宵宮

宵宮 【よいみや】 本祭の前夜の祭り。
 阿久里はカナリアを気に入っているようだ。学校から帰ると、いつも鳥籠の前に立っている。
 蒼紫のことはまだ話してはいないが、この様子ならきっと聞いてくれるだろう。元気のなかった美しい小鳥がこうやって生き生きとしているのは、蒼紫のお陰なのだ。カナリアの恩人に対して、阿久里が悪い感情を持つはずがない。
 今日こそ話そう。は立ち上がると、夢中で鳥籠を覗き込んでいる阿久里に近付いた。
「カナリア、気に入ったようね」
「ええ。家じゃ飼えないもの。本当にこの家に呼んでいただけて良かったわぁ。お義兄様に感謝しなきゃ」
 この家に来てからというもの、阿久里は二言目には夫への感謝の言葉を口にする。広い屋敷で使用人たちに傅かれる生活は実家の父には与えられないもので、それを与えてくれた夫は阿久里にとって神様のように見えるのだろう。
 阿久里が感謝の言葉を口にする度に、は軽い苛立ちを覚える。阿久里にとっては姉に対する社交辞令のつもりなのかもしれないが、そんな言葉を口にする度に彼女の気持ちが夫寄りになってしまうのではないかと思うのだ。そうなってしまっては、阿久里をこの屋敷に呼んだ意味が無くなってしまう。
 本当に夫側の人間になる前に、阿久里をこちらに取り込まなくては。血の繋がった妹なのだから、今ならきっとうまくいく。
 阿久里に悟られぬよう小さく息を吐いて、は口を開いた。
「このカナリアはね、最近まで一言も鳴きもしなかったのよ。こうやって綺麗な声を聞かせてくれるようになったのは、ある人のお陰なの」
「ある人?」
 唐突なの話に、阿久里は首を傾げた。
「四乃森さんといってね、昔は御庭番衆の御頭をなさっていた方なの。その方が、一羽で飼っても鳴かないからって、雌を飼うことを勧めてくださったのよ。そうしたらこうやって元気に鳴くようになって」
「御庭番衆の御頭をなさっていた方とお知り合いなの?」
 阿久里が目を丸くして驚きの声を上げた。御庭番衆御頭なんて、世が世ならや阿久里には会うことができない相手だ。明治になったとはいえ、阿久里にとっては“何だかよく分からないけど凄い人”なのである。
 阿久里の反応は良い。これなら夫以上に蒼紫に好意を持つだろうと、は小さく微笑んだ。
「夜会の帰りに強盗に襲われたのを助けていただいたのが縁でね。ああ、あの方が助けてくださらなかったら、私も旦那様も此処にこうしていなかったわ」
 話しながら、はあの時の高揚を思い出し、頬を薄っすらと紅潮させる。
 あの夜のことは、今でも昨日のことのように思い出す。強盗の恐怖は薄らいでしまったけれど、月下で見た蒼紫の顔ははっきりと思い出せる。そしてあの時の高揚感も。
 強盗に襲われたことなど、本来なら思い出したくもない忌まわしい記憶なのだが、あの夜のことはにとっては何よりも大切な思い出だ。眠れない夜には、宝石箱からそっと取り出すようにあの時のことを思い出し、蒼紫はどうしているだろうかと考えてみる。
 そんな大切な思い出だから、あの夜のことは誰にも話したことは無い。秘密を共有するに相応しい相手だからこそ、阿久里にはそのことを話すのだ。
 の表情の変化に気づいて、阿久里は怪訝な顔をした。
「………お姉様?」
 物静かで殆ど表情を変えることの無いが女学生のように頬を染めて話をするなんて、阿久里がこの屋敷に来て初めてのことだ。唐突に元御庭番衆御頭の男の話をするのも奇妙だと思う。
 姉は四乃森蒼紫という男に対して特別な感情を持っているのではないかと、恐ろしいことを思いついた。強盗に襲われたところを助けてもらった恩人に対するにしては、の声はどことなく甘さを帯びている。
 そんなことはない、と即座に否定するが、阿久里の目にはの表情が恋する女のもののように見えた。
 戸惑う阿久里に気付かないのか、は微かに恍惚の表情を浮かべて話を続ける。
「今でもね、時々カナリアの様子をお手紙でお伝えしているの。四乃森さんもカナリアの飼い方を教えてくださってね。この子たちが元気でいるのも、みんなあの方のお陰………」
 やはり姉は四乃森蒼紫という男に特別な感情を抱いている。それを確信し、阿久里は愕然とした。
 夫のある身で他の男に恋心を抱くなんて、小説の中だけのことだと思っていた。それが、目の前にいる実の姉がそうだなんて。社会的に成功した男から乞われて嫁ぎ、実家にも援助してもらっているというのに、どうして他の男に心をう奪われることがあるのだろう。
 阿久里の目から見て、の夫はとても良い夫だと思う。余所に妾を囲うわけでもなし、酒癖が悪いとか暴力を振るうということも無い。学は無いようだが下品ではなく、悪い人間ではないと思うのだ。何が不満なのか解らない。
「その方と会っているの?」
 即座に否定して欲しいと祈るような気持ちで、阿久里は尋ねた。そうだと言われたら、どころか阿久里も実家も破滅だ。
 その問いに、の表情が少し寂しげになる。
「いいえ。お会いしたのは一度だけ。お手紙もそんなに多くは出せないわ。あの方は兎も角、私の手に届く前に何人もの使用人の目に触れることになるでしょう? 手紙のことで旦那様を煩わせたくないし、変な噂でもなったら四乃森さんも私も困ってしまうわ」
 旦那様を煩わせたくない、などと言っているが、気付かれたくないというのが本音だろう。手紙を不貞の証拠として突き付けられては、会ったことは無いとはいえには言い逃れができない。
 しかし、まだ手紙だけだと判って、阿久里はほっとした。今ならまだ何も無かったことにできる。
「そうよね。お義兄様が困るようなことになってはいけないわ。だから―――――」
 だから手紙も金輪際出さないで頂戴、と阿久里が言おうとしたのを、が遮った。
「だから、使用人の目に触れない方法を考えついたの。私への手紙は郵便局で止めて貰うことにして、あなたに学校の帰りにでも取りに行ってもらえば良いのよ。そうすれば誰にも知られずに受け取れるわ」
「そんな! そんなこと………」
 何ということを言うのか。阿久里は血相を変えた。
 まだ不貞には至っていないとはいえ、秘密の手紙の橋渡しをしろだなんて。そんなことが明るみになったら、阿久里はこの屋敷から叩き出されてしまう。
 怯える阿久里を宥めるように、は優しく説明する。
「そんなに深く考える必要は無いわ。ただ手紙を取りに行くだけだもの。でも、こんなこと、使用人には頼めないでしょう? だからあなたにお願いするの」
「だって、お義兄様に知れたら大変なことになるわ」
「あなたさえ黙っていれば済むことよ。ねえ、お願いできるわよね?」
 口調は柔らかいが、断るのは絶対に許さないという雰囲気では阿久里の目をじっと見る。
 確かに阿久里が黙ってさえいれば済むことなのかもしれないが、そんな秘密は抱えるには重すぎる。それを引き受けたが最後、ずっと周りの目に怯え続けなければならなくなるではないか。そんなことは阿久里には耐えられない。
「駄目よ。お姉様、考え直してちょうだい。私にはできないわ」
「じゃあ、このまま使用人の手を通して手紙を受け取れと言うの? それこそできやしないわ。旦那様に知れたら、四乃森さんに迷惑がかかってしまうもの」
「だから手紙をやめれば良いじゃない。今なら誰も気付いていないんでしょう?」
「手紙をやめたりしたら、私はこれから一体どうすればいいの? あの方からの手紙が無ければ、私はもう生きてはいけないわ」
「そんな大袈裟な………」
 の言葉に、不謹慎とは思いながら阿久里は苦笑した。
 たかだか手紙くらいで生きていけないなんて、一体どれだけ大袈裟なのだろう。まるで芝居の台詞だ。
 が、は心の底からそう思っているようで、ますます芝居がかった様子で阿久里の手を取る。
「あの方からの手紙を待つという楽しみがあるから、今の生活に耐えられるの。ねえ、私を助けると思って」
「耐えるほど辛い生活には思えないけど………」
 が芝居がかるほど、阿久里の頭は冷めていく。真面目に相手にするのも馬鹿馬鹿しくなって、思わず冷やかな口調で本音が出てしまった。
 その瞬間、悲しそうだったの顔がさっと強張る。そして今までの反動のように目を吊り上げて、
「あなたに何が解るっていうの?! この家での私の生活がどんなものか、私がどんな思いで毎日を過ごしているか!」
 叫ぶようにそう言いながら、は恐ろしく孤独だと思う。血を分けた妹でさえ、彼女の苦しみを理解してくれない。彼女の本当の理解者は、蒼紫だけなのだ。
 あの温室で、蒼紫はの身の上に同情してくれた。阿久里と同じように、それでもあなたは幸せだと言ったけれど、の苦しみを受け入れてくれた。そういう風に自分を受け入れてもらえたのは、結婚して初めてのことだった。
 大袈裟ではなく、蒼紫との繋がりを失ってしまったら、はきっと生きていけないと思う。彼を失ってしまえば、は本当に孤独になってしまうのだ。理解者のいない世界で生きていけるほど、彼女は強くはない。
 そう思ったら、今度はこの世の終わりのように悲しくなってきた。否、阿久里に協力を拒否されれば、の世界は終わったも同然だ。
「ねぇ、よく考えてみて。あなたが女学校に通えるのも、里のみんなが何不自由無く暮らせるのも、私がこの家に嫁いだからじゃないの。どんなに辛くても私がこの家にいられるのは、四乃森さんからの手紙があるからなのよ。あの人だけは私を理解してくれるから………。この気持ちを解ってくれる人がいると思うだけで、私は生きていけるの」
「……………」
 激昂したかと思えば今にも泣きそうな風情を見せるの様子に、阿久里は困惑して言葉が出ない。この人はこんなも感情の波が激しかっただろうかと、見知らぬ女を見ているような気分になってきた。
 夫以外の男との恋の真似ごとに夢中になっているだけかと思っていたが、の様子を見るとそんな生易しいものではない。四乃森とやらからの手紙への執着は異常だ。今それを失ってしまえば、本当に自害しかねない勢いである。
 秘密の手紙の橋渡しをするのは勿論嫌だが、が自害するのはもっと困る。姉に死なれたくないというのは当然だが、彼女がいなくなってしまうと阿久里も実家もたちまち立ち行かなくなってしまうのだ。
 姉の精神安定のためにも、阿久里は手紙の橋渡しをしなければならないのだろうか。そんな恐ろしいこと、と思うが、断ればまたは激昂するだろう。此処は一旦引き受けて、姉が暴走しないように見張っておくのが得策か。
「………わかったわ。お姉様がそこまで言うのなら………」
 阿久里の知らないところで下手に動かれては厄介だ。密会するほどの勇気は無いとは思うが、先々ではどうなるか分からない。それなら阿久里が手紙の橋渡しをしつつ、の行動を監視していた方が安心だろう。
「ああ………」
 阿久里の思惑に気付かないは、心から嬉しそうな顔を見せる。
「やっぱり血を分けた妹ね。何だかんだ言っても味方になってくれると信じていたわ」
 渋々といった感じではあるが、とりあえず味方は出来た。阿久里はきっと秘密を守ってくれるだろう。このことが露見すれば、彼女にとっても困ることになるのだ。
 早速蒼紫に手紙を書こう。これからはもっと頻繁に手紙の遣り取りを出来ると伝えよう。これからは誰の目を気にすることも無いのだから、きっと沢山の手紙をくれるはずだ。そしてきっと、カナリア以外のことも書いてくれる。
 そう思ったら、は今から胸が高鳴ってくるのだった。





 からの手紙の内容が明らかに変わって、蒼紫は驚いた。
 それまでカナリアの様子ばかり書かれていたのに、今回はそれには一言も触れられていない。代わりに妹が来たこと、その妹が手紙の橋渡しをするということ、そして、これからはもっと手紙を欲しいということが書いてあった。
 妹の協力があれば、手紙はそのままの手に渡る。それは安心だ。だが、このまま手紙の遣り取りを続けるのは危険だ。いつかきっと綻びが出る。
 だが―――――今更止められないことは蒼紫も気付いている。止められるなら、もっと早いうちに止めている。使用人の手を介していた今までのうちに止めていただろう。
 最初は、自分のことを不幸だと嘆いているの支えになれれば良いと思っていた。カナリアの話を聞き、それで気が晴れれば良いと思っていた。けれど今は違う。
 蒼紫もまた、いつの頃からかからの手紙を心待ちにしている。彼女が楽しそうな手紙を送ってくれば、蒼紫も嬉しいと思い、そうでない時は、どうしたのだろうかと心配になる。は人妻だというのに、これではまるで遠く離れた恋人のようだ。
 自分の発想に、蒼紫は苦笑した。“遠く離れた恋人”など、どうかしている。
 同じ東京に住んでいても、との距離は遠く離れた外国くらいに離れている。決して触れることはできない、触れてはならない相手だ。たとえ心の中であっても。
 手紙の遣り取りが頻繁になれば、きっとまた会いたいと思うだろう。も以前、近いうちに会いたいと書いてきていた。きっといつか、二人が会う日が来る。
「御頭」
 天井裏から般若の声がした。
「あの奥方からのお手紙ですか?」
「―――――いや………」
 咄嗟に嘘をついた。
 般若は気付いているかもしれないが、これは蒼紫の胸の中に収めておくべきものだ。彼が黙っていれば、何かあっても般若たちは何も知らなかったことにできる。罪を被るのは蒼紫だけでいい。
 否、それは建前で、本当はとのことを知られれば、手紙を止められることが分かっているからだ。との手紙は、止めるつもりは無い。
 このまま手紙のやり取りを続けて、行き着く先が何処かは分からない。ただ、物語のような結末はならないことだけは分かっている。だが、それでも―――――
 行き着く先にどんな結末が待っていたとしても、もう前へ突き進むしかない。
「あの奥方とのことはもう終わりだ」
 天井に向かって、蒼紫は宣言した。
 天井からの返事は無い。般若にはそれが嘘だということが解っているのだろう。だが、蒼紫にはそれ以上何も言わなかった。
<あとがき>
 というわけで、伝書鳩確保。下手に出てお願いしてみたり、恫喝してみたり、お姫様育ちにしては大した交渉術の持ち主だな。
 しかし可哀想なのは妹の阿久里ちゃん。ステキな洋館でお嬢様ライフを楽しむはずが………。姉がアレだと妹が大変だ。
 そして蒼紫は………どうするかな。
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