お箸の国の人だもの
冷たい風が吹いて、は思わず身を縮こまらせた。何枚も重ね着した上に手袋と襟巻きをしても、まだ寒い。空はどんよりと曇っていて、今にも雪が降り出しそうだ。雪が降るのは嬉しいけれど、寒いのはやはり辛い。
今日は料理をしたくないなあ、と両手で顔を覆いながら思う。台所は冷えるし、何より水に触りたくない。
外食したいと斎藤に言ってみようか。と食べるようになってからはあまり外で食べたがらなくなったようだが、たまには良いのではないかと思う。だってたまには他人が作ったものを食べたい。
そうだ。たまにはにも休みがあっても良いはずだ。こんなに毎日頑張っているのだから、斎藤からのご褒美があっても良いと思う。
今日は寒いから、鍋物が良い。ご褒美なのだから、奮発して牛鍋にしよう。
そう決めたら、は楽しくなってきた。斎藤と外食なんて、久し振りだ。
肉や野菜を分け合ったり取り合ったり、普段の食事よりもきっと楽しいだろう。いつもより会話も増えるだろうし、いつもと違う雰囲気で食べれば、二人の間にも変化があるかもしれないではないか。
幸い、明日は二人とも非番である。酒を飲んで遅くなって、斎藤の家に泊まってそのまま―――――と考えたら、どきどきしてきた。寒さも忘れて茹蛸のようになってしまう。
まあ想像通りに事が運ぶとは思えないが、想像するだけでも楽しい。うきうきした気分で、は斎藤の家に向かった。
帰ってきて早々に「牛鍋を食べに行きましょう!」と連れ出され、斎藤はびっくりした。
今日は何か特別な日でもないし、本庁を出るときもは何も言っていなかった。帰り道で思いついたのだろうが、それにしては大変な張り切りようである。
いつもなら普通に並んで歩くところも、今日は妙にべたべたしてきて、何だか妙な感じだ。寒いからくっ付いているのかとも思ったが、どうも様子が違う。
「どうしたんだ、今日は?」
腕にしがみ付くようにして歩くに、斎藤は不思議そうに尋ねた。
は擽ったそうに笑って、
「だって、久し振りの外食じゃないですか。嬉しくって」
外食も嬉しいが、二人で外出というのが嬉しい。いつも互いの家を行き来するだけで何処かへ出かけるということが無いのだから、牛鍋屋へ行くだけでも逢い引き気分なのだ。
逢い引き気分になれるのも嬉しいし、こうやって腕を組んで歩けるのも嬉しい。何もかもが嬉しくて、は天にも上る気持ちだ。
が嬉しいのは結構なことだが、斎藤は少し困っている。こうやって甘えられるのは嬉しいけれど、天下の往来でというのは人目が気になって仕方が無い。
しかも、これから行く牛鍋屋は『赤べこ』だというではないか。『赤べこ』といえば神谷薫が親しくしている関原妙が経営している店である。神谷道場の連中もよく出入りしているというし、と二人でいるところを見られては調子が悪い。
「一寸くっ付きすぎじゃないか?」
「こうしてると温かいじゃないですか」
斎藤が小声で注意しても、は全く気にしていない。それどころか、ますますくっついてくる。
通行人の目が気になって、引き剥がしたい気持ちは山々なのだが、嬉しそうなの顔を見ていると邪険にも出来ない。普段は忙しくてあまり構ってやれないから、こういう時に一気にべたべたしてくるのだろうと思うと、まあ仕方ないかなと斎藤も思ってしまうのだ。
だが、出来ることなら、やはりべたべたするのは二人きりの時だけにして欲しい。『赤べこ』に神谷道場の連中が来ていないことを祈って、斎藤は暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませー」
店主の妙の声で迎えられた。
食事時だけあって、生憎満席のようだ。この様子では暫く待たされそうである。
「持ち帰りにするか?」
斎藤はこういう所で待たされるのは苦手である。他人が食っているのをぼんやり見ているのも間抜けだし、食う方も待たれていると思うと落ち着かないだろうと思うのだ。
が、はそういうのは全く苦にならないらしく、
「少し待ってみましょうよ。こういうのはお店で食べるのが美味しいんですから」
折角の外食の機会なのだ。持ち帰りを家で二人で食べるのも良いが、此処まで来たのだから店で食べたい。
「そうは言ってもなぁ………」
「あ、斎藤じゃんか。珍しいな」
渋る斎藤の声に、少年の声が重なった。
「う………」
声の主は弥彦だったのだ。そういえばたまに此処で働いているらしいというのを、斎藤は今頃になって思い出した。
相変わらずはべったりくっ付いていて、こんなところを見られるのは非常にまずい。二人の関係に後暗いところは何一つ無いのだが、若い女といちゃついていたなどと言い触らされては立場が無いというものだ。
何とかしてこの場を切り抜けたいと顔を引き攣らせる斎藤とは反対に、は上機嫌で弥彦に話しかける。
「あら、弥彦君。どこか空いてる席ない?」
「うーん、この時間はなあ………。あ、相席で良いなら、あそこが空いてるぜ」
「…………………」
弥彦が指した席を見て、斎藤は渋い顔をした。勧められた席には、剣心たちが座っていたのだ。
斎藤だけなら絶対に相席を勧めないだろうに、わざとやっているとしか思えない。大体、折角の外食だというのに、何が悲しくて剣心や左之助の顔を眺めながら鍋を突付かなければならないのか。
判りやすいくらいに不機嫌になっている斎藤を見上げて、弥彦はにやにやする。
「あー、悪ぃ。二人きりじゃなきゃ駄目だよな?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
このマセガキが、と憎々しいが、の手前、そんなことは口に出せない。まったく、剣心も薫も一体どんな躾をしているのか。この分では、末は左之助のようなチンピラである。
ますます不機嫌になる斎藤を見て、は慌てて言う。
「そ、そんなことはないけど………。お邪魔しちゃ悪いから、いいわ。持ち帰りを買って帰りましょ、一さん」
としては相席でも構わないのだが、斎藤がこんな顔をするなら家で食べた方が良い。斎藤はといる時に剣心たちと会うと、凄く嫌そうな顔をするのだ。
本当は仲が悪いのかなと疑ったこともあったけれど、剣心たちの様子を見ていると、そうでもないようだ。多分、冷やかされるのが嫌なのだろう。剣心と薫はそうでもないが、左之助と弥彦はそういうのを面白がるようなのだ。
「みんなそんなこと構わないさ。な、“一さん”?」
斎藤が何も言わないから調子に乗って、弥彦はの口真似までする。がいない時に一度ぶん殴ってやろうかと、斎藤は本気で思う。
「いや、持ち帰りを買って帰る」
「お、斎藤ではござらぬか」
怒りを必死に抑えて応える斎藤の言葉に、今度は剣心の言葉が重なった。まったく、どいつもこいつも、どうして放っておいてくれないのか。斎藤の苛立ちは頂点に達した。
「席が無いなら、此処に来ると良いでござるよ。二人なら座れるでござる」
「………………」
が一緒だから親切心で言っているのだろうが、余計な世話である。席があっても、こいつらがいては楽しい外食が台無しだ。
不機嫌を通り越して殆ど怒り顔になっている斎藤を、は不安げに見上げる。外食に誘い出したのにこんな顔をされるなんて、どうして良いか解らなくなってしまう。声を掛けたいけれど、名前を呼べばまた弥彦にからかわれるに決まっているし、そうなれば斎藤がもっと不機嫌になってしまうのは確実で、は何も言えない。
困っていると、薫が座敷席から下りてきた。そしての手を引いて、
「遠慮なんかしないで。みんなで食べたら楽しいわ」
「でもぉ………」
みんなで食べたら楽しいとはも思うのだが、今日は逢い引きのつもりなのだ。外野がいては逢い引きどころではない。
「良いから、良いから」
が渋っているのを遠慮していると勘違いしたのか、薫は強引に座敷席に引っ張り込んだ。
座敷席に上がってしまうと、今更断りづらい。は申し訳無さそうに斎藤をちらりと見て座った。
斎藤もここまできては腹を括るしかない。こうなったら外野は完全に無視してやろうと決めた。
「牛鍋特上を二人分」
注文を訊きに来た弥彦に、斎藤はぶっきらぼうに言う。
「随分と景気が良いじゃねえか」
斎藤の注文を聞いて、左之助がからかう。が、斎藤は聞こえていないように完全無視だ。
景気が良いわけではないが、たまの外食くらいには良いものを食わせてやりたいとは思っている。の舌を肥えさせれば、普段の食事の味も上がるというものだ。
特上と聞いて、は上機嫌だ。牛鍋を食べに行くことはあっても特上を食べることは滅多に無いのだろう。嬉しそうにされると、斎藤も嬉しい。
斎藤の機嫌が直ったらしいことに気付いて、も嬉しくなる。これは逢い引きなのだ。逢い引きの時は斎藤も楽しくしていて欲しい。
そうこうしているうちに、鉄鍋が運ばれてきた。鍋の中はぐつぐつ煮立って、良い匂いをさせている。
「わあ、美味しそう!」
「さあ、沢山食え」
はしゃいだ声を上げるに、斎藤は父親のように優しく言う。剣心たちと相席だが、そんなことはもう知ったことではない。の喜ぶ顔を見たら、周りの目も冷やかしも全部吹き飛んでしまう。
「いただきま〜す!」
元気良く言うと、は早速鍋に箸を入れた。
特上だけあって、肉はとても柔らかい。甘味があってとろけるようで、口に入れただけで幸せな気持ちになる。
「美味いか?」
「はい!」
満面の笑みを浮かべて応えるの顔は本当に可愛らしくて、たまには外食も良いものだと斎藤は思う。外野がいなければ、もっと良いのだが。
まあ、外野のことはどうでも良い。斎藤も軽く手を合わせて箸を取り、鍋に入れる。が、それを横切るように、箸がにゅっと出てきた。
その手をばしっと払い、斎藤は不届き者を睨みつける。
「貴様に食わせる肉は無い」
「いいじゃねえか、少しくらい」
全く悪びれる様子も無く、左之助は口を尖らせる。
「お前の肉は、あっちにあるだろうが」
いつもなら鉄拳制裁のところだが、今日はの手前、口頭注意で勘弁してやる。
「特上の肉はどんなもんかな〜って思ってさ。嬢ちゃんの奢りじゃ食えねえもんな」
「たかりのくせに一丁前の口を利くな!」
左之助の言い草に、薫が突っ込みを入れる。
通りがかりの妙も一緒になって、
「そういえば左之助さん、そろそろウチのツケも、ねぇ………」
「うっ………」
二人の女に攻撃されて、流石の左之助も言葉に詰まる。特に妙の攻撃は痛い。
「食いたかったらツケを片付けて、自分の金で食え、無職」
涼しい顔でそう言うと、斎藤も牛鍋を食べ始めた。
「…………………」
さっきから二人の遣り取りを見ていたは、箸を止めて左之助の様子を窺っている。
二人は友達だと思うのだが、あまり仲良しには見えない。が、斎藤の性格からして、喧嘩するほど仲が良いというやつなのかもしれないと思い直す。
それならが「一緒にどうですか?」と言ってやるのが良いかなとも考えたが、そうするのはでしゃばるようだし、何より斎藤の奢りなのに彼女がそんなことを言うのは図々しい。
どうしたものかと考えていると、斎藤が怪訝な顔をした。
「どうした? 早く食べないと肉が硬くなるぞ」
「はあ………」
遠慮するようなの視線の先に左之助がいることに気付いて、斎藤は不機嫌になる。
「そんな奴のことは気にせんでいい。無職のくせに牛鍋を食おうっていうのが図々しいんだ。特上を食いたければ働けばいい」
「うるせえ、無職無職言うなっ!」
左之助が怒鳴っても、斎藤は相変わらず涼しい顔だ。肉や野菜を取って、どんどんの皿に入れていく。
「うるさい奴のことは無視して、どんどん食え。沢山食わんと大きくならんぞ」
「これ以上大きくならないですよ」
まるで父親のような斎藤の言葉に、は困ったように応える。しかし、斎藤が自分の皿に肉や野菜を入れてくれるのは、想像していたのと同じで嬉しい。
左之助には悪いが、今日は逢い引きなのだから、斎藤と二人だけの世界を楽しもうと思う。ここから先は想像通りになるかどうかは分からないけれど、今よりももう少し進展させたい。だから―――――
「すみませーん、お酒くださーい!」
二人で一つの鍋を突付いて、一緒に酒を飲んで、良い雰囲気に持ち込みたい。そういう雰囲気に持ち込めなくても、美味しいものを食べて美味しい酒を飲めれば楽しい。
食べている斎藤の姿を見ながらこれからのことを想像して、はふふっと笑った。
冬ですね。あー、鍋物食べたい。
というわけで、牛鍋を食べに行くドリームです。外野が少々うるさいですが(笑)。
この後、二人はどうなったかと申しますと―――――ま、普通に斎藤に送ってもらって帰ったんでしょうな。相手は兎部下さんだし。お付き合い前から合わせると40話以上費やしているんだがなあ(今日気付いた・笑)。