聞くは一時の恥、聞かぬは……
明日は日帰り出張に行くので遅くなるから夕食は要らないと斎藤に言われた。出張先は東京府内の警察署なのだそうだ。他所の警察署では職員食堂を使えないらしいから、昼は外食ということになる。うまい具合に昼時に抜け出せればいいが、そうでなければ昼食抜きで仕事ということになってしまうだろう。が一緒の時は強引に食事に誘い出しているが、一人の時はどうも昼抜きで仕事をしていることが多々あるようだ。
いくら大人とはいえ、昼抜きで仕事をするなんて身体に良いわけがない。こういう時は弁当を持たせるのが一番だろう。そうすれば、嫌でも食べるに違いない。
そんなわけで、は斎藤の弁当の用意をしている。自分の弁当と一緒に作れば大して苦にもならないし、最近兎の型抜きを色々買ったから、これを使える良い機会だ。勿論、兎の型抜きで作ったものは斎藤の弁当には使えないけれど。
「よし、できた」
弁当箱に綺麗に盛り付け、はそれぞれに蓋をする。今日の弁当箱は、帰りに荷物にならないように使い捨てのものだ。同じ弁当箱だから、間違えないように渡さなくてはいけない。
弁当を包む風呂敷も、いつもの可愛いもので包んだら斎藤に嫌がられるだろう。が持つのなら何でも良いけれど、斎藤が持って行くものだからその辺りも考えてやらないといけない。
「何か良いのあったかなあ………」
弁当箱を包めそうな風呂敷は何枚も持っているけれど、斎藤に持たせても大丈夫な柄はあっただろうか。出来るだけ地味な風呂敷を探すために、は箪笥の中を漁り始めた。
「斎藤さん、お弁当置いておきますから、持って行ってくださいね」
出勤してからすぐに、は持参した弁当を自分の机に置いた。赤色の風呂敷に包まれたものと、紺色の風呂敷に包まれた弁当箱である。
「ああ、悪いな」
弁当箱を見て、斎藤は礼を言う。
弁当を作ってもらうのは滅多に無いことであるが、それだけに中身が楽しみである。は料理上手であるから、下手に外食するよりは弁当の方がありがたい。しかも安上がりである。
子供っぽくて頼りなく見えるけれど、料理が上手で気立ても良くて、本当に良く出来た娘だと斎藤は思う。おまけに可愛いのだから、本当に非の打ち所の無い娘だ。きっと親の育て方が良かったのだろう。
「急だったから、あんまり良いおかずは入れられなかったですけどね」
「別に構わんさ」
恥ずかしそうに笑うに、斎藤も笑って返す。
大したものが入っていないとしても、味が良いから構わない。第一、作ってもらっている立場なのだから、贅沢を言えるわけがないではないか。
そもそも、人参を花の形にくり抜くなとか、食材に妙な細工をするなと色々言っているのだから、これ以上注文をつけたらが可哀想である。どうやら斎藤の分との分を別々に作っているものもあるようだから、おかずの内容にまでケチを付けたら激怒して弁当を作ってくれなくなりそうだ。弁当を作ってくれないだけならまだしも、怒って口も聞いてくれなくなったら大変だ。
「じゃあ私、一寸お使いに行ってきますんで。出張、頑張ってくださいね」
はそう言うと、書類の入った封筒を持ってぱたぱたと部屋を出て行った。
斎藤もそろそろ出かけなければならない時間である。必要書類を鞄にまとめ、の机に置かれている弁当箱に手を伸ばす。が―――――
「………どっちだ?」
弁当箱の上で手を止めたまま、斎藤は固まってしまう。
と話していた時は気付かなかったが、よく見ると風呂敷の柄も微妙である。単純に色で区別すれば良いと思っていたのだが、赤色は地味な市松模様、紺色は兎柄だったのだ。これは一概に色で区別できないような気がする。
紺色でも兎柄なら女物だと斎藤は思うが、がどう判断したのかが問題だ。地味でも赤が女物で、可愛くても紺色なら男物と思っているかもしれない。こればかりは感覚の問題だから、どちらが正解とも言いにくいだろう。こんなことなら、が出て行く前に一言確認しておけば良かった。
ここは一か八かの賭けに出るしかない。読み間違えたところで死ぬわけではないのだ。外しても、ありえないくらい可愛い弁当を食うだけで済むのである。これがまあ苦痛ではあるのだが。
は単純だから、多分紺色が男の色だと思って斎藤用にしているに違いない。兎柄なのが引っかからないでもないが、は兎好きで持っている小物も兎が付いているのが基本だから、あまり深く気にしなくても良いだろうと思う。こっちが斎藤用の弁当で間違いない―――――と思う、多分。
これ以上うだうだと迷っていても仕方がない。斎藤は覚悟を決めて、紺色の風呂敷の弁当を取った。
「弁当持参ですか」
机の上に置かれた風呂敷包みを見て、警部補の坂元が興味を持ったように話しかけてきた。彼は斎藤が現在追いかけている事件を共同捜査していて、今回の出張もその情報交換が主な目的である。
その横から、坂元の部下である古賀とかいう娘も覗き込んできた。
「わあ、兎さんの風呂敷! 可愛いですねぇ。もしかして、愛妻弁当ですか?」
「いえ、そんなものじゃありません。私は独り者ですから」
にこにこ藤田五郎顔で答えるものの、斎藤は内心苛々している。や古賀のような若い娘なら兎も角、いい歳をしたおっさんが兎の風呂敷を愛用していると思われたらたまらない。兎柄に気付いたとしても、そこはサラッと流すのが処世術というものではないか。若い娘というのは周りを考えずにすぐ可愛いものに反応するからいけない。
まったく、も斎藤に持たせることが判っているなら、風呂敷の柄も少しは考えてもらいたいものだ。いくら紺色が男の色とはいえ、兎柄はないだろう。今後のためにも、帰りに自分用の風呂敷を買って帰ろうと斎藤は決めた。
この歳で独り者ということに更に関心を持ったのか、古賀は続けて尋ねる。
「じゃあ、いい人から作ってもらったんですか? 愛情弁当ですね」
「そんな人がいると良いんですけどねぇ」
そんなことを追求するよりもさっさと仕事をしろと思いながら、斎藤は困ったような苦笑いを浮かべて応えた。女というものは、どうしてこう他人の私生活に首を突っ込みたがるものなのか。のことを言ったら、それこそ取り調べのように根掘り葉掘り訊かれたに違いない。
やんわりと否定すると、古賀はこの弁当が斎藤の自作だと思ったのか、少し変な顔をした。弁当を作るだけならマメな男だと思われるだけだろうが、流石に兎の風呂敷を愛用しているとなると少し引くだろう。可愛い物好きの独身中年男というのは、普通の感覚なら少し不気味なものだ。しかも斎藤は、それが似合う外見ではない。
部下の微妙な表情に気付いて、坂元はとりなすように言う。
「ご自分で何でも出来るなら、わざわざ所帯を持つこともないでしょう。兎、お好きなんですか? 縁起物ですからねぇ」
「ええ。兎にあやかって、一発大きな飛躍をですね。ははは」
笑いながら、一体何を言っているのだろうと、斎藤は自分に突っ込む。“大きな飛躍”というのは一体何なのか。自分で言ったのに訳が分からない。
こんな訳の分からないことを口走る羽目になったのも、全部この兎風呂敷のせいだ。明日は仕事前にに説教である。
「そろそろお昼にしましょうか。あ、お茶淹れますね」
気が付けば、もうそんな時間だったらしい。話が切れたところで古賀はそう言うと、茶の用意をするために部屋を出て行った。
ひとまず、兎風呂敷の話題からは解放された。弁当を食べたらさっさと風呂敷を片付けて、無かったことにしてしまいたいものだ。
斎藤はいそいそと風呂敷を解き、弁当の蓋を開ける。が、開けた瞬間、即座に閉めてしまった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
紺色の風呂敷だから絶対自分用の弁当だと思ったのに、見事に外れていたのだ。しかもこういう時に限って、何だか妙に気合の入った盛り付けをしていて、これを見られたら斎藤は一巻の終わりである。
これはまずい。非常にまずい。この弁当を食べている自分の姿を想像したら、斎藤は我ながらぞっとした。
「どうしました? 顔色が変ですよ」
真っ赤になったり真っ青になったりしている斎藤の様子に、坂元が怪訝な顔をした。
「い…いや、弁当の中身が一寸………」
「あー、寄っちゃったんですか。持ち方が悪いと、すぐそうなりますからねぇ」
「寄ってるくらいなら良いんですが………」
寄ってるくらいなら、まだマシである。この弁当は、寄ってる寄ってない以前の問題なのだ。
この状況をどう乗り切ろうかと悩んでいるのを、ぐちゃぐちゃになった弁当を悲しんでいると解釈したのか、坂元は慰めるように言う。
「まあ、多少見た目は悪くても、味は変わらないですよ。さあ、さっさと食べて、続きをやりましょう」
そう言って、坂元も持参の弁当を出す。彼の弁当は量が多いのだけが取り得のような素っ気ないものだ。おかずの品数も斎藤のものより少ないが、正直そちらの方が彼には羨ましい。
盛り付けなんて、斎藤にとっては正直どうでも良いのである。坂元の弁当のようなものを、彼は求めているのだ。恐らくの手元には坂元弁当の一寸豪華版があるのだろうが、彼女の手元にあっても何の意味も無い。
「どうしたんですか? 食べないんですか?」
まだ蓋をしたまま固まっている斎藤に、坂元は早く食べるように促す。
「はあ………」
いつまでもこのままというわけにはいかない。斎藤は覚悟を決めて蓋を開けた。
用の弁当は、毎度のことながら大変可愛らしい。今回は新しい型枠を仕入れたのか、可愛らしさも通常の倍だ。あまりの可愛らしさに、坂元など目を大きく見開いたまま固まっている。
煮物の人参が兎の顔や花に型抜きされているくらいならまだ良い。今回は御飯の型枠を買ったのか、これまで兎の顔なのだ。おまけに御丁寧に、豆で目まで付けている。他にも兎の顔の高野豆腐だの、兎切りされた林檎と蜜柑だの、とにかく兎尽くしなのだ。兎でないのは魚の切り身と卵焼きくらいなものである。
「……………………」
「……………………」
この弁当には坂元も言葉が出ないらしい。斎藤も言葉が出ない。
一応、この弁当は斎藤の自作ということになっている。こんな可愛い弁当をちまちまと作る中年男というのは、かなり不気味な存在に映るだろう。斎藤だって、同僚にこんな男がいたら距離を置きたい。
いまさら本当のことを言ったところで、信じてくれるかどうか。信じてもらえたとしても、今度はこんな可愛い弁当を作るのは一体どんな女なのかと尋問されそうだ。それはそれで非常に困る。弁当の製作者が若くて可愛い自分の部下だと言ったら、弁当以上に痛い視線を浴びてしまいそうである。
互いにかける言葉が見付からないまま微妙な雰囲気が漂うところに、古賀が戻ってきた。
「はい、お茶どう………」
斎藤の前に湯飲みを出しかけたところで、古賀も弁当を見て固まる。いくら可愛い物好きでも、流石にこの弁当には無邪気に「可愛い〜」とは言えないらしい。
この歳で独身であること、そしてこの弁当を見て、斎藤には結婚できない特殊な嗜好があると解釈したのか、古賀の目が明らかに好奇なものに変わる。その解釈は如何なものかと思うが、まあ世間の目というのはそういうものなのだろう。
この弁当は斎藤の自作ではないし、彼には古賀が想像しているような嗜好も無い。一瞬にしてこんな痛い誤解を生み出すことが出来るとは、恐ろしい弁当である。には悪意の欠片も無く、斎藤の勘違いが招いたものだといわれればそれまでのことではあるが、それにしてもこれはひどい。
明日の朝は説教だと思ったが、仕事帰りにの家に寄って説教に変更だ。今後のためにも、しっかりと言い聞かせておかなくては。
弁当を開ける前とは明らかに違う痛々しい空気の中、斎藤は無言で御飯を押し込んだ。
丁度同じ頃、は執務室で斎藤用に作った弁当を食べていた。こちらは勿論、ただ料理を詰めただけの素っ気無い弁当である。
「一さん、怒ってるだろうなぁ………」
自分用の弁当を食べている斎藤を想像して、は小さく溜息をついた。
可愛い風呂敷は嫌がるだろうと思ったから、折角家にある一番地味な風呂敷で包んでおいたというのに、どうして可愛い方を持って行ってしまったのか。いくら紺色だったからとはいえ、兎柄だったらの弁当だと判りそうなものなのに。
は対策していたと言っても、きっと斎藤は聞いてくれないだろう。彼が戻ってきた時のことを考えると気が重い。
「はぁ………」
何と言って斎藤を納得させよう。はもう一つ溜息をついた。
兎部下さん、頑張って二人分作ったんですけどねぇ(笑)。
普通の弁当だと思って蓋を開けたら兎弁当だなんて、斎藤じゃなくてもびっくりだ。可愛い兎弁当を食べる斎藤………にこにこ藤田五郎顔でも怖いかも(笑)。
何をするにしても、一言確認というのは大事ですね。