夕桜

夕桜 【ゆうざくら】 夕方に眺める桜。
 武田観柳から夜会の招待状が届いた。観桜会を行うのだという。
 これまで武田家の夜会に招待されたことなど無かったのだが、強盗事件で縁が出来たので招待状を出すことにしたのだろう。伯爵は社交界にも政界にも大きな発言力を持っている。観柳としては誼を通じておきたい相手ではある。
「あまり良い噂を聞かない男ではあるが………」
 汚れもののように招待状を指先でつまんで、伯爵は呟く。
 青年実業家という触れ込みではあるが、実際のところ何を収入源としているか不明なところの多い男である。噂では武器の密輸や、こともあろうに阿片の密売にまで手を染めているというではないか。そんな男と親しくしていては、いつ足元を掬われるとも限らない。
 新興の実業家に黒い噂が付きまとうのは、有名税のようなものだ。派手に稼いでいれば、それだけ噂も黒いものになる。警察が動いている様子は無いのだから、阿片は流石に根も葉もない噂なのだろう。武器の密輸に関しては、私兵団を作って武装しているというから、根も葉もないとは言い切れないが。
 さてどうしたものかと、伯爵は考える。怪しげな実業家ではあるが、観柳の財力は魅力的だ。政治には金がいる。あの男と親しくするのは危険だが、それと同等の魅力を感じているのも事実だ。
「けれど、柳原様も九条様も御出席なさるのでしょう? うちだけ欠席というわけにはまいりませんわ」
 夜会の出欠には決して口を出さないにしては珍しく意見した。
 成り上がりものだらけの社交界など馬鹿馬鹿しいと常々思っているだが、今回だけは違う。何しろ、武田観柳邸での夜会なのだ。上手くやれば蒼紫に会える。
 噂で聞くだけだが、観柳邸での夜会は物々しい警備の中で行われるのだという。警備の人間が宴の席に出ることは無いだろうが、観柳邸に行けばきっと蒼紫の姿を見ることができる。また蒼紫に会えるのだと思うと、の胸は高鳴った。
 その横では、阿久里が強張った顔で俯いている。姉の興奮が義兄に悟られるのではないかと、気が気でない。
 姉の秘密を知って以来、阿久里は常に緊張を強いられている。自分の不用意な一言で義兄が何か勘付きはしないかと口数が少なくなり、口数が減ればそれはそれで不審がられないかと不安になるという具合だ。どう振舞っても、義兄に怪しまれているのではないかと恐ろしく思う。
 そんな阿久里とは反対に、は秘密を共有する相手が出来たことで気が楽になったのか、毎日が楽しそうだ。阿久里が学校から帰って来る度に、今日は手紙は無いのかとせっついて、どうしてこんなに浮かれていられるのかと呆れるほどである。
 姉夫婦の仲が形だけのものであるらしいことは、女学生の阿久里も何となく感じている。そんな結婚生活を忘れるために蒼紫との文通にのめり込んでいるのだろうということも理解できるようになったが、だからといって人妻が他所の男と秘密の手紙の遣り取りをして良い理由にはならない。しかも今度は手紙だけではなく、会おうとさえしているのだ。手紙をやり取りしている今でさえこの調子なのだから、姿を見たらどうなるか、阿久里は恐ろしくてたまらない。
 絶対に、と蒼紫を会わせるわけにはいかない。阿久里は思い切って口を開いた。
「でも、評判の良くない方と親しくなさるのは如何なものでしょう? お義兄様にまで変な噂が立ってしまったら………」
「子供が口を出すものではありませんよ」
 これ以上の阿久里の発言を許さぬように、が低い声でぴしゃりと言った。
「でも………」
「阿久里の心配は解らないでもないが、社交界の付き合いもある。観柳だけのことなら断ることもできるが、その他の付き合いがあるから、簡単には断れないんだ。この世界は好きな人間とだけ付き合っていけば良いというわけではないからな」
 夫も一緒になって、阿久里の言葉を遮る。義妹の反対を、世間知らずの潔癖さ故と思っているのだろう。の手紙の存在を知らないのだから、当然の反応だ。
 本当のことは絶対に言えないから、阿久里は口を噤んでしまう。この様子だと、観柳の夜会への出席は決定なのだろう。出席は仕方ないとして、その後のことを考えると阿久里は今から胸が苦しくなった。
 そんな阿久里とは反対に、は今から楽しそうだ。いつもと同じ無表情を装ってはいるが、隣に座る阿久里には雰囲気で判る。きっと蒼紫と会う方法を考えているのだろう。
 招待客と警備の人間が接する機会は無いとは思うが、周りが見えなくなっているが思い切った行動に出ないとも限らない。夜会の席を抜け出して蒼紫と逢引きをして、それを誰かに見られでもしたら、どうやっても言い逃れは出来ない。そうなればも阿久里も身の破滅だ。
 そんな危険なことはしないと信じたいけれど、伝書鳩にするために阿久里をこの屋敷に引き取ったくらいなのだから、絶対に無いとは言い切れない。それが阿久里には何よりも心配だ。
 阿久里も夜会に出席できるなら、の行動を引き留めることもできるだろうが、招待されていない彼女には無理なことだ。二人が帰ってくるまで屋敷でやきもきしていなければならないのかと思うと、阿久里は悔しくてたまらない。
 何とかならないものかと阿久里が頭を悩ませていると、が意外なことを提案した。
「阿久里も連れて行きたいのですが、武田様にお願いできないでしょうか?」
「えっ?!」
 これには伯爵よりも阿久里が驚いた。阿久里を連れて行こうなんて、は一体何を考えているのだろう。
 それよりも、招待されていない人間を連れて行きたいと申し出るなんて、非常識なことだ。そんなことは一番嫌う性格のはずなのに、一体何のつもりなのか。
 驚いている二人をよそに、は涼しい顔で言う。
「阿久里も16ですもの。そろそろ社交界に出しても良い歳ですわ。今のうちにああいう席に慣らしておきたいですし、何より良い御縁が舞い込むかもしれません。今回は格式ばった席ではないようですし、丁度良い機会だと思いますの」
「うーん………」
 妻の言葉も尤もだと思ったのか、伯爵は考え込む。
 先のことを考えれば、今から阿久里を社交界に出すのは良いことだ。家にはこのような娘がいるという宣伝にもなる。家と学校の往復の生活よりは人の目にも留まりやすく、条件の良い縁談が舞い込む確率も格段に高くなるだろう。
 問題は観柳が承諾するかだが、多分大丈夫だろう。向こうはどうにかして家との繋がりを作りたいのだ。少々非常識な申し出でも、断りはしない。あの男に頼むのは良い気分はしないが、それ以上に阿久里の出席には利益がある。
「そうだな。話すだけ話してみよう」
「よかったわね、阿久里。お話が決まったら、着物を仕立てましょう。それともドレスがいいかしら」
「………………」
 普段の姿からは想像できない華やいだ声で言うを、阿久里は冷やかに見遣った。





 黒い噂が付きまとう実業家が主催にもかかわらず、観月会の出席者の顔ぶれは錚々たるものだ。実業家は勿論、現役の政治家、箔付けのためか宮家に繋がる人間の姿も見える。
 観柳の持つ金に引き寄せられて集まったのだろうが、それでもこれだけの人間を集めるとは大したものだとは思う。夜会の度に物々し警備を付けるなんて大袈裟なと思っていたが、この顔ぶれであれば大袈裟とも思える警備も頷ける。
 観柳邸に入ってから、はずっと蒼紫の姿を探している。今回は略式の会ではあるが、招待客は大物揃いなのだ。御庭番衆御頭を務め上げた彼が今夜の警備に関わっていないはずはない。
「お姉様」
 落ち着き無く視線を彷徨わせるを咎めるように、阿久里が小さく声をかけた。
 この夜会でのの目的が何か、阿久里にも解りきっている。阿久里を社交界に出して、誰かに縁談を世話して貰うようにしたいなどと尤もらしいことを言っているが、どうにかして蒼紫と会うことしか考えていない。阿久里を同伴させたのも、伯爵の関心を阿久里に向けさせて、その隙に蒼紫と密会しようと企てているからだ。
 そんなことはさせない。一時の感情で愚かな行動を起こして、罰を受けるのがだけなら自業自得で済まされるが、姉が罰を受ければ阿久里も今の生活を失ってしまうのだ。自分と家族の生活を守るために、阿久里はずっとに張り付いて監視している。
「こんな席で、そんな顔をするものではありませんよ。折角のお洒落が台無しでしょう」
 軽く睨みつける阿久里を、が逆に咎める。阿久里がそんな顔をするのはのせいだというのに、まるで他人事だ。
 実際、には阿久里のことなど他人事なのだろう。蒼紫に会うという目的の前には、阿久里のことも実家のことも、伯爵令夫人という立場も小さなことだ。小さなことどころか、障害にしかならない。
 血を分けた家族を邪魔者のように感じるなど、何と恐ろしいことを考えているのだろうと自身も思う。けれど、彼女の犠牲があって、家族は新時代でも安穏とした生活を送られているのだと考えると、少しくらい自分の幸せを考えても良いのではないかとも思うのだ。今日まで自分を犠牲にしてきたのだから、今日くらい自分のためだけに行動したい。
 今日、蒼紫の姿を見ることができれば、そして少しでも言葉を交わすことができれば、はこれから暫くは家での辛い生活に耐えることができる。蒼紫を知ってからというもの、言葉を交わすのさえ辛かった夫とも会話ができるようになったではないか。蒼紫の存在は、と夫が夫婦としての形を保つために必要不可欠なものなのだ。
 阿久里はまだ手紙の遣り取りさえ快く思っていないようだが、それは世間知らず故の潔癖だとは思っている。彼女も結婚すれば、きっとの気持ちが解るだろう。だから今の阿久里が何を思おうと、は気にしない。
「阿久里」
 それまで他の客と話していた伯爵が、阿久里を呼んだ。どうやら阿久里を紹介したいらしい。
 この夜会に出席した本来の目的は、阿久里の顔見せなのだ。のことばかり気にしていたから、阿久里自身忘れていた。
「お姉様」
 を促すように阿久里は声をかける。こういう時は、夫人同伴で挨拶回りをするものだ。
 が、はにっこりと微笑んで、
「あなただけ行ってらっしゃい。私はああいう方々は苦手なの」
「でも―――――」
 こういうことは苦手だからといって、避けていられるものではない。第一、を一人きりにしたら、さっさと蒼紫を捜しに行くのは分かりきっているではないか。
「こういう時はいつも、旦那様お一人でやってらっしゃるの。別に珍しいことではないわ」
「そうじゃなくて―――――」
「阿久里、早く来なさい」
 反論しようとしたが、伯爵に呼びつけられ、阿久里はしぶしぶ言葉を飲み込んだ。





 阿久里は伯爵と共に挨拶回りをしている。は一人きりだ。すべて予定通りである。
 阿久里がぴったりと自分に張り付いている時はどうしようかと思ったが、うまい具合に夫が呼びつけてくれて助かった。これで自由に動き回ることができる。
 幸いなことに、は社交界では気難しい性格だと噂され、話しかける者や気にかけるものは誰もいない。下賤な生まれの者と関わっても良いことは何も無いと思っていたが、それで正解だった。夫の立場を考えて無理に友人を作りでもしていたら、面倒なことになっていた。
 浮き立つ気持ちを抑えつつ、はそっとその場を離れた。





 警備の人間がいる場所と一口で言っても、広すぎてには見当が付かない。正門と、そこから会場となる庭へと繋がる道には蒼紫の姿は無かった。となるとそれ以外の場所ということになるが、観柳邸は広い。外を警備しているならともかく、屋敷の中にいるとしたらお手上げだ。
 蒼紫ほどの経歴の持ち主なら、警備の指揮を取る立場にいるだろう。ということは、宴の出席者を把握しているはずで、当然の出席も知っているはずである。知っているならば、蒼紫もまた、を探しているかもしれない。仕事があるから動き回ることはできないだろうが、が見つけやすい場所にいると思う。
 蒼紫は一体何処にいるのだろう。正門にはいなかった。会場周辺にもいない。ということは、屋敷の裏手か。屋敷の裏手には、賊が紛れるにはうってつけの雑木林があった。蒼紫はあそこにいるのかもしれない。
 雑木林に向かっている途中に誰かに見つかれば、必ず怪しまれる。そうなった時に何と言い訳すればいいのかと迷ったが、見つかった時は見つかった時だと思い直す。あれこれ考えていては一歩も動けない。
 観桜会の会場を少し離れると、辺りは暗闇に包まれる。雲の間から洩れる月の光を頼りにどうにか先へと進むが、心細いことこの上ない。暗闇がこんなにも心細いものだとは思わなかった。
 けれど、蒼紫がいるかもしれないと思うと、恐ろしいと思う気持ちも薄らいでいくから不思議だ。必ずいるという保証は無いけれど、いると思うだけで心強くなる。自分にこんな強さがあったのかと驚いたが、その強さを与えてくれたのは蒼紫なのだ。
 やはり自分は蒼紫なしでは生きていけないと、は改めて思う。蒼紫がいるからこの暗闇に耐えることができる。蒼紫がいるから、この不毛な結婚生活にも耐えることができる。彼がいなくなったら、はきっとこの辛い現実に立ち向かうことはできない。
「………奥様?」
 不意に、男の声がした。が会いたいと望んでいた男の声だ。
「四乃森さんっ?!」
 やっぱり此処にいたのだと、は感激のあまり涙が出そうになった。この広い敷地内を当てもなく捜して、こうやって出会えるなんて、蒼紫とは今夜出会う運命だったのだ。
 は声の方へと走り出す。が、木の根に足を取られて転んでしまった。
「奥様!」
 足音が近づいて、蒼紫がを抱き起こす。
「大丈夫ですか? どうしてこんな所に………」
「ああ、四乃森さん。やっと会えた………」
 泣きそうになりながら、は蒼紫に抱きついた。
「今夜はきっと四乃森さんに会えると思っていましたの。この日をどんなに待っていたことか。ねぇ、お話したいことが沢山ありますのよ。手紙では書ききれなかったことが、沢山ありますの」
 今まで溜めていた感情が迸るように、は一気に喋る。
 手紙では誰かに見られるかもしれないと思って書けなかったことが、山のようにある。会わなければ伝えられないことも。今夜はそれらのことを全部伝えることができるのだ。
「その為にわざわざこんな所まで?」
 こんな人気の無い真っ暗な雑木林に一人で来るなんて、深窓の令夫人であるにはどんなに勇気が要ることだっただろう。会いたい一心でそこまでできるものかと、蒼紫は驚いた。
 結婚生活に不満を持っている有閑夫人の現実逃避だと、蒼紫はずっと思っていたけれど、この様子ではは本気だ。流石に今の生活を捨てる勇気までは無いだろうが、蒼紫に対する気持ちは“火遊び”で片付けられるようなものではない。
「だって、こんな時にしかお会いできないんですもの。今夜はきっとお会いできると思っていたから、今日まで過ごせましたのよ」
「ああ………」
 の言葉の重さに、蒼紫は何も言えなくなる。
 上流婦人特有の大袈裟な物言いだと切り捨てればそれまでのことだが、はきっと本気でそう思っているのだろう。言葉は芝居がかっているが、その目は切羽詰まっている。
 傍から見れば気楽で幸せな上流婦人なのに、蒼紫に会うということを支えに毎日を過ごしているとは。金でも地位でも満たされない思いを、蒼紫で満たそうとしているのかと思うと、の抱える空虚に愕然とした。
 世の中には不幸な人間が大勢いて、衣食住すべてが満たされているの不幸など贅沢なものなのかもしれない。けれど、すべてが満たされても幸せになれないというのなら、これほど不幸なことは無いと蒼紫は思う。
 贅を尽くした生活で満たされない思いを、何も持たぬ蒼紫にどうにかすることができるのだろうか。けれどは、蒼紫がいれば自分の中の空虚が満たされると信じている。実際に満たされた気持ちになっている。そんな姿を見ると、蒼紫は自分に何とかできるのではないかと思えてくる。
 蒼紫がいることでの気持ちが満たされるのなら、支えになりたい。人妻に対してそう思うのは罪なことだということは解っている。けれど、今のから離れることの方が、蒼紫には罪深いことのように感じられた。
「奥様―――――」
「“奥様”なんて呼ばないでください」
 “奥様”と呼ばれることは、伯爵の妻であることを受け入れることだ。伯爵の妻であることは紛れもない事実だが、蒼紫の前でだけはその現実を忘れたい。
 “奥様”でなければ、何と呼べばいいのか、蒼紫は迷う。名前で呼べということなのだろうが、それをしてしまえば二人の間にあるべき一線を越えてしまいそうな気がした。
 伯爵の妻ではなく、一人の女として扱うことを許されるなら、それをが望むのなら―――――蒼紫は思い切って口を開いた。
「―――――様」
「………はい」
 ただ名前を呼ばれるだけのことなのに、は恍惚感で身を震わせる。
 名前を呼ばれることが、こんなにも幸せなことだとは知らなかった。名前を呼ばれるということは、自分が自分であるということを認められるということだ。名家の娘でもなく、伯爵家の令夫人でもなく、ただの一人の女であることを許されることだ。
 この男の前でだけは、伯爵令夫人であることを忘れることができる。彼の前でだけは“”という名の一人の女になることができる。それは何と幸せなことなのだろう。
 夜桜も見えぬ暗い雑木林の中にもかかわらず、華やかな宴の中にいる時よりも、は幸福感に包まれていた。
<あとがき>
 ああ、もういろいろ駄目です、この主人公さん。周りが見えなくなってきてます。
 でも、ここまで自分勝手になれたら、人生楽だろうなあ。妹が呆れ返ろうと、主人公さんにはどうでも良いんですよ。蒼紫と繋がってさえいれば。
 さて、この自分勝手がいつまで続くのやら………。
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