竹露清響
竹露清響 【ちくろせいきょう】 夜露が竹の葉から落ちるときにかなでる澄んだ音。
蒼紫はあの手紙を読んでくれただろうか。仲睦まじいカナリアの様子を見ながら、は考える。あの手紙は、相応の覚悟で書いた。に残された道は、これしかないのだ。こうでもしなければ、はいつまでも夫に怯え続けなければならない。
あれから夫の様子は、何も変わらない。以前と変わらずには無関心で、話しかけもしない。今は、阿久里の縁談で頭が一杯なのだろう。阿久里の縁談が纏まるまでは、このままかもしれない。
夫は、阿久里を養女にすることを考えているようだ。実家の父からの手紙で、初めて知った。没落した名家よりも、今を時めく家が実家である方が、縁談には何かと有利なのだろう、と父は書いていた。それを知った時、は血の気が引く思いがした。
夫は、阿久里をから完全に引き離そうとしている。阿久里を養女にした後で、を離縁しようと考えているのだろう。今の状態では、と別れると同時に阿久里とも他人になるが、養女となれば他人ではなくなるのだ。
阿久里もきっと、この話は知っているのだろう。に何も言わないのは、夫から口止めされているのか。だとしたら尚更、夫は本気で離婚準備に入っている。
だから蒼紫に手紙を書いた。家から追い出されることを考えれば、には恐ろしいことなど何も無い。夫が離婚を切り出す前に、が動かなくては。
恐ろしいことは何も無いが、ただ一つ気懸かりなのは、蒼紫がを恐ろしい女だと思ってはいないかということだ。できることなら、蒼紫とのことは美しい思い出にしておきたかった、最後にこんなことになってしまうなんて、それだけが悔やまれる。
けれど蒼紫とのことを永遠のものにする方法は、これしかないのだ。このまま何もせずにいたら、夫は蒼紫にも攻撃を向けるかもしれない。二人の関係は醜い不倫として、面白おかしく世間に広められるだろう。それだけはには耐えられなかった。
蒼紫は動いてくれるだろうか。動いてくれなければ、が―――――
と、扉を叩く音がした。
「はい」
返事をすると、阿久里が入ってきた。侍女も一緒だ。
あの日以来、阿久里には常に侍女が付いている。名門の娘として、使用人に傅かれる生活に慣れさせるためと夫は言っていたが、体の良い見張りだ。
「お姉様、たまにはお庭にでませんこと? ずっとお部屋に籠もりきりでは、お体に障りますわ」
最後の手紙を渡して以来、阿久里は娘らしい快活さを取り戻しつつある。肩の荷が下りた思いなのだろう。侍女に張り付かれた生活も苦にならないようだ。
阿久里の快活さ、健やかさが、今のには眩しい。同時に、の心により一層暗い影を落とした。
の不運と引き替えに、阿久里は次々と幸せを手に入れているようだ。裕福な生活も、人が羨む良縁も、が不幸になればなるほど、阿久里は易々と手に入れていく。
次の夜会で、海軍士官との縁談は纏まるだろう。卒業を待って結婚した暁には、海外赴任もあるかもしれない。この屋敷で一生を終えるに比べ、阿久里の何と恵まれていることか。我が妹ながら、憎しみさえ覚える。
「そんな気分じゃないわ」
普通に応えたつもりだったが、思いの外、刺々しい声になってしまった。
阿久里は驚いたような顔をしたが、事情を知っているだけに何か察したのだろう。すぐに話を変えた。
「カナリアに日光浴をさせましょう。今日は暖かいから、きっと気持ちが良いわ」
「触らないで!」
鳥かごに手をかけようとする阿久里に、は思わず声を張り上げた。
流石にこれには、阿久里も怯えた顔を見せる。それに気付いて、は改めて言い直した。
「日光浴なら、窓越しで充分よ」
カナリアは、唯一の蒼紫との思い出の品だ。たとえ実の妹であっても触らせたくはない。
否、阿久里ももう夫側の人間なのだ。養女の話を隠している時点で、を裏切ったのだから。だから阿久里には、カナリアを触らせたくはない。
「あなた、此処にいるより、今夜の準備をしないと。あなたにとっても家にとっても大事な夜会なんだから」
とにかく今すぐ、阿久里を追い出したかった。この顔を見ていると、または暴走しそうだ。
「ええ、でも、まだ時間がありますし………」
何を思っているのか、阿久里は出て行こうとはしない。その様子が、を苛立たせた。
「髪を結ったり、お肌のお手入れをしたり、やることは沢山あるでしょう」
できるだけ感情を押し殺して、は言う。
「ええ、でも、お姉様―――――」
そう言ったきり、阿久里は口を噤む。何か言いたそうだが、言うべきか迷っているようだ。
養女の件を切り出そうとしているのだろうか。それにしては、随分と思い詰めた様子である。家の養女になるというのは、阿久里にとっては喜ばしい話のはずだ。養女になっても実家との繋がりが切れるわけでもなく、今井嬢の身分も手に入るのだから。
阿久里は何を躊躇っているのだろう。は嫌な胸騒ぎがした。
「言いたいことがあるなら仰い」
指先が冷えるのを感じながら、それでもは精一杯の虚勢を張る。
阿久里はまだもじもじしていたが、漸く意を決したように強い声で言った。
「くれぐれもおかしなことをお考えなさらぬよう、お願いいたします」
どこか他人行儀なその口調に、は阿久里が全て気付いていることを知った。
あの手紙を読んだのだろうか。読んだとしたら、あの手紙はどうしたのだろう。まさか、郵便局には行かず、そのまま握り潰したのではあるまいか。
実の妹だから信用していたのに、阿久里は初めから夫側の人間だったのだ。夫が蒼紫のことに気付いたのも、阿久里が喋ったからに違いない。
血を分けた人間に裏切られるとは、何ということだろう。阿久里は、血の繋がりより、地位と金を選んだのか。そう思うと、は怒りに震えた。
「裏切ったのねっ?! 信じてたのに! 実の姉を裏切るなんて、なんて子なのっ!」
侍女がいることも忘れ、は椅子を蹴るように立ち上がると、阿久里に掴みかかった。
阿久里のせいで、何もかも筒抜けだったのだ。そして阿久里のせいで、最後の計画まで潰されようとしている。の不幸と引き替えに、幸せを手に入れた娘のくせに。まだを不幸にしようというのか。
「お姉様、やめて!」
阿久里は悲鳴を上げて抵抗する。まるで一方的な被害者であるかのようだ。そんな阿久里の様子が、の怒りに拍車をかけた。
「あんたなんかっ………あんたなんかっ………!」
もはや貴婦人らしい振る舞いも何も無い。は、怒りに任せて阿久里を平手打ちする。
「奥様! 奥様!」
侍女が二人の間に割って入ろうとするが、の勢いに圧倒され気味だ。感情を剥き出しにした貴婦人というのは、侍女には対処できない。
暫く揉み合った後、阿久里は渾身の力を込めて、を突き飛ばした。女学校で体操の授業を受けている阿久里と違い、殆ど外に出ないは、あっさりと倒れる。
唖然としているを見下ろし、阿久里は服を直しながら言う。
「お姉様はお疲れのようですわね。このことはお義兄様には内密にしておきますから」
阿久里の目が、を見下しているように見えた。否、阿久里はを見下している。
夫以外の男と手紙の遣り取りをする女、人目を盗んで男と密会する女と、阿久里はをそう見ているのだ。の気持ちも知らないで。
を踏み台にして幸せを手に入れた女のくせに。血を分けた姉よりも、成り上がり者の味方をする拝金主義者が。
ありったけの憎悪を込めて、は阿久里を睨みつける。
この屋敷には誰も味方がいないのだと思うと、はかえってすっきりした。諦観というのは、こういう感情を指すのだろう。
夫のことも、大事な縁談を控えた阿久里のことも、何もかもがどうでもよくなった。夫は家名に傷を付けるなと言ったが、成り上がって十年やそこらの家に、何の価値があるのか。
乞われて嫁いだものの、夫に一度も愛されることも無く、このまま老いていく人生に価値はない。蒼紫と出会って、は初めて“自分の人生”を発見することができたのだ。これを永遠のものにできるのなら、何だってできる。
あの手紙がきちんと届いて、の思いが伝わったのなら、蒼紫はきっと来てくれるだろう。あの人は、を守ると言ってくれたのだ。
あの時の言葉を、は信じている。あの言葉があるから、の心は静かでいられる。
一階が騒がしくなってきた。夫と阿久里が夜会に出かけるのだろう。
妻であるが留守番であることに屈辱を覚えたこともあったが、今は好きにやればいいと思う。蒼紫に会えるかもしれないと思うからこそ、楽しい夜会だったのだ。彼に会えなければ、夜会には何の魅力もない。
それに夜会に出席できなくても、もうすぐ蒼紫はのものになる。永遠に二人は一緒だ。
は、鳥かごの中のカナリアを見る。二羽並んで動かないところを見ると、眠ってしまったのかもしれない。
こんな狭い世界の中でも、二羽は幸せなのだろう。外敵に襲われる心配も無く、ずっと愛する相手と一緒にいられる。ももうすぐ、そうなるのだ。蒼紫の傍にずっといて、この小鳥のように寄り添い続ける。
「―――――四乃森様」
その名を呟くと、心が安らぐ。夫や阿久里に対する感情さえ、淡雪のように消えていく気がした。
清々しいほど自分のことしか考えてないな、この主人公………。誰が気の毒って、空気のような旦那だ。
メロドラマを目指すつもりが、いつの間にやら胸糞悪さに重点が置かれるようになり………大丈夫です、ラストで清々しくなるはずだから。少なくとも私が清々しくなる(ダメじゃん、それじゃ)。
残り二話、辛抱してください。