永訣
永訣 【えいけつ】 永遠の別れ。
翌朝の新聞の死亡欄に、の名前が小さく載っていた。死因は書かれていない。あの部屋にいたのは、やはりだったのだ。何故あの時あの場所に、しかもベッドの中にいたのか、蒼紫には解らない。計画を持ちかけたのはなのだから、決行の日時を間違えたということはあり得ないだろう。そもそも、寝室を別にしているが、伯爵のベッドにいたというのがありえない。
落ち着いて思い返せば、あの時、は蒼紫に気付いているようだった。最後に顔を撫でられた感触は、覚悟を決めていたもののように思われる。は蒼紫に殺されるために待っていたということなのか。
そうなると蒼紫には、ますます訳が分からない。作戦通りにいけば伯爵は死に、は晴れて自由の身になれたのに。
自分が犯そうとした罪に今更ながら恐れおののいて、死を選んだのか。それにしても、蒼紫に殺させるなんて、の中で何があったのだろう。
考えれば考えるほど、蒼紫には納得のいく答えが出てこない。女心というのは男には理解不能なものだが、それにしても解らなすぎる。
新聞によると、葬儀は密葬で行われるそうだ。伯爵夫人の葬儀としては非常識だが、あの遺体を人目に晒すわけにはいくまい。
伯爵は、今後のことをどう考えているのだろう。犯人の目星は付いているはずだから、その気になれば蒼紫を潰すことだってできる。しかし小さな死亡記事で済ませているところを見ると、大事にしたくないとも取れる。
蒼紫が殺人犯として逮捕された場合、との関係も表沙汰になる。身分も地位もあり、年頃の娘がいる家となると、醜聞は出来るだけ揉み消したいものなのかもしれない。
しかしは妻なのだ。形だけの妻だとしても、殺した相手を追求したいとは思わないのか。伯爵のに対する気持ちがその程度のものだと思うと、蒼紫は怒りを覚えた。
伯爵は今、何を思っているのだろう。小さな死亡欄からは何も読み取れない。伯爵夫人の死について、これだけの扱いというところが、伯爵の冷ややかな感情を表しているようにも思えた。
四十九日が終わったところで、観柳が邸を訪問することになった。葬儀の日に弔電を送ったようだったが、弔問をすることで家との繋がりを強くしようと目論でいるのだろう。自分の利益に繋がることなら、何でも利用する男だ。
観柳の外出の際の護衛は蒼紫と決まっている。今の時期でなくとも邸は敷居が高いが、仕事となれば仕方がない。邸に入らなければ、何とか乗り切れるだろう。
いつものように蒼紫が馬車の脇に立っていると、門から人力車が入ってきた。顔は幌で隠れてるが、袴を穿いているのが見える。あれが妹の阿久里なのだろう。
少女は人力車から降りると、車夫に何やら言って、こちらに向かってきた。
「四乃森蒼紫様ですね」
尋ねるというよりも、確認するような口調だ。からいろいろ聞いているのだろう。
「………はい」
今更逃げも隠れも出来ない。蒼紫は素直に認めた。
「私、妹の阿久里と申します。生前は大変お世話になったようで」
不思議なことに、阿久里の声には棘が無い。姉がどうやって死んだか知らぬわけでもあるまいに、何を考えているのだろう。
阿久里は、と蒼紫の手紙を取り次いでいた娘だ。今回の事件についても、薄々気付いているだろう。それなのに何故、こうも落ち着いていられるのか。
阿久里の不気味な態度に、蒼紫の方が身構えてしまう。この落ち着きようは、復讐を考えているとしか思えない。
ところが阿久里は楽しそうに小さく微笑んで、
「今更あなたに言うことなんてありませんわ。義兄が全て処理しましたから、あなたがこのまま黙っていてくだされば、それ以上のことは望みません」
阿久里の口調は驚くほど淡々としている。実の姉が殺されたというのに、まるで他人事だ。
上流階級には、庶民には理解できない常識があるものだが、いくら何でもこれはおかしい。これくらいの歳の娘なら、取り乱しても当たり前だと、蒼紫は思うのだが。
「姉上様のことは―――――」
「そういう言い方、止めていただけます?」
蒼紫の言葉を遮った声は、恐ろしく冷ややかなものだった。
「あんな身勝手な女、私の姉ではありません」
阿久里の声は静かだが、蒼紫の口出しを許さない凄みがあった。阿久里は本気でを憎んでいるのだ。
夫以外の男との手紙の遣り取りや、密会の口実に使われ、阿久里は腹にいろいろ溜め込んでいたのだろう。こんなことは誰にも相談できないし、悶々とした日々を送っていただろうことは、蒼紫にも想像できる。仕方がなかったとはいえ、阿久里には申し訳ないことをした。
「今更ですが、あなたには申し訳ないことを―――――」
「本当に今更ですね」
阿久里の反応は本当に手厳しい。蒼紫の謝罪は一切受け付けない様子だ。
不倫の代償というのは、本当に重いものだ。体の関係は無かったと言ったところで、何の言い訳にもならないだろう。逆に、体の関係が無かったからこそ、二人の感情は燃え上がったとも言えるのだ。
蒼紫が黙っていると、阿久里はふと表情を和らげた。
「でもね、あなたには感謝しています」
「え………?」
意外な言葉に、蒼紫は頭が真っ白になった。
姉と密通し、殺した相手に、一体何を言っているのか。阿久里が狂ったのではないかと、蒼紫は本気で思った。
しかし、阿久里の目は正気だ。清々しげですらある。
「あなたが上手くやってくださったお陰で、義兄の負担は軽くなったようです。その点は感謝します」
上手く殺したから感謝するなんて、やはり阿久里は普通ではない。上流階級の人間は何より醜聞を嫌うものだが、これは異常だ。
それほどまでに、阿久里はが許せなかったのか。一貫して伯爵側に付いていることも、蒼紫には気になった。
「あなたは―――――」
実の姉を嫌っていたのかと問いかけたが、言葉にするのは躊躇われた。
血の繋がりが絶対のものとは、蒼紫も思わない。実の姉よりも、生活の保障をしてくれる義兄を慕う気持ちも解らないではない。だが、阿久里のに対する感情は、どう考えてもおかしい。
蒼紫の疑問を察したのだろう。阿久里が冷笑するように口元を歪めた。
「だって、私くらい義兄の味方をしてあげなきゃ可哀想でしょう? あの女は義兄を見下して、歩み寄ろうとしても拒絶する。おまけに若い男に現を抜かして………。私くらい味方してあげなきゃ、可哀想じゃありませんか」
「……………」
そういう見方もあったのかと、蒼紫は驚いた。から聞いた伯爵像しか知らなかったから、阿久里の言葉は衝撃的だった。
「私は姉のことは好きでした。ただ、こうなってしまった以上、一生許せないと思いますよ。あなたのことも」
「………はい」
「事を荒立てるつもりはありません。義兄もそれを望んでいませんし。ただ、あなた方を一生許せない人間がいることだけは忘れないでください」
「承知しています」
人妻が相手だったのだから、幸せな結末を望んでいたわけではない。けれど、ここまで憎悪の対象になることも、想像していなかった。
「あの女の骨は家の墓に入れていただけることになりましたが、お墓には来ないでください。誰に見られるか判りませんから」
「はい」
何を言われても、今の蒼紫には受け入れるしかない。それだけのことをしてきたのだから。
「それからね―――――」
阿久里が思いだしたようにニヤリとを笑った。この年頃には相応しくない、何か腹に一物抱えているかのような笑い方だ。
「あの人が、あなたに自分を殺させたのは、“伯爵夫人”のまま死にたかったからですよ。自分で死ぬ勇気がなかったから、あなたを使っただけ。あなたと生きるよりも“伯爵夫人”の称号を選んだのから、あの人を殺したことについては、ご自分を責めないでくださいな」
これまでの言葉で、これが一番効いた。阿久里もそれを狙ったのだろう。
がそんな女だとは思いたくはない。けれど、あの夜のあの状況は、阿久里の言葉に真実味を与えるのに十分だ。
生前のの姿を思い出す。
この屋敷から逃げたいと縋ったのも、蒼紫を見上げて兄かもような笑顔も、全部一時の戯れだったのか。そうではないと信じたい。あれは、あの時のの本心だったはずだ。
追い打ちをかけるように、阿久里は楽しげに話し続ける。
「退屈な毎日で、あなたは良い刺激になってくれたと思います。あの人も悲劇の主人公を楽しんでいたようでしたし。まあ、義兄が気付いてしまったのが誤算だったようですが、後始末はあなたに押しつけることができましたしね。あの人は感謝してると思いますよ。今後、あなたが家に近付かずに消えてくれたら、もっと感謝すると思います」
阿久里の声は楽しげだ。衝撃を受ける蒼紫を見るのが楽しいのか、姉を貶めるのが楽しいのか判らないが、生き生きとしている。
阿久里の言葉は嘘だと思いたい。けれど―――――
真実を語れるは、もういない。阿久里の言葉も信じられないが、を信じきる強さもない。は土壇場で蒼紫を騙した女なのだ。
「信じる信じないは、あなたの自由ですけど。せいぜい苦しんでください。義兄の分までね」
そう言って、阿久里は楽しげに微笑んだ。
うーん、何か思ったよりすっきりしない終わり方だな。すっきりしたのは阿久里だけか(笑)。
主人公は離婚されずにあの世に逃げきり、阿久里は旦那の養女に入って縁談まとめて、旦那はもっとまともな嫁と人生やり直して……あれ?蒼紫一人負けじゃない?