月影

月影 【つきかげ】 月の光、または月の光で照らし出されたものの姿。
 舞踏会の帰りというのは、いつも気だるい。
 狭い世界の中のつまらない噂話や社交は、が元々いた世界にもあったから慣れている。けれど今の彼女が住む世界にいるのは知性も教養も無い成り上がり者ばかりで、そんな者たちを相手にしなければならないことが何よりも苦痛なのだ。
 御一新以来、世の中は信じられないほど変わってしまった。三百年も続いた徳川幕府が瓦解し、同時にの家も全てを失った。生まれた時から姫様と呼ばれ、多くの侍女に傅かれていた生活は一夜にして消え失せ、最後まで幕府側に付いていたの一家は無一文で新しい時代に放り出されてしまったのだ。
 没落した大名や旗本の奥方や姫君が今では吉原の遊女になっているというのも、時代の流れなのだろう。そういう奥方や姫君を好んで買う成り上がり者の話も、の耳に入ってくる。彼女の知っている没落旗本の娘も、先日遂に吉原に身売りしたそうだ。
 そういう境遇に較べれば、はきっと恵まれた方なのだろう。御一新のドサクサで華族に成り上がった男の妻に納まり、“奥方様”と呼ばれる身分なのだ。かつての敵とはいえ、の一家が裕福に暮らせるのも、この男のお陰だ。
 けれど今の生活が幸せかと問われると、それは違うと思う。は夫を愛していないし、夫も恐らくを愛していない。正妻を飾り物として置いて、惚れた女を他所に囲うのは珍しくない話だから不幸だとは思わないが、金で買われた妻というのは幸せなものではないだろう。
 地位と金を手に入れた人間が次に欲しがるのは、血統だ。代々将軍の側用人として仕えてきたの家は、下級武士だった夫にとっては喉から手が出るほど欲しい“高貴な血筋”だったのだろう。との結婚に際して、彼は目玉が跳び出るほどの大金を結納金として提示し、彼女の家族の生活も保証すると言ってきたのだ。
 遊女になるよりは遥かにマシだろうとは思うけれど、これだって一種の身売りだ。自分の生活を潰した側の人間に嫁いで、こうやって飾り物の妻としての生活は、決して幸せなものではない。
 小さく溜息をついたが、向かいに座る夫に気付く様子は無い。基本的に彼は、自身には興味は無いのだ。こうやって妻として夜会に出席してくれれば、それで良いと思っているのだろう。
 と、馬が甲高く嘶いて馬車が急停止した。
「きゃっ………!」
「何だっ?!」
 夫が慌てて馬車の扉を開けると、数人の男が御者に斬りかかっている姿が見えた。
 強盗だ、とが思った刹那、男の一人が馬車の中に押し入ってきた。男の右手に、抜き身の短刀が月明かりを受けて光る。
「何だ、貴様らっっ?!」
 夫が恫喝するが、当然男が怯むわけがない。男は夫の腹に短剣を突き立てた。
「きゃぁあああああああっっっ!!」
 血飛沫での目の前が一瞬真っ赤になる。
 夫が刺されたら、次はだ。こんな所で死にたくはない。此処で夫もも死んでしまったら、実家への援助も止まってしまう。自分だけは絶対に死ぬわけにはいかない。
 が、悲鳴を上げて倒れたのは夫ではなく、強盗の方だった。短刀を握った右手を切り落とされ、獣のような悲鳴を上げてのた打ち回っている。
 強盗の代わりに立っていたのは、襟の大きな奇妙なコートを来た長身の男だった。その手には血塗られた小太刀が握られ、どうやらこの男が助けてくれたらしい。
 目の前の展開が速すぎて、の理解が追いつかない。夫も同じらしく、唖然として立ち尽くしていた。
「ご無事ですか、伯爵」
 長身の男の後ろから、別の男の声がした。こんな騒動の後なのに、落ち着きを払った声だ。
 男は、今夜の舞踏会に一緒に出席していた武田観柳とかいう男だった。最近急成長している実業家らしいが、詳しいことは誰も知らないという胡散臭い男だ。
 馬車の中の二人が警戒して身を硬くしていると、観柳は二人を安心させるためか両手を広げて言った。
「大丈夫ですよ。表の狼藉者はこの御頭が全て退治しましたから。偶々あなた方の後ろを走っていましたら、こんなことになってましたからね、お助けしたというわけです」
「あ……ああ、感謝します。ありがとう」
 流石よりも夫の方が回復が早かったのか、辛うじてそれだけ応える。
「御者の方が殺されてしまっては、この馬車は使えないでしょう。狭いですが、私の馬車で御屋敷までお送り致しますよ」
「何から何までありがとうございます」
 観柳の申し出に、夫は帽子を取って軽く会釈すると、馬車を降りた。
 はというと、まださっきの恐怖から立ち直ることが出来ずに立ち尽くしている。身体が小刻みに震え、足を動かすことも出来ない。
 妻が自分の後に降りてこないことに気付いて、夫が怪訝な顔で振り返る。
「どうした?」
「あ……足が………」
「ああ、動けなくなりましたか。御頭」
 真っ青なの顔を見て、観柳が御頭を促した。
「失礼」
 それだけ言うと、御頭はひょいとの身体を横抱きに持ち上げた。突然視界が高くなって、今度は声も出ない。
 馬車から降りると、それまで暗くてよく見えなかった御頭の顔が、月明かりを受けてはっきりと見えた。
 強盗を一人で成敗したというからどんなに厳つい男なのだろうと思っていたが、予想外に若くて伊達男風では驚いた。けれど人を殺したというのに全くの無表情というのは、きっとそういうことに慣れているのだろう。
 観柳は“御頭”と呼んでいるが、一体何の御頭なのだろう。あの男はヤクザ者を集めて私兵団を作っているという噂を聞いたことがあるが、その御頭なのだろうか。しかしを抱き上げている男にヤクザ者のような雰囲気は感じられない。ヤクザ者にしては品性を感じるし、若い割には威厳もある。どちらかというと武家の人間に近いが、それも微妙に違うような気もする。
 早い話、何とも素性の知れない男だ。立ち居振る舞いを見れば、その人間がどういう育ちなのかおおよその見当が付くものだが、御頭に限っては全く解らない。一体この男は何者なのだろう。
「何か?」
 あまりじろじろ見すぎたらしい。御頭がの顔を見た。
「いえ………」
 咄嗟に顔を伏せただったが、一瞬だけ見た正面からの顔は何処かで見覚えがあった。何処で見たのかは、霞がかかったように思い出せないのだが。
 何処かの夜会で見かけたことがあるのだろうか。観柳の護衛なら、その可能性はある。しかし観柳が社交界に出入りするようになったのは最近の話で、そんな最近に会った人間のことを忘れてしまうものだろうか。ということは、もっと昔に会ったことのある人間ということか。
 一体何処で会ったのだろう。頭の中がもやもやするような厭な気分になりながら、は観柳の馬車に乗せられた。





 馬車の中でもずっと、は御頭と何処で会ったのか考えていた。この謎が解けない限り、家に帰っても眠れないような気がする。
 観柳が出席した夜会でないのなら、その前―――――違う誰かの護衛をしている時に会ったのだろうか。しかし考えてみれば、夜会の場に護衛を同伴させるなんて無粋な人間はいない。
 ということは、違う場所で見かけたのか。否、それはまず無いだろう。は長いこと街中を歩くということをしていないし、買い物も商人を家に呼んでいるくらいなのだ。出かける先は自ずと限られてくるし、その先で護衛に会うという可能性は低い。
 そうなると、可能性があるのは娘時代の頃か。幕末の頃も出かける機会は少なかったが、それでも今よりは外に出ていた。侍女を連れて町に出ることもあったし、父親の伝で将軍や御台所主催の野点に出席したこともある。
「―――――あ」
 思い出した。御頭は御庭番衆の一員だ。“御頭”とは御庭番衆の御頭を指していたのか。たしか名前は四乃森蒼紫とかいったと思う。
 思い出した途端、霧が晴れたように当時のことが次々と思い出された。
 あれは確か、将軍主催の野点に参加した時のことだ。厠に立って戻り道が判らなくなって往生していたところを、蒼紫が案内してくれたのだった。あの時はまだ少年だったと思うが、あれからすぐに御頭になったのだろうか。
 あの頃に比べれば随分と背も伸び、顔つきも変わってしまったが、それでもあの頃の面影はある。あの時の少年はこんな大人になっていたのかと、は懐かしい気持ちになった。
 しかし御庭番衆御頭まで勤め上げた人間が、どうしてこんな胡散臭い実業家の護衛などしているのだろう。御頭になるほどの器量の持ち主なら、新政府からの仕官話もあっただろうに。
 それとも旧体制で御頭にまで上り詰めたからこそ、逆に危険な人間だと弾かれたのだろうか。それとも新体制下で働くのを潔しとしなかったのか。一体どんな理由で彼は此処にいるのだろう。
 一昔前ならこんな所にいるはずのない蒼紫と、身売り同然の結婚するはずのなかった自分は同じ種類の人間だと、は思った。どちらも一見時流に乗れたように見えながら、本当は負け組みだ。
 そう思ったら、目の前のこの男が急に近しい存在に感じられた。彼ならきっと、今のの境遇を誰よりも解ってくれるだろう。一度、彼と二人で話してみたい。何とかしてその機会を作れないだろうか。
 の中でずっと押し殺していた感情が目覚めていくような気がした。強盗に襲われた恐怖で精神状態が戻っていないせいで錯覚しているのかもしれないが、そんなことはどうでも良かった。
 何とかして蒼紫と話をしたい。何か良い方法はないだろうかと、は考えを巡らせた。
<あとがき>
 以前からやりたかった死にネタシリーズを始めました。時間的には、剣心が観柳邸に乗り込む前です。
 シリーズ物なのに読む前から落ちが判ってしまうのは如何なものかとは思うのですが、死にネタというのは駄目な人は本当に駄目なジャンルのようなので、注意書きを付けさせていただきました。まあ、死に至るまでをあっと驚く展開にすれば良いだけなんですけどね。問題は、引かれないかということだけなんですが。
 このシリーズも縁の別れドリームと同じく、4話程度で終わる予定です。それでは最後までお付き合いお願いいたします。
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