蛙の王子様

 と斎藤が『お付き合い』をするようになって、数ヶ月が過ぎた。
 初めて頬に口付けをされたのが梅雨の頃で、今はもう冬。夏は二人きりで蛍狩りをして、秋には一泊で茸狩りにも行った。たまにだけど二人で一緒に買い物に行ったりしているのだが、あの日から今日まで、二人の間には何の進展も無い。
 としては、いつでも準備万端というくらいの気持ちなのだが、どうも斎藤の方が消極的というか、先に進めてくれようとしないのだ。多分、のことをまだまだ子供だと思っているらしい。23にもなって子供というのはどうかと思うのだが、小さくて童顔というのが災いしているのだろう。
 たとえば恵のように背が高くて大人っぽい顔だったら、斎藤も積極的になってくれるのかなあ、とは目の前で汁粉を啜っている親友の顔を見ながら溜息をついた。
「どうしたの? 風邪でも引いた?」
 大好きな汁粉に手を付けずに暗い顔をしているに気付いて、恵が心配そうに尋ねた。
「うん………」
 さめていく汁粉をじっと見詰めたまま、は浮かない顔で黙り込む。
 こういう時、普通は親友の恵に相談したりするのだろうが、何となくしづらい。何故だか解らないが、恵は斎藤のことをあまり良く思っていないようだし、そこへが悩み相談などしたら、別れてしまいなさいと言われそうだ。
 が、いつもは明るくお喋りながこんなにも黙りこくっていると、恵としては気が気ではない。がこんな顔をするなど、原因はただ一つ。斎藤と何かあったに違いないのだ。
 のことをとても可愛がっているというのが、あの性悪不良警官の唯一の美点であるのに、それが無くなってしまったら、良いところなど一つも無いではないか。役者のような美男でもなければ金持ちでもなく、おまけに若くもない男とがくっ付いている理由は無い。
「あの男が何か言ったの? それとも何かしたの?」
「え?」
 急に怖い顔で詰め寄る恵にびっくりして、は顔を上げる。
 どうやら恵はが斎藤から酷い目に遭わされて落ち込んでいると思っているらしい。確かにの落ち込みの原因は斎藤絡みだけど、彼はいつだって優しいし、恵が思っているような悪い男ではないのに。
 斎藤が怖い顔をしているから誤解されているのかなとは思うけれど、恵の過剰な心配の理由はそれだけではないようだ。歳の差とか、他にもいろいろあるのかもしれない。恵が心配している理由の中に、斎藤がに何も仕掛けてこない理由があるような気がしてきた。
 お付き合いを始めて何ヶ月も過ぎているのに何も無いなど、他人に言うのは恥ずかしいが、は勇気を出して言ってみる。
「あのね、恵ちゃん。斎藤さんのことなんだけど―――――」
「あいつ、何かやらかしたの?!」
「ちっ………違うよ! 何も無いよ。だから困ってるの」
「は?」
 の言葉に、恵は怪訝な顔をした。
 何も無いということは結構なことではないか。恵はてっきり、喧嘩でもしたか、最悪斎藤がに迫って気まずくなったのかと思っていた。
 ほっとする恵に、は恥ずかしそうにもじもじして言う。
「お付き合いして何ヶ月も何も無いなんて、どう思う?」
「どう、って?」
 突然の恋愛相談に、恵はびっくりして聞き返す。
 の恋愛相談にも驚いたが、斎藤がまだ何もしていないということの方が驚きだ。あの男のことだから、虎視眈々と機会を窺って、隙あらばまさしく狼のように飛び掛ってくると思っていたのに。
「何も無いって、本当に何も無いの?」
 あまりのことに、恵は思わず念押ししてしまう。
 そこまで驚かれると、やっぱり傍から見ても変なのだと、はしょんぼりしてしまう。傍から見ても変なくらい何も無いなんて、やはり斎藤はを一人前だとは思っていないということなのだ。
 思い返してみると、斎藤はお菓子をくれたり、時々手を繋いだりはするけれど、所謂恋人らしいことをしてくれたことは無い。彼がを見る目は優しいけれど、それは小さな子供を見守るような目で、恋人を見る目ではない。
 そういえば二人で茸狩りに行った時も、案内してくれた地元警官の梁井に子守のようだとこっそり話していたのも聞こえていた。大して親しくもない人間相手にそんなことを言うなんて、いつもそう思っているということではないか。斎藤はには何も言わないけれど、もしかしたら彼女のことを負担に思っているのではないかと、悲しくなってしまう。
「………うん。あたしのこと“好き”って言ってくれたことも無いよ。斎藤さん、本当にあたしのことを恋人だと思ってくれてるのかなあ………」
 これまでの斎藤の言動を思い出しているうちに、はますます悲しくなってきた。斎藤が自分のことを好きなことは解っている。けれど、それが恋人の“好き”なのか、ただの“好き”なのか、不安になってしまうのだ。
 萎れているを見ていたら、恵は我がことのように腹が立ってきた。食事の用意だの兎の世話だの散々こき使って(と彼女には見えている)、あげくにの家に上がりこんで我が家のように大きな顔をしているくせに、「好き」と言ってやったことも無いなんて。その一言だけでの不安は無くなって、こんな悲しい顔をさせずに済むのに、どうしてこんな簡単なことが出来ないのだろう。
 に手を出さないのは、まあ感心するけれど、「好き」とすら言わないとなると話は別だ。これではが可愛そう過ぎる。
 むかむかしながら解決法を考える恵の頭に、一つのことが思い出された。
「そうだ。雑誌に載ってたんだけど、評判の占い師の店に行ってみましょう。英吉利仕込みの魔術も使えるって噂だし、あの人も連れて行って“好き”って言わたら良いんだわ」
 恵はまだ行ったことが無いけれど、その占い師は占いが当たるのは勿論、魔術で恋を成就させたり仕事を成功させたりと、とにかく凄いらしい。嘘か真実か、政財界の大物も顧客にいるそうで、料金も当然相場より遥かに高いけれど、それでも繁盛しているということは、それだけの価値があるということだ。
 恵の提案に、は一寸困ったように首を傾げて、
「魔術で言ってもらっても、意味が無いよ。斎藤さんが本心から言ってくれなきゃ」
「だから、魔術で本心を聞き出すのよ」
「魔術で………?」
 魔術で斎藤の本心を聞き出すという恵の提案は、案外有効なものなのかもしれない。普通にしていては、斎藤はきっと何も言ってくれないし、彼の本当の気持ちは知りたい。魔術がどれだけ効果があるのか判らないが、今のは藁にも縋りたい気持ちなのだ。
 問題は、どうやって斎藤をその店に連れて行くかだ。彼はそういうものを馬鹿にして鼻で笑う人間なのだ。何より、そんなところに連れて行くということは、斎藤の本心の疑っていると宣言するようだし、それも気まずい。
 なんと言って斎藤を連れ出そうかと、は早くも頭を悩ませるのだった。





 斎藤は今、室内に紫の幕を張り巡らされた怪しげな部屋にいる。目の前にはこれまた何処かの国の民族衣装のような怪しい扮装をした女が座っていて、女の前には子供の頭くらいの大きな水晶球が置かれている。
 と恵が面白い店があるから行ってみようと誘うから、斎藤も渋々付いてきたのだが、まさかこんな珍妙な店に連れて行かれるとは思わなかった。外国製だと思うが、変な匂いのする香を焚いているし、一体何の店だろうと訝しく思いながら室内を見回す。
 と、怪しい風体の女が三人をゆっくりと見回して、の前で視線を止めた。
「あなたのお悩みは、その男の人のことね? 彼の本当の気持ちを知りたい、と」
「えっ?!」
 図星を指されて、は頓狂な声を上げた。
 まだ何も言っていないのに、誰が依頼人で、しかも何の悩みで此処に来たのか一発で当てるなんて、これは本物だ。は目を輝かせて興奮したように早口で言う。
「そうなんです! 斎藤さんの気持ちが知りたいんです! 私のこと、本当に好きかどうか」
「はぁっ?!」
 頬を紅潮させて訴えるの言葉に、今度は斎藤が頓狂な声を上げた。
 斎藤がのことを好きかどうかなど、答えは決まっているではないか。言葉にしたことは無いけれど、嫌いな相手と休みの日にまで一緒にいないし、ましてや蛍狩りや旅行になど行くわけがない。何故それが解らないのかと、斎藤は不機嫌になる。
 苛々を解消するように煙草に火を点ける斎藤を横目で見遣って、恵が非難するように小声で言う。
「あんたが何も言わないから、ちゃんをそこまで思い詰めさせるんでしょうが」
「…………………」
 やはりこいつの差し金か、と斎藤は煙と共に大きな溜息をついた。
 友情に厚いのは結構なことだが、恵の友情はどうも暴走気味のような気がする。どうやらの保護者を気取っているようでもあるし、そんなに自分のことが信用できないのかと斎藤は問い詰めたくなるくらいだ。
 大体、である。こんな怪しげな女に頼ってまで斎藤の気持ちを知りたいなど、どうかしている。彼の気持ちを疑っているのだと宣言されているようで不愉快だ。
 険しい顔になっていく斎藤に気付いて、興奮していたが急に気まずそうに身を竦めた。そんな風にするなら最初からこんな所に連れて来るなと、斎藤は心の中で突っ込む。
 二人の気まずい雰囲気を無視して、占い師はグラスを二つ出すと、それぞれに赤ワインのような液体を注ぐ。
「それなら、これをお飲みなさい。お互いの本当の気持ちが解るでしょう」
 占い師は厳かな口調で液体を二人に勧める。
「………………」
 怪しげな女が出す怪しげな液体を、斎藤は怪しげな目でじっと見詰める。見た目は赤ワインに似ているが、ワインでないのは明らかだ。色付けして適当な味をつけた水かもしれないし、怪しい薬の入った飲み物かもしれない。
 斎藤はグラスを持ち上げると、まず匂いを嗅いでみた。ワインに似た香りに混じって、何か煎じ薬のような粉っぽい匂いが微かにする。まさか毒になるものは入ってはいないだろうが、流石の彼にも飲む勇気は出ないというものだ。
 が、隣のは何の疑いも無く、グラスを口に運ぶ。
「あっ、こら………」
 斎藤が止める間も無く、はくーっと液体を一気飲みしてしまった。そして笑顔で、
「甘くて美味しいですよ。斎藤さんも早く飲んで下さい」
「お前なあ………」
 こんな怪しいものを疑いも無く飲んでしまうなど、斎藤は呆れ返ってしまう。しかし、の様子にはおかしなところは無いので、彼も勇気を出して一気に液体を飲み干した。
 の言う通り、その液体は粉っぽい匂いを除けば、果実酒に似た味で美味しい。飲んだ後もこれといって変化は無いようだ。と思った次の瞬間―――――
「きゃああああっっ?!」
「何だ、何だ?!」
 の悲鳴と、斎藤の慌てた声が重なった。
 信じられないことに、斎藤の姿が大きなガマ蛙になってしまったのだ。明らかに、あの怪しい飲み物のせいである。
「どうなってるんだ?! 元に戻せっっ!!」
 びたんびたんと跳ねながら斎藤が抗議する。姿はガマ蛙になっても、人間の言葉は喋れるらしい。
 猛抗議する斎藤に、占い師は優雅に微笑んで平然と、
「そのお嬢さんがあなたの本当の心を知りたいと仰るのなら、その前にお嬢さんの心を試させていただくのが筋でしょう? あなたがどんな姿になっても、お嬢さんの気持ちが変わらなければ、元に戻ります」
「そんな………」
 愕然として、は絶句する。
 ほんの軽い気持ちで斎藤に「好き」と言わせたいと思っただけなのに、こんなことになってしまうなんて。彼の気持ちを試す前にの気持ちを試すべきだという占い師の理屈は確かに正論だが、それにしたってガマ蛙にするなんて酷すぎる。
 足許でびたんびたんと跳ねて全身で怒りを表現する斎藤をちらりと見るが、はすぐに目を逸らした。実は蛙は、彼女の大嫌いな生き物なのだ。雨蛙なら兎も角、ガマ蛙なんて見るのもぞっとする。
 の変化に気付いて、斎藤は今度はに怒りをぶつける。
「元はといえば、お前のせいでこうなったんだぞ! どうしてくれるんだ?!」
「きゃあっっ!!」
 びたん、とに向かって跳ねる斎藤に、彼女はあからさまに嫌悪を表して恵に飛びついた。いくら中身が斎藤だと解っていても、やはりガマ蛙は気持ち悪いのだ。
「何言ってるのよ! あんたがちゃんに“好き”って言ってあげないからでしょ! 自業自得よ!」
 怯えるを抱き締めて、恵は足でしっしっと斎藤を追い払う。
 そんな三人の様子を見回して、占い師は更にとんでもないことを言う。
「お嬢さんが彼に接吻をしてあげれば、元の姿に戻りますよ。その代わり、期限は24時間。これを過ぎても、元の姿には戻れるけれど、お嬢さんに関する記憶は全て消えてしまいますし、彼がお嬢さんを愛することは二度となくなります」
「えぇえ〜〜〜〜っっ?!」
 恵に抱きついたまま、は真っ青になってしまう。本物の斎藤と接吻したことも無いのに、ガマ蛙の斎藤と接吻するなんて嫌だ。けれど、斎藤がの記憶を失って、しかも二度と彼女を好きになることが無いというのは、もっと嫌だ。究極の選択に、気が遠くなってしまう。
 足許に蹲っているガマ蛙の斎藤を見下ろして、は呆然としてしまうのだった。





 とりあえず蛙の斎藤を盥に入れて彼の家に連れて帰っただが、やはり蛙と同室というのは気味が悪い。あのぬらぬらした皮膚と、呼吸するたびに蠢く喉の皮が気持ち悪くて、悪いと思いながらも目を逸らしてしまう。
 兎も、突然やって来たガマ蛙が気になって仕方が無いらしく、恐る恐る近付きはするが、やはり気味が悪いのか遠巻きに観察するだけだ。
「おい」
 微妙な距離を取って小さくなっているに、斎藤が不機嫌に声を掛ける。
「せっ……接吻をすれば元に戻るらしいから、さっさとしろ」
 非常事態とはいえ、流石に接吻を要求するのは気恥ずかしいのか、斎藤は少しどもってしまう。
「でもぉ………」
 勇気を振り絞って蛙の斎藤に視線をやるが、不機嫌そうに蠢く喉の皮が目に入って、慌てて目を逸らした。いくら中身が斎藤でも、気味が悪いのは変わらないのだ。
 勿論、斎藤がこんな気味の悪い姿になってしまった責任は感じている。けれど、ぬらぬらしたあの姿だけは、どうしても駄目なのだ。アレに触って、おまけに接吻するなんて、想像を絶する。
 しかしそうしなければ、斎藤は明日の今頃までこの姿のままで、しかも元に戻ってものことは忘れてしまうのだ。蛙の斎藤に接吻するのも嫌だけれど、彼に忘れられるのはもっと嫌だ。けれど、ガマ蛙に接吻はできない。
 斎藤とて、今の自分の姿が大抵の人間に嫌われるものであることは理解している。彼だってガマ蛙に接吻しろと言われたら、全力で拒否する。けれどこれは非常事態なのだ。ガマ蛙が好きとか嫌いとか言っている場合ではない。
「“でも”じゃないだろうが」
 この期に及んでも気味悪がっているに苛立ちながら、斎藤はびたんと彼女の方に飛んだ。その瞬間、
「きゃぁあああああっっ!!」
 は悲鳴を上げて、跳ねるように壁際まで逃げた。そしてがたがた震えながら、
「こっち来ないで! 気持ち悪い!!」
 言ってしまった後、自分の暴言に気付いて、ははっとしたように口を押さえる。が、時既に遅く、恐る恐る斎藤の方を見ると、蛙の姿でも判るほどに愕然とした顔をして固まっていた。
 怒鳴られるかと思いきや、斎藤の顔はみるみる悲しげに萎れて、何も言わない。いつもの斎藤なら「気持ち悪い!」と言われても平気で怒鳴り返すのに、こんな悲しそうな顔を見せるなんて初めてのことだ。本来は無表情な蛙の姿でも悲しそうなのが判るのだから、人間の姿だったら立ち直れないくらいに悲しそうな顔をしていただろう。
 蛙になってしまって一番辛いのは、斎藤なのだ。それなのに彼を蛙にしてしまった張本人が「気持ち悪い」と言ってしまっては、傷口に唐辛子を塗りこめるようなものではないか。
「さ……斎藤さん、あたし―――――」
「もういい。元の姿に戻るまでお前の前には出てこないから安心しろ」
 自分の暴言を弁解しようとするを振り切るように、斎藤は玄関の戸の隙間をすり抜けて外に出て行ってしまった。
「斎藤さんっ!!」
 も慌てて斎藤の後を追いかけたが、何処に隠れてしまったのか、その姿はなくなっていた。蛙が潜り込めそうな物陰を片っ端から探してみるが、何処にもいない。
 こんな寒い時季に蛙の姿で外を出歩いて、凍え死にでもしたら大変だ。否、それよりも、往来で馬車や荷台に轢かれたり、子供に悪戯をされて殺されてしまったらどうしよう。人間の姿ならば心配しなくて良いことでも、蛙の姿だと最悪の事態が次々思い浮かんでしまう。
 何もかも、全部自分のせいだ。斎藤が蛙になってしまったのも、そんな彼を最悪の言葉で傷付けて悲しませてしまったのも。そして、もし斎藤の身に何かあったとしたら―――――
「どうしよう………」
 最悪の事態を想像して、は玄関の前で泣きじゃくるのだった。





「あら?」
 往診の帰り道の土手で、恵は河原に佇んでいるガマ蛙を見つけた。夕日に照らされてきらきら光る川をじっと見詰めている蛙の背中は、遠目で見ても実に悲しげだ。
 こんな時季に蛙が出てくるわけがないし、妙に感情豊かな後ろ姿で、すぐにそれが斎藤だと判った。大方、と揉めて家を飛び出したのだろう。
「斎藤でしょ? どうしたの、こんなところで?」
 土手を滑るように駆け下りながら、恵が蛙に声を掛けた。気付かない振りをして通り過ぎても良かったのだが、これから日が暮れるし、いくら小憎らしい男でも友人の恋人でもあるのだから、凍死でもされたら寝覚めが悪い。
 意外な人間に声を掛けられて、斎藤はゆっくりと恵を振り返ったが、再び川の方に視線をやってつまらなそうに溜息をついた。どうやら只事でなく落ち込んでいるようだ。
 いつもは過剰なほどに偉そうな男が別人のようにしょげ返っていることに、恵は驚いて斎藤の隣にしゃがみ込んで顔を覗き込むようにして尋ねる。
「どうしたの? 蛙なんだから、こんな所にいたら凍死しちゃうわよ。それに早くちゃんに元に戻してもらわないと、あの子のこと忘れちゃうのよ?」
 こんな全身ぬらぬらの蛙とを接吻させるなんて、恵も自分のことのようにぞっとするが、背に腹は替えられない。この気味悪い蛙と接吻しないと、元の斎藤には戻らないのだ。
 が、折角易しく言う恵に、斎藤はふてくされたように、
「元の姿に戻るまで、あいつの前には出ないことにしたんだ。気持ち悪いんだとさ。あんなに怯えられたら、一緒にはいられん」
ちゃんがそう言ったの? ………まあ、お世辞にも可愛いとは言えない姿だけどねぇ」
 しょんぼりしている斎藤の姿をじろじろと見て、恵は溜息をついた。
 が蛙を嫌っているのは、恵も知っている。たとえ中身は斎藤でも、外見が大嫌いな蛙となったら、つい本音が出てしまうのは無理も無い。実験で蛙を使ってそれほど苦手ではない恵だって、こんなガマ蛙に接吻を迫られたら、たとえ中身が剣心でもつい蹴飛ばしてしまうくらいはしてしまうだろう。
 しかし、に「気持ち悪い」と言われて、斎藤がこんなにも落ち込むとは思わなかった。たとえ落ち込んでも、恵の前ではやせ我慢で平気な振りをすると思っていたのだが、そういう風に取り繕う余裕すら無いなど、余程堪えたのだろう。も罪作りなことをするものだ。
 とはいえ、その責任の一端が恵にもあるのは事実。落ち込んでいる斎藤を見ているうちに、流石に気の毒になってきた。
 恵は斎藤をひょいと掴むと、そのまま立ち上がった。
「うわっ?!」
「此処にいたら凍死しちゃうから、うちの診療所でちゃんを待ってれば良いわ。今頃心配して、近くを探し回ってるだろうし」
「放っておいてくれ! あいつが来るわけないだろう」
 手足をばたばたさせながら、斎藤は抵抗する。どうやら完全に拗ねてしまっているらしい。お前は子供かと突っ込みたいが、そこはまあ非常事態であることだし、恵もぐっと我慢する。
 無駄な抵抗をする斎藤を巾着袋に押し込んで、恵は家路を急いだ。





 恵が診療所に戻るなり、が泣きながら飛びついてきた。
「恵ちゃん、どうしよう?! 斎藤さんがいなくなっちゃったよぉ」
 斎藤が家を出てからずっと泣いていたのだろう。目が腫れて、兎のように真っ赤になっている。
 大嫌いな蛙になってしまっても、斎藤は斎藤。つい「気持ち悪い」という言葉が出てしまっても、心配で仕方なかったのは当然だ。
「大丈夫よ。ほら」
 子供のように泣きじゃくるを安心させるようににっこりと微笑んで、恵は巾着袋から斎藤を取り出した。小さな袋に押し込められていたせいで少しぐったりしているが、それほど弱ってはいないようだ。
「斎藤さん!」
 斎藤の無事な姿を見て、泣きじゃくっていたの顔がぱぁっと明るくなる。
 が、斎藤はを一瞥すると、不機嫌そうに顔を逸らした。「気持ち悪い」と言われたのを、まだ引き摺っているのだろう。
「あとのことは二人―――――じゃなくて、一人と一匹で話し合いなさい。じゃ、私は夕飯の支度があるから」
 斎藤を机の上に置くと、恵は診療所を出て行った。
 一人と一匹で残されて、気まずい沈黙が流れる。ただ、さっきと違い、は斎藤から目を逸らさずにじっと見詰めている。
 どれだけ沈黙が続いたか、が先に口を開いた。
「さっきはすみませんでした」
「別に………実際気持ち悪いしな、俺は」
 斎藤にしては珍しく、後ろ向きなねちっこい口調だ。それは、それだけあの言葉が彼の心を深く抉ったということで、は後悔で胸が潰れそうになる。
 蛙になってしまった斎藤を気持ち悪いと思ってしまったことは、消すことのできない事実だ。けれど、彼が家を出てしまってから見付かるまで、心配で泣きながら探したのも事実。彼がどんな姿になっても、にとってどんなに大切な存在か思い知らされた時間だった。
「斎藤さん」
 拗ねたようにそっぽを向く斎藤に、は手を触れさせる。まだその手つきは恐る恐るといった感じで微かに震えているが、もう嫌悪は感じさせない。
 姿はガマ蛙でも、中身は斎藤なのだ。そう思ったら、あのぬめぬめした皮膚に触るのも我慢できる。
 は両手でそっと斎藤を持ち上げると、自分の顔の近くまで持ってきた。
「うわっ?! なっ……何を………?!」
 突然の展開に、斎藤は慌てたように脚をばたつかせる。ここまできたら何をするのかなど一目瞭然だが、のぷるんとした唇を至近距離で見せられると、焦ってしまう。蛙の姿でなかったら、きっと真っ赤になっていたところだ。
 の顔と言うのは、全体を見ると子供っぽいように見えるが、こうやって部品だけ独立して見せられると意外と色気があるというか、斎藤は迂闊にもどきりとしてしまう。小さな生き物ならではの新発見だ。
 けれどはいきなり持ち上げられたのを驚いたと解釈したらしく、ばたばたしている足を片手で下から支えてやって、
「ちゅうしないと元に戻れないじゃないですか。斎藤さん、小さいからこうしないとできないし」
「おっ…俺は蛙だぞ! 気持ち悪い蛙だぞ!」
「中身が斎藤さんなら、蛙でも蛇でも良いですよ」
 焦る斎藤に、は恥ずかしそうにふふっと笑う。
 最初こそ気持ち悪いと思ったが、中身が斎藤なら蛙でも気持ち悪くなんかない。ただの蛙なら家からいなくなっても心配するどころかほっとしていたけれど、斎藤だから必死で探したのだ。醜いガマ蛙の姿になってしまっても、にとっては斎藤は斎藤のままで、だから接吻だって何だって出来る。一緒の布団で寝ろと言われても、今なら平気だ。
 占い師が「お嬢さんの気持ちを試さないとね」と言って、斎藤をわざわざ大嫌いな蛙の姿に変えてしまった理由も、今なら解る。姿や雰囲気に惹かれただけでなく、本当に相手のことを好きになったら、その姿や雰囲気を失ってしまっても好きでい続けることができるのだ。蛙になってしまったくらいで嫌いになるようだったら、その程度の気持ちだったということ。そんな中途半端な気持ちで相手を試すなんて許されないことだと、あの占い師は教えてくれたのだと思う。
 そんな殊勝なことを考えていただったが、手の中の斎藤が急にぬめってきたことに気付いて、一寸顔を顰めた。
「斎藤さん、何かぬるぬるしてきたんですけど………?」
「ガマ蛙なんか仕方ないだろうっ」
 内心気にしていたことを指摘されて、斎藤は怒ったように言う。ガマ蛙は緊張すると、所謂“ガマの油”を分泌するのだが、斎藤もいつの間にやらダラダラと出していたらしい。
 ガマの油の理屈を知らないでも、斎藤の態度で何となく理解したらしい。彼のような“大人の男”が接吻で緊張するなんて信じられないが、そんな彼の様子も彼女には嬉しい。
「蛙さんでも、やっぱり恥ずかしいですね」
 はにかむように小さく笑うと、は温かくて柔らかな唇を斎藤の冷たい口にちゅっとぶつける。
 口と口が触れ合った瞬間、ぽんっと小さく弾ける音がして斎藤が人の姿に戻った。
「おお、戻った! おい、元に戻ったぞ! ………って、何処行った?」
 半日ぶりに人の姿に戻れて喜んだ斎藤だったが、の姿が見当たらなくなって、周りを見回す。と、足許での声がした。
「斎藤さーん、斎藤さーん!」
 下を見ると、掌に乗りそうな小さな薄茶色の仔兎が焦ったよう後ろ足で立って、前足をぱたぱたさせていた。どうやら今度は、斎藤が試される番らしい。
 またまた厄介なことになりそうだと、斎藤はぱたぱたしているを見下ろして、深い溜息をついた。
<あとがき>
 相手を試そうとすると、自分が酷い目に遭うということで。
 しかし蛙の斎藤、随分とヘタレっていうか、卑屈っていうか………。拗ねたりいじけたりって、あんた誰? ってな感じです。“お付き合い編”になってから、どんどん別人になっていくなあ………。
 で、このお話は『兎のお姫様』へと続きます。斎藤には頑張って部下さんを人間に戻してもらいたいものですね。
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