鼓翼

鼓翼 【こよく】 鳥のはばたき。
 家の食卓はとても静かだ。互いに話しかけるということは全く無く、食器がぶつかる音だけが広すぎる食堂に響く。
 静かなのは食事の時だけではない。この家では会話というものが全く無いのだ。
 打算のみで始まった結婚生活だったから、互いに何を話題にすれば良いのか解らない。おまけに互いに歩み寄る努力をしないのだから、会話が生まれないのは当然のことだ。
 傍から見れば息詰まる生活だが、はそうは思わない。無理して話を合わせるよりも、黙っていた方が気が楽というものだ。恐らく夫も同じだろう。
 夫婦というものは解り合えなくても良いと、は思っている。こんな下賎な成り上がり者となど解り合いたくもない。対外的に夫婦としての形を取り繕えていれば、それで良い。嫁ぐ前日に母親からも、結婚とは女にとって辛いもの、何があっても我慢しなさい、と諭されてきたから、それが悲しいことだとも思わない。
 そう思って今日まで来たけれど、本当にそれで良いのかと、最近疑問に思うようになってきた。社交界に出るようになって知ったのだが、どうやら世間には夫を尊敬し、妻を愛しむ夫婦もいるらしいのだ。自分たちのように外側だけ取り繕っているのかと思いきや、そうでもないらしい。
 それを知った瞬間から、は自分が酷く損をしている気分になった。世が世なら自分より格下の女が、それどころか卑しい出自の女がそんな結婚をして、が不幸な結婚生活を受け入れなければならないなど、あまりにも理不尽ではないか。
 これまではそんな理不尽も見て見ぬ振りができた。愛も情も無いとはいえ、夫の保護無しには生きてはいけないと思っていたからだ。そして、男と女というのはそういうものだと思い込まされてもいた。だが、今は違う。
 あの夜、夜会の帰りにあの男に出会って、は自分が様々なことから目を逸らし続けていたことに気付いてしまった。夫のことなど愛していないことは勿論、心の底では彼の死を望んでいたこと。そして、本当に自分が選んだ男と愛し愛されたいと望んでいたこと―――――
 有夫の身で他の男と情を通じることは犯罪だ。けれど、想うだけなら許されても良いではないか。姦通さえ犯さなければ、誰にも裁かれることは無い。
 だからもう一度彼に会いたい。会って話をするだけで良い。彼ならきっと、の辛い気持ちを解ってくれるはずだ。
「あなた」
 箸を止め、は夫を見る。
「―――――何だ?」
 突然声を掛けられ、夫は些か驚いた顔をした。の方から話しかけるというのは、恐らく初めてのことだ。しかも、いつもむっつりと押し黙っている妻が突然口を利いたのだから、驚かないわけがない。
 一体何を言い出すのかと身構える夫に、はにこりともせずに言う。
「先日の武田様、何かお礼しなければならないと思うのですが」
「あの男か………」
 あの夜のことを思い出し、夫は少し考え込むような顔をする。
 武田観柳という男のことは、彼も噂でいくらか知っている。青年実業家という触れ込みだが、実際に何を生業にしているのか誰も知らないという話だ。直接言葉を交わしたのはあの夜が初めてだったが、噂通りの胡散臭い印象しかなかった。
 できれば近付きたくない種類の人間ではあるが、危ういところを助けられたのは事実。胡散臭い男とはいえ、伯爵家としては何もしないわけにはいかないだろう。
「そうだな………。一度家に招待するか」
「そうですね。それと、あの護衛の方も」
 思惑を悟られないように、は努めて感情を出さないように提案する。
「四乃森……とかいったか。あの男に助けられたようなものだからな。使用人だが客人として招待しよう」
「ええ、それがよろしいかと思います」
 これで誰に憚ることなく蒼紫に会える。喜びで笑みが零れそうになったが、ここで少しでも顔に出せば夫に怪しまれてしまう。
 こみ上げる喜びを必死に抑え、は静かに食事を再開させた。





 観柳と蒼紫が邸にやって来たのは、それから十日ほど過ぎてからだ。この日が来るのを、はどんなに待ち焦がれていただろう。こんなに華やいだ気持ちで何かを待つなんて、娘時代以来のことだ。
 結婚して以来、こんなに楽しい気持ちで毎日を過ごしたことは無かった。小娘のように心が弾み、それを周りに悟られるのではないかといつも冷や冷やしていたくらいだ。自分にもこんな感情が残っていたのかと、は毎日が驚きの連続だった。
 まだ何も起こっていないけれど、蒼紫のことを想うだけでただ楽しい。想うだけで楽しいのだから、顔を見たら胸がはちきれるのではないかと思うほどだ。こんな気持ちを、きっと人は恋と呼ぶのだろう。
 一度しか会ったことが無い男に恋をするなんて、自分でも信じられない。けれど、今日まで繰り返し蒼紫のことを思い続けていたせいか、今目の前にいる男とは何度も逢瀬を重ねた気分になっている。この男こそが、をこの不幸な結婚生活から救い出してくれる“運命の人”なのだと思うのだ。
 昼食の席では観柳ばかりが喋って、蒼紫が口を利くことは無かった。元々無口な性質なのだろう。元隠密なのだから、饒舌なわけがない。そこにもは満足した。お喋りな男など、信用できるものではない。
 しかし、全く喋らないというのも困りものだ。は思い切って夫に提案してみた。
「あなた、お食事が済んだらお庭を御案内して差し上げたら如何でしょう」
「そうだな。
 先日、温室を作りましてね。欧州から取り寄せた蘭を育てているんですよ」
「蘭ですか。それは良い」
 夫の言葉に、観柳はいかにも興味を惹かれたように目を丸くした。
 近頃、富裕層に蘭の栽培が流行っていることから、観柳もそれなりに蘭の知識があるのだろう。そこから話題は蘭の品種へと移っていった。





 夫が蘭に興味を持ち始めたのは、つい最近のことだ。誰に勧められたのかは知らないが、突然硝子張りの広大な温室を建てて、国内外から取り寄せた蘭で一杯にしている。
 どうやら凝り性な性格の男のようで、蘭の栽培に詳しい人間まで雇い入れるほどの熱の入れようである。どうせすぐに飽きるだろうとは冷ややかに見ていたのだが、こうやって客に見せて褒められるのが余程気持ち良いのか、近いうちに温室の増築をするつもりでいるらしい。夫と観柳の会話を聞いて、もたった今知った。
 夫の道楽に口を出すつもりは無い。道楽に熱中してくれれば夫が屋敷の中にいる時間は減り、としては願ったり叶ったりである。
 夫と観柳は相変わらず蘭について語り合い、最早と蒼紫のことなど忘れてしまっているかのようだ。夫は話が弾むとのことを蔑ろにしがちだが、今回はこれが好都合である。
「四乃森さんは、蘭には御興味ありませんか?」
 手持ち無沙汰そうにしている蒼紫に、は勇気を出して話しかけてみる。
「無粋な人間なもので………」
 主の自慢の温室を褒めもしないことを咎められたと思ったのだろう。蒼紫は少し気まずそうな様子を見せた。
「私も実は蘭のことなど解りませんのよ」
 取って置きの秘密を明かすようにそう言うと、は悪戯っぽくくすっと笑う。笑った後、自分はこんな風に笑うことが出来るのだと驚いた。
 この家に嫁いできてからというもの、こうやって笑ったことは無かった。否、実家にいた頃でさえ、こんな笑顔を作ったことは無いと思う。こんな他人に見せるような―――――はっきり言ってしまえば、男に見せるための笑顔は作ったことは無い。自分は目の前の男に媚を売っていると、ははっきり自覚していた。
 何てはしたないことをしているのだろうと、自分でも呆れる。夫がいる身で、しかも伯爵夫人という社会的地位もある女が、一体何をやっているのだろう。
 けれど―――――はすぐに思い直す。あからさまにしなを作ったり、誘っているわけではない。ただ笑いかけただけのことだ。咎められることは何一つしていない。
「この温室にはカナリアもおりますの。ご覧になります?」
「カナリア………?」
「あちらですわ」
 そう言うと、は温室の奥の方へと蒼紫を案内した。
 カナリアの籠は、温室の隅にひっそりと置かれていた。この小鳥も良い声で鳴くということで、蘭と同じく海外から輸入されてきたものだ。流行り物好きの夫がずっと前に購入したものである。
 ところが良い声で鳴くという触れ込みで購入したものの、何が気に入らぬのか殆ど鳴かない。そのため夫が打ち捨てようとしたところを、が引き取ったのだ。鳴きはしないが、赤味がかった美しい色が気に入って、可愛がっている。
「綺麗な鳥でしょう? これで鳴いてくれればもっと良いのでしょうけれど………何が気に入らないのか少しも鳴きませんの」
 毛繕いをするカナリアを見ながら、は説明する。
「きっと、狭い鳥籠に閉じ込められているのが嫌なのでしょうね。外に出たらすぐに死んでしまうのに」
 この鳥は自分と同じだとは思う。彼女もこの屋敷から出て自由の身になりたいと切望しているけれど、此処から出ては生きてはいけない。このカナリアのように、外の世界の楽しいことを一切知らないまま、この屋敷の中で死んでいくのだろう。
 この屋敷の中での気持ちを解ってくれるのは、このカナリアだけだと思っている。だから綺麗な声で鳴かずとも愛しくてたまらない。
 蘭より動きがあるだけに見甲斐があるのか、蒼紫も観察するようにカナリアの様子をじっと見ている。暫く黙って見た後、おもむろに口を開いた。
「雌を入れてやれば鳴くと思います」
「え?」
 唐突に助言され、はびっくりして蒼紫を見上げる。
「カナリアは雌に求愛するために鳴きます。同じ籠の中に入れてやれば、この鳥も鳴くようになるでしょう」
「ああ………」
 そういえば業者が屋敷に持って来た時、番で売ろうとしていた。夫は鳴かない雌を抱き合わせで買わせようとしていると不機嫌になっていたが、あれはカナリアを鳴かせるために必要な雌だったのだ。
 籠に閉じ込められるのが嫌で鳴かないのかと思っていたが、一羽で淋しくて鳴かなかったのか。そう思うとますますこの小さな鳥が自分に似ているようで愛しくなる。
「お前も寂しかったのね………」
 寂しげにカナリアに語りかけるの姿を見て、蒼紫は怪訝な顔をする。
 内情はどうであれ、傍から見ればと夫はどこにでもいる“普通の夫婦”だ。否、まだ結婚数年で、夫は女遊びはしても特定の妾はいないとなれば、幸せな部類に入るだろう。それなのにカナリアに自分の姿を重ねているかのような様子を見せては、他人から見て不審に感じられるのは当然のことだ。
 蒼紫の視線に気付いて、は彼を見上げる。そして皮肉っぽく微笑んで、
「私と夫が会話をするのは、人前でだけですの。普段はこのカナリアと同じ。静かなものですわ」
「え………」
 唐突な告白に、今度は蒼紫が絶句する番だ。別人のように冷え冷えとしたの声にも驚いたが、それ以上に初対面に近い彼に家庭の内情を暴露する彼女の心理が解らない。
 大抵のことでは動揺しない蒼紫も、流石にこれには目が泳いでしまう。その顔が可笑しくて、は小さく笑った。
家の箔付けと、私の実家の生活のための結婚ですもの。最初から夫婦の情なんてありませんわ。人は添うてみるものと昔から言いますけれど、無理なものは無理です。徳川家が倒れて実家が没落したのに、どうしてそうさせた側の人間に愛情を持てます? 出来るわけがありませんわ」
 心に溜まった澱を吐き出すかのように、は一気に喋る。こんなことは、今まで誰にも言えなかった。実家の家族にも言えない。言っても、我慢が足りないとか、どうであれ妻としての役目を果たせと言われるだけだ。
 これまで口にすることを許されなかった思いを言葉として表現していくうちに、は涙が出そうになってきた。こんなにも長い間、自分はずっとずっと黙って耐えてきていたのだ。そう思うと、結婚してからの数年間、そしてこれから死ぬまでの自分の人生は一体何なのだろうと悔しくて悲しくなってくる。
 殆ど初対面と言っても良い男にこんなことまで話すなんて、自分でもどうかしていると思う。けれど、蒼紫にはこの気持ちを知って欲しかった。不本意な結婚、自分を押し殺してどうにか維持している生活、そして何の希望も無い未来―――――と同じ“負け組”の彼ならきっと解ってくれる。
 目に涙を浮かべ、は言葉を吐き出し続ける。
「世間では妾を持たぬ感心な夫だと言われてますけれど、長く続く女がいなかっただけじゃないですか。火遊びくらいなら大目に見ろと言われるかもしれませんが、私は許せません。芸者やら使用人やらを寝室に引き込んで………。自分の屋敷の中で夫の火遊びを見せ付けられる妻がどんなに惨めなものか、お解かりになります? いくらお飾りの妻でも、あんまりだわ。そんなことをされるくらいなら、他所に女を住まわせて家に帰ってこない方が、まだ救われるというものです。少なくとも相手の女を見なくて済みますもの」
 そうだ。はずっと夫に踏みにじられ続けてきた。金で買った妻だから、それこそこのカナリアや蘭のように物として扱われてきたのだ。だからこそ、あんな仕打ちが出来るのだろう。
 時世に流されて落ちぶれても、たとえ金で買われたとしても、にだって心はある。あんな扱いを受けて平気でいられるわけがない。これから先もこうやって物のように扱われ続けていたら、の心はきっと壊れてしまうだろう。
 だから自分が壊れてしまう前に、誰かにこの異常な状況から助け出して欲しかった。蒼紫ならきっと、あの日の夜のようにを助け出してくれるだろう。
 は縋るように蒼紫のコートを掴んだ。
「四乃森さん、貴方なら解ってくださるでしょう? 同じ徳川の人間ですもの。私がどんな思いで生きているか、解ってくださいますわよね?」
「奥様………」
 助けを求めるような切羽詰ったの瞳に、蒼紫はたじろいだ。
 の辛い気持ちは、蒼紫にも理解できる。しかし、彼女をこの状況から救い出すということはつまり、伯爵からを奪い取るということだ。そんな恐ろしいことをこの伯爵夫人は望んでいるのだろうか。
 この屋敷を出ては生きていけないことくらい、も解っているはずだ。実家の生活のための結婚と口にするくらいなのだから、彼女がこの家を出ることで実家も立ち行かなくなってしまうことも理解しているだろう。全てを解った上で、それでもはこの生活から逃げ出したいと願っているのか。
 の不幸な結婚生活には、蒼紫も同情する。実家のことも何もかも忘れて逃げ出したいと思うほど追い詰められているくらいなのだから、これからずっとこの屋敷の中で生きていかなければならないという絶望も解るつもりだ。同じ徳川家に仕えた人間として、何とかしてやりたいとも思う。
 けれど今の蒼紫には、を此処から連れ出すことなどできない。彼には御庭番衆時代から付いて来ている部下がいて、彼らに対する責任があるのだ。蒼紫一人の気持ちで動くわけにはいかない。
 軽い興奮状態に陥っているを宥めるように、蒼紫はゆっくりと落ち着いた声で言う。
「それでも奥様は恵まれておいでです。このカナリアのように、奥様もこの屋敷を出ては生きてはいけない」
「いいえ。この屋敷の中でも生きながら死んでいるようなものですわ。それならばいっそ、生きていけなくても、一瞬でも良いから自分のために生きたい………」
 蒼紫の前で抱えている想いを吐き出しているうちに、自分がどんなに苦しかったのかはっきりと自覚した。ずっと燻っていた思いを形にすることで、自分が求めていたものが何か、はっきりと解った。
 女として、一人の人間として誰かに尊重されたい。箔付けのための物としてではなく、という一人の人間として誰かに求められたい。夫がそういう風にを求めてくれていたら、きっと彼女もそれに応えようと努力したはずだ。たとえ愛せない相手であっても、ここまで酷い関係にはならなかったと思う。
「奥様………」
 血を吐くようなの言葉に、蒼紫は何も言えなくなってしまう。
 徳川が瓦解し、大きく人生を変えられた者は大勢いる。食うに困って首を括る者もいれば苦界に身を落とす者もいて、だけが不幸なわけではない。けれど、一見恵まれた境遇に見えるだけに、蒼紫にはその不幸が酷く際立って感じられた。
 一人の人間として求められないことがどれほど辛いものか、蒼紫には解らない。彼は旧時代も新時代も彼自身の実力を求められてきたから、それ以外のもので求められるということ自体が理解できないのだ。けれど、条件さえ満たしていれば自分でなくても良い、という形で求められることの空しさは想像できるつもりだ。そうやって妻の座に据えられたの空しさはきっと、どんなに言葉を尽くしても慰められないだろう。
 肩を震わせて泣くを見下ろし、蒼紫は無言でコートを掴んでいる彼女の手に自分の手を重ねた。
<あとがき>
 昼メロ的展開大爆発。前回、4話程度で終わると書きましたが、もう少し長くなりそうな感じです。考えているうちに色々ネタが思い浮かんできて、結構楽しくなってきたんで。
 蒼紫と不倫、一寸結びつかない組み合わせなだけに、考えるのが楽しいです。今回は主人公さんの一人語りが多かったですが、蒼紫の一人語りもやりたいですねぇ。
戻る