縁の露

縁の露 【ゆかりのつゆ】 縁のわずかなことのたとえ。
 蒼紫の勧めに従って雌のカナリアを飼ってみた。突然同じ籠に入れられて、最初は互いに警戒し合うようにしていた二羽だったが、雄の方は雌を気に入ったらしい。今までずっと黙り込んでいたのが、何かに目覚めたように一日中綺麗な声で鳴き続けている。
 雌はまだ遠巻きに相手を観察しているようだが、雄は自分の声を聞かせる相手が出来たことだけでも嬉しそうだ。活動的になったせいもあるが、以前よりもずっと生き生きしているように見える。やはり小鳥でも、好きな相手が出来ると毎日が愉しいものらしい。
「お嫁さんが来てくれて良かったわねぇ」
 一生懸命歌い続けるカナリアの姿に、も嬉しそうに目を細める。
 カナリアが愉しそうだとも自分のことのように嬉しい。これも蒼紫のお陰だ。
 蒼紫にお礼の手紙を書いてみようかと思う。カナリアが鳴くようになったこと、毎日愉しそうにしていること、そして何よりの嬉しい気持ちを伝えたい。
 カナリアの礼を伝えるだけなのだから、手紙を出すくらい誰に咎められることも無いだろう。蒼紫も何も考えずに受け取って、返事も書いてくれるに決まっている。
 否、カナリアはただの口実だ。本当はもっと蒼紫と話をしたいと思っている。そしてあわよくばまた彼に会いたいと願っている。
 最初は、もう一度会って話が出来れば気が済むと思っていた。明るい場所で姿を見て、今の辛い気持ちを聞いてもらえれば、それだけで良いと思っていた。けれど今は、それだけでは耐えられない。
 蒼紫と話して、自分の気持ちにはっきりと気付いた。この生活から逃げ出したい。その為には彼の力が必要なのだ。
 あの日、の手を握ってくれた蒼紫の手の感触は今でも覚えている。きっと彼はあの手での手を引いて、この屋敷から連れ出してくれるのだろう。何故ならあの時の蒼紫の目は、への同情に溢れていたのだから。
 あの日のコートの手触りを思い出すように、は胸の上できゅっと手を握り締める。
 自分が恐ろしいことを考えているのは解っている。この気持ちを夫に知られたら、罰を受けるのは一人ではないことも。だからこの気持ちは何が何でも隠し通さなくてはいけない。
 は机に座ると、慎重に言葉を選びながら手紙を書き綴った。





 から手紙が届いて、蒼紫は些か面食らってしまった。伯爵夫人から直接他家の使用人へ手紙が送られるなど、常識では考えられないことだ。
 幸い、武田家への郵便物は家令が全て仕分けるから手紙が観柳の目に触れることは無いが、万一勘付かれでもしたら面倒だ。一応、家令に口止めしておくか。否、下手に触れればかえって厄介なことになるかもしれない。
 それにしても、は一体どういうつもりなのだろう。手紙はカナリアの様子だけ書かれた当たり障りの無いものであるが、多分伝えたいのはそれだけではない。
 カナリアの様子にかこつけて、とでもいうのだろうか。カナリアの様子に重ねるように、自分の気持ちを伝えようとしているかのようだ。好きな相手が出来てカナリアは生き生きしていると書いた後に、最近は自分も毎日華やいだ気分でいると書き、狭い籠の中で一生過ごすのは可哀想だ、二羽で外の世界で生きていけたらどんなに幸せだろうと綴った後に、けれどこの鳥は自分と同じで外の世界では生きられないと嘆いている。
 あの日、温室の中でも同じことを言っていたが、あれは有閑階級の他愛の無い愚痴だと思っていた。確かにの境遇は幸せではないかもしれないが、社会的には恵まれているのだから不幸ではない。幸せではない結婚生活には蒼紫も同情したが、しかし彼女は恵まれているのだ。だからあの時のあの言葉は、感情が昂ぶった末のものだと思っていた。だが、こうやって文字にまでして訴えているということは、本気でそう思っているのだろうか。
 本気でそう思っていたとして、本当に蒼紫がをあの屋敷から連れ出した後は一体どうするつもりなのだろう。彼女が家から逃げ出したら、彼女の実家はたちまち困窮してしまう。勿論自身も。彼女だって貧しい生活がどんなものかは知っているはずだ。あの裕福な生活を失ってでも、あの屋敷から逃げ出したいというのだろうか。
 あのの切羽詰った顔を思い出す。あの血を吐くような言葉の数々。あの言葉は紛れもなくの本心だ。きっと蒼紫に出会うまで、あんな思いを一人で抱え込んで苦しんでいたのだろう。それを思うと、蒼紫もを突き放すことは出来ない。
 だが、突き放すことは出来ないが、受け入れることも出来るはずがない。に実家という枷があるように、蒼紫には四人の部下への責任があるのだ。
 蒼紫がを連れて消えた後、観柳が四人の部下を雇い続けるとは思えない。あの四人ととどちらを選ぶかと問われたら、あの四人を取る。それが“御頭”の責任だ。
 だから手紙の本当の中身に気付くわけにはいかない。この手紙はカナリアの礼状で、それ以上のものではない。
 可愛がっているカナリアが毎日愉しそうで、飼い主のも毎日楽しいなら結構なことだ。彼女は夫婦仲に恵まれないせいか小鳥に自己投影しているようだが、そのうち子供が出来ればそんな小娘のような夢想もしなくなるだろう。女は子供を生めば驚くほど変わる生き物なのだ。夫に愛は無くとも、子供ができればカナリアのことも蒼紫のことも綺麗に忘れてしまうだろう。
 そこまで考えて、蒼紫は不快げに眉を顰めた。有閑夫人の気まぐれに、一体何を真剣に考えているのだろう。あの屋敷から逃げ出したいと思っているのは本気かもしれないが、半分は物語の主人公になったかのような錯覚に酔っているだけなのに。
 そうだ。は強盗に襲われたあの夜の興奮をそのままに、自分を主人公にした物語を作って楽しんでいるだけなのだ。蒼紫はその物語に丁度良い相手役に過ぎない。
 きっとこの手紙は、暇を持て余した奥様の遊びだ。そうでなければいけない。
 人妻を奪うということは犯罪だ。奪われた人妻も、自ら進んで奪われたのなら同じく罪に問われる。そんな恐ろしいことを、が望むわけがないではないか。
 そう自分に言って聞かせるが、の縋るようなあの目を思い出して、また迷ってしまう。もし蒼紫が突き放してしまったら、カナリアしか支えのないあの貴婦人はどうなってしまうのだろう。
「………馬鹿馬鹿しい」
 美しい貴婦人を救い出すという物語に、いつの間にやら蒼紫まで参加しようとしているとは。自分の愚かしさに、蒼紫は小さく毒づいた。
 愛の無い結婚生活から貴婦人を救い出したいなど、白馬の騎士にでもなったつもりか。仮に上手く逃げおおせたとして、それから先は一体どうするのか。生活力の全く無いと四人の部下を連れて簡単に身動きの取れない蒼紫とでは、早々に破綻してしまうのが目に見えている。御伽噺のように、“二人は遠い国で幸せになりました”で済まないのが現実なのだ。
 けれど―――――蒼紫の存在が今のの手助けになるのなら、この筋書きに乗った振りをしてやるくらいは許されるだろう。本当に彼女を連れ去ることは出来ないが、手紙の返事を書くだけなら常識的な対応で済まされる。逆に返事を出さない方が不自然に思われそうだ。
 退屈な奥様の相手をするだけ。夫はカナリアに関心が無いから、代わりに蒼紫が話を聞くだけだ。自分が飼っている生き物の話で人妻が他所の紳士と親しくするというのはよくあることなのだから、それくらいのことで目くじらを立てる者はいないだろう。
 蒼紫は手紙を丁寧に折りたたむと、筆を取って手紙の文面を考え始めた。





 銀の盆に載せられた自分宛の郵便物を確認しようとしていたの手が、差出人の名前を見た途端にぴくりと強張った。
 差出人は四乃森蒼紫。は鋏を使うのももどかしげにびりびりと封を破ると、手紙を広げて食い入るように文字を追った。
 蒼紫の文字は想像通り、男らしい、それでいて知性を感じさせるものだった。御庭番衆御頭を務めた人間だけあって、手習いもきちんとしてきたのだろう。
 手紙の内容は事務的な素っ気無いものだったが、蒼紫の文字を見ることが出来ただけでもは満足だ。字を見れば書いた人間の性格や品性が判るというが、こういう字を書く男ならきっと秘密を共有できる。やはり自分の目に狂いは無かったと、は小さく口許を綻ばせた。
 手紙を読む限りでは、蒼紫はこれからも手紙の遣り取りをする気はあるようだ。カナリアのことを気にしているようなことが書かれてあって、それが彼からの返事だと思う。使用人の手を次々渡るへの手紙は誰の目に触れるか分からないのだから、迂闊なことは書けない。
 考えてみればへの手紙はすぐに彼女の手に渡るものではない。家令が差出人を確認した後に家政婦に渡り、付きのメイドが銀の盆に載せて静々と持って来てから漸く手にすることが出来るのだ。これではどんなに少なく見積もっても三人の人間には必ず差出人の名を見られてしまう。他家の使用人から何度も手紙が届くということになれば、すぐに怪しまれて夫に報告されるだろう。それは絶対に避けなければならない。
 どうにかして蒼紫の手紙が直接の手に届くように出来ないだろうか。使用人を味方に付けるのは難しい。の境遇に同情している者もいるが、所詮は夫に雇われている身。完全に信用することは出来ない。何より、使用人なんかと秘密を共有するなんて、想像しただけでもぞっとする。秘密というものは、それに相応しい人間にしか明かされてはならないものなのだ。
 けれど蒼紫と手紙を遣り取りするためには、この家の中に信用できる味方がどうしても必要だ。一体どうすればいいのだろう。
 手紙を小さく折りたたみながら、は必死に考えを巡らせた。
<あとがき>
 やっと本題です。積極的な主人公さんと、言い訳しながらずるずると引き摺られるような蒼紫。大丈夫なのかな、この二人………。
 電話もメールも無い時代、しかも手紙一つ読むにも何人もの使用人の手を渡ってやっと届くという生活ですから、手紙の遣り取りをするだけでも一苦労です。上流階級っていうのも楽じゃないな。
 さて、どうやって他人の目を掻い潜って手紙を遣り取りさせますかねぇ………。
戻る