嫉妬の香り

 が斎藤の執務机に茶を置いた瞬間、ふわりと甘い香りがした。
「何か付けているのか?」
 見ていた書類から僅かに視線を上げて、斎藤が不審げに尋ねた。
「あ、判りました?」
 気付いてもらえたのが嬉しかったのか、ははしゃいだ声を上げる。そして胸元に手を差し入れると、なにやら白いものを出した。
 出てきたのは楕円形の、雪兎を模した匂い袋だった。それほど大きなものではないが、斎藤にまで香りが飛んでくるのだから、上等な香料を使っているのだろう。
「お隣の深町君から貰ったんですよ。この前、出張に行ったから、お土産だって」
「深町君?」
 怪訝な顔をして、斎藤は聞き返す。
 確かに隣には、深町という事務方の職員がいる。と同期であるが、仕事の内容も全く違うし、お互い始業から終業まで部屋に籠りきりということが殆どだから、親しくなるほどの接触も無いはずだ。それなのに出張の土産を貰うというのは、どういうことなのか。ちなみに斎藤には、饅頭のお裾分けすら無い。
 しかも、貰った匂い袋がの大好きな兎というのが引っかかる。まあ、若い娘というのはああいう可愛らしいものが好きだから、無難に兎を選んだのかもしれないが、にだけ土産を渡しているというところが気になるのだ。普通に近くの部署に土産というのなら、斎藤にも何か持ってきてしかるべきではないか。
 別に土産が欲しいわけではないが、考えているうちに斎藤はむかむかしてきた。
「お前は深町君とは親しいのか?」
「親しいってほどじゃないけですど、同期ですからね。たまに食堂で一緒に食べるくらいですよ」
 どうしてそんなことを訊くのか解らない、とはきょとんとして答える。
 深町とは別に親しくしているというわけではないが、顔を合わせれば世間話はする。斎藤が外に出ていて独りで職員食堂で食べなくてはならない時に、一緒に食べようと誘ったり誘われたりするくらいには親しいというくらいか。別に斎藤から何か言われるほどの仲ではない。
 けれど斎藤には、そのきょとんとした顔も何か隠しているような気にさせられて、何となく面白くない。それほど親しくないといっても、出張の土産を貰うくらいだし、何より時々一緒に食堂で食べるくらいには親しいということではないか。に男友達がいるというのは悪いことではないとは思うのだが、何となく面白くはない。
 斎藤とはまだ“親密な上司と部下”という関係で、相手の交友関係にどうこう言える仲ではない。それに、たかだか男友達の存在をがたがた言うのは、いかにも大人気ないというか、嫉妬深い。嫉妬といっても、斎藤はの恋人ではないのだから、妬く権利すら無いのだが。
 ぐるぐる考えていたら、ますます面白くなくなって、斎藤は苦虫を噛み潰したような顔で茶を啜る。そんな斎藤の様子を不思議そうに見ていただったが、思い出したように明るい声を出した。
「そうだ。来週、外国の曲馬団サーカスが来るんですよ。切符を二枚貰ったから、一緒に行きましょうよ。ライオンとかクマとかが芸をするそうですよ」
「曲馬団?」
 面倒臭そうに斎藤は訊き返す。そういえばいつだったかの新聞に、欧州ヨーロッパから曲馬団が来日したという記事が載っていたが、そのことを言っているのだろう。大道芸人や動物が高度な芸を披露して大評判だと書いてあった。
 いかにもが好きそうなものであるが、正直斎藤には面倒臭い。最近は勤務が続いていたし、できれば休みの日はゆっくりと休養したいのだ。それにああいう賑やか過ぎるのは、どうも好きではない。
「そういうのは興味が無い。高荷恵と行ってきたらどうだ?」
「えー?」
 素っ気無い斎藤の言葉に、は不満の声を上げる。キップは“貰った”とは言ったけれど、本当は買ったものなのだ。斎藤と何処かに行くというのは殆ど無いから、逢い引き気分で二人で出かけたかったのに。
 斎藤の好みも訊かずに切符を買ったのは先走りだったかもしれないけれど、でもたまの休みに一緒に出かけてくれても良いじゃないか。いつも斎藤の家で御飯を作ったり、兎と遊ぶだけでは、だってつまらない。
「綺麗な女の人が空中ブランコをしたり、熊が自転車に乗ったりするらしいですよ? 滅多に見れないものなんですから、行きましょうよぉ」
「行かない。他の奴と行ってこい」
 取り付く島も無く即答されて、はぷぅっと膨れる。けれど斎藤は痛くも痒くもないように、そのまま書類に視線を戻した。
 いかにも嬉しげに付いてきてくれるとはも思ってはいなかったけれど、でもこの反応は酷い。他の人と行っても良いと思うくらいなら、わざわざ何日も前から前売り券なんか買わないのに。
「じゃあいいです。他の人、誘いますから!」
 吐き捨てるようにそう言うと、はぷいっと自分の机に戻った。





 暫くの機嫌は直らないかと思っていたが、案外すぐに元に戻っていて斎藤は密かにほっとした。いつもにこにこしているが不機嫌に押し黙っていると、それだけで部屋の空気が重苦しくてたまらないのだ。
 曲馬団の件は、一言も言ってこないことを見ると、一緒に行く相手はすんなり見付かったのだろう。は斎藤と違って社交的だから、代役など簡単に見付かるのだ。
 そんなことを思いながら廊下を歩いていると、反対側から二人連れの若い職員が談笑しながら歩いてくるのが見えた。その片割れが深町であることに気付いて、斎藤は何故か慌てて身を隠してしまう。
「―――――でさ、今度の休みにうさぎちゃんと曲馬団を見に行くことになったんだ」
 深町が連れの男に自慢げに話す。その言葉に、連れは意外そうな顔をして、
「へー。でもうさぎちゃんって、藤田警部補と怪しいって聞いてたけどな。いつも一緒に晩飯食ってるらしいぜ」
「ああ、あれは警部補が飯代出すから作ってるんだろ。あんな冴えないおっさんとくっ付くはずがないって」
「それもそうだよなあ」
「冴えないおっさんで悪かったですねぇ」
 さも可笑しげにげらげら笑う二人の前に立ちはだかって、斎藤は胡散臭い作り笑い顔でねっとりと言う。腸が煮えくり返るほどの怒りは、怒鳴るよりも妙に優しい猫撫で声を出させてしまうものらしい。
 噂の人物の突然の出現に、二人はびくっと全身を強張らせた。“冴えないおっさん”とはいえ、一応役付きは上なのだ。
 二人は気まずそうに苦笑いをしながら、言い訳のようなことをもごもごと言っていたが、そのままそそくさと何処かへ行ってしまった。
「ふん………」
 逃げながらもまだこそこそと話し合っている二人を見送りながら、斎藤は不快げに小さく鼻を鳴らす。
 “冴えないおっさん”と言われるのは、庁内では“冴えないおっさん”を演じているのだから別に構わないのだが、問題はの呼び名である。“うさぎちゃん”とは一体何なのか。確かには兎が大好きで、兎の小物を沢山持っているし、おまけに一寸兎に似ているけれど、勝手なあだ名をつけるというのは面白くない。普通に“さん”と呼べと言いたい。
 そもそもだ。確かに斎藤は「他の奴と行ってこい」とは言ったけれど、何も深町を誘わなくても良いではないか。女の友達はいくらでもいるはずである。それこそ高荷恵でも良いし、ここの女性職員でも良いではないか。
 しかも悪いことに、あの話し振りでは深町もを狙っているようだ。考えてみれば、親しくもないのに彼女が好みそうな土産を渡したりしているのだから、好意を持っていないわけがない。だっていい歳した大人なのだから、そういう男の下心というものに気付かないわけもないだろうに、わざとやっているのだろうか。
 さっき初めて深町の姿をしみじみと見たが、背の高いなかなか見栄えの良い男である。若い娘が好みそうな感じの男だと、斎藤も思う。おまけに彼よりもずっと若いから、とも話や好みも合うだろう。自分が深町よりも劣っているとは思わないし、も色々な男と遊んでみて男を見る目を養うことも大切だとは思うけれど、でも何となく面白くはない。
 そうやって面白くないと思うのも、まるでが他の男と遊ぶことに焼餅を妬いているようで、それも斎藤には腹立たしい。もうどこから腹を立てて良いのか自分でも解らなくなってきて、彼は忌々しげに舌打ちをした。





 そして、たちが出かける当日、斎藤は曲馬団のテントの脇にある切符売り場に並んでいた。一日3回公演をやるらしいが、大盛況のようである。特にたちが行くと言っていた昼の公演は、当日券の人間は立ち見になるのだそうだ。
 別にたちをつけるつもりではないのだが、嫁入り前の娘が若い男と二人きりで遊び歩くというのは、あまり外聞の良いものではない。深町がの恋人ならともかく、そうでもないのにこうやって逢い引きまがいのことをしたら、彼が誤解して話がややこしくなるかもしれないではないか。もしそうなった時に、ビシッと言ってやる年上の男の存在というのは大事である。
 大体、深町は友人と二人してのことを“うさぎちゃん”などとふざけた名前で呼んでいるのだ。兎というのは、あらゆる肉食獣から獲物にされる生き物である。深町だって絶対、深層心理ではのことを喰ってやろうと思っているに違いないのだ。若い男というのは辛抱が利かないし、今日のうちにいきなり接吻とか、下手をしたら連れ込み宿に引きずり込むかもしれないではないか。そうなったら大変だ。
 とまあ、以上のことを自分に言い聞かせて切符を買うと、今度は入り口の方に並ぶ。と、かすかな甘い香りがふわりと斎藤の鼻先を掠めた。
 香りが飛んできた方向を見ると、と深町が楽しそうに話しながらテントに入っていくのが見えた。あの匂い袋の香りがここまで飛んでくるというのは不思議な気がしたが、それよりも深町から貰った匂い袋を肌身離さず持っているという事実が斎藤には忌々しい。男に貰ったものを肌身離さず身に着けているなんて、これではが深町に好意を持っているようではないか。
 深町はきっと、匂い袋を身に着けているを見て、いい気になっているに違いない。これはきちんと監視しておかなければ、おかしな行動に出ないとも限らない。上司として、部下の危機を未然に防がなくては、と斎藤は決意を新たにすると、二人の後を追いかけてにテントに入っていった。




 結局、二人は曲馬団を見た後は普通に食事をして、夕方前には解散ということになった。深町は思ったよりも紳士的で、斎藤が危惧していたようなことは何一つ起こらずに済んだ。まあ初回だから遠慮があったのかもしれないが、手を握ることもなく終わったのは斎藤としては大満足だった。
 それから急いで家に帰り、何事も無かったような振りをして家で新聞を読んでいると、夕食の材料を抱えたがやって来た。
「曲馬団はどうだった?」
 何も知らない振りをして、斎藤は何気無く訊いてみる。
「楽しかったですよ。熊が三輪車に乗るのが、凄く可愛くて。まだ公演は暫くやるみたいだから、一緒に行きましょうよ」
 楽しそうに話すの様子では、どうやら斎藤の尾行には気付いていないようだ。まあ、ごときに気付かれるような仕事はしていないのだから、当然である。
 と、思っていたら―――――
「今度は並んで一緒に見ましょうね」
「?!」
 その言葉にびっくりして顔を上げると、は嬉しそうにふふっと笑った。続けて、
「深町君と行ったの、そんなに心配でした? 大丈夫ですよ。深町君のことは何とも思ってませんから」
「別に俺は………」
 図星を差されて、斎藤は顔を赤くして口籠もる。
 確かにのことが心配で尾行はしたけれど、それは別に焼餅とかそういうのではなくて、嫁入り前の娘に変な虫が付かないように監視するというか、彼女の身の安全を確保するためにつけていたのだ。別に疚しいことはしていない。疚しいとは思わないが、に妙な誤解をされるのは恥ずかしい。
 ばさばさと乱暴に新聞を畳みながら、斎藤は恥ずかしいのを誤魔化すように怒ったような口調で吐き捨てる。
「嫁入り前の娘が男とふらふら出歩くと、色々言う奴がいるからな。何かあっても取り返しがつかないし、“上司として”監視してたんだ」
 ごちゃごちゃ理屈を捏ねているが、全部照れ隠しの言い訳だということは、その怒った声と紅い顔でにもすぐ解った。もしかして、深町の方にふらふらと行ってしまうと心配されていたのだろうかと思うとちょっと心外だが、でもそういう心配をしてくれるというのは嬉しい。
 いつも素っ気無くて、のことなんかあんまり関心の無い振りをしているけれど、でもこうやって他の男と出歩くといても経ってもいられなくなって尾行までしてしまうなんて、斎藤は意外と嫉妬深い男であったらしい。もしかしたら、よりも嫉妬深いかもしれない。それは意外な発見だった。
 嫉妬深いのは一寸困るけれど、でもそこまでしてくれるということは、それだけのことを思ってくれているということで、そう考えると悪い気はしない。抑えようと思っても笑いがこみ上げてきて、はにやにやしてしまう。
「嫁入り前の娘が男の人と出歩くのが悪いなら、独り身の男の人の家に毎日通うのも悪いことですか?」
「俺は良いんだ! 俺はちゃんとしてるから」
「ちゃんとって?」
 先々のことをちゃんと考えているという意味の“ちゃんと”なのだろうか。もしそうだったら、凄く嬉しい。は斎藤の顔を覗き込むようにして追求する。
「ちゃんとはちゃんとだ!」
 の追求に、斎藤はますます顔を赤くして、怒ったように怒鳴る。そして、さっき畳んだばかりの新聞をまた乱暴に広げて、話を打ち切るように新聞の陰に顔を隠してしまうのだった。





 翌日、いつものようにが斎藤に茶を出すと、またあの甘い香りがした。まだあの兎の匂い袋を持っているらしい。
「お前、まだあの匂い袋持ってるのか?」
 不快そうに片眉を上げて、斎藤が尋ねる。その質問に、はきょとんとして、
「ええ。折角だし。可愛いから、匂いが無くなってもとっておこうかと思ってますけど?」
「それはお前………」
 自分があげたものを、相手の女が大切に持っていたら、男は自分に気があると誤解するものだ。そういう男心を、分かっていないに、斎藤は苛々する。
 というか、この兎の放つ芳香が、深町の存在を主張しているようで腹立たしい。小さいくせにこんなに強い香りを放つのも、あの男の図々しさを表しているかのようだ。
「匂い袋なら新しいのを買ってやるから、それは捨てろ」
「何でですか? 良いじゃないですか、匂い袋くらい」
 斎藤の乱暴な要求に、はあからさまに厭な顔をする。
 昨日は斎藤の焼き餅が嬉しかったけれど、気に入っている兎の匂い袋を捨てろだなんて、酷い。確かに深町から貰ったものだけど、でも兎の匂い袋には罪は無いのだ。
 ぷうっと膨れて抗議の姿勢を見せるが、斎藤はそんなものは屁でもないように書類に視線を落とす。彼が一言言えば、は何でも言うことを聞くと思っているらしい。
 そういう斎藤の態度にもカチンときて、は胸元から兎の匂い袋を引きずり出すと、灰皿の横にバシッと叩きつけた。
「捨てるのは勿体無いから、臭い消しに此処に置いておきますからね! 前からずっと思ってたけど、斎藤さんの机、臭いし」
「臭い?! 俺は臭くないぞ!」
 の臭い発言に、斎藤は大人気ないくらい真っ赤になって怒鳴り返す。けれども負けずに、
「臭いです! 煙草臭い! お陰であたしまで煙草臭いって言われるんですから」


 ―――――こうして斎藤の机には雪兎の形をした匂い袋が鎮座ましまして、毎日甘い匂いをぷんぷんさせている。それに負けじと斎藤もいつもよりも頻繁に煙草を吸うものだから、執務室の空気は真っ白だ。お陰では以前に増して煙草臭くなってしまって、煙草を吸うわけでもないのに斎藤と同じ匂いになってしまうのだった。
<あとがき>
 突然のライバル出現に慌てる斎藤です。部下さんがあんまり自分に懐いてるからって油断してると、さらっと他の男に攫われてしまいますよ(笑)。
 しかし、他所の男からプレゼントを貰ったといっては苛々し、他の男と遊びに行くのを尾行するなんて、余裕無さすぎだな、斎藤。いや、それだけ部下さんを溺愛してるんでしょう。溺愛しているなら、何処かに連れて行くなりご機嫌を取れって話なんだが(苦笑)。
 そんな嫉妬深い一面を知って、兎部下さんも嬉しい半分、鬱陶しい半分。そろそろ急展開させるか、力関係を逆転させるかしたいですね。とりあえず、ほっぺにちゅうを(以下略・笑)。
 ちなみにタイトルは、堺雅人さんが出ていたドラマから。すんげぇベタベタの、トンデモドラマでしたがね(笑)。
戻る