風花

風花 【かざはな】 初冬の晴れた日に、わずかに舞う小雪。
 蒼紫へ、最後の手紙を書いた。夜会も外出も禁止、阿久里と話すにも監視付きとなれば、これが最後の手紙になるだろう。
 ただ会って話すだけで幸せだったのに。これ以上のことは望まなかったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
 社交界では、新聞沙汰にならないだけで、多くの人妻がふしだらなことをしている。が知っているのだから、相当な噂になっているのだろう。それなのに何故、だけが咎められなければならないのか。
 彼女たちとの違いは、相手の男が社交界の中の人間か外の人間かということだけだ。それにしても、相手が平民ならともかく、蒼紫は御庭番衆御頭を勤めた、誇り高い士族である。今でこそ成り上がりの平民に使われる立場であるが、血筋なら社交界の人間に劣らない。
 有閑夫人の火遊びではなく、は純粋に恋をしていただけなのに。他の夫人は好き勝手しているのに、自分だけが責められるなんて、理不尽だ。
 けれど、この恋を誰にも汚されないようにするには、これしかない。今はこうして自分の内に封じ込めることでしか、蒼紫への想いを守ることができないなんて、何と無力なのだろうと思う。けれどこれが、今のにできる精一杯だ。
 便箋を丁寧に折り畳み、封筒に入れる。それに蝋で封をして、更に小さく折り畳んだ。
 もうすぐ阿久里の登校の時間だ。阿久里の登校を見送るのも、これで最後になるだろう。
 小さく折り畳まれた手紙を掌の中に入れ、は部屋を出た。





 玄関に下りると、ちょうど阿久里が出ていくところだった。幸いにも、夫の姿は無い。今日、最後の手紙を渡すことを察して、見送りに出なかったのか。
 夫がいないなら幸いである。は阿久里に駆け寄った。
「阿久里!」
 の目的を察したのか、阿久里はびくっと身を震わせる。阿久里も、夫が全てを知ってることに、薄々感づいているようだ。
「帰りに、いつもの婦人雑誌を買ってきてちょうだい」
 明るい声でそう言いながら、は代金を渡すふりをして手紙を握らせる。その感触に、阿久里の表情が強張った。
「これで最後よ」
 周りのメイドに聞こえぬように、は小声で囁く。
 思えば、阿久里には辛い仕事をさせてきた。多感な年頃の娘に不倫な手紙の遣り取りをさせるなんて、彼女の心労はいかほどのものだったか。けれどもう、これで終わりだ。
「ええ、わかりましたわ」
 阿久里の表情に安堵の色が見て取れた。





 夫の様子は、あの日以前と全く変わらない。の様子を探るようでもなく、避けるようでもない。もともと避け合っているような夫婦関係ではあったのだが。
 夫が何を考えているのか、には全く解らない。外との接触を禁止することで、もう大丈夫だと判断したのか。それともを油断させて、再び動いたところを押さえるつもりか。
 どちらにしても、にはどうでもいいことだ。あの手紙で、全てが終わるのだから。あの手紙を読んだ後の蒼紫の行動が、への答えだ。
「阿久里」
 静かすぎる食卓で、夫が初めて声を上げた。
「学校は、どうだ?」
「美術の授業で、水彩画をやっています。巧く描けたら、校内の展覧会に展示されますのよ」
 自信があるのか、阿久里は機嫌が良い。それとも、“最後のお使い”を済ませたことで、気が楽になったのか。
「そうか。選ばれたら見に行きたいものだな」
「ええ、是非いらして。絵には自信がありますの」
 こうして見ていると、夫も阿久里も、と話す時より楽しそうだ。二人の間には独特の空気が出来上がっていて、は完全に蚊帳の外である。
 と阿久里の立場が逆だったなら、それなりの夫婦になっていたのではないかと、想像してみる。そうであったなら、は今よりももっと自由に生きられただろう。蒼紫と結ばれることも可能だったかもしれない。
「ところで阿久里―――――」
 和やかな雰囲気が一変、夫は急に重々しい声になった。
「お前に縁談が来たんだが………」
「えっ?」
 突然の話に、阿久里は顔を紅くした。困惑したようにを見るが、だって初耳だ。
 社交界に出て時間が経つのだから、縁談が舞い込むのは不思議ではない。そのために社交界に出したのだ。健康で社交的で、おまけに伯爵という後ろ盾が付いているのだから、今日まで話が無かったのが不思議なくらいである。
「相手は海軍の少尉だ。ゆくゆくは欧米に行くこともあるだろう。覚えてないかもしれないが、夜会で話したこともある相手だ。あちらのご両親がお前のことを大変お気に召してな。父君は宮内省の政務官、母君は畏れ多くも陛下の従姉妹にあらせられる。良い話だと思わんか?」
 いつになく夫は饒舌だ。最高の縁談だと思っているのだろう。
 たしかに、海外赴任もある海軍は、若い娘の憧れだ。外国人と接する機会も多いから、嘘か本当か、将校は顔が良い者から採用すると聞く。おまけに天皇と縁続きの血筋ともなれば、夫が浮かれるのも無理はない。
「そんな、急に仰られても………」
 何を考える必要があるのか、阿久里は困惑している。
「急な話だったからな。今度の夜会でゆっくり話してみるといい。海軍さんは私と違って美男だから、すぐに気に入るぞ」
 夫は何が何でも話を纏めたいらしく、冗談まで出る始末だ。
「でも私、学校は卒業したいですし………」
「ああ、それなら心配ない。欧米では夫人の教育も見られるからな。今は婚約だけで、結婚は卒業まで待ってくださるそうだ」
「まあ………」
 あまりの話に、関係無いが驚きの声を上げた。
 身売りのようだったの結婚に比べ、阿久里の何と恵まれていることか。血筋の良い美男で、欧米に行く可能性があり、おまけに卒業したいという我が儘まで聞いてくれるなんて、これ以上の話はない。阿久里ばかりが何故、と恨みたくなるほどだ。
 本当に、阿久里が恨めしい。阿久里にばかりかまけている夫もだ。は蒼紫と会うことも文を交わすこともかなわないというのに、この差は一体何なのだろう。
 恥じらうように俯く阿久里を、はじっとりと睨みつけた。





 からの手紙を読み進めるうちに、指先から体温が失われていくのを、蒼紫は感じた。
 伯爵が全て気付いてしまったから、終わりにしたいというのだ。
 相手は人妻であるから、いつか終わりがくることは覚悟していた。しかしこれは最悪だ。
 相手も表沙汰にしたくはないだろうから、伯爵がこちらに何かするということはあるまい。あったとしても、観柳に対して、蒼紫たちを解雇するように働きかけるくらいか。そうなったとしても、別の働き口を探せばいい。根無し草のような生活は慣れている。
 表沙汰にならなければ、家から離縁されることは無いだろう。夫婦間の再構築は難しくても、裕福な生活は変わらない。
 問題は、その続きだ。
 このままでは何をされるか判らないから、伯爵を殺してほしい―――――はっきりとそう書かれていた。
 文字に躊躇いは無い。一息に書いたような筆跡だ。感情任せの勢いではなく、相当な覚悟で書いたのだろう。
 決行の日取り、伯爵の寝室までの道筋も詳細に書かれている。侵入のための出入り口も開けておくとも書かれている。奥様の言葉遊びではなく、これは本気だ。
 がどんな顔で、どんな思いでこれを書いたのかと想像すると、背筋が凍る思いがする。が、同時に、蒼紫とのことはここまで本気だったのかと、改めて思った。
 伯爵が死ねば、は自由の身になれる。蒼紫とのことは相変わらず人目を憚らなければならないが、今よりははるかに自由に会えるようになる。
 伯爵殺害は、露見すれば二人とも死刑だ。しかし、御庭番衆の技術を以てすれば、完全犯罪は可能だろう。このまま手紙を焼き捨てるか、伯爵を手に掛けるか―――――
 貴女をお守りしたかった―――――あの夜に言ったことを真実にする、最初で最後の機会かもしれない。伯爵さえ死ねば、蒼紫がの護衛になることだって、不可能ではない。関係を公にはできずとも、未亡人と護衛として共にいることはできる。
 伯爵暗殺に気持ちが傾いている自分に、蒼紫はぞっとした。明らかに今の自分は狂っている、伯爵さえ死ねば、この世界の全ての問題が解決するような気さえしてきた。
 蒼紫は手紙を細かく破ると、火鉢に炭の上に置いた。白い紙がじんわりと色づき、黒くなっていく。
 決行の日は十日後。黒く焦げた紙を、蒼紫は火箸で黙々と砕き続けた。
<あとがき>
 海軍将校は顔が良いのから選んだというのは、森鴎外の娘の森茉莉が何かで書いてた。真偽は兎も角として、茉莉の最初の夫だった海軍士官は美男だったらしいです(茉莉が自分で言ってた)。
 たしかに東郷平八郎の若い頃の写真は、西洋人風の美男だ。あれにあの制服と、欧米列強国へ赴任ありの条件が付いたら、そりゃあ若い娘さんの憧れだわな(笑)。
 ところで蒼紫、少し冷静になった方がいいぞ。あんまり思い詰めると鬱になるから。
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