月白
月白 【げっぱく】 月の光の色。
人妻が、間男と一緒になりたい一心で、夫を殺害するという話は、古今東西ありふれた話だ。いつだったか、間男と一緒になりたいがために旦那を毒殺した、“夜嵐お絹”という美人が話題になったこともある。蒼紫は詳しくは知らないが、芝居にもなったようだ。あの当時は身勝手な話だと思っていたのに、まさか自分がその当事者になるとは思わなかった。しかも、蒼紫が夫を殺す役割である。事が発覚すれば、間違いなく蒼紫は死刑だろう。部下たちも路頭に迷う。
そんな危険を冒す価値がにあるのかと、何日も悩んだ。あの手紙は読まなかったことにしようと思ったこともある。証拠の手紙は燃やしてしまったのだから、届かなかったと言えば、それまでだ。
しかし、真実を知った伯爵のことを考えると、このままにしておくのもまずい。何より、の手紙からは並々ならぬ決意が感じられた。無視することを許さない、何とも言えぬ迫力があった。
腹を括った女は強いというが、あの弱々しく見えたの中に、そんな強さがあったという事に、蒼紫は何よりも驚いた。考えてみれば、二人の関係はいつもに主導権があったのだから、弱いのは見た目だけで、内面は強かな女だったのかもしれない。
そうでなければ、夫を殺してくれとは言わないだろう。とんでもなく恐ろしい女に関わってしまったのではないかと、蒼紫は今更ながらぞっとした。
けれど、そんな恐ろしい女だったとしても、それでも絶ち切れない思いもある。初めて二人きりになった時、蒼紫に助けを求めてきたの姿は、演技ではなかった。あの時のは、誰かの支えがなければ生きていけないような、弱々しい貴婦人だった。今の強さは、蒼紫と出会って得たものなのだろう。
それならば、蒼紫がこの手紙を無視したら、はどうなってしまうだろう。再び絶望の中で生きていくのだろうか。
そう思うと、蒼紫は居ても立ってもいられなくなってきた。を守ることができるのは、蒼紫だけなのだ。
決行は今夜。手紙に書かれていた邸の間取りは暗記している。手紙通りなら、は裏手の窓を開けているだろう。
伯爵の寝室は、屋敷二階の左側の角部屋だという。明かりが消えているのは、もう寝た後なのだろう。
伯爵には早寝早起きの習慣があるそうで、この時間は熟睡していると思われる。眠っているところを一気に襲えば、悲鳴を上げる間もあるまい。蒼紫なら簡単に終わらせられる“作業”だ。
この程度のことは、少年の頃から何度も繰り返してきた。今更怖じ気付くような仕事ではないが、今夜だけは違う。これから行うことには、蒼紫とと、般若たち四人の部下の運命がかかっているのだ。これまでの任務以上に、失敗は許されない。
指示された裏窓に手をかける。この窓に鍵か開いていたら実行、掛かっていたら帰ると決まっている。
「………………!」
鍵は、開いていた。がこっそり開けておいたのだろうか。
は今頃、何をしているのだろう。一階の寝室で、息を潜めて“その時”を待っているのだろうか。それとも明日のために、“夫を惨殺された妻”を演じる練習をしているのか。この作戦が成功するまで気が気でないのは確かだ。
蒼紫は覚悟を決めて、屋敷に侵入した。が手回ししているのか、屋敷には人気が無い。
は本気で、伯爵を殺しにかかっているのだ。あの弱々しい姿、はにかむような笑顔の下で、こんな恐ろしいことを考えていたなんて、蒼紫にはまだ信じられない。
不気味なほど静まり返っている薄暗い屋敷の中を、蒼紫は注意深く進んでいく。本当に、誰もいないのではないかと思うほど、人の気配が無い。一体どうなっているのか。
まさか嵌められたのでは―――――そんなことはないと思いつつも、不信の念は消えない。が再構築を望んで、伯爵もそれを受け入れるとしたら、彼が望むのは蒼紫の首だ。蒼紫をおびき寄せ、あの角部屋で一網打尽にするつもりだとしたら―――――
そんなはずはない。蒼紫は自分の疑惑を振り切る。からのあの手紙は、心からの訴えだ。手紙の中で、はあんなにも伯爵の報復を恐れていたではないか。
の手引きが本気であれ、罠であれ、ここまで来たら引き返すことはできない。罠だったとしたら、も斬り捨てて自害する覚悟だ。
一歩一歩、本当にこれで良かったのかと躊躇いながら、蒼紫は伯爵の寝室に近づいていく。そして遂に、伯爵の寝室にたどり着いた。
相変わらず周りに人の気配が無い。扉の向こうも、寝静まったように静かだ。
取っ手に手を掛け、音を立てないようにそっと扉を開けた。
カーテンから漏れる薄明かりで、ベッドに人が寝ているのが確認できた。
ベッドの伯爵は、昼間見た時よりも小さいように感じられたが、寝ている人間というのは、そういうものなのかもしれない。頭からすっぽりと布団を被って顔の確認はできないが、此処にいるのなら伯爵であるのは確実だ。
部屋に誰も潜んでいないことを確認して、蒼紫は寝室に忍び込む。
伯爵は完全に熟睡しているようで、全く動かない。
この男には全く恨みは無いが、と蒼紫の未来のためだ。蒼紫はすらりと小太刀を抜いた。
布団の上から、一息に小太刀を突き立てる。身体が見えないから急所は外したかもしれないが、この一突きで致命傷になったのは間違いない。
布団の中で、悶絶するように伯爵の身体がのたうつ。それを押さえつけるように布団をしっかりと被せ、蒼紫は何度も滅多刺しにした。
刺しても刺しても伯爵が復活しそうで、蒼紫には恐ろしくてたまらない。これまでの経験上、最初の一刺しで十分なのは判っているのだが、伯爵にはそれでは足りない気がしてならなかった。
布団の隙間から青白い手が伸びて、最後の力を振り絞るように蒼紫の頬を撫でた。
「………………?!」
その手の感触に、蒼紫は一気に血の気が引いた。
あの手は、明らかに男のものではない。あの撫で方も、断末魔の苦し紛れのものではなく、憎しみが篭もっているものでもなかった。
恐る恐る、蒼紫はベッドに投げ出された腕を見る。
「―――――っ!」
男にしては白すぎる、柔らかそうな腕。細い指―――――この手を蒼紫はよく知っている。
部屋は間違っていなかった。寝室の様子も、婦人のものではない。この部屋は間違いなく、伯爵の部屋のはずだ。それなのに何故、こんなことに―――――
布団をめくって確認する勇気は、蒼紫には無かった。それを見てしまったら、正気ではいられない。
とにかくこの場から逃げなければ。真っ青で足元もおぼつかないまま、蒼紫は窓から飛び降りた。
何が何だか解らない。どうやって観柳邸に戻ったのかも覚えていない。
自分の部屋に戻っても、蒼紫の混乱は続いている。どう考えても、部屋に間違いはなかった。それなのにが居るなんて。
いや、まだ顔は見ていないのだから、と決まったわけではない。もしかしたら、伯爵が引き込んだ女かもしれないではないか。それにしても、後味は悪いが。
とにかく、明日の新聞だ。伯爵家で起こった事件なら、新聞に載るだろう。考えるのは、それからだ。
何とか自分を落ち着かせようとするが、蒼紫の手の震えは止まらない。
本当は首を切り落とすのを考えてたんですが、あんまりだろうと思い直し、滅多刺しに変更(あんまり変わんねぇよ………)。
“夜嵐お絹”は明治四年の事件。元旗本の娘で、芸者から金貸しの妾になったものの、美男役者の嵐璃鶴と深い仲になり、一緒になりたいがために金貸しを毒殺。翌年に処刑されています。かなりの美人だったようで、当時は話題になったらしいです。蒼紫も錦絵新聞で見たことがあるかもしれません。
次回で最終回です。清々しく終わらせたいものだ。