお会いしましょう」
 そう言って、の手を強く握りしめた。
<あとがき>
 昼メロですね、舞台は夜だけど。
 もう二人とも自分らの世界に一直線です。ここまで一直線になれるのは、ある意味羨ましい。
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