真澄鏡

真澄鏡 【ますかがみ】 くもりなく、よく澄んでいる鏡。
 一度成功すると敷居が低くなってしまうものなのか、蒼紫と会うことに不安も罪悪感も薄くなったような気がする。阿久里という隠れ蓑のお陰で、夫もの頻繁な外出を疑っていないようだ。
 すべては怖いくらいに上手くいっている。夫以外の男と外で会うことがこんなにも簡単なことだとは思ってもみなかった。これまで躊躇っていたことが馬鹿みたいだ。
「私ね、誰かと会うことがこんなにも楽しいことだとは思ってもいませんでしたの。人と話すのは苦手でしたのに、不思議なものですわね」
 蒼紫に出会う前のは、誰かと親しくなりたいと思ったことも無かった。来客を接待したり、夜会で社交をすることさえ苦痛だったほどだ。蒼紫と出会って、こんなにも自分はお喋りだったのかと驚いている。
「とてもそうは見えませんが………。貴女はよくお話しになる」
 どう応えたらいいか困ったのか、蒼紫は苦笑する。
「まあ」
 調子に乗って喋りすぎたかと、は顔を紅くした。
 そういえばいつもが喋っていて、蒼紫は常に聞き役だ。会話というものに慣れていないせいで、相手の話を聞くということを忘れていた。
「ごめんなさい。私ばかりお喋りしてしまって………」
「いえ、俺は話すのは苦手ですから。様が話してくださると助かります」
「そう言っていただけるなら………」
 蒼紫の口調は優しくて、その言葉に嘘は無いと思う。けれど、あまり一方的に話すのは良くないと反省した。
「四乃森様は武田様のお宅にどれくらいいらっしゃいますの?」
 いつもばかりが話していて、蒼紫のことを何も知らないことに気付いた。自分から話さないのは話したくないからなのかもしれないが、そうでないのなら知りたい。
「今年に入ってからです。それまではいろいろな所を転々として……漸く落ち着いたところです」
「そうでしたの………」
 明治になって、多くの幕臣が職を失った。蒼紫も世が世なら旗本相当の扱いを受けていただろうに、今は怪しげな実業家の護衛である。
 各地を放浪している間も、かつての身分では思いもよらない扱いを受けたこともあっただろう。それを想像すると、は胸が潰れる思いがする。
 しかし、親の代からの身分を継いだだけの者なら兎も角、御庭番衆御頭として文武両道に優れた人間が、こんなと頃で捨て置かれるものなのだろうか。幕臣といえど、新政府の要職に就いた者はいる。蒼紫ほどの男に声がかからぬわけがない。
「新政府の下で働こうとはお考えになりませんでしたの?」
「俺一人なら誘いの口はあったのですが、部下がいますから。御庭番衆の外では生きていけぬ部下を見捨てて、自分だけ仕官するわけにはいきません」
 蒼紫の様子は淡々としたものだが、そう決意するまでには並々ならぬ葛藤があったことだろう。それでも今の道を選んだのは、御頭としての責任感か。
 臣を見捨てて逃げ出した将軍もいるというのに、なんと立派な人物なのだろう。その高潔な人柄に、は深く感動した。
 やはりの目に狂いは無かったのだ。あんな無学な夫ではなく、蒼紫に心引かれてしまうのは、当然の成り行きだったのだ。
「四乃森様―――――」
 感極まって、は蒼紫の手に自分の手を重ねる。
「部下の方、きっとお幸せでしょうね」
「だと良いのですが。俺の方が支えられているような気がします。彼らがいなければ、無血開城の時にどうしていたか………」
 当時のことを思い出したのか、蒼紫は遠い目になる。
 あの時、江戸城の中で何があったのか、は知らない。粛々と明け渡しが行われたとしか聞いていないが、その裏では様々なことがあったのだろう。
 蒼紫がそのとき何を思ったのか訊いてみたかったが、やめた。それはきっと、同じ時を共にした者しか踏み込めないことだ。
「そうやって思い合えるなんて羨ましいですわ」
「そうですね。何もかも失いましたが、信頼できる部下を持てたというのは幸せなことだと思います」
「ええ、本当に………」
 何もかも失っても誇り高く生きていけるのは、自分のことを信頼して付いてきてくれる者がいるからだろう。そして蒼紫も、部下たちを全力で守ろうと思っているから強くいられる。信頼し会える相手がいるというのは素晴らしいことだ。
 にはそんな相手はいない。夫にとっては“装飾品の妻”であり、実家にとっては“資金を引き出す娘”だ。誰もの心の内を知ろうともしない。知ったところで頭ごなしに否定されるだけだろう。現に、阿久里は暗にを非難している。
 何も持たなくても、ただ心から寄り添える相手がいることが羨ましい。そんな相手がいれば、どんな辛いことも悲しいことも乗り越えることができるだろう。もそんな相手が欲しかった。
「私にもそういう人がいれば、今と少しは違っていたかもしれません」
 目を伏せ、は独り言のように呟く。
 本当なら、夫が“そういう人”になる相手だったのだろう。せめて子供がいれば違っていたのかもしれないが、もう望むことはできないだろう。自身、夫の子を生むということが想像もつかない。
「それは……これから探せばいいと思います。必ず見付かりますから」
 蒼紫が力付けるようにの手を握り返す。
 こうやって大きな手に包まれていると、自分の中で張り詰めていたものが崩れ落ちそうになる。ただ手を握られているだけなのに、何故か涙が出そうになった。
 この人になら心の内をすべて話せそうな気がする。否定もせず、非難もせず、ただ黙ってを受け入れてくれそうな気がする。信頼というのがどんなものかには解らないけれど、蒼紫にならすべてを晒け出しても良いと思えた。
「そうですわね。これからなら、きっと―――――」
 今まで信頼できる相手がいなくても、これから作ることができればいい。蒼紫と出会ったお陰で、は少しずつ変わってきているのだ。彼が傍にいてくれるなら、の“これから”はいくらでも変えられる。
 こうやって前向きに考えることができるようになったのも、蒼紫と会うようになってからだ。自分の身の不幸を嘆くだけだった女が希望を持てるようになったのも、蒼紫のお陰だ。は以前よりも確実に強くなっている。
「私、四乃森様のお陰で変われるような気がしますわ」
 は視線を上げ、蒼紫の目をじっと見詰めた。





 今日は少し話しすぎたようだ、と蒼紫は思った。
 いつもはの話を黙って聞いて、たまに相槌を打つくらいだったのだが、今日は般若たちにも話したことの無い心の内まで話してしまった。部外者だからと油断していたのだろうか。
 否、油断などではなく、誰かに聞いて欲しかったのだろう。部下には弱味を見せられないが、なら大丈夫だと無意識に判断したのか。
 無意識にしても、どうしてそんな判断を下したのか、自分でも解らない。部外者だからとか、般若たちと話すことは無いからとか、そんな安直な理由ではないと思う。だが、信頼とも違う気がする。
 蒼紫にとって、信頼という者は共に任務を遂行する仲間に向けられるものだ。のような貴婦人に向けられるものではない。それならこの心境は何なのだろう。
 に対しては、孤独を慰めたいとか、支えたいとか、そういう感情を抱いていることは認める。要するに守るべき相手だ。そんな相手に自分の弱味を見せるなんて、どうかしている。
 否、どうかしているのは今更か。人妻であると密会を繰り返している時点で人としておかしい。
 これまでの蒼紫なら、相手が孤独であろうが何だろうが、一切構わなかったはずだ。なのに今回は、の傍にいて支えたいと思っている。彼女をあのまま捨て置いている伯爵に憤りを覚えるほどだ。
 全くの他人であるに対して何故そこまで思うのか、蒼紫は自分でも解らない。この感情は何なのだろう。
 この感情に一番近いのは、“恋”というものなのだろう。支えたい、守りたい、頼られたい―――――そんな感情を全て纏めて恋と呼ぶらしい。
 人妻に対してそう思うことが道に外れていることは解っている。もしこのことが世間に知られれば、蒼紫もも破滅だ。部下たちも巻き込んでしまうだろう。
 引き返すなら今しかない。いつもそう思っている。けれどのあの目―――――縋り付くようなあの眼差しを思い出すと、今更退くことはできない。
 否、彼女のせいにするのは卑怯だ。彼女が信頼し会える相手が欲しいと言った時、自分がそうなりたいと思った。蒼紫は確実に、に惹かれている。
 多分このまま破滅するその日まで、蒼紫はに会い続けるだろう。彼女を攫って逃げる勇気が無いのなら、結末は解りきっている。
 蒼紫だけの問題であれば、そうなることも構わないが―――――

 蒼紫様、くれぐれも―――――

 般若の諭すような声を思い出す。
 本当に守るべきものは何なのか、蒼紫は自分に問いかけた。
<あとがき>
 一度の成功体験で自信を付けるのはよくあることですが、これは自信付けちゃいかんだろう。
 それにしても蒼紫うざい………。縁並みにウザい………(笑)。
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