好き好き大好き

「………暑苦しいっ」
 眉間に皺を寄せ、斎藤は小さく呟いた。
 気が付けば、もう夏はすぐそこ。日差しはまだそうでもないが、気温は夏だ。今日も勿論夏日である。
「そうですか? 昨日よりは涼しいと思いますけど」
 ごろんと腹這いになって雑誌を読んでいたが、顔を上げて応える。
 確かに昨日に較べれば少しは涼しいかもしれない。斎藤宅の座敷は風がよく通るから、警視庁の執務室にいるよりは涼しいはずだ。だがそれは“斎藤とと兎だけなら”という条件付の話であって、今はそうではない。
 実は今、斎藤の家には巨大兎の玉三郎が来ているのだ。飼い主が旅行に行くからと、四日間の約束で預かることになったのだが(正確に言うと、斎藤の帰宅を待ち伏せていた飼い主家の使用人に押し付けられたのだが)、かれこれ十日近く居座っている。
「こいつがいるから暑苦しいんだ。大体何でまだ飼い主が迎えに来ないんだ? 約束はとっくに過ぎてるんだぞ」
 いきなり指を差されて、それまでだらーんと伸びていた玉三郎は、びくっとして斎藤を見た。普通の兎なら慌ててお座りするところだが、玉三郎は図体が普通でないだけあって、相変わらず後ろ足まで伸びきったままである。大物というかふてぶてしいというか、とても兎とは思えない態度だ。
 こう暑いと、暑さに弱い兎が伸びきってしまうのは仕方が無い。斎藤の兎もだらしなく伸びている。だが、普通の大きさの兎が伸びているのは大して気にならないが、玉三郎くらいの大きさの兎がだらしなく伸びていると、部屋が異様に狭く感じてしまうのだ。部屋が狭く感じる上に、全身もこもこの毛皮に覆われているのだから、暑苦しさも倍増である。
 が、は玉三郎が傍にいても何とも思っていないようで、涼しい顔をしている。
「そのうち迎えに来ますよ。良いじゃないですか、玉ちゃんも居心地良さそうですし。ねー?」
 に頭を撫でてもらって、玉三郎は気持ち良さそうに目を細めた。
 玉三郎は居心地が良いかもしれないが、家主の斎藤はそうではない。元々図太い兎だったのだが、最近では斎藤を使用人と思っているような節があるのだ。餌を要求するのに足を踏み鳴らすのはまだ可愛い方で、今朝など寝ているところに思いっきり圧し掛かられた。どうやら腹が減ったので彼を起こそうと思ったらしいのだが、あの巨体が腹に乗った時は本気で死ぬかと思った。
 日に日に図々しくなっていくのもそうだが、今朝のようなことがあると身の危険も感じる。巨大とはいえ兎ごときに身の危険を感じるなど、情けないことこの上ないのだが。
 それにしても、こんなに飼い主が迎えに来ないなんて妙だ。聞いた話によると玉三郎はあまり出回っていない舶来兎らしいから、かなり高額な兎と思われる。それを預けっぱなしで平気でいられるとは考えにくい。飼い主は一体何をしているのだろう。
「………もしかしてこいつ、捨てられたんじゃないのか?」
 本当に大事な兎なら、何は無くとも引き取りに来るはずだ。それを今日まで何も言ってこないとは、もう玉三郎のことなどどうでも良くなったとしか思えない。
 そういえば飼い主の旅行の目的は、兎の品評会だった。ひょっとしたらそこで新しい兎を買って、玉三郎は用済みになってしまったのかもしれない。
 斎藤の言葉に、はぴょんと飛び起きて玉三郎を抱き寄せる。
「何てこと言うんですか! 玉ちゃんが不安になるじゃないですかっ」
 だがの言葉とは裏腹に、玉三郎は嬉しそうにぐふぐふ鼻を鳴らしながら身を摺り寄せている。斎藤の言うことなど聞いてはいないようだ。所詮は畜生である。
 いや、聞いていたとしても、この女好きの兎のことだから、若い女に飼われる方が幸せだと思っているのかもしれない。若い女が飼い主になれば、その友人の若い女も周りに集まって、玉三郎にとっては夢のような世界が繰り広げられるのだ。
「別に不安そうには見えんがな」
「不安だから、こうやって甘えてるんですよ」
 斎藤の冷静な意見は即座に却下されてしまった。可愛い生き物(大きさは化け物だが)の前では、の判断力は著しく低下するらしい。
 が撫でてやると、玉三郎はいい気になってますます頭を摺り寄せてくる。ぐふぐふ言いながら彼女の胸に鼻先を押し付ける姿は、狒々爺そのものだ。無邪気を装っているが、実は分かってやっているに違いない。
 まったく、兎のくせにとんでもないやつである。人間だったら痴漢の現行犯で逮捕するところだ。
 でそんな玉三郎の様子に大喜びで、こちらもまたどうしようもない。動物相手だと警戒心も無くなるようだ。まあ、動物相手に警戒する方がおかしいのだが。
「もぉ、玉ちゃん、くすぐったいよぉ」
 摺り寄る玉三郎に、はくすくす笑いながら困ったように言う。そんな反応にますます気を良くしたのか、玉三郎はますます力強く鼻先を押し付けてを押し倒してしまった。
「わあっ?!」
「こらっ!!」
 斎藤が慌てて引き離しにかかるが、玉三郎もしっかりと足を踏ん張って離れない。いくら女好きとはいえ、大の男が手こずる力を出すとは恐ろしい兎である。
 どうにかこうにか引き離すと、斎藤は両手で玉三郎を畳に押し付ける。
「自分の大きさを考えろ、この阿呆兎!」
 斎藤の兎がにじゃれ付いているのを毎日見て、自分も同じようにやっても良いと思ったのだろうが、玉三郎の大きさは規格外なのだ。そんなのが普通の兎と同じ行動をすれば、下手をすれば怪我人が出てしまう。現に斎藤も死ぬ思いをしたのだ。まで怪我をしたら大変である。
 斎藤に力一杯押さえつけられて、玉三郎は上目遣いに睨みつけながら鼻を鳴らす。叱られたというより、理不尽な虐待を受けていると思っているようだ。
 これだから頭の悪い生き物はいけない。同じ兎でも、斎藤の兎とは大違いだ。尤も、あの兎は少し特殊なのだが。
 全く反省する様子の無い玉三郎を、斎藤は更に強く押さえつける。
「今度同じことをしたら、こんなものじゃ済まさんぞ」
「もう良いですよ! 玉ちゃんだって反省してますって」
 ぎゅうぎゅう押さえつけられる玉三郎の姿が不憫で、は斎藤の腕を掴んで止めようとする。
「飛びついたり摺り寄るのは玉ちゃんの愛情表現なんですよ。兎さんだってやってるじゃないですか」
「たとえそうでも、こんな図体のでかいやつに飛びかかられたら堪らん。今朝はこいつに殺されかけたんだぞ」
 に対するのは愛情表現だろうが、斎藤にやらかしたのは絶対に違う。仮に本当に愛情表現だったとしても、受け止める方が身の危険を感じるようなことはやめさせるべきだ。
 聞く耳を持たない斎藤に、はどうしていいのか分からずにおろおろする。彼の言い分も分かるが、玉三郎に悪気は無いのだ。
 じたばたしていた玉三郎が観念したように大人しくなったところで、斎藤は漸く手を緩めた。
「いいか、お前は図体がでかいんだから、大人しく座ってろ。お前みたいなのが動くと碌なことにならん」
 玉三郎は相変わらず不服そうな顔をしているが、ここまでやれば少しは大人しくなるだろう。じっとしてさえいれば、犬猫よりも扱いやすい生き物なのだ。
 斎藤が手を離したところで、突然が体当たりのように抱きついてきた。
「どーん!」
「うわっ………?!」
 危うく倒れかけたが、どうにか踏ん張ることが出来た。は時々とんでもないことをしでかすが、これには久々に驚いた。
「何だ、いきなり?!」
「玉ちゃんの真似ですよー」
 にこにこ笑ってそう言うと、今度は玉三郎のようにごしごしと顔を擦り付けた。
 玉三郎に飛びつかれるのは勘弁してもらいたいが、に抱き付かれて顔を擦り付けられるのは、斎藤も悪い気はしない。少々照れ臭いが、人目が無い所でなら大歓迎である。
「ね? 好き好きーってされると嬉しいでしょう?」
 斎藤の気持ちを見透かしたかのように、が顔を上げてにぱっと笑う。
「ま……まあな………」
 素直に頷くのは流石に恥ずかしく、斎藤は困ったような顔で小さく唸った。
 確かにからのこういう愛情表現は嬉しい。寝ている時に跳び乗られるのも、彼女がやるのなら多分、何だかんだ言いながら許してしまうだろう。それは斎藤がのことを好きだからで、好きな相手からなら少々手荒な愛情表現でも“惚れた弱味”というやつで嬉しかったりするのだ。ただし、そうではない相手からやられたら半殺しどころでは済まないが。
「だから玉ちゃんのことも、あんまり怒らないであげてくださいよ。玉ちゃんも一さんのこと好き好きーって言ってるんですから」
「いや、それは………」
 にそう言われても、やはり玉三郎に圧し掛かられるのは勘弁してもらいたい。第一あれは絶対に斎藤に対する愛情表現などではないのだ。
「ぶひっ!」
 突然、玉三郎が大きく鼻を鳴らしたかと思うと、その巨体からは想像できないほど高く跳び上がった。
「え………?」
 何事かと斎藤が思う間も無く、その巨体が彼の上に落ちてくる。
「――――――――っっ!!」
 咄嗟にを突き飛ばすことは出来たが、斎藤は逃げ遅れて玉三郎の下敷きになってしまった。ただでさえ重い兎なのに落下速度まで加わり、流石の斎藤も身動き一つ出来ない。
 しかも玉三郎は追い討ちをかけるように、地ならしの要領で前足で斎藤の頭を押さえつけている。これは明らかに愛情表現ではない。
「駄目だよ、玉ちゃん! やりすぎだって!」
 慌てて玉三郎を引き離そうとはしているが、この期に及んでもはこれを愛情表現だと思っているようだ。何でもない時は可愛いと思えるボケっぷりも、この時ばかりは恨めしい。
「………玉の気持ちは俺には重すぎるぞ………」
 の前では玉三郎を殴り飛ばすことも出来ず、斎藤は畳に突っ伏したまま苦しげに訴えるしかないのだった。
<あとがき>
 ネタに困った時は動物ネタ………というわけではないけれど、動物ネタは楽だなあ。いや、楽な方に逃げちゃいかんのだが。
 今回は一寸だけ良い思いができた斎藤と部下さんですが、玉三郎の特攻の前にあえなく撃沈(笑)。あんな巨大兎に飛び乗られたら、一寸貧弱な人は肋骨の一本も折っちゃいそうだ。意外と弱いらしいですから、肋骨。
 ところで玉三郎のように巨大な品種は、体が大きすぎるせいか実はあまり動かないそうです。兎はもともと持久力の無い生き物なので、体が巨大化すると自重で動けなくなるのかもしれません。なので巨大兎は飼育スペースとブラッシングの問題さえ解決すれば非常に飼い易いらしいですよ(と、本に書いてあった)。
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