彼女の彼
最近、性質の悪い風邪が流行っているらしい。一寸風邪を引いたかなと思った翌日には突然高熱で倒れて、それが何日も続くことがあるという。体力の無い幼児や老人には命取りになることもあるらしく、誰も彼も他人の咳には敏感になっている。警視庁でも流行の風邪で倒れた者が何人もいて、ただでさえ年度末を控えたこの時期は忙しいのに、更に人手が足りないのが追い討ちを掛けて大変なことになってしまっている。ここで倒れたら周りから何を言われるか分かったものではないから、も毎日うがいと手洗いは欠かさない。それにが倒れたら、斎藤の夕飯と兎の面倒を看る者がいなくなってしまうのだ。
そうやって気が張っていたせいか、この冬は何事も無く過ごしていたのだが、ここ数日、少し喉がいがらっぽくて、少し咳をするようになってきた。幸いそれ以外の症状は無いから、空気が乾燥しているせいだろうとは思うけれど、油断は出来ない。次の休みには、友人が住み込みで働いている診療所に行ってみようかと思う。の友人には医者の卵がいて、よく診て貰っているのだ。
「あら、ちゃん」
夕飯の買出しをしていると、後ろから若い女に声を掛けられた。
「あー、恵ちゃん」
も嬉しそうに声の主に呼びかける。恵は、かかりつけの診療所で働いている、の友人だ。会津の生まれだそうで、そのせいか色白の美人で、同い年だけどあんな大人の女性になりたいなあと、は密かに憧れている。恵のようになれたら、斎藤だって自分を子ども扱いしないと思うのだ。
「まあ、可愛い兎さん。ちゃんの?」
赤い胴輪を付けて同じ色の紐で繋がれている兎に気付いて、恵が尋ねる。
正月に少し太って以来、買い物ついでの兎の散歩は毎日続けているのだ。そうしないとまた運動不足で太って、斎藤に“非常食”呼ばわりされてしまう。
「ううん。この子は上司の人が飼ってるの。面倒見ないから、あたしが世話してるんだけど」
「あー、いつも話してるおじさんね」
の上司のことは、恵も何度も聞かされている。背が高くて痩せぎすで、仕事が出来て優しい“大人の男の人”なのだそうだ。そりゃあ一回りも歳が違えば大人だろうし、その男の歳を考えると、に振られたら後が無いことは本人も判っているだろうから、逃げられないように人一倍優しくもなろうというものだ。恵はその男に会ったことは無いけれど、のように若くて可愛い娘にはそんな中年男は似合わないと思う。
しかもその男は、毎日のようにに夕飯を作らせて、おまけに兎の世話まで押し付けているというではないか。そんな歳でこんな可愛い娘に相手をしてもらえるのだから、普通なら男の方が下にも置かぬ接待をして、への感謝の気持ちを示すのが筋だろうに。は相手の男にベタ惚れのようだが、恵はまだ見ぬ彼に敵意のような感情を抱いている。勿論そのことは、には秘密だが。
「おじさんじゃないよぉ。そりゃあ、恵ちゃんの好きな人に比べたら、一寸年取ってるけど」
ぷぅっと膨れて、は抗議する。確かに斎藤はたちの歳から見れば“おじさん”の部類に入るだろうが、でもおじさん臭くはないと思う。服の上からしか知らないけれど、まだ腹も出ていないようだし。実物の斎藤を見たらきっと、恵も考えを改めるとは思うのだ。
でも、実物の斎藤と引き合わせて、恵が彼のことを好きになったら困ると思い直す。恵は大人っぽい美人だし、すらりと背も高いから、なんかよりもずっと斎藤に釣り合うだろう。斎藤ものように手のかかる女よりも、恵のように自立した美人の方が良いなんて思うかもしれないのだ。恵と斎藤を取り合うことになってしまったら大変だ。
恵にも好きな人がいるらしいけれど、その人は別に好きな人がいるらしくて、一寸事情がややこしいらしい。その人は28歳の貧乏道場で居候をしている剣客で、これといって仕事はしていないのだそうだ。恵は斎藤のことをあまり良く言わないけれど、その剣客だってあんまりいい男ではないとは思う。恵は良い人だと言い張るけれど、働かない男は駄目だ。いつか恵の好きな人に会う機会があったら、ちゃんと働きなさい、と説教してやろうといつも思っているくらいなのだ。
お互いが自分の好きな人は最高の男で、相手の好きな男は駄目な男だと思っているというのは、冷静に考えると可笑しい。恋は盲目というけれど、本当に好きな相手の粗というのは見えないもののようだ。聡明な恵でさえもそうなのだと思うと何だか可笑しくて、は小さく噴き出してしまった。
「いつか、恵ちゃんの好きな人に会わせて。どんな人なのか、会ってみたいよ」
貧乏道場の居候で無職な上に、他に好きな人がいる男だけど、あの恵が好きになる男なのだから、実際に会ったら凄く良い人なのかもしれない。勿論斎藤には敵わないだろうけれど、は興味をそそられてきた。
「ええ、勿論。いつかその上司の人とみんなでお花見に行きましょう」
ふふっと笑いながら、恵も応える。そんな何気無い表情にも色気があって、同じ女なのにも少しだけドキッとしてしまった。
女のがドキッとするくらいだから、斎藤が見たらもっとドキドキするかもしれない。恵は斎藤のことを誤解しているみたいだから、ちゃんと会わせてどんなに素敵な人か見せてあげたいけれど、でも斎藤が恵を好きになっても困る。
「そうだ―――――」
急に何かが喉に引っかかったみたいになって、は激しく咳き込んだ。
「あら、風邪?」
背中を軽くさすってやりながら、恵が心配そうに尋ねる。
「うん……でも大丈夫だから」
「そう? 急に熱が上がる風邪が流行ってるから、暖かくしなきゃ駄目よ。今日は真っ直ぐ家に帰った方が良いわ」
恵が働いている診療所でも、急に熱が上がって担ぎこまれる患者が多い。彼らも一様に、初めは酷く咳き込んでいたらしいのだ。がその風邪とは限らないけれど、でも用心に越したことはないだろう。
大体、身体の調子が悪いのに、恋人でもない男の食事を作るというのがおかしいのだ。その上司も独り暮らしが長いなら、全く家事ができないわけでもないだろうし。兎さえいなければ、このままを家に引き摺って行きたいくらいである。
が、は小さく首を振って、
「大丈夫だよ。別に熱があるわけでもないし」
「そう………? でも気をつけなきゃ駄目よ。いきなり熱が上がることだってあるんだから」
「うん。ありがとう」
呼吸を落ち着かせると、は何でもないようににっこりと笑った。
恵には大丈夫だと言ったけれど、斎藤の家に着いた途端、は頭がくらくらしてきた。さっきまでは咳が出る以外は何ともなかったのに、急に頭は痛くなるし、関節が痛くなってきたし、立っているのも辛いくらいだ。
ずきずきと痛む頭に手を当ててみると、今まで感じたことのないくらい熱くなっていた。もうその熱を感じただけで倒れそうになったが、ここで倒れたら斎藤に迷惑になる。斎藤に迷惑を掛けたくない一心でどうにか家に上がると、買ってきたものを卓袱台の上に置いて、崩れるようにその場に座り込んだ。
の異常には兎も気付いたらしく、ふらふらと家に上がるのを心配そうに見上げている。それに気付いて、は無理矢理笑顔を作って兎の頭を撫でてやった。
「大丈夫だからね。少し休んだら良くなるから………」
が、その言葉とは裏腹に、自分の身体が自分のものではなくなっていくような感覚に襲われる。まるで魂が抜けていくように頭の中がふわふわしてきて、もう何も考えられないまま、は崩れるように畳に倒れこんでしまった。
とっぷりと日が暮れて星が見え始めた頃、漸く斎藤も帰宅した。大体この時間に戻ると、いい感じに夕食が出来上がっているのだ。
が、いつもなら灯りが点いて良い匂いをさせている我が家が、何故か真っ暗で人の気配も無い。いつもならは兎と遊びながら斎藤の帰りを待っているはずなのだが、今日は帰ってしまったのだろうか。そういえば少し咳をしているようだったし、用心して早めに帰ったのだろうか。
不審に思いながらも斎藤は家の灯りを点ける。と、そこにいたのは―――――
「っ?!」
卓袱台の傍でぐったりと横になっているの姿を発見して、斎藤は思わず悲鳴のような声を上げてしまった。の傍では兎が心配そうに蹲っていて、いつから倒れていたのか解らないが、とにかくただ事ではない状態だ。
兎を乱暴にどかすと、斎藤はの身体を抱きかかえて顔を覗き込む。彼女の顔は真っ赤になっていて、息をするのさえも苦しそうな様子だ。着物越しにも酷い熱を持っているのが判って、どうやら最近流行っている風邪らしい。警視庁を出て行くまでは元気そうにしていたのに、急にこんなことになってしまうとは。
しかし考えようによっては、斎藤の家で倒れたのは運が良かった。これで誰もいないの家で倒れていたら、誰にも気付かれないまま状態を悪化させていたかもしれないのだ。
「、分かるか? 目を開けろ」
焼けそうなほど熱い頬を軽く叩きながら呼びかけると、はゆっくりと目を開いた。が、それも意識が朦朧としているような半開きの目で、斎藤のことがちゃんと見えているのかも怪しいくらいだ。
熱のせいで潤んでいる目で斎藤を見上げ、は消え入りそうな掠れ声で応える。
「すみませ………まだ御飯、作って………」
「そんなのは良い! お前、かかりつけの医者はいるか? すぐに呼んでくるから」
この期に及んで夕食の心配をしているの様子に、斎藤は歯噛みをしたい思いになる。今は斎藤の夕食なんかより、自身の高熱の方が重大なことではないか。
「………小国診療所に………友達が働いているんです……。その人に………」
「小国診療所?」
その名前に、斎藤は僅かに眉間に皺を寄せた。小国診療所といえば“女狐”こと高荷恵が住み込みで働いているところではないか。しかもそこで働いている友達に診て貰いたいと言っているということは、と恵が友達だということか。
恵とが親しかったとは、予想外だった。世間は狭いというけれど、これは狭すぎである。ということはひょっとして、二人で会っている時に斎藤のことが話題に上ったりすることもあったのだろうか。が斎藤のことをどう言っていたのかは分からないが、どう言っていたにしても最悪である。
恵を此処に往診に来させたら、何を言われるか分かったものではない。とはいえ、息も絶え絶えで今にも死んでしまいそうな様子のを自宅まで運んでから恵を呼ぶというのは、どう考えても無理だ。斎藤のかかりつけの近所の医者を呼びつけるというのも考えたが、彼のかかりつけの医者は中年の男の医者である。中年男に診察をさせるなど、だって嫌がるだろうし、何より斎藤が嫌だ。それならまだ、同性の恵に診せた方がマシというものである。
こうやって悩んでいる間にもまだ熱が上がっているのか、は寒そうに小刻みに震えている。一刻も早く医者に見せなければ、死んでしまうのではないかと思うくらいだ。実際、今年の風邪は老人と子供の死者が出ている。
「分かった。呼んでくるから待ってろ」
恵にどう思われるかというのは、この際どうでも良い。後で何とでも説明は出来るのだから、今はを楽にさせてやるのが先決だ。
客用の布団に寝かせてやると、斎藤は小国診療所に走った。
「………………………」
斎藤に乱暴に腕を引っ張られて家に連れ込まれた恵は、赤い顔をして布団に寝ている友人を見て絶句してしまった。やっぱりあの時、無理にでもの家に連れて帰るべきだったとか、これほどまでに容態が急変するものなのかとかそういうこと以前に、何故斎藤の家でが寝ているのかということで今の恵の頭の中は一杯だ。
診療所を閉める直前に血相を変えた斎藤が駆け込んできて、往診しろと有無を言わさず人力車に押し込まれて拉致されたのだが(あれは拉致以外の何ものでもないと恵は思っている)、まさか診察相手がだったとは。というより、“優しくて大人の男な上司”というのが斎藤だったというのが何よりも驚きである。この男の何処をどうしたら“優しい”という表現が出てくるのか、赤い顔をしてうなされているの両肩を掴んでゆさゆささせながら問い詰めたいくらいである。
一瞬にして突っ込みどころ満載の状況であるが、今は突っ込みを入れるよりもの診察が先だ。恵は往診用の大きな鞄から道具を出しながら、斎藤に命令する。
「あんた、湯たんぽを作ってきて。それと、ひどい汗をかいているから、身体を拭くためのお湯と、この際あんたのでも良いから替えの着物も用意して」
「あ、ああ………」
いつもなら恵に命令されるなど許さないが、今回は状況が状況なだけに、斎藤は素直に厨房に引っ込んだ。
「それから、診察が終わるまでこっちに来ちゃ駄目よ」
一応念押しに厨房に向かって言うと、恵は早速布団をめくっての胸元を大きく広げる。
一通り診察を済ませた結果、やはり巷で流行っている型の風邪であるらしいことが判った。熱冷ましの注射も打って、調合した薬を飲ませて、あとは栄養のあるものと睡眠を摂れば一週間もすれば治るだろう。
が、問題は静養場所である。もう少し熱が下がれば診療所なり恵の家なりに連れて行って看病も出来るが、今の状態では移動中に疲労させて、更に容態を悪くするかもしれないのだ。かといって、このまま斎藤の家に置いて帰るのも、別の意味で危険である。斎藤との関係がどのようなものか恵にはまだ計りかねているが、弱った兎を狼の巣に置いて帰るのも同然ということだけは確かだ。
これは看病と防波堤を兼ねて、恵が此処に泊まるのが妥当だろう。身体を拭いたり着替えさせたり、斎藤にさせるわけにはいかない。
「ちょっとー、お湯と湯たんぽ持ってきてー」
その言葉を待っていたかのように、湯たんぽと湯を張った盥を抱えた斎藤が部屋に入ってきた。恵の隣に座って湯たんぽを布団の中に差し入れながら、
「で、どんな感じだ?」
「最近流行している型の風邪ね。熱冷ましの注射を打っておいたから、明日の朝には大分下がると思うわ。そうしたら診療所に入院させましょう。そっちの方が手が行き届くことだし」
「そうか………」
恵の説明に、斎藤はほっとしたように息を吐くと、今度は箪笥から着替えと手拭いを出してきた。そして、熱冷ましのせいか汗を噴き出させている額や首元をそっと拭いてやる。その様が、まるで幼い娘を看病している父親のようで、この男にそんな優しい一面があるのかと、恵は大いに驚いた。
唖然として声を掛けるのも忘れている恵の存在など目に入っていないかのように、斎藤は今度は冷たい水を張った盥を持ってきて、濡らした手拭いをの額に置いたりと、甲斐甲斐しく世話を続ける。こんなにまめまめしく動く斎藤など、冷酷な剣心、料理上手な薫、紳士的な左之助、内気な弥彦くらいありえない姿だ。何やら壮大な騙しに遭っているのではないかと疑いたくなる恵だが、心配そうな斎藤の表情を見ていると、どうやらこれも彼の一面なのだと思わざるをえない。人間には色々な貌があるとはいうけれど、斎藤にこんな貌があるとは意外だった。
は斎藤のことを“優しい”といつも言っていたけれど、それはこういう面ばかり見ているからだろうかと恵は考える。恵たちに見せる性悪な不良警官の姿は、には全く見せていないのだろうか。どちらも本当の斎藤であろうが、この落差には呆れて言葉が出ない。別に斎藤に優しくして欲しいとは望まないが、しかしここまで差をつけられると腹も立つというものだ。
けれど考えようによっては、優しい面しか見せていないということは、それだけのことを大切に思っているということなのだろう。の話ではただの上司と部下だということだったが、が斎藤のことを慕っているのと同じくらい、斎藤ものことを可愛く思っているようだ。それはにとっては良い事なのだろうが、恵には複雑である。若くて可愛くて気立ても良いのに、何もこんなおっさんに引っかからなくても良いと思うのだ。世の中にはもっと若くて同じくらい優しい男もいるというのに。
「う………」
何か言いたそうに小さく呻くの声で、恵は現実に戻った。
咽喉が腫れている上に高熱で意識が朦朧としているせいで、うまく言葉が出ないのだろう。訴えかけるような潤んだ目で斎藤を見上げて、弱々しく布団から片手を差し出す。
「どうした? 何処か痛いのか?」
差し出された手を両手で包むように握り締めて、斎藤は恵が聞いたことのないような優しい声で問いかける。どうやら二人の世界に没頭して、恵の存在など忘れ去られているようだ。
「さいとー…さ………すみませ………」
「そんなの良いから。あとで食うもの買ってくるから、何か欲しいものないか? 菓子でも果物でも何でも良いぞ」
斎藤の優しい言葉に、は小さく首を振る。
「………兎さん…の御飯………。厨房に、人参があるから……切って………」
「ああ。ちゃんと切ってからやっておくから心配するな。それよりも何か滋養の付くものを食わないと―――――」
斎藤の必死な口調が可笑しかったのか、は小さく微笑んだ。が、その表情も束の間、すうっと目が閉じられて、握られていた手からも力が抜ける。
「っ?! おいっっ!!」
突然意識を失ったの耳元で、斎藤が血相を変えて呼びかける。
「寝付いたんだから起こすんじゃない!」
今にも揺さぶり起こしそうな勢いの斎藤の後頭部を思いっきり引っ叩いて、恵が怒鳴りつけた。いつもの斎藤ならそんなものは軽々と避けられたのだろうが、恵の殺気にも気付けないほどに没頭していたらしい。
が意識を失ったのは高熱のためではなく、熱冷ましの注射をしたせいだ。死にはしない。
叩かれたことで恵の存在を思い出したのか、斎藤はぎょっとしたような顔をした。
「お前、まだいたのか?!」
どうやら本気で恵のことを忘れていたらしい。いくらが死にそうなほど苦しんでいたとはいえ、自分で呼びつけた恵の存在を忘れるなど、言語道断である。まあ、それだけのことが心配だったのだろうが。
しかし、存在を忘れ去られていたお陰で、斎藤の意外な一面が見られた。若い女に優しくする斎藤など、金を出しても見られない面白い見世物だ。剣心たちにも見せてやりたいくらいである。
「いて悪かったわね。悪いついでに今日は泊まらせてもらうわよ。ちゃんのお世話もしたいしね」
「お前も泊まるのか?!」
あからさまに迷惑そうな斎藤の反応に、恵は何故か勝ったような気がした。こういうことに勝ち負けがあると思えないのだが、でも斎藤にそういう顔をさせたというのが、恵的には“勝ち”である。
優位に立った余裕か、恵は鼻先で笑って、
「当然でしょ。じゃないと、誰がちゃんの身体を拭いたり着替えを手伝ってあげるのよ?」
「それは………」
薬を飲ませたり、何か食べさせたり、額の濡れ手拭いを替えてやるくらいなら斎藤でも出来るが、身体を拭いたり着替えさせるのは絶対無理だ。否、斎藤としてはそれもしてやりたいくらいなのだが、が強固に嫌がるはずである。
その辺りは恵に任せるのが一番なのだが、それにしても彼女まで此処に泊まるとなると何かと困る。第一、恵にまで布団を貸したら、斎藤は一体何を着て寝れば良いのか。いくら春は近いとはいえ、朝晩はまだ冷えるのだ。
まあ一晩であれば、半纏やら着物やらを布団代わりにして寝ても構わない。が、問題は誰が斎藤の布団を使うかだ。はっきり言って、恵には自分の布団を使われたくはない。斎藤は妙に潔癖なところがあって、自分に触れるものが他人に使われるのを極端に嫌うのだ。
「じゃあ、身体を拭いてやったら、俺の布団に寝かせてやれ。で、お前が客用の布団を使う。それで良いだろ?」
「あら、わざわざ移動させなくても良いじゃない。私はあんたの布団でも我慢できるし」
斎藤の提案に、恵はきょとんとして反論した。斎藤の布団など煙草臭そうだが、一晩だけだし我慢できないことはない。それよりも、折角湯たんぽで温まった布団から冷たい斎藤の布団にを移動させるのが可哀想ではないか。
が、斎藤は憮然として、
「俺が我慢できないんだ。自分の布団に他人が寝るのは気持ち悪い」
「………ちゃんも“他人”だと思うけど?」
「…………………っ!」
恵の冷静な突っ込みに、斎藤は顔を赤くして言葉に詰まってしまった。
確かに恵の言う通り、は家族でもなければ恋人でもない、斎藤にとっては赤の他人だ。赤の他人の恵が布団を使うのが嫌なら、同じく赤の他人のが使うのも嫌がるのが筋ではないか。恵が使うのを拒否して、が使うのは容認するというのは、理屈に合わない。
赤い顔のまま目が泳いでしまっているという世にも珍しい斎藤の様子に、恵は可笑しそうにくすくすと笑う。一頻り笑った後、今度は真面目な顔を作って、
「ちゃんとのことは、後でゆっくりと聞かせてもらうわ。貴方があの子をどう思っているのか、前から気になっていたしね。
さ、身体を拭くから、厨房にでも行ってて頂戴」
斎藤の布団に寝かせられたの横で、恵と斎藤は向かい合って座っていた。いつもなら他人を尋問する立場の斎藤だが、今夜は恵に尋問を受ける羽目になってしまったのだ。尋問の内容は勿論、のことである。
病人の枕元で話し合う内容ではないと、いつもの勢いは何処へやら、斎藤はどうにか逃げようとしていたのだが、恵が執拗に喰らい付いて離してくれなかったのだ。いくら大切な友人のためとはいえ御苦労なことだと、斎藤は溜息をつきたくなる。女の友情は薄氷より脆いと聞いていたが、なかなかどうして、こういう時だけは男の友情よりも厚いようである。
「ふーん………。じゃあ、ちゃんとはまだ何もないわけね。で、これからはどうなわけ? ちゃんと先のことは考えてるの? このままダラダラと都合良く使うつもりじゃないでしょうね?」
一通り尋問を済ませてやっと解放されるかと思いきや、恵はここからが本番とばかりに質問攻めにする。ずいっと膝を詰め、全ての質問に答えるまで解放してやるものかと気合の入った目で睨みつける恵には、流石の斎藤もたじたじだ。
他のことであれば相手を優位に立たせるなど絶対に許さないだろうが、に関することだけはどうも調子が狂ってしまうのだ。これからどうするだの、先のことは考えているのかだの、余計な世話だと一蹴すれば良いことなのだろうが、それもできない。それがの耳にでも入れば、自分のことは真剣に考えていないのだと誤解されてしまうかもしれないのだ。
とはいえ、恵にどう考えているかと報告する義務があるわけでは無し、斎藤は憮然として応える。
「それなりには考えている。お前にどうこう言われる筋合いは無い」
「あるわよ。ちゃん、口には出さないけれど、不安に思ってるんだから。あんたがはっきりしないから、このまま一緒にいていいのか、あんたの迷惑になってないか、ずっと考えてるのよ?」
話を打ち切ろうとするのが見え見えの斎藤の態度に、恵は声は抑えながらも激しく責め立てる。
恵だって本当は、他人の色恋沙汰になど首を突っ込みたくはないのだ。けれど、斎藤のことを話すの様子が時々不安そうだったり、迷いがあるのを見ていると、心配せずにはいられない。が気立てが良い娘なだけに、そういう風に不安に思わせる斎藤が最低に思えてくるのだ。が恋心を抱いているのを良いことに、利用するだけ利用してポイ捨てなんてことをしたら、絶対に許さない。
こうやって斎藤の家に通うようになって半年以上経つというのに手を繋ぐ以上のことは何も無くて、時々期待させるような甘い言葉をくれてやるだけで決定的なことは言わないなど、に対して誠実ではないと思う。は身体の具合が悪くても斎藤の御飯を作ってやろうとするくらい、彼に尽くしているというのに。
鬱陶しげに押し黙る斎藤を見て、恵は小さく溜息をついた。男にとって、自分みたいな“彼女の友人”というのが一番鬱陶しい存在だというのは、恵自身もよく解っている。彼女だって、できることなら二人のことには口出しをせずに生温く観察したいくらいなのだが、そうはいかない状況だから嫌でも口出しをしてしまうのだ。
は時々、斎藤が自分をどう思っているのか不安に思っているが、恵が見た限りでは相思相愛だと思って間違いないと思う。恵たちの前での斎藤と、に接する斎藤があれだけ違うのだから、一目瞭然ではないか。は“優しい斎藤”しか知らないから、自分だけ特別ではないのかもしれないと思っているのかもしれないが、恵から見れば本当に特別の特別だ。
結局、言葉にしてやらないから問題なのだろう。態度で判るだろうと言われるかもしれないが、判っていても言葉にしてもらえれば安心できるのだ。わざわざ言わなくても、と斎藤のような男は思っているかもしれないが、にとってはそこが重要なのである。
「ねえ、ちゃんのことをどう思ってるのか、ちゃんと言ってあげて。そしたらちゃんだって安心するんだから」
「うるさい! もう寝る!」
珍しく下手に出る恵に苛立たしげに怒鳴りつけると、斎藤はそのまま隣に部屋に引っ込んでしまった。
真夜中、小さな水音で恵は目を醒ました。手拭いを絞っているような音で、が額の濡れ手拭いをまた冷やしているのだろう。
それくらい一言言ってくれれば自分がやるのに、と恵が体を起こしかけた時、囁くような男の声が聞こえた。
「大分熱も下がったようだな」
「はい」
こちらも囁くような声であるが、が嬉しそうに返事をする。声の調子では斎藤の言う通り、容態は落ち着いたらしい。
たちの方に背を向けた形で眠っているため、二人の様子は声でしか観察できないが、横で恵が寝ているというのになかなか良い感じのようだ。二人とも、恵は熟睡していると思っているのだろう。
咳払いの一つでもして起きているのを教えてやろうかと思わないでもなかったが、面白そうなのでこのまま息を殺して聞き耳を立てる。
「明日から暫く、診療所で厄介になると良い。有給も残ってるしな。独りで寝ているよりも安心だろう」
「でも………」
の声が悲しそうに沈む。
「兎が心配なら、仕事が終わってから連れてきてやる。そうだ、ついでに何か食い物も買ってこよう。何が食べたい?」
これまで聞いたことの無い斎藤の優しい声と口調に、恵は思わず飛び起きそうになってしまった。が、ここで起きているのがバレてしまうのは彼女としても困るので、じっと堪える。
「寒天に果物が入っているの。それか葛饅頭が良いです」
ここぞとばかりに甘えようとしているのか、は一寸舌足らずな声を出す。その様子が可笑しいのか愛しいのか、斎藤が小さく笑う気配がした。
「そんな身にならんものじゃなくて、ちゃんとしたものを食わんといかんだろうが。滋養が付くように肉を買ってきてやろうか」
「そんなの食べられないですよぉ」
恐らく口を尖らせて膨れているのだろう。は低い声で反論する。
高熱が何とか下がった人間が、肉など食べられるわけがないではないか。滋養を付けさせたいなら、せめて卵粥にしろ、と恵は密かに突っ込みを入れる。
しかしまあ、斎藤にもこうやって病人を労われる一面があるのだということは、恵には新たな発見だった。尤も、それは限定かもしれないけれど。けれどそれなら尚更、はそれだけ斎藤の“特別”だということだ。
は時々、自分が斎藤の傍にいるのが迷惑ではないか不安になる時があると言っていたけれど、今日の様子ではそれは杞憂だと断言できる。それどころかが離れてしまったら、斎藤の方が立ち直れないかもしれない。恵の見立てでは、それくらい彼の気持ちはに傾いている。
<心配して損したなあ………>
はっきり口で言ってやれと、お節介を焼いて斎藤に詰め寄ったけれど、どうやらその必要は無かったようだ。そりゃあ、ちゃんと「好き」と言ってやるのが一番の理想だけれど、でもこうやって優しく看病してもらえるだけでも十分ではないか。恵など、想い人の心は狸娘のもので、完全な片思いなのだから。
背後ではまだ二人で何やらボソボソと話し合っているようだが、もうどうでも良くなってきた。これ以上盗み聞きをしていたら、二人の熱にあてられてしまいそうである。
<お邪魔虫は退散しなきゃね>
気取られないように小さく苦笑して、恵はそっと布団の中に潜り込むのだった。
暦の上ではもう春ですが、今年はまだ風邪やインフルエンザが流行っているようですね。皆さん、大丈夫ですか? 私は一寸大丈夫じゃないかもしれません(笑)。職業柄、自分が治しても同僚が何処からとも無く菌を貰ってくるので、職場でピンポン感染中です。もう3月なんですけど。
というわけで、病に倒れた兎部下さんと斎藤です。斎藤が看病する話を………と思っていたのですが、恵さんが出てきたら何となく恵さん視点の話になってしまいました。斎藤、あんまり看病してないやん………。本当は体を起こしてやって、薬湯を飲ませてあげたりとか、お粥をふーふーして食べさせてあげたりとかしたかったのですが、よく考えたらお粥ふーふーな斎藤って、ありえない………(笑)。
恵さんと兎部下さんは、同い年設定です。兎部下さんのかかりつけの診療所に恵さんが住み着いて、歳が近いことから仲良くなったのではないかと脳内設定。この二人を繋げて、他のレギュラーメンバーとの繋がりが出来れば良いなあ、と思っています。そろそろ二人だけの世界から脱却させたいですしね。ほら、蒼紫たちと違って、折角東京に住んでいることですし。
当初の予定とは違う内容になってしまいましたが、弱っている兎部下さんの手を握って遺言まがいのことを聞く斎藤、というのが書けたので、氷高的には満足です(お客様的には満足ではないと思うよ、という突っ込みは無しの方向でお願いします)。