兎のお姫様
仔兎になってしまったを抱えて件の占い師のところに走った斎藤だったが、占い師は大したことでもないように、斎藤の時と同じような説明をした。斎藤の時との違いは、彼は24時間で自動的に人間の姿に戻ったが、の場合は彼女が心の底から納得できる「好き」を斎藤が伝えられなければ、一生兎の姿のままらしい。解決法は得られたものの、が納得する「好き」というのが判らない。占い師は微笑むだけで何も言わないし、自身も不思議そうに首を傾げるだけで、何の具体的な策も立てられないまま、二人は家に戻った。
どう見ても、は仔兎である。ふわふわの薄茶色の毛に覆われた、掌に乗りそうなくらい小さな兎だ。斎藤の兎と並んでいるところを見ると、その小ささは余計に際立つ。
斎藤がガマ蛙というのは兎も角、がふわふわの仔兎というのは、いかにも彼女に相応しいと斎藤は思う。本人も兎にされて嫌そうな様子は無いし、それどころか楽しげに兎と戯れていて、こういう人生もアリなのではないかと一瞬思ってしまうくらいだ。勿論、本当にそんなことになってしまったら、二人とも困ってしまうわけだが。
突然の小さな来訪者に、最初は兎も戸惑ったようにの匂いをふんふんと嗅いでいたが、何となくいつも可愛がってもらっている相手だと理解したのか、今では楽しそうに彼女の相手をしている。
「斎藤さん、兎さんがお腹空いたって言ってますよ」
口をもごもごさせている兎を見て、が斎藤に言う。
「ああ、もうそんな時間だったな―――――って、お前、兎と喋れるのか?!」
つい聞き流してしまいそうになった斎藤だったが、事の重大さに気付いてぎょっとした声を上げた。
あの兎のお喋りは、斎藤も満月の夜ごとに聞かされているから、その内容のとんでもなさは身に沁みてよく解っている。今日は斎藤が聞こえないのをいいことに、兎があの調子で喋ったとしたら―――――
斎藤は慌てて兎を小脇に抱えると、隣の部屋に入って襖を閉めた。そして兎と目線を合わせて、
「お前、あいつに妙なこと言ってないだろうな?」
柄にもなく焦って低い声で問う斎藤に、兎は動じる風でもなく、目だけでにや〜っと笑った。こういうときに限って口を利かないものだから、その笑いが何を意味しているのか解らなくて、斎藤はますます焦ってしまう。
の様子から察して、多分まだ兎は斎藤が心配するようなことは言っていないだろう。しかし、今後はどうなるか解らない。兎の理屈でに“名案”を与えたり、それどころか斎藤についてあることない事喋ったりしたら大変だ。
血相を変える斎藤の様子が可笑しいのか、兎はにやにや笑うのをやめない。大方、飼い主の弱味を握ってやったと思っているのだろう。可愛い形をしているが、可愛くない兎である。
兎はもぞもぞと身を捩って畳に飛び降りた。そして掴まえようとする斎藤の手を軽やかに逃れて自分の手で器用に襖を開ける。
「おい、こら………!」
引き止めようとする斎藤を兎は振り返ると、もう一度意味ありげににやりと笑って、の所に走って行った。そして、彼女の顔に自分の顔を寄せて、もそもそと口を動かす。
何を言っているのかと内心びくびくしながら斎藤が様子を窺っていると、が楽しそうにぱたぱたと耳を動かしながら楽しそうに言った。
「斎藤さん、兎さん、今日は人参と小松菜が食べたいそうです。それと林檎。林檎は兎林檎にして下さいって」
「はぁ?! 俺が切るのか?」
以前、が兎林檎を作って与えたのを気に入っていたらしい。斎藤もやってできないことはないだろうが、あんなものを包丁でちまちま作るなど、面倒臭い。大体、どんな切り方をしても林檎は林檎ではないか。
面倒臭そうにぶすっとしている斎藤に、は続けて言う。
「だって、私は包丁使えないでしょう? ………え? 何? 面白い話?」
兎がまた口をもごもごさせて、は興味深そうに耳をぱたぱたさせる。
「あーっ! 分かった、分かった!! 兎林檎にしてやるから、買いに行くぞ!」
兎の声を遮るように大声を出すと、斎藤はを片手で掴み上げる。これ以上兎と話をさせたら、とんでもないことになりそうだ。
仔兎を連れての買い物は少々恥ずかしいが、かといって兎と二羽で留守番をさせたら、ここぞとばかりに兎が無駄口を叩くに決まっている。しょうもない“名案”を喋るだけなら兎も角、に知られたくない斎藤の秘密の姿を暴露されたら、目も当てられない。
「斎藤さん、兎さんの話、途中なんですけど」
「兎の話なんか、下らないに決まってる」
兎の“面白い話”を気にするを抱え直して、斎藤は話を打ち切るように言い切った。
斎藤のような悪人面の男が小さな兎を抱いて外出というのは、やはり周りから見て異様なものらしい。すれ違う通行人がいちいち驚いた顔をしたり、ぎょっとした顔をしている。兎のような可愛らしい生き物は、若い娘が連れていてこそ絵になるもののようだ。
しかし、周りの好奇の視線に晒されてもは全く気にならないのか、上機嫌だ。いつもと違う高さの目線というのが楽しいのかもしれないが、それよりも斎藤に抱っこされての外出というのが嬉しいらしい。これこそ兎の役得だ。
「ねえ、斎藤さん。私たちの夕御飯は何にします? 私、兎だから、口の周りがベタベタになるのは駄目ですね。何が良いかなあ」
「あんまり喋るなよ。誰かに聞こえたらどうするんだ」
上機嫌に喋るに、斎藤が小声で窘める。いつもと違うのが楽しくて饒舌になる気持ちは解るが、誰かに喋っているところを聞かれたら大変だ。
窘められても全く堪えた様子は無く、は相変わらず弾んだ声を上げる。
「大丈夫ですよぉ。
あ、薫ちゃんたちだ!」
「げっ………」
ピンと耳を立てるの視線の先を見て、斎藤は思わず締め上げられるような声を上げた。そこには剣心と薫と左之助と弥彦が歩いていたのだ。どうやら彼らも夕飯の買出しらしい。
どうしてこういう調子の悪い時に限って、彼らは纏まって姿を現すのか。しかもこの辺りは斎藤の生活圏内で、神谷道場からはかなり離れているというのに。狙って登場しているとしか斎藤には思えない。
気配を消してやり過ごそうとした斎藤だったが、運悪く剣心に見付かってしまった。
「お、斎藤ではござらんか。この辺りに住んでるんでござるか?」
こっちに来るな、と怒鳴りつけたかったが、斎藤はその衝動を押し隠していつものふてぶてしい表情を作る。
「ああ」
「あら、可愛い。あの兎さんの子供?」
薫が目ざとくの存在に気付いた。女というものは、すぐこういう可愛いものに反応するものらしい。
「えへへ〜。あたしだよー。兎になっちゃったの」
薫がびっくりすることを期待して、は楽しそうに耳をぱたぱたさせながら言う。
が、薫は全く驚く様子を見せず、楽しそうにの頭を撫でるだけだ。横から弥彦も手を伸ばしてきて、ふわふわの毛に触っている。
「お前が兎を飼うなんて意外だなあ。名前、付けてるのか?」
心の底から本物の兎だと信じているような様子で、弥彦が尋ねる。
初めは恵から事情を聞いているのかと思った斎藤だったが、弥彦の言葉で恐ろしい結論に至った。どうやらの声は、斎藤にしか聞こえていないようなのだ。ということは、ひょっとしたら、そのうち彼にさえの声が聞こえなくなる日が来るかもしれない。
驚きで、斎藤とは愕然として硬直してしまう。言葉も出ないに代わって、斎藤が掠れた声を出した。
「名前って………お前ら、の声が聞こえないのか………?」
「“”って、お前、あの嬢ちゃんの名前を付けてるのかよ? 女学生か?」
斎藤の言葉に、左之助がさも可笑しげに噴き出す。の声が聞こえない彼らにとっては、斎藤が年下の可愛い恋人の名前を付けた兎を、に会えない時に彼女に見立てて可愛がっていると見えているのだろう。
そんな気持ち悪い姿を想像されているなど甚だ不本意なことだが、誤解を解くことも怒ることも忘れて、斎藤は呆然とするのだった。
どうやって家に帰ったのか思い出せないが、林檎を買うのは忘れていなかったらしい。今、斎藤はと兎のために兎林檎を作っている。
あれからは、はしゃいでいたのが嘘のように塞ぎこんでしまって、兎が何やら構おうとしても部屋の隅でじっとしている。漸く事の重大さに気付いたのだろう。それは斎藤も同じことなのだが。
可愛い仔兎に変身してしまった時は焦ったものの、は斎藤に抱っこされて移動するということに満足して非常に喜んでいたし、斎藤は斎藤で兎になったところで今までと何も変わらないと呑気に構えていたのだが、もうそんな悠長なことは言ってられない。一刻も早く人間に戻さなければ、本物の兎になってしまうかもしれないのだ。
とはいえ、“が納得する好き”がどういうものか、斎藤には見当もつかない。ただ「好き」と言っただけでは納得しないだろうし、今の状況では如何にもを元に戻すための方便にも聞こえかねない。
どうしたものかと考えつつ、斎藤はの居る部屋に入った。
「ほら、兎りんごが出来たぞ。とりあえず食え」
「………いいです」
部屋の隅っこで茶色い毛玉のように丸まっているが、暗い声で応える。
「そんなこと言わずに食え。後で腹減るぞ」
そう言いながらの傍に皿を置いた時、彼女の体が小さく震えているのに気付いた。小さく洟を啜る音も聞こえてきて、どうやら泣いているらしい。
「泣いてるのか?」
斎藤が両手でそっと抱え上げてこちらを向かせると、は顔を隠すように俯いた。
自分の声が斎藤にしか聞こえていないという事実を突きつけられて、も今更ながら混乱しているのだろう。斎藤の時と違い、他人からはただの兎としか見えないというのは、自分の存在が消し去られつつあるという危惧を覚えるものなのだろう。
たとえの声が斎藤にしか聞こえないものでも、いつか声が聞こえなくなる日が来たとしても、彼にとって目の前の仔兎がであることは変わらないことだが、彼女にとってはきっと違う。兎の身ではいつか斎藤が自分以外の女のところへ行ってしまうのではないかと怯えているのかもしれない。
だから斎藤は、を慰めるように優しく言う。
「一生兎のままってことは無いから安心しろ。ちゃんと元に戻してやるから」
「でもぉ………」
しゃくり上げながら、はぐすぐすと鼻を鳴らす。
斎藤は元々、「好き」という感情を表に出すのが苦手な男だ。から何か言っても、照れて怒ったような顔をするだけで、言葉を返してくれることは無い。そんな彼が、どうやってが納得するように「好き」を言葉に表してくれるというのだろう。
「あたしがずっと兎のままで、声も聞こえなくなったら、斎藤さん、あたしがあたしだってこと忘れちゃう………」
「忘れるわけないだろう」
苦笑して、斎藤は鼻紙での洟を拭ってやる。ずっと姿が兎でも、たとえ声が聞こえなくなってしまっても、がであることを忘れるわけがない。人間の姿でも兎でも、斎藤にとっては可愛いままだし、言葉を交わせなくなったとしても心が通じ合っていればそれで良い。
斎藤にとって、は何よりも大切な存在だ。誰にも触れさせずにこうやって掌の中に入れておきたいくらい可愛い。斎藤が手を出さないのをが不満に思っているのは薄々感じていたし、だから彼女は彼の気持ちを試そうとまで思い詰めてしまったのだろうが、大切すぎて何も出来ないという「好き」だってあるのだ。
手の中で泣き続けるにどうやってこの「好き」を伝えたら解ってくれるのだろうと、斎藤は考える。たとえば接吻をしてが満足するなら、いくらでもする。それ以上のことだって、したい。けれど、そんなことをすれば、結局はそれで表現できる程度の「好き」になってしまいそうだし、それ以上にそうしてしまえば歯止めが利かなくなってしまいそうな自分が怖い。
「お前が一生兎でも、俺はずっと傍にいるから。お前のことを忘れたりしないし、他の女のことも好きにならないから」
あやすように体を撫でてやりながら、斎藤は優しく言う。けれどは激しく首を振って、
「兎じゃ、恋人らしいことは何もできないじゃないですか。兎さんみたいに斎藤さんにお世話してもらうだけで、あたしは何もしてあげられない………。そんなんじゃ、斎藤さん、きっと他の女の人のところに行っちゃう………」
今でさえは、斎藤が彼に似合いそうな大人の美人に取られるのではないかと不安でたまらないのだ。子供っぽくて手のかかるの相手が嫌になって、普通の恋人のようにできる大人の女と付き合うようになるのではないかと怖くてたまらない。人間の時でさえそんな心配をするのだから、兎の体になってしまったら尚更だ。
勿論、斎藤のことを信じていないわけではないけれど、でも恋人として確かな関係が無いのは不安でたまらない。人間の時でさえ何も無かったのだから、兎になってしまってはきっと、もっと恋人らしいことはできなくなってしまう。そうなってしまったら、斎藤が他の女に目を向けてしまっても、には責めることすらできないのだ。
「何もしてくれなくても良いんだ。お前が泣かずにいつも楽しそうにしてくれていれば、俺はそれで良い」
「でもぉ………」
斎藤は優しく言ってくれるけれど、それはを慰めるための言葉だとしか思えない。楽しそうにしているだけで良いなんて、それで満足できるわけがない。少なくともはそう思えない。
だって、斎藤が一緒にいて楽しそうにしてくれるのを見るのは嬉しい。だけどそれだけじゃ足りなくて、いつも何かを心の中で要求している。手を繋いで歩いて欲しいとか、また頬に口付けて欲しいとか。それをしてくれたら、また違うことをして欲しいと強く望むようになる。「好き」というのは、そういうことだとは思っている。斎藤は違うのだろうか。
考えれば考えるほど解らなくなって、はまたぐすぐすと泣き続けるのだった。
結局人間に戻れないまま、夜になってしまった。斎藤は明日また話し合おうと優しく言ってくれたけれど、内心鬱陶しいと思っているのではないかと、は不安になる。
最初は兎になって斎藤に抱っこしてもらったりしたのが嬉しかったのだが、本当の兎になってしまうかもしれないと思うと、どんどん悪い方へ悪い方へと考えてしまう。斎藤の優しささえも疑ってしまう自分が悲しくて、は毛布の中で声を殺して泣き続ける。
斎藤はもう眠ってしまっているのか、布団の中で動かない。兎になってさえも一緒に寝てくれることは無くて、それもには悲しい。彼が抱っこして寝てくれたら、少しはこの気持ちも和らいだかもしれないのに。
考えてみれば、いつも求めているのはばかりで、斎藤は何も求めてきはしない。ただ、がお喋りをしたり、楽しく振舞っているのを、優しく見詰めるだけだ。が楽しくしていることで斎藤も楽しいと思ってくれるのは嬉しいけれど、何も求めてくれないのは寂しい。まるで、だけが斎藤に夢中になっているみたいではないか。
『さん』
今までのことを思い出して泣くに、兎が声を掛けてきた。見上げると、兎は段ボール箱に前足をちょこんとかけて、顔だけ出している。
『斎藤さんの気持ちも解ってあげてくださいよ。あの人もあの人なりに、さんのことが好きで好きでたまらないんですよ』
『斎藤さんが………?』
兎の言葉に、は前足で目を拭って首を傾げる。
『そうですよ。斎藤さん、さんの頬っぺたにちゅうをした時、本当は口にしようとしてたんですよ。ヘタレだから、頬っぺたになっちゃいましたけどね』
『へ………?』
兎の言葉に、は泣くのも忘れて顔を上げたまま目を大きく見開いた。
あの時、は目をぎゅっと瞑っていたから判らなかったけれど、本当はと同じように口にちゅうをしたかったなんて。でも、どうして口ではなくて頬になってしまったのだろう。だって、口に来ると思って緊張して待っていたのに。しかも兎にヘタレと言われるなんて。の知っている斎藤はいつも大人の余裕があって、ヘタレなんて言葉とは無縁の、大人の男なのに。
驚いた顔のまま固まっているに、兎はくすくす笑いながら言う。
『斎藤さん、さんの前では大人ぶってるけど、本当は凄くヘタレな人なんですよ。自分が何か仕掛けたら、さんが怯えて逃げちゃうんじゃないかって、いつも不安に思ってるんですから。そんなこと無いのにね』
『嘘………』
『嘘じゃないですよぉ。口じゃなくて頬っぺたにちゅうしたのだって、さんがあんまり緊張してたから頬っぺたにしたんですよ』
その時のことを思い出したのか、兎は可笑しげににやにや笑う。干し芋に夢中になっている振りをしながら、兎はしっかり二人を観察していたのだ。
笑いを噛み殺している兎の言葉は嘘ではないと思うが、でもまだには信じられない。あの斎藤が、が逃げてしまうことを怖がっているなんて、信じられるわけがない。彼女はこんなにも斎藤に夢中なのに。
半信半疑のに畳み掛けるように、兎はとどめのように言葉を続ける。
『さんは斎藤さんの、大事な大事な宝物なんですよ。内心、もしかしたらこのままさんが兎のままでいたら良いって思ってるかもしれないですね。そしたらさんは斎藤さんから離れられないし、他所の雄に取られることもないですし』
『えー………?』
自分が斎藤の宝物だなんて信じられない。他の男に取られることを心配しているということも。が知っている斎藤はいつも自信に溢れていて、彼女が他の男に目を向けるわけがないと思っているようなのに。
しかし思い返してみれば、が同僚の深町と二人で曲馬団を見に行っていた時もこっそりと尾行していたし、茸狩りに行った時に梁井と楽しく話していた時も少し面白くなさそうな顔をしていた。一寸焼き餅焼きなのかなとその時は思っていたのだが、兎の話を聞いたら納得する点はある。
『さんは斎藤さんの大事なお姫様だから、何もしないでじっと我慢してるんですよ。時期が来るまで、それこそ一生だって我慢するかもしれないですよ、あの人のことだから。それくらいさんのことが好きなんですよ』
『…………………』
兎の言葉はまだには信じられないけれど、信じたい。の“好き”とは方向が逆だけど、そういう“好き”もあるのかな、と少し思う。にはまだよく解らないけれど、我慢する“好き”は大人の“好き”なのかもしれない。求めるだけだったら、子供にだってできるではないか。
難しい顔をして考え込むに、兎は取って置きの秘密を明かすように、もったいぶって口を開いた。
『それとね、私、此処に来たての時は“”って呼ばれてたんですよ。今は我ながらふてぶてしくなったから呼ばれないけど』
『?!』
斎藤が兎に自分の名前を付けていたなんて、信じられない。まるで、飼っている犬猫に好きな男の名前をつけて可愛がっている女学生ではないか。あまりのことに、はびっくりして耳がピンと立ってしまう。
今は大きくなったけれど、拾われたばかりの頃の兎は今よりもずっと小さくて、くりくりした大きな目がやたら目立つ、可愛い姿をしていた。今よりも一寸引っ込み思案で、そんな可愛い兎に自分の名前をつけていたなんて、嬉しくて恥ずかしくて、ふわふわの薄茶色の毛に覆われていなかったら、全身が真っ赤になっていたところだ。
斎藤はどんな風にの名を口にしていたのだろう。あんな可愛い兎相手だから、きっと優しい声で呼んでいたに違いない。そんな声でも自分の名を呼んで欲しいと思う。
『斎藤さんヘタレだから、きっとさんの名前を呼ぶ練習をしてたんですよ。本当に、どうでもいいところでは偉そうなくせに、さんの前に出ると途端にヘタレ―――――――』
急に兎の声が聞こえなくなったかと思うと、の視界がどんどん高くなっていく。
「えっ?!」
びっくりして自分の身体を見ると、の姿は元の人間の姿に戻っていた。
「戻った! 斎藤さん、起きて! あたし、元に戻りましたよ!!」
嬉しくて嬉しくて、は熟睡している斎藤を激しく揺さぶって叩き起こす。
激しく揺さぶられてもまだ夢うつつといった様子で小さく唸り声を上げていた斎藤だったが、薄く目を開けての姿を認めた途端、バネ仕掛けの人形のようにがばっと飛び起きた。
「おっ……おまっ………?! 何でっ………?!」
驚きのあまり噛み噛みで、言葉になっていない。斎藤が“好き”をきちんと伝えられない限り元に戻らないと言われていたのに、いきなりの姿になっているのだから当たり前だ。
が元の姿に戻ったのは嬉しいが、それ以上に何故彼女が元に戻ったのか、斎藤は気が気ではない。寝る前に行った彼の言葉を思い返して納得して戻ったのだったら良いが、まさか―――――
妙な胸騒ぎがして、斎藤は兎のダンボールの家をちらりと見る。と、兎は箱の縁に前足をかけて、意味ありげににやにやとしていた。
どうやら、斎藤が予想していた“最悪のこと”が現実になってしまったらしい。否、が元に戻ったのだから、それほど最悪ではないのかもしれないが、恥ずかしい秘密を知られたのは最悪だ。しかも、彼の“恥ずかしい秘密”は一つや二つではないのだから、どれを喋られたのか判らないというのが一番怖い。を問い詰めようにも、かえって藪蛇になりそうである。
顔を真っ赤にしてうろたえる斎藤に、ははにかむように頬を染めてふふっと笑う。
「あたし、早く斎藤さんに釣り合うようになりますから、待っててくださいね」
「や……それは………」
いつもなら可愛いと思うのそんな顔も、今の斎藤にはそれどころではない。兎が一体何を言ったのだろうと、そのことだけで頭が一杯で、斎藤は焦った顔のまま言葉も出ない。
頬を染める初々しいの姿と、真っ赤な顔で完全に落ち着きを無くしている斎藤の姿を交互に見て、兎は可笑しそうに目を細めるのだった。
めでたしめでたし………なのか?(汗) 兎部下さんは元に戻れたけれど、斎藤の苦悩が更に深くなったような気が………。
しかし斎藤、ペットに兎部下さんの名前を付けるなんて、どこの乙女だよ、アンタ………。しかも兎さん、折角兎部下さんの名前を付けられてたのに、面影もなくふてぶてしくなってるし。何だか斎藤、このシリーズが進むごとに変な方向に追い込まれてますね。
この二人、お口にちゅうより先に、お互いを下の名前で呼び合うというのが課題かもしれないです。これが35歳と23歳のカップルの課題かよ………。