明月
明月 【めいげつ】 清く澄んだ月。
恋というものは、こんなにも世界を変えるものなのかと、は自分でも驚いている。無味乾燥だったはずの世界が、何と華やいで見えることか。世界はこんなにも美しく彩られていたということを、は初めて知った。苦痛なだけだった夜会も、この何処かに蒼紫がいるかもしれないと思うだけで楽しくなる。
今夜もあの人は来るのだろうかと考えるだけで、衣装選びに熱が入るというものだ。あれこれと引っ張り出し、それでも満足できなければ新調したり、今までとは大違いである。
が夜会の出席に積極的になったことは、夫も快く思っているらしい。妻が社交に熱心になれば、夫の人脈も広がる。華族同士の付き合いは勿論、観柳のような新興富裕層との関わりを広げるにも、社交好きな妻というのは都合が良い。
「もうちょっとこう、若々しくしてちょうだい。これじゃあ、いかにも奥様って感じだわ。あ、ネックレスはそれじゃなくて、青い石のにして。それからイヤリングは―――――」
鏡台の前でメイドに髪を結わせながら、は忙しく指示を出す。部屋の中はさながら戦場のようだ。
貴婦人の外出前の風景としてはごく当たり前のものだがに付いているメイドにとっては突然の大事件だ。不慣れな分、余計にばたばたしてしまう。
「お姉様、まだ出来てらっしゃらないの?!」
迎えに来た阿久里が呆れた顔をした。
「女の外出には時間がかかるものなのよ」
悪びれた様子も無く、は涼しい顔だ。
今日の夜会には観柳も出席する。ということは、蒼紫も護衛として来るだろう。そんな席なら、のお洒落に力が入るのは当然のことだ。
より若々しく、より美しく―――――そう思うと、どんなに着飾ってもまだ足りない。蒼紫には、の最高の姿を見てほしい。
そんな姉の姿を見て、阿久里は眉を曇らせた。そしてに近付き、彼女にしか聞こえないような微かな声で耳打ちする。
「あまり派手になさるものじゃないわ。お義兄様に変に思われます」
「そんなことないわ」
は涼しい顔でくすっと笑う。
「私が積極的になって、あの人も喜んでいるくらいよ」
伯爵は、がお洒落に熱心になったことについて、何も言わない。妻が何を考えているかなど関心が無いのだろう。
以前は自分を蔑ろにしていると感じていたその態度も、今のには好都合だ。このまま夫が無関心を貫いてくれれば全てが上手くいく。
阿久里は何か言いたげだったが、アクセサリーの箱を持ってきたメイドに気付いて、その場を離れた。
一寸化粧直しに、と歓談の席を離れ、は会場の外に走った。
「四乃森様!」
いつものように、蒼紫は観柳の馬車の前に立っていた。
周りには誰もいない。空車の前に護衛を立たせるなんて、観柳くらいなものだ。侵入者を防ぐためだろうが、そんなものを警戒するなんて、余程恨みを買っているのだろう。
「差し入れをお持ちしましたの」
娘のような満面の笑顔で、は紙に包んだ菓子を差し出した。
「ありがとうございます」
蒼紫は丁寧に礼を言って受け取る。そして心配そうに、
「こんなところに来て大丈夫ですか? 誰かに見られたら―――――」
「大丈夫です。その時は護衛さんに差し入れに来たって言いますから」
何でもないことのようにはにこやかに答える。
蒼紫はいつも人目を気にしているが、それはきっと職業病のようなものなのだろう。彼が気にするほど、周りはのことなど気にしてはいない。
根拠は無いけれど、二人のことが表沙汰になることは無いと思っている。社交が苦手だった女が、どうして他の男と密会していると想像するだろう。これまでのを知っている人間は絶対に疑わない。
「それならいいのですが………。様のような立場のある方は人の噂になりやすいですから」
「それは……それでも四乃森様にお会いしたかったんですもの」
表沙汰にならないと思ってはいるが、万一のことが起こった時は、噂は社交界中に広がるだろう。姦婦として新聞沙汰になるかもしれない。けれど、そんな危険を冒しても蒼紫に一目会いたかった。
「俺もです」
言葉こそ短いが、蒼紫のその一言には様々な想いが込められているように感じられた。
夫も蒼紫も口数は少ないが、二人の言葉から感じられるものは天と地ほど違う。時勢が違って、この人の妻になっていたら、の人生は大きく変わっていたことだろう。
「様―――――」
蒼紫がの手を取った。
「もし観柳の護衛などしていなければ、死ぬまで貴女をお守りしたかった」
「四乃森様………」
その言葉だけで、は涙が出そうなほど感激してしまう。
二人が結ばれることが無くても、蒼紫がずっと傍にいてくれるのなら、どんなに幸せなことだろう。時々しか会えない今もこんなに幸せなのだ。蒼紫がを守ってくれるとしたら、どんなことでも耐えられる。
けれど、それは叶わぬことだ。元御庭番衆御頭の蒼紫を観柳が手放すわけがないし、伯爵だってそんな大袈裟な護衛を必要とはしないだろう。
こうやって人目を忍んで会うのが、今の二人には精一杯なのだ。互いにそれが解っているから、二人ともこれ以上は何も言えない。
「私はこうやって僅かな時間でもお会いできるだけで幸せですわ。今夜だって、四乃森様がいらっしゃるかもしれないと思うだけで、本当に楽しみでしたもの」
「わかります。お髪もドレスも、以前とは随分と印象が変わられました」
「………………」
思いがけない一言に、は言葉も出せずに顔を紅くする」
夫でさえも言ってくれないことを、蒼紫はさらりと言ってのける。これが計算なら興ざめするところだが、蒼紫はそんな器用な男ではない。だからこそ、こういう変化を指摘してくれるのは嬉しい。
「な……何か失礼なことを言いましたか?」
耳まで紅くして目を潤ませているの姿に、蒼紫は焦って尋ねる。
「いいえ……いいえ………」
何と説明していいのか、には上手い言葉が見つからない。ただ首を振って否定するだけだ。
夫さえ気付いてくれないことを、他人の蒼紫が気付いてくれるなんて、本当にこの結婚は失敗だった。実家のことも阿久里のことも考えずに蒼紫の許に飛び込むことが出来たら、どんなに幸せだろう。
「嬉しくて…本当に……。私、男の方にそんなことを言われるのが初めてで………ああ、もう、どんな顔をしたらいいのかしら」
両手を頬に当てて、は娘のように身悶える。
男の一言でこんなに舞い上がれるなんて、阿久里のような小娘みたいだ。恋というものは、いい大人も小娘のようにしてしまうものらしい。
いい歳をした女が、と自分でも思うが、蒼紫は愛しげにの様子を見ている。そんな目で見つめられると自分が初な小娘に戻ったようで、はますますどんな顔をすればいいのか分からなくなってしまう。
「そのままのお顔でいいと思います」
頬に当てているの手に自分の手を重ね、蒼紫はこれ以上望めないほど優しい声で言う。
その言葉だけで、はこの上ない喜びを感じた。愛する男にありのままの自分を受け入れてもらえること、これこそが女の幸せというものなのだろう。
蒼紫は、の手に触れる以上のことはしてこない。の立場と自分の立場を考えると、それ以上踏み込むのは危険だと考えているのだろう。二人きりで会うことさえ、のような上流夫人なら“密通”と書き立てられる世の中だ。ただでさえ危険な行為をしているのだから、これ上が不利にならぬように気遣ってくれているのだと思う。
肉体的に進展することが無くても、こうやって会って言葉を交わすだけで、は暫くの間は心穏やかに過ごすことができるような気がする。たとえ僅かな逢瀬でも、次に会える日のことを思えば、冷えきった広大な屋敷の中でも生きていける。
蒼紫に出会うまでの人生は、感情を殺し続けて死んでいるも同然だった。けれど今は、蒼紫の前でだけは自分の人生を生きている。
この人と会えなくなってしまうことがあれば、自分は生きてはいけないだろう。この人に会うために今日も明日も生きていけるのだと、は真剣に思う。
「四乃森様―――――」
は真っ直ぐに蒼紫を見上げた。
「このまま私と逃げてくださいませんか?」
「―――――え?」
明らかに蒼紫の動揺が見て取れた。
蒼紫にも蒼紫の立場がある。人妻を攫って逃げたとして、御庭番衆時代からついてきているという部下たちのことはどうなるのか。それが解決できたとしても、二人は一生、世間から後ろ指を指されて生きていくことになる。
現実的に考えたら、どうやっても不可能なことだ。蒼紫のに対する気持ちが本物でも、情熱だけではどうしようもないことがある。
「言ってみただけですわ。いやだ、本気になさって」
は慌てて冗談めかして笑う。その瞬間、蒼紫がほっとしたのを感じた。
悲しいけれど、これが現実なのだ。どんなに想っていても、こうやって人目を忍んで会うのがせいぜい。これ以上のことを望めば、この幸せな時間はたちまち崩れ去ってしまう。
「そろそろ戻らなくては怪しまれてしまいますわね。名残惜しいけれど………」
あまり席を外していては、誰かが探しに来てしまうかもしれない。二人が一緒のところを見られたら面倒なことになる。
「また手紙を書きます。こんなところではなく、明るいところで貴女に会いたい」
その言葉だけで、は胸が一杯になった。蒼紫の手紙を待つという楽しみが出来たのだ。それだけで明日からの希望が持てる。
「待ってますから。本当に、次にお会いできる日を待ってます」
自分でも必死すぎると思うほど真剣な声で、は言う。にとって、蒼紫からの手紙は何よりも心の支えなのだ。
「はい。必ず近いうちに」
蒼紫も周りの隙を見て手紙を書いているはずだから、今日明日というわけではないだろう。それでもきっと書いてくれるだろうことは、蒼紫の生真面目なほど誠実な態度で分かった。
「楽しみにしていますわ」
なるべく重い女に思われないように軽い微笑を浮かべて、は応えた。
主人公さん、何だか盛り上がり過ぎです。年端もいかぬ妹に諭される人妻の姉って、どうよ?
さて、予定では残り三話くらい? せいぜい今の幸せを噛みしめてもらいたいものです。