月白
月白 【つきしろ】 月が出ようとするとき、空が白んで明るくなること。
伯爵家の食卓は、息詰まるほどしんとしている。使用人の中には、この光景を恐ろしがって給仕係を嫌がる者もいるほどだ。夫婦の席は向かい合わせになっているが、互いの視線が絡むことすら無い。相手を見るのは作法に反すると信じているかのように、二人とも軽く目を伏せている。
そこまでするなら食事を共にする必要は無さそうなものだが、別々にするきっかけが掴めないまま何となく同席している。息詰まる食卓でも、その習慣をやめるのは意外と難しいものなのだ。
先に食事を終えたが箸を置き、初めて夫を見た。
「一つお願いがあるのですが」
他人行儀な声ではあるが、久し振りに妻から話しかけられ、伯爵は怪訝そうに顔を上げた。
「阿久里をこの家に引き取りたいと思いますの」
阿久里というのは、の一番下の妹だ。今はまだ女学校に通っている。
「それは構わんが………。此処からでは学校は遠いだろう」
の言葉に、伯爵はますます怪訝な顔をした。阿久里が通う女学校は、邸からは馬車を使わなければならない距離にあるのだ。それをわざわざ引き取るなど、普通では考えられない。
が、は当然のことのように、
「あの子の縁談のことを考えますと、里に置いておくより、こちらに引き取っておくのが何かと都合が良いと思いますの。それなりの家に嫁がせるためにも、この家で西洋風の生活に慣れさせておきたいと思いますし」
「それは卒業してからでも良いだろう。阿久里はまだ16だ。今は学業に専念させるべきだろう」
の言いたいことは伯爵も解る。彼もゆくゆくは義妹をこの家に引き取り、しかるべき相手に嫁がせるつもりではいた。最先端の教育を受けた阿久里は、彼にとって価値の高い政略結婚の駒なのだ。妻の実家が手出しできぬところで有効に活用したいと思っている。
だからの提案には概ね賛成なのだが、学校から遠くなると阿久里が通学を嫌がるようになるのではないかと思うのだ。嫌がらずとも、通学が負担になって学業に障りが出ないとも限らない。
「学業なんて―――――」
は可笑しそうに小さく笑う。
「女が学問をしたところで何になります? 殆どの生徒は卒業前に縁談を纏めて辞めていくというじゃありませんか。女学校なんて、お茶やお花のお稽古程度で結構。変に知恵を付けさせると生意気になって、縁遠くなるというものです」
「それはそうだが………」
確かに卒業まで女学校に残っている生徒というのは少ない。良家の娘であればあるほど、さっさと縁付いて中退していくという。“卒業顔”という言葉があるくらい、卒業まで残っているのは余程の不器量か、さもなければ親か本人が相当な変わり者くらいなものだ。
そしての言う通り、変に知恵が付いて職業婦人になるとでも言い出されては困る。伯爵が阿久里を学校に通わせているのは、縁談の箔付けのためなのだ。
考え込む伯爵に、は畳み掛けるように言う。
「あの子ももう16ですもの。今のうちから行儀を教えておかないと、良いお話が来てからでは間に合いませんわ」
「それはそうかもしれないが………」
「此処に置いておけば、良い殿方の目に留まりやすくなります。里にいるよりもあの子のためですわ」
「うーん………」
いつに無く饒舌な妻の様子に、伯爵は圧され気味だ。こんなにも熱心なは初めて見た。
普段は何を考えているのか解らない人形のような女でも、さすがに妹の将来のこととなると熱心になるものらしい。“良い縁談”だの“良い殿方”だの伯爵への当て付けのように繰り返し、まるで自分の結婚への不満を妹の結婚で晴らそうとしているかのようだ。
が何を思っているのかは兎も角、阿久里の結婚は伯爵にとっても重要課題だ。出来るだけ良い条件の男と縁組させたい。そのためにはの案も悪くはない。
「そうだな。阿久里のことはお前に任せる」
その言葉を引き出した瞬間、は心の中で快哉を叫んだ。
阿久里がこの家に来れば、も今までよりは格段に自由に動くことが出来る。「阿久里のことは任せる」という言葉を夫から引き出せたのは、思わぬ収穫だった。
阿久里をこの家に呼び寄せることにしたのは、蒼紫との手紙の遣り取りをやりやすくするためだった。世の中には局留めという便利なものがあるということを知り、阿久里を郵便局に手紙を取りに行かせれば、蒼紫と自由に手紙の遣り取りを出来ると考えたのだ。だが、阿久里のことを任せられるとなると、彼女を口実にも自由に外出することが出来る。そうなれば、蒼紫と会うことも今よりずっと容易くなるだろう。
血を分けた妹というのは、秘密を共有する相手としての資格は十分だ。少女特有の潔癖さで最初は反発するかも知れないが、結局はの要求を呑むだろう。そして必ず、秘密を守り通してくれる。このことが夫に知れてが離縁でもされれば、阿久里も今の生活を失うことになるのだ。だからきっと、の秘密を守ってくれる。
妹を利用するなんて、自分でも恐ろしいことをしていると思う。けれど、はこれまで多くのことに耐えてきたのだ。彼女の犠牲の上に成り立っているものを当然のように享受している阿久里に、少しくらいの恩返しを要求するくらい、許されるのではないか。否、阿久里にはに協力する義務があるのだ。
そう思うとの気持ちは幾分楽になった。蒼紫との手紙の遣り取りは、今の生活を守るために必要なものになっている。手紙だけでも彼と繋がっていると思えるから、夫にも言葉をかけることが出来るのだ。彼と出会えなければ、きっと今朝のように夫と話すことも無かっただろう。
蒼紫の存在は、だけでなく、夫にも阿久里にも必要なものなのだ。そんな彼に会うのに、どうして罪悪感を覚えることがあるだろう。がやろうとしていることは、決して恐ろしいことではない。今の生活を守るために、どうしてもやらなくてはならないことなのだ。
いくら言い繕ったところで、それが自分を正当化するための言い訳にしかならないことに、は気付かないようにする。それを認めてしまえば、きっとそれが表に滲み出て、周囲に気付かれてしまうだろう。そんなことになれば、は身の破滅だ。
兎に角、一日も早く阿久里を呼び寄せよう。今日実家に使いを遣れば、2、3日のうちにはこちらに移すことが出来るだろう。
蒼紫に会えるようになったら、まず何を話そう。それを考えると、の心は娘時代のように浮き立った。
「お姉様!」
出迎えたに向かって、阿久里が駆け寄ってきた。
学校の帰りにそのまま来たのか、女学校の制服を着ている。最近少女たちの間で流行しているというリボンで髪を飾っている様子は、新聞などで目にするハイカラ女学生そのものだ。
「こんなお屋敷に住めるなんて夢みたい。ねえ、お義兄様は何処にいらっしゃるの? お会いしてお礼を言いたいわ」
新しい時代しか知らない阿久里はと違い、伯爵に対して屈折した感情は持っていない。それどころか自分の保護者として、父親より慕っているようにも見える。時流に乗ることが出来ず、過去を懐かしんでばかりの父親より、成り上がり者とはいえ、政界で華やかに活躍する義兄に好感を持つのは、若い阿久里なら当然のことだ。
そういう少女らしい屈託の無さが、には時々苛立たしく感じられる。阿久里は素直に“生活の援助をしてくれる優しい義兄”と慕っていて、そんな男に乞われて嫁いだ姉を幸せ者だと思っている。そんな少女特有の鈍感さ、そして成り上がり者を慕う姿が、を不快にさせるのだ。
「旦那様は、今日はお帰りは遅いの。お礼なら私から言っておきましょう」
声音が冷ややかなものにならないように気をつけながら、は応える。
夫と阿久里をあまり親しくさせるわけにはいかない。あまり会う機会の無い今でさえ実の兄のように慕っているくらいなのだ。生活を共にし、親しく言葉を交わすようになれば、今にも増して夫を慕うようになるだろう。夫の関心が阿久里に向かうことは一向に構わないが、阿久里が夫に肩入れするようなことがあってはならない。
阿久里を此処に呼び寄せたのは、の秘密を守ってくれる味方にするためなのだ。夫を実の兄のように慕っているとはいえ、最終的には阿久里も血を分けた姉を選ぶだろうが、面倒なことは避けたい。阿久里はただ素直に、の言うままに動けば良いのである。
少し残念そうな顔をする阿久里に、は明るい声で提案する。
「荷物を置いたら私の部屋へいらっしゃい。カナリアを見せてあげましょう。とても綺麗な声で鳴く鳥なのよ」
阿久里にカナリアを見せながら、少しずつ蒼紫の話をしよう。あの美しい小鳥を見せながら話せば、きっと阿久里も蒼紫に好意を抱くようになるだろう。否、好意を抱かせるように仕向けなければならない。
と蒼紫の境遇は似ている。姉に似た境遇の男に、阿久里も親近感を抱いてくれるだろう。そうなればきっと、の想いも理解してくれるはずだ。
些か調子の良すぎる未来予想図だが、それは現実のものになるとは信じている。今までの思い通りに事が運んできたのだ。きっとこれからも上手くいく。
近いうちに外でお会いしたい、という一文に、蒼紫はどきりとした。
からの手紙はあれから何度も届いていたが、今まではずっとカナリアのことばかり書かれていた。それが突然こんな大胆なことを書くなんて、一体に何があったのだろう。
不本意な結婚を受け入れざるを得なかった貴婦人の慰めになればと文通を続けてきたが、これ以上深入りするのは危険だ。二人の間には手紙の遣り取り以上のものは無いとはいっても、外で会ってしまえば周りはそうは思わないだろう。しかもこれからの手紙は局留めにして欲しいという。たかが手紙とはいえ、“二人だけの秘密”を作るのは危険だ。
手を引くなら今しかない。今引かなければ、蒼紫ももいつか必ず破滅するだろう。それだけは絶対に避けなければ。
蒼紫が手を引いても、にはカナリアがいる。あの美しい小鳥が彼の代わりにの孤独を慰めるはずだ。だから蒼紫がいなくても大丈夫だろう。
けれど―――――手紙を折り畳もうとした手を止め、蒼紫は考える。
カナリアを可愛がることで、自分の世界を作ることは出来るだろう。カナリアと過ごす間だけは、現実を忘れることも出来るかもしれない。だが、カナリアにはの孤独を理解することは出来ない。現実から目を逸らすことは出来ても、彼女の中にある絶望的な孤独はどう処理すればいいのだろう。
やはりこのままを突き放すことなど出来ない。彼女の孤独を理解することが出来るのは、蒼紫しかいないのだ。
一度だけなら、話を聞くだけなら、会うのも許されるのではないだろうか。誰にも話すことの出来ない胸の内を吐き出すことで少しでもが楽になるのなら、それは許されても良いはずだ。
「―――――御頭」
天井裏から般若の声がした。
「差し出がましいようですが、くれぐれも―――――」
「解っている」
最後まで言わせず、蒼紫は無感情に応じる。
蒼紫には四人の部下がいる。そしてにも夫と、彼の援助を受ける家族がいるのだ。軽率なことなど出来るわけが無い。
ただ会って話をするだけ。それ以上のことは何も無い。あるわけがない。
天井裏からの視線を意識から外し、蒼紫はゆっくりと手紙を折り畳んだ。
蒼紫と会うためなら自分の妹まで利用するつもりですよ、この主人公さん。しかも“自分は悪くない”の一点張りです。最低の女だ………orz
そして、状況に流されまくりの蒼紫。般若も心配そうです。っていうか、手紙を盗み見してるのか、般若?
行動的な主人公さんと、引き摺られる蒼紫、そして否応無く巻き込まれていく周囲と、メロドラマ一直線です。さて、どこまで主人公さんの思い通りにいきますことやら。