兎さんと私
斎藤の家に可愛い家族が増えた。“家族”といっても、嫁が来たとか隠し子が現われたとか、そういうわけではない。ハイカラな言い方をすれば、“ペット”を飼うことになったのである。秋の終わりに、北関東の方に熊狩りの応援出張に一月近く行っていたのだが、その時に熊の罠にかかった野兎を拾ったのだ。本当は一緒に見つけた地元の警官と鍋にして食うはずだったのだか、まだ身体が小さくて食うところが少ないということで、斎藤が生きたまま引き取ることにしたのである。罠に挟まれて、後ろ足を怪我して動けないということもあったし。
野生動物というのは人間に馴れないと聞くけれど、この兎はまだ子兎だったせいか、斎藤にもにもすぐ馴れた。特にには、毎日餌をくれて可愛がってくれる人と理解しているのか、本来の飼い主である斎藤よりも懐いている。が晩御飯を作りに家に来ると、わざわざ段ボール箱の家から出てきてお出迎えをするくらいなのだ。
「兎さーん、こんにちはー」
斎藤から預かった鍵で玄関を開けて、は一目散にお出迎えに来た野兎の頭を撫でてやる。と、兎も嬉しそうに目を細めてを見上げた。
拾われた時は小さくて痩せっぽちだったけれど、山よりも食料が豊富な此処に来てからはあっという間に丸々と太って身体も大きくなった。硬くて茶色だった毛も、真っ白でふわふわの冬毛に生え変わっている。抜け毛の時は、毛が散ると斎藤が兎を箱の中に閉じ込めていたが、綺麗に生え変わってからは少しは身体を撫でてやったりして可愛がっているようだ。
考えてみれば、兎は朝も夜も斎藤と一緒なのだ。休みの日に至っては、一日中一緒である。斎藤は動物を可愛がったりするところを他人に見られるのは嫌がりそうだから、もしかしたらの知らないところでもの凄く猫可愛がりをしているかもしれない。軽く頭を撫でてやっているところしか見たことないけれど、もしかしたら抱っこしてあげたりみたいに口付けているかもしれない。真っ白でふわふわで、こんなに可愛い兎なのだから、斎藤だってそれくらいやってもおかしくはないのだ。
そう思うと、急に兎が羨ましくなってきた。斎藤の膝に乗せてもらって身体を撫でてもらえたら、どんなに良いだろう。の身体では絶対にしてもらえないことだけど、兎だったら抱っこも膝にお座りも自然におねだりできるのだ。
は兎を抱き上げると、体を撫でてやりながら唇を尖らせて小さく呟く。
「いいなあ、兎さんは。あたしも兎さんになりたいよ」
「じゃあ、交代してあげましょうか?」
「?!」
誰もいないはずなのに、何処からともなく可愛らしい女の子の声が聞こえてきて、はびっくりして家の中を見回した。が、当然のことながら、家には誰もいない。
空耳かと首を傾げるの胸がとんとんと叩かれて、また女の子の声がした。
「私ですよ、さん。こっちです」
ぎょっとして下を見ると、胸に抱いていた兎が耳をぱたぱたさせながらを見上げている。
「私になりたいなら、一寸だけ交代してあげますよ」
口をもぐもぐ動かして言う兎の姿に、は声を出すのも忘れて目を瞠ったまま硬直してしまった。兎は鳴かない生き物のはずなのに、目の前の兎は当たり前のように人の言葉を喋っているのだ。こんなこと、あるわけがない。
固まってしまっているの顔が可笑しかったのか、兎は目を細めてふふっと笑う。その表情も何だか人間じみていて、これにはも妖怪でも見たかのように顔を真っ青にしてしまった。
「きゃああああっっっ!!! 兎が喋った―――――っっ!!!」
投げ出すように手を放されたが、兎は上手に受身を取って畳みの上に転がる。そして体を起こすと、不快そうにぷるぷると全身を揺すって、
「危ないなあ。また足を怪我したら、どうしてくれるんですか。足を怪我するのは、私たち兎にとっては死活問題なんですよ?」
「………ごめんなさい」
兎に説教されて謝るなんて、どう考えても異常なことなのだが、兎の勢いに押されては神妙に謝ってしまった。いい大人が兎の勢いに押されるなど、情けない限りなのだが。
「まあ良いですけどね。それより、私が羨ましいと言ってましたけど、本当にそう思います? 私にはさんの方が羨ましく見えるんですけど」
「だって、休みの日は一日中斎藤さんと一緒なんでしょ? 私だって斎藤さんと一日中一緒にいたいし、膝に座って体を撫でてもらいたいもん」
「ふーん。そんなの、斎藤さんにお願いすれば良いじゃないですか。きっと聞いてくれますよ」
「やだ! そんなの恥ずかしくて言えないよ。それに斎藤さん、絶対“阿呆”とか言って怒るよ」
あんなに驚いたくせに、はもう普通に友達と話すように兎と会話している。根が単純だから、こんな非常識な状況に順応するのも早いらしい。
の反論に、は可笑しそうにふふっと笑って、
「言いませんよ。試しに言って御覧なさい。きっと喜んで膝に乗せてくれますよ」
「言えるわけないじゃない、そんなこと!」
怒ったようにそう言うと、はぷうっと膨れた。
そんなことを言えるなら、兎になりたいなんて最初から思わない。兎だったら恥ずかしげも無く膝抱っこもおねだりできるだろうが、人間はそうはいかないのだ。斎藤の生活に強引に入り込んでいるでも、一応恥は知っている。
兎は一寸考えるように首を傾げての顔を見ていたが、どうやら本気で自分と交代したいらしいということが解ったらしく、嬉しそうに目を細めた。そして、前足をくいっと持ち上げて、
「丁度私もあなたになりたいと思っていたところです。明日夕方までの丸一日、入れ替わりましょう。私の手を握ってください」
「本当っ?! 替わる替わる!!」
弾けるように明るい顔になると、は兎の前に勢いよく座り込んだ。
兎と入れ替わるなんて俄かには信じられないことだが、相手は喋る兎なのだから何でも出来そうな気がする。死ぬまで兎の身の上というわけではないのだし、丸一日限定の兎生活というのはきっと楽しいと思う。だって、明日は斎藤は仕事が休みなのだ。
兎になって頭を撫でてもらったり、体を抱き上げてもらったり、新聞を読む斎藤の膝の上で昼寝をするところを想像したら、嬉しくて恥ずかしくてはうっとりしてきた。兎の姿だったら人間の姿では恥ずかしくて出来ないことも、何でも出来そうな気がする。今夜は斎藤の布団に潜り込んでしまおうなんて、そんな大胆なことを考えて勝手に興奮してしまい、は顔を真っ赤にして両腕をぶんぶんと振った。
そんなの姿を、兎は呆れた目で見上げる。想像だけでここまで興奮できるというのが、羨ましいというか何というか。人間は兎よりも知恵が多いから、想像だけでも本当に体験したように思えるのだろうかと、兎は考えた。
「斎藤さんが戻る前に入れ替わりましょう。さあ、早く私の手を持って」
兎の冷静な声にはっとして、は慌てて兎の前足を握る。完全に兎に仕切られて、これではどちらが格上の生き物か分からないくらいだ。
「じゃあ、目を閉じて」
「うん」
兎に言われるままに、は目を閉じた。
「何があっても、明日の夕方までは元には戻れませんからね。じゃあ、いきますよ」
兎の声と同時に、は身体がふわりと浮くような感覚に襲われる。が、浮いたと思った刹那、今度は奈落の底に落ちるように、一気に意識を失った。
「さん、さん」
体をゆさゆさと揺すられて、ははっと目を醒ました。
『うー………』
まだ薄らぼんやりする頭をぷるぷると振りながら、はゆっくりと体を起こす。
斎藤の家に御飯を作りに来て、どうやらいつの間にか眠っていたらしい。早く夕御飯を作らないと、斎藤が帰ってきてしまう。それにしても、兎と話すなんて変な夢を見たなあ、などと思いながら顔を上げると、そこにいたのは―――――
『うわぁあああああっっっ?!』
目の前に座っていたのは、自身だったのだ。しかも目の前のは見上げるほどに大きくて、慌てて自分の手を見ると真っ白な毛に覆われた“前足”になっている。変な夢だと思っていたが、やっぱり本当にあの兎が喋って、と入れ替わってしまったらしい。
耳をピンと立ててあわあわしている兎になった(略して“兎”)を見て、になった兎(略して“兎”)は可笑しそうにふふっと笑う。その表情が本物よりも何だか大人っぽくて、兎としては複雑だ。
「どうです、私の体は? 明日の今頃まではこの状態ですから、せいぜい兎の生活を楽しんでくださいね。私も人間の生活を楽しませてもらいますから」
『うん! ありがとう』
耳をぱたぱたさせて、兎は礼を言う。兎の顔には表情が出ないが、とても嬉しそうだ。
明日一日斎藤に可愛がられる兎生活を想像すると、兎は今から興奮で目が潤んできてしまう。真っ白な毛に覆われていなければ、全身を真っ赤にしていただろうと思われるくらいだ。兎の可愛らしさを前面に押し出して、斎藤に体を摺り寄せてみたり、こちらから積極的に口付けをねだってみたり、兎の体だったら何でもできるのだ。
これからのことを考えるだけで体の中がもぞもぞしてきて、兎は全身をもじもじさせてしまう。その様子を見て、兎はまたくすくすと笑った。
「帰ったぞ」
そうこうしているうちに、斎藤が帰ってきた。今日も最低限の残業しかしてこなかったようだ。が御飯を作りに来る前は執務室に泊まり込んでいる時もあったのに、最近はちゃんと世間の夕食時にはちゃんと帰ってきている。自分と一緒に夕御飯を食べるために生活習慣を変えてくれたというのが、には嬉しい。
「お帰りなさーい!!」
兎は本物のと同じように弾んだ声で応えると、兎だった名残か、ぴょんぴょんと跳ねるように玄関に走った。兎も慌ててその後を追う。
と兎が一緒に駆けつけてきて、斎藤は一寸驚いたように目を瞠った。いつものだったら厨房からひょこっと顔を出すだけだし、兎もわざわざ走って出迎えるなんてないのだから当然だ。
「お帰りなさい!」
もう一度元気一杯にそう言うと、兎はぴょんっと斎藤に抱きついた。
「うわっ………?!」
『ああっ?!』
突然の兎の行動に、斎藤と兎は驚きの声を上げる(兎は声は出せないが)。
本当ならそうやって抱きつくのは兎の役得だったのに。きゅうっと斎藤に抱きついたまま動物のように身体を摺り寄せる兎の足許で、兎はぴょんぴょん跳ねながら全身で抗議する。が、兎はそんなことには全く気付いていない様子で、ふふっと笑いながら相変わらず抱きついたままだ。姿は人間でも中身は兎だから、そんな気配りなんか出来ないのだろう。
斎藤も突然抱きつかれて怒るかと思いきや、いつものように「阿呆」と言うわけでもなく、兎の身体を引き離そうというわけでもなく、びっくりしたような一寸困ったような複雑な表情をしている。よく見ると困った中にも一寸嬉しそうな様子も見て取れて、べたべたするのは嫌いな人だと勝手に思い込んでいたけれど、本当はそうでもないらしい。そう思ったら兎に抗議しているのは損だと、兎も斎藤の脚に抱きついた。
『ねー、斎藤さーん、あたしも抱っこー』
ところが、脚に抱きついている兎に、斎藤は一寸鬱陶しそうな目を向けて、振り払うように軽く脚を振る。
「お前は後でに遊んでもらえ」
『えー?』
予想では兎を一旦放して兎を抱き上げて「よしよし」としてもらえるはずだったのに、こんな対応をされるなんて。あまりのことに凹んでしまったが、もしかしたら兎の目があるから可愛がってくれないのかな、と思い直す。
斎藤は兎の身体を一旦離すと、部屋に上がって着物に着替え始める。着替え終えたところで、兎は斎藤の着物の裾を軽く引っ張った。
『ねー、斎藤さーん、遊んでー』
「こら、引っ張るな!」
おねだりをする兎の口から裾を引っ張り出すと、斎藤は一寸怖い顔をした。ここまですれば、軽く頭くらい撫でてもらえると思っていたのに悉く期待を裏切られて、兎は悲しそうに耳をへたらせる。
兎が抱きついて甘えたら少しだけ嬉しそうな様子を見せていたくせに、どうしてこんなに可愛い兎が甘えてもこんなに冷たくするのだろう。こんな可愛い兎が擦り寄ってきたら、だったら嬉しくて嬉しくて、もう全身撫で回したり頬擦りしたりしたくなるのに。甘え方が悪いのかなあ、と思うけれど、兎だってこうやって擦り寄って喜ばれているのだから、甘え方は間違っていないはずだ。
落ち込んでいる兎を無視して、斎藤は卓袱台の上に置かれている新聞を取り上げると、その場に座って新聞を読み始める。新聞記事に夢中になっているその様子を見て、兎は足音を立てないようにそっと斎藤に近付いた。おねだりして駄目なら、こちらから積極的に行くまでだ。折角兎になったのだし、こうなったら意地である。
きちんと正座している斎藤の膝の上に、兎が必死によじ登る。が、膝に座ったと思ったのも束の間、首根っこを掴まれて畳に戻されてしまった。
「だからに遊んでもらえと言ってるだろうが。どうしたんだ、今日は?」
いつもよりもしつこく甘えてくる兎に、呆れたように斎藤が言う。いつもは餌をくれたり遊んでくれるに甘えているのに、今日に限って斎藤にばかり纏わりつくのだから当然だ。
膝からも引き摺り下ろされて、流石に兎もぷうっと全身を膨らませる。こんなはずじゃなかったのに。これじゃあ、兎ばっかり良い思いをしているじゃないか。今は兎も厨房に引っ込んでいるんだから、膝に座るのくらい許してくれても良いのに。
真っ白い身体で丸々と膨らむと、まるで餅が膨らんでいるようで、その姿に斎藤は思わず笑い声を漏らしてしまった。
「何だ、お前。の真似か?」
も怒るとすぐに顔をぷうっと膨らませる癖がある。そうすると子供みたいな顔がますます子供のようになって、斎藤はいつも膨らんでいる頬を指先で突付いて潰してやりたくなる衝動を抑えるのが大変なのだ。
膨らんだの頬を潰すのは出来ないから、代わりに膨らんだ兎の脇腹を指先で突いてみる。すると、兎はびくっと身体を跳ねさせて、元の大きさに戻ってしまった。脇腹を触られるなんて恥ずかしくてドキドキしてしまって、耳がぱたぱたしてしまう。
恥ずかしがって丸まっている兎を見て、斎藤は可笑しそうに口許を緩めて身体を撫でた。怒ったところを撫でてやったりからかったりすると、もそうやって身体を丸めるように俯くのだ。今日の兎の仕草は、何だかを連想させる。兎の中身はなのだから当然なのだが。
やっと身体を撫でてもらえて、兎が嬉しそうに斎藤の手に頬擦りしたのも束の間、厨房から兎が声を掛けてきた。
「斎藤さん、今日は外食にしませんか? たまには自分が作ったのじゃないのを食べたいですぅ」
ぴょんぴょんと跳ねながら甘えた口調でそう言うと、兎は背中から斎藤に抱きついた。
『ああっ!! あたしの体で斎藤さんに抱きつかないでよ!! あたしがふしだらだって思われるじゃないっっ!!』
兎は後ろ足で立って全身をばたばたさせながら抗議するけれど、兎はそんなのは聞こえない振りをして斎藤に抱きついたまま横顔を覗き込む。対する斎藤はまたまた困ったような顔をしたけれど、目の縁を紅く染めていて、何だか嬉しそうだ。そんな斎藤の様子にも、兎は腹が立つ。
人間の体でやったらふしだらだと思われるから兎の体になったのに、兎がの姿で自身がやりたかったことを全部やってしまうのだから、何のために兎になったのか解らなくなってしまう。そういえば兎は、入れ替わった直後に「私も人間の生活を楽しませてもらいますから」と言っていたから、の体を使って兎では出来ないことをしようと思っていたのかもしれない。このままじゃ何をやられるのか、は急に不安になってきた。
「そうだな、給料も出たことだし………。鍋でも食いに行くか」
首に巻きついている兎の腕を優しく解いて、斎藤が提案する。いつもは外食なんか面倒臭がるくせに、今日に限って賛成するなんて。斎藤は自分なんかよりも兎の方が好きなのだろうかと、は呆然として二人の様子を見上げる。
が、呆然としている場合ではない。外食するなら一緒についていかないと、兎が何をやらかすか分かったものではない。きちんと監視しておかないと、自身よりも先に接吻なんかされたら溜まったものではない。というか、あの様子では、もしかしたら最後の一線まで越えてしまいそうだ。中身は兎なのだし、何も考えずにそれくらいはしかねない。斎藤のことは好きだけど、それは困る。
『あたしも行くっ!!』
座ってる兎の袂を口で引っ張って、兎は目を吊り上げて訴える。
「斎藤さん、兎さんも連れて行ってって」
「阿呆。飯を食いに行くのに兎なんか連れて行けるか」
「でも、兎さんの御飯は?」
「これをやっておけば十分だ」
斎藤は一旦台所に入ると、人参を持ってきて兎の前に転がした。
『…………………』
目の前の人参を見詰めていたら、兎は悲しくなってきた。兎になったら斎藤に可愛がってもらえると思っていたのに、人間の時よりも冷たく扱われて、しかも皮も剥いてない人参を投げ与えられるし、どうしてこんなことになってしまったのだろう。人間の姿でも兎の姿でも可愛がってもらえない自分が悲しくて、惨めな気持ちになる。
しょんぼりとして耳がへたってしまっている兎の様子など気付かないように、斎藤はさっさと玄関で下駄を穿く。
「行くぞ」
「あ……はい」
今にも泣き出しそうな兎の様子を気にしながらも、兎は斎藤について家を出て行ってしまった。
暗い家の中で目の前の人参を見詰めたまま、どれくらいの時間が過ぎただろう。今頃、兎と斎藤は楽しく鍋料理を食べているだろうと想像したら、兎の目から涙が零れてきた。
斎藤に体を撫でてもらったり抱っこしてもらいたいと望んだだけなのに、どうしてこんな酷い目に遭うのだろう。頑張って擦り寄ったのに邪険に扱われるし、一寸だけ撫でてもらえはしたけれど、それだけじゃ兎になった甲斐がない。何だか兎のために入れ替わったみたいで、もしかして騙されたのだろうかと疑ってしまう。尤も、入れ替わりたいと言ったのはが先なのだが。
火の気の無い部屋は兎の身でも寒いし、それに空腹が追い討ちをかけて、は鼻をぐすぐす鳴らしながらぽろぽろと涙を零す。兎でも人間と同じように泣けるのだというのは新発見だったが、そんな発見をしても嬉しくも何とも無い。こんな状態が明日の夕方まで続くのかと思ったら、もう悲しくて悲しくて何をする気力も起きない。
そうやってずっと泣いていると、カラリと戸が開く音がした。二人が帰ってきたらしい。
「たっだいまぁ〜!!」
上機嫌な兎の声に、兎はびくっと体を起こした。外で鍋を食べて、そのまま家まで送ってもらうと思っていたのに、どうして戻ってきたのだろう。
後から斎藤の足音も聞こえてきて、二人分の足音が家の中に上がってくる。そして斎藤が部屋の明かりをつけると、酒を飲んできたのか酔っ払って真っ赤な顔をしている兎が上機嫌な様子で兎の前に座り込んだ。そして自分の顔の高さにひょいと持ち上げて、
「兎さん、ただいま。あれ? 泣いてたの? 目の周りががびがびになってるよ」
『うるさいっ! あんた、お酒飲んできたの? 酒臭いっっ!!』
一番指摘されたくないところを指摘されて、は手足をばたばたさせる。が、完全に酔っ払ってる兎はそんなことは全く気にしていない様子で、けらけらと笑いながら、
「斎藤さんにお酒を飲ませてもらったんだよぉ。すっごく美味しくてぇ、徳利二本飲んじゃったぁ」
『そんなに飲んだのっ?!』
も全く酒を飲まないわけではないが、そんなに飲んだことは無い。いくら美味しいからって、そんな酔っ払うほど飲むなんて信じられない。やっぱり一緒に行って監視しておくべきだったとは後悔した。
酔った勢いで斎藤に何か悪さをしたのではないかと不安になったが、布団を敷き始めている彼の様子を窺ってもおかしな様子は無いようだ。それにはほっとしたが、兎がまだいるのに布団を敷き始めていることに、兎は不審に思って首を傾げた。いつもはを送ってから布団を敷くのに、どうして今敷いているのだろう。
兎の様子に気付いて、兎はくすくす笑いながら言う。
「今日はここに泊まることにしたのぉ。帰るの面倒臭いし〜」
『ええっっ?!』
此処に泊まるって、斎藤がそれを許したなんて信じられない。そういうことには厳しい人だと思っていたのに。それとも、兎が「今日は帰りたくないのぉ」なんて媚びながら体をすり寄せたりなんかしちゃって、のことを簡単に男にやらせる女だと思って泊めることにしたのだろうか。今日の兎の様子を見たら、そう思われてもおかしくはないのだ。
斎藤にそんな風に思われているとしたら、最悪だ。斎藤の事は好きだし、いつかはそういう関係になりたいとは思っているけれど、でもそんな簡単に出来る女だと思われたら困る。遊びのつもりでそんなことをされたら、もうその場で舌を噛み切って死んでしまいたいくらいだ。
「何を兎と喋っているんだ?」
布団を二客敷いて、斎藤が呆れたように尋ねる。どうやら酔っ払って兎と喋っていると思われているらしい。
兎は兎を畳に置くと、ケタケタと笑いながらころんと布団の上に転がった。そしてもぞもぞと布団の中に入ると、結い上げられた髪を子供のようなもどかしげな手つきで解き始める。
「ほら、そんな乱暴にすると、髪が抜けるだろうが」
兎の手つきを見かねてか、斎藤は面倒臭そうに言いながらも髪を解いて指で梳いてやる。まるで、手のかかる子供を持った父親のようだ。
こんなにも優しくしてくれる斎藤を見るのは初めてのことで、兎は唖然としてしまった。こんなに優しくしてもらえるなら、人間のままでいれば良かった。それとも中身が兎だから、こんなにも優しくしてもらえるのだろうか。斎藤は本物のよりも、兎の方が好きなのだろうか。
また涙が出そうになって、兎はぎゅっと目をつぶる。嫉妬して泣いているところなんて、たとえ兎の身の上でも斎藤に見られるのは嫌だった。
「お前、風呂はどうするんだ?」
「んー、面倒臭ーい」
髪を梳いてやりながら尋ねる斎藤に、兎は甘えた声で応える。兎は元々水を嫌う生き物だから、風呂なんか論外なのだろう。
しょうがない奴だと言いたげに、斎藤は小さく息を漏らす。それから寝巻きに着替えて灯りを消すと布団に入った。明日が休みだから、朝風呂に入るつもりなのだろう。
兎も慌てて斎藤の布団に潜り込む。今日はちっとも斎藤に構ってもらえなかったのだから、これくらいしないと割に合わない。
が、兎がもぞもぞと入ってくると、斎藤は鬱陶しげに外に押し出す。
「布団が兎臭くなるだろうが」
『いやー! 一緒に寝るのーっ』
遊んでもらうのは今日のところは断念したけれど、これだけは意地でも譲れない。抱きついたり一緒に鍋を突付くのは兎でも出来ただろうが、こればかりは出来ないだろう。一緒の布団で寝ることができるなんて、これこそ兎の特権だ。
布団を巡る攻防戦を続けていると、斎藤の後ろで兎が動く気配がした。
「斎藤さん………」
「何だ、お前まで?!」
斎藤が驚いたような上擦った声を出した。どうやら兎まで布団に入ってきたらしい。
あまりの展開に斎藤も驚いただろうが、それ以上に兎の方が驚いた。自分から斎藤の布団に入ってくるなんて、まるでがそんなことに慣れている女みたいではないか。兎だから何も考えずに欲求の赴くまま動いているのだろうが、人間の世界にはやって良いことと悪いことがあるのだ。
『一寸! 何やってるのよ! 離れなさいっ!!』
全身の毛を逆立てて兎は威嚇するが、兎はそんなことなど全く気付かないように斎藤の背中に身体を摺り寄せる。
「ちょっ……お前、何を………っ?! 今日は夕方から変だぞ」
いつもの斎藤らしからぬ動揺した声に、兎はふふっと小さく笑う。その笑い声もいつものとは違って艶めいていて、着物越しに伝わるの熱も相まって、斎藤はもの凄い勢いで血液が全身を駆け巡っているのを感じた。
相手は酔っ払いだと何度自分に言い聞かせても、背中に伝わるの身体の柔らかさと熱が、斎藤の思考をかき乱してしまう。今日は意味も無く抱きついてきたり、此処に泊まると言い出したりして、もしかして誘っていたのだろうか。あんな子供みたいな娘が男を誘うなんて信じられないけれど、考えてみれば二十歳を超えたいい大人なのだし、身体だってこんなに大人になっているのだから、男を誘うことだってあるのかもしれない。
相手が酔っているのに乗じてそうするのは良くないと思いながらも、“据え膳食わぬは男の恥”という言葉も脳裏をちらついて、斎藤は自分の中の衝動を抑えるのに必死だ。この衝動の持って行き場が無くて呻き声のような声まで漏らしてしまう。
斎藤の身体が堪えるように小刻みに震えているのを感じて、兎は可笑しそうにくすくす笑う
「斎藤さん、どうして震えてるの?」
からかうようなその声に、遂に斎藤の中の何かが切れた。
勢いよく兎の方に寝返ると、その勢いに乗じて兎の身体を組み敷く。
「大人をからかうとどうなるか、教えてやらないといけないようだな」
今まで聞いたことの無い甘さを帯びた斎藤の掠れ声に、兎がどきっとしてしまった。こんな声で斎藤に囁かれたら、体が蕩けてしまいそうだ。
が、蕩けている場合ではない。こんな大事なことを兎になし崩しにさせるわけにはいかないのだ。斎藤のことは大好きだけど、こういうことは自身がしなければ意味が無い。
前足でぱたぱたと斎藤の身体を叩いて必死に阻止しようとするけれど、斎藤は鬱陶しげに兎を手で追い払ったり足で蹴ったりするだけで、完全無視である。そのうち、ちゅっと湿った音や兎の溜息が聞こえてきて、兎の焦りは頂点に達した。このままでは本当に最後までされてしまう。
どうして良いのか解らなくて、頭の中が真っ白になって、兎は弾かれるように思いっきり斎藤に体当たりをした。
「駄目――――っっっ!!!」
「きゃあっ?!」
「うわっ………?!」
突然大きなものに横から体当たりをされて、すっかり油断しきっていた斎藤は防御も出来ずに布団に倒れこんでしまった。
「なっ……何だ………?」
何が起こったのか俄かに理解できないような焦った声と共に、斎藤が部屋の灯りをつけた。と、そこで斎藤が見たものは―――――
「………なのか?」
そこにいたのは、髪を解いて胸元を乱したしどけない姿のと、いつものように髪を結い上げて着物をきちんと着付けた。対照的な姿をした二人のに、斎藤は妖怪でも見たかのような驚愕の表情で口をぱくぱくさせてしまう。いきなり同じ顔が二つになったのだから当然だ。
兎も信じられないものを見るように、人の姿に戻ったの姿を見る。本当なら明日の夕方まで戻れないはずだったのだから、こちらもまた当然だ。
「うそぉっ?! 自力で戻っちゃったのぉっ?!」
悲鳴のような声と同時に、ポンッと弾けるような音がして、兎も元の兎の姿に戻ってしまった。兎の姿に戻っても、まだ信じられないと言いたげに、きょときょとと落ち着き無く首を振る。
慌ただしい目の前の変化についていけないように、斎藤はますます目を白黒させた。さっきまで兎だったのが人間になったり、さっきまで組み敷いていた女が兎になったり、もう何が何だか訳が解らない。訳が分からなくて、斎藤は思わず大声を上げてしまった。
「何がどうなってるんだ、これはっ?!」
「いや、あの、これは………」
何から話して良いのか解らなくて、は口籠もってしまう。兎が喋ったとか、お願いして立場を入れ替わってもらったとか、常識で考えたら信じられる話ではないのだ。けれど説明するまで解放してもらえそうになくて、はどうして良いのか解らなくて途方に暮れてしまうのだった。
「なるほどねぇ………」
煙草を吸いながらの説明を聞いていた斎藤が、煙を吐きながら呟いた。信じてもらえないかと思っていたのに、あっさりと納得されてしまって、は一寸拍子抜けしてしまった。まあ斎藤自身、土方の幽霊に黒兎にされてしまった経験があるから、世の中には人知の及ばない不思議なことがあるということを抵抗無く受け入れられたのだろう。
「そういう訳なんです」
しょぼんとしてがそう言うと、隣に座っていた兎も申し訳無さそうに耳を垂れさせて体を丸めた。まるで大きな兎と小さな兎が並んで説教をされているようなその様に、斎藤は説教するのも忘れて苦笑してしまった。
それにしても、と斎藤は煙草を揉み消しながら考える。ちゃんと相手をしてやっているつもりだったのに、が兎になってまで斎藤に構われたいと思っていたとは。やたら足許に纏わりついてきたり、膝に乗ろうとしたり、果ては布団の中にまで入ってきて、そんなにも斎藤にべったりしたいと思っていたなんて、一寸鬱陶しいかなと思わないでもないけれど、まあ悪い気分ではない。あの兎がだと判っていたら、あんなに邪険にはしなかったのだが。
しかし、の目の前での姿をした兎とコトを始めてしまいそうになったのは、本当に危なかった。もう少しが元の姿に戻るのが遅かったら、目も当てられないことになっていただろう。幸い、まだ抑えが利くところで中断されたから良かったものの、後一歩遅かったら元に戻ったで欲望を満たそうとしていたかもしれない。
内心の安堵を隠して、斎藤は苦虫を噛み潰したような不機嫌な顔を作る。
「まったく………これに懲りて、二度と兎になりたいとか思うなよ。今日は遅いから、もう寝ろ」
「はい………」
しょぼんとしたままは返事をした。そして兎を抱き上げると、段ボール箱の中に入れて毛布をかけてやる。
兎になったのに斎藤に邪険にされて、おまけに叱られてしまうし、今日は最悪の一日だった。まあ今夜は泊めてくれると言っているし、もの凄く怒っているというわけではないだろうけれど、でもやっぱり悲しくなってしまう。
項垂れたまま髪を解くに、斎藤が布団に入りながら急に冗談のような口調で言った。
「折角だから、一緒に寝るか? さっきはあんなにしつこく布団に入ろうとしていただろう」
「えっっ?!」
突然の提案に、一瞬にして全身を紅くして顔を上げる。兎の時は一緒に寝たいと思ったけれど、人間の体に戻ったら、それはまだ早いと思う。さっきの兎と斎藤の姿を見たら、尚更だ。まだにはあんなことをする勇気は無い。
湯気が出てきそうなほどに顔を真っ赤にしているを見て、斎藤は可笑しそうに喉の奥で笑った。笑いながら、やっぱりまだこの娘は男を誘うようなことは出来ないお子様だと、少しほっとする。兎のにはどきどきしてその気にさせられたけれど、やはりはこうであった方が良い。
「冗談だ。流石に俺も子供相手にその気にはなれんからな」
「う………」
さっきは兎のを相手にしようとしていたくせに、と思ったが、それを言うと怒られそうなので、は黙っている。斎藤はいつもを子ども扱いするけれど、本当はちゃんとした大人なのに。
とはいえ、考えようによっては、兎がやったように積極的に摺り寄ったら斎藤もその気になってくれるということだ。ということは、口では子供だと言っているけれど、いざとなればちゃんと“大人の女”として見てくれているということで、それは嬉しい発見だと思う。嬉しいけれど、それを兎に思い知らされたというのは、一寸複雑だ。
既に布団の中に入ってしまった斎藤を見遣って、も布団に入ると灯りを消した。
ほんの数時間の兎生活だったけれど、今日は本当に疲れた。ずっと悲しいことばかりで、もう二度と兎にはなりたくないと思ったけれど、でもの姿でも兎のように甘えたら斎藤も応えてくれるということを知って、それは嬉しかった。これは兎と立場を交換しなければ分からなかったことだ。
明日からはもう少し斎藤に甘えてみようかな、と思いながら、は布団に潜り込んで目を閉じた。
うわっ、これ長すぎ! すみません、一週間ぶりのUPがこんなに異常に長くなって。
以前、斎藤が兎になったので、今度は主人公さんに兎になってもらいました。でもさあ、女子中学生の時って、片思いの相手の家のペットが羨ましかったりとかしませんでした? いつも一緒でえらいこと可愛がられてたんで。そう思ってたの、私だけかな。昔から妄想だけは凄かったんですね(笑)。
でもまあ、よく考えたら、ペットには可愛がられる限界っていうか、そういうのがあるわけで、大人になるとやっぱり人間の方が良いや、って思うんですけど。主人公さんもそれを身をもって知ったようで、良かった良かった。
実はこの話、裏ドリームから派生した話なんですよね。裏で兎を拾った斎藤の話を書いた後、この兎をこのまま裏だけで使うのは勿体無いと、表進出したわけです。普通、逆なんですけど。
しかしこの兎、どうしてこんなおかしな魔力を持ってるんだろう? 我ながら謎。ま、それだけネタに詰まりつつあるということなんですかね(汗)。突っ込みどころ満載のドリームですみません。