凩
凩 【こがらし】 初冬に吹く強い風。
蒼紫との密会は短いものだったが、あの時間があったお陰で、変わり映えしない毎日も楽しく感じられる。蒼紫からの手紙が届くのではないかと、阿久里が帰ってくる時間になると、そわそわしてしまう。近いうちに手紙を書きます、と蒼紫は言ってくれた。周りの目を盗んで出さなければいけないから、の許に届くまでに時間がかかることは解っているが、それでも今日こそは届くのではないかと期待している。
蒼紫との縁を取り持ってくれたカナリアはいつの間にか仲良くなって、小さな篭の中で寄り添う姿も見られるようになった。いつも一緒にいられて、好きなときに寄り添うことのできる小鳥が、心底羨ましい。こんな狭い世界の中でも、好きな相手と一緒なら、毎日が楽しいだろう。
時々、蒼紫と共に暮らす自分の姿を想像してみる。けれど、逢い引きする姿は想像できても、共に生活するとなると、不思議と全く想像できないのだ。
に生活能力が無いことが、一番の原因だろう。料理も洗濯も、家事一切をやったことが無い。働いて金を稼いだ経験も無い。実家が没落してすぐに伯爵の許に嫁いだから、自力で生活するということが無かったのだ。
思えば、自分は本当に恵まれている。夫を愛することはできなくても、苦労らしい苦労をしてこなかったの人生は、傍から見れば幸運続きのものだろう。
私を連れて逃げてください―――――あのときの言葉は、嘘ではない。あの時、蒼紫が逃げようと言ってくれたら、本当に一緒に逃げていたと思う。
けれど今は―――――時間が経って冷静に考えてみると、それはあまりにも無謀なことだったということに気付いてしまった。気付いてしまったら、あの時のように「一緒に逃げて」とは言えない。
はこのカナリアと同じく、夫の保護という篭の中でしか生きられない人間なのだ。この篭から出たら、あっという間に世間の荒波に揉まれて、野垂れ死にするだけだ。篭から出たカナリアが烏の餌食になるように、も誰かの餌食になるのだろう。
そう思うと、今の生活を失いたくないと切実に思った。けれど蒼紫のことも失いたくない。ずるいとは思うけれど、今の生活を維持しながら、蒼紫との関係も続けたい。
蒼紫に対する気持ちはその程度のものかと責められそうだが、そうしなければは生きてはいけないのだ。
金銭的には夫に、精神的な支えは蒼紫に求めるのは、そんなに悪いことなのだろうか。足りない部分を他から補って、本当の幸せを得ることができるのなら、それはそれで効率的なやり方だと思う。
夫婦の形を成してはいても、実際はそれぞれに愛人がいる家庭が意外と多いことを、は最近になって知った。夫だって、メイドだ芸者だと、次々若い女をつまみ食いしているではないか。それなら、もやらなければ損だ。
扉を叩く音がして、メイドの声がした。
「お嬢様がお帰りになられました」
「通してちょうだい」
阿久里が帰宅したら、すぐに伝えるようにと、使用人たちに伝えている。表向きは女学校の話を聞きたいということだが、本当の理由は勿論、蒼紫からの手紙だ。姉妹といえ、こんな時くらいしか二人きりにはなれない。
暫くして、阿久里が部屋にやってきた。
「四乃森様からの手紙は?」
自分でも呆れるくらい、の声は浮ついている。この生活の中で、蒼紫からの手紙だけが楽しみなのだ。
阿久里は少し不機嫌な様子で、
「………はい」
と、白い封筒を差し出した。
恋人たちが遣り取りするにはあまりにも素っ気ないものだが、そんなことはは気にしない。秘密の手紙だからこそ素っ気ない外見にしておかなければならないし、何よりこの素っ気なさが蒼紫らしい。
阿久里の前にも関わらず、は早速封を開けて手紙を読みだした。
内容はいたって簡素で、先日の密会のこともぼやかして書かれている。後に残るものだから、言葉を選んでいるのだろう。そんな文章でも、蒼紫もまたに会いたいと思ってくれていることが伝わった。後で読み返せる愛の言葉が無くても、また会いたいと匂わせているだけで、には十分だ。
「いつまでこんなことをお続けになるの? そろそろお止めになって。もう充分でしょう?」
せっかく幸せな気分に浸っていたのに、阿久里の言葉で台無しだ。哀れっぽい口調も気に入らない。
何を以て充分だと、阿久里は言うのか。蒼紫との関係は、有閑夫人の火遊びではなく、が初めて知った“恋”なのだ。決して結ばれることが無いからこそ、“充分”なんてありえない。
血を分けた姉妹であっても、阿久里にの気持ちは理解してもらえない。いつか、阿久里が嫁いだ時に、理解できるようになるだろうか。否、“伯爵の義妹”は、のような身売り紛いの結婚はしないだろうから、永遠に理解できないだろう。
愛する人からの手紙があるから生きていける、という気持ちは、きっと誰にも理解されない。手紙の遣り取りと短い密会だけでもこの上なく幸せになれるなんて、誰にも解らないだろう。蒼紫を除いては。
「私のことは私が決めるわ。口出ししないでちょうだい」
阿久里の懇願をぴしゃりとはねつける。
何一つ選ぶことのできなかったの人生の中で、蒼紫だけが自分で選び取ったものなのだ。今まで何でも諦めてきたのだから、彼のことだけは諦めたくはない。
再来週の夜会のために、は今から熱心に衣装を選んでいる。次回の出席者はまだ分からないが、蒼紫が来るかもしれないと思うだけでうきうきしてくる。
蒼紫からの手紙に、この前の衣装がとてもよく似合っていたと書かれていた。彼がの衣装について感想をくれたのは初めてだ。きっと、ああいう色が好きなのだろう。それとも、形が良かったのだろうか。
あの時の衣装と似た色のもの、形が似ているものを出して、鏡の前で当ててみる。やはり色だろうか。この系統の色は、顔映りが良いような気がする。
しかし、あの暗がりで、蒼紫に色まで判ったのだろうか。輪郭を見て、形が良いと思ったのかもしれない。
否、蒼紫は元隠密だから、夜目は利くだろう。あんなに接近していたのだから、色もはっきりと判っていたのかもしれない。となると、やはり色か。
考えれば考えるほど、分からなくなってきた。けれど、こうやって選ぶ時間も楽しい。今までは自分の好みだけで服を選んできたが好きな男の好みに合わせた服選びがこんなに楽しいものだとは知らなかった。
鼻歌でも出そうな様子で服を選んでいると、扉を叩く音がした。
「なぁに?」
上機嫌には応える。
「私だ」
夫の声が返ってきた。その声に、の表情がさっと強張る。夫がの部屋を訪れるなんて珍しいことだ。
「どうぞ、お入りになって」
何事かと訝りつつも、は平静を装って応えた。
メイドが扉を開け、夫が入ってきた。
「何事だ?」
何着も出されているドレスを見て、夫は軽く目を瞠った。
「今度の夜会の衣装選びですわ。あなたこそ何事ですの?」
「そのことだが―――――」
そう言いながら、メイドたちに出ていくよう、夫は視線で促す。それに応え、メイドたちは一礼して部屋を出ていた。
「今度の夜会には、阿久里だけ連れていく」
「何ですって?」
夫の宣言に、は耳を疑った。
これまで強制的に夜会に出席させていたのに、一体どうしたのだろう。妻帯でなければ顔が立たぬと言っていたのは、夫だったではないか。
「私が出たくない時には無理矢理出席させて、やっと慣れた頃に阿久里だなんて、どういうことですの?!」
出欠を夫の都合で決められるなんて、しかも代理に阿久里を立てるなんて、には屈辱だ。義理の兄妹とはいえ、の存在が無ければ、他人の男女ではないか。夫は、一回り以上歳の離れた阿久里に“妻”の役割を与えようとしているのか。
「私が欠席で阿久里が代理だなんて、世間がどう見ると思いますの? 阿久里は嫁入り前なんですよ。こんなことで変な噂を立てられたら―――――」
「お前より、阿久里の方が社交に向いている。若いせいか、誰にも臆することがない。それに―――――」
夫はの目をじっと見た。
「下品な勘繰りを入れる人間というものは、自分も同じことをしている人間だ。そうでなければ、そんなことは思いもよらないと思うが、どうかね?」
「それは………」
夫の声に、は言いようのない圧迫感を覚えた。
まさかとは思うが、夫は蒼紫のことを気付いているのだろうか。そんなはずはない。前回の夜会の帰りの馬車の中でも、彼の様子はいつもと変わらなかったではないか。
「それは私に、そういうことをしているとでも仰りたいのですか? 誰が見ても非常識だから、進言差し上げてますのに」
ここで少しでも狼狽えたら、の負けだ。夫が気付いたという確証は無いのだから、強気で言い返す。
ここで負けたら、これからはずっとは屋敷で留守番になってしまうかもしれない。数少ない蒼紫との密会の機会を、こんな訳の分からぬことで潰されるわけにはいかない。
強気のに対し、夫はあくまでも余裕の姿勢で、
「あんなに嫌がっていた夜会なのだから、阿久里に代わって貰うのが、お前にも良いように思うがね」
「確かに前は嫌でしたけど、今は違いますわ。今はどんなに夜会を待ちわびていることか。慣れたら楽しいと思えるようになりましたもの」
「しかし社交には積極的に見えないが? 何を楽しみにしているのかね?」
「ドレスを着ることとか、会場の雰囲気とか、いろいろですわ。社交だって、少しずつですが、奥様方と話しています」
言葉を重ねるごとに、の声は必死なものになる。冷静に話さなくてはと思うのだが、蒼紫に会えなくなるかもしれないと思うと、平静ではいられない。
「奥様方と話、ねぇ………」
夫は皮肉っぽく口の端を吊り上げる。今まで見たことのない、ぞっとするような笑い方だ。
この人は何もかも気付いているのかもしれない、とは初めて血の気が引いた。密会を誰かが目撃して、夫に知らせたのだろうか。蒼紫と会う時は、彼自身も周りに警戒していて、誰かに覗かれていたとは考えづらいのだが。
まだ証拠を出されたわけではない。知らぬ存ぜぬで通せば、まだ逃げきれる可能性はある。
「女同士の話も大事な社交ですもの。というより、女同士で情報を遣り取りすることで、殿方のお仕事がやりやすくなると思いませんこと?」
自分でも驚くほど堂々と、は言い切った。こういうのは強く言った者勝ちだ。変に弱気を見せたら、相手の考えを認めたことになる。
が、夫は怯むどころか、蔑みと哀れみの混じった表情で、
「そのご婦人方との話もそこそこに、何かと口実をつけて席を外しているだろう。お前が何処に消えているのか、私が知らないとでも思っているのか?」
「―――――」
の体温が、氷点下まで下がったような気がした。かじかんだように唇がふるえて、言葉が出ない。
誰かが夫に密告したのだろうか。いや、蒼紫と一緒のところを誰かに見られていたとは考えにくい。阿久里が密告するはずもない。あれだけ夫に知られるのを怖れているのだ。
ということは、夫が鎌を掛けているのか。そうだとしたら、ここで沈黙しているのはまずい。
「何を仰っているのか解りませんわ」
注意深く、は普段通りの声を出す。
「多少のことはお互い様だと思っていたが、人の噂になられては困る。家名に傷が付く前に、自分で何とかするんだな」
この人は何もかも気付いている、と夫の口調で悟った。誰かに聞いたのか、自分で感づいたのかは解らないが、と蒼紫の関係に確信を持っている。
夫がその気になれば、はいつでもこの屋敷から放り出されてしまう。それどころか、姦通罪で告訴されることもあり得るのだ。
夫に離縁されたら、は生きていけない。だけでなく、阿久里たち家族も路頭に迷ってしまう。今更ながら、自分の犯した罪の大きさに気付いた。
夫に許しを乞うべきか。しかし、それをしてしまったら、夫の疑いを認めることになってしまう。何処までも白を切り通すのが得策か。だが、夫が証拠を握っているとしたら、確実に裏目に出る。
どう動くのが最良なのか、は必死に考える。失敗したら、も家族も破滅するのだ。
そんな妻の姿をどう見ているのか、夫の表情から読みとることはできない。いつも通りの無関心な様子で、淡々と宣言した。
「暫くは夜会も外出も禁止だ。あとは自分で考えろ」
それだけ言うと、夫は部屋を出ていった。
というわけで、起承転結の“転”。主人公さん、どうしましょうかねぇ。
これからがラストスパート。本当に書きたいシーンはここから先なんで、主人公さんには悪いが、これから楽しみだ(酷)。