人生最悪の日
枕元に妙な気配を感じて、斎藤は目が醒めた。「よう。目が醒めたか?」
「…………っっ?!」
頭上で男の声がして、寝起きで薄らぼんやりしていた斎藤も即座に飛び起きてしまった。押し込み強盗かと身構えると、そこにいたのは―――――
「ひっ……土方さ………!!」
そこにいたのは、函館で死んだはずの新選組副長・土方歳三。断髪して洋装した姿で、よく見ると下半身が次第に薄くなっていって、膝から下が全く見えない。つまり、幽霊である。
念のために頬を叩いてみると一応痛いし、夢でもないようだ。幽霊だの妖怪だの斎藤は信じてはいないが、こうやって目の前に立たれると、流石に受け入れないわけにはいかない。
幽霊とはいえ、かつての上司である。斎藤は慌てて襟を正すと、正座をした。幽霊に会った割には、意外と順応するのが早い。幽霊でも知っている人間だと、恐怖は感じないものなのだろう。
思いの外落ち着いた斎藤の様子に、土方は少し拍子抜けした顔をした。どうやらもう少し驚いて欲しかったらしい。まあ折角幽霊として現世に現れたのだから、驚いてもらわないと幽霊のしての張り合いが無いのかもしれない。かといって本格的に驚くと、ガタガタ騒ぐなと一喝されるに違いないのだが。
「相変わらずつまらん男だな、お前は。そんなんだから、兎にも負けるんじゃないのか?」
「………は? 兎?」
土方が何を言っているのか理解できなくて、斎藤は頓狂な声を上げてしまった。それに対して土方はニヤリと口の端を吊り上げて、
「あの黒兎だよ。とかいう娘を兎に取られて、焼きもち焼いていただろうが。しかしまあ、新選組の三番隊組長ともあろう男が、あんな童女みたいな女一人もものにできんとは情けない………」
「べ……別に焼きもちなんか………!」
土方の言葉に、斎藤は思わず真っ赤になって反論してしまった。けれどそれがかえって土方の言葉を肯定している。
死んだ人間は生きている人間を見守っているとは聞いていたが、そんなことまで見られているとは思わなかった。もしかしてあの世では、死んだ仲間が皆で斎藤とのことを見ていたのだろうか。そうだとしたらもう恥ずかしくて、大声を出してその辺を走り回りたいくらいだ。
首まで真っ赤になって激しく動揺している斎藤を見て、土方は楽しそうにニヤリと笑う。
「まあまあ。好きな女がいるということは良いことじゃないか。まあ一寸お子様みたいだが、本当の子供ではないから問題無いだろう。お前の女の趣味にまでは口出しはせんさ。
それは良いんだがな。あの世でお前たちの様子を見ていたんだが、兎に負けるなど情けない。どうやったらあの娘がお前に夢中になるかを皆で考えてみたんだが―――――」
「ちっ……一寸待って下さいっ! “皆で”って何ですか?!」
楽しそうに語る土方の言葉を遮って、斎藤は慌てて突っ込む。“皆で考えた”ということはやっぱり近藤や沖田や原田や井上などの幹部たちも見ていたということだろう。
これまでの自分の行動を思い出し、それを全部見られていたのかと思うと、もう恥ずかしさのあまりその場で切腹したくなった。否、切腹したらしたで、あの世で皆に囲まれてのことを追及されそうだが。それはそれで最悪である。
もうどうして良いのやら、頭を抱えて悶えながら唸る斎藤を面白そうに見下ろして、土方は勝手に話を進める。
「で、皆で話し合った結果、お前が兎になればあのとかいう娘に好かれるんじゃないかということになったんだ。というわけで、お前、兎になれ」
「はぁっ?!」
どうしたらそんな発想になるのか。訳がわからなくて、斎藤は頓狂な声を上げた。
兎になれと言われても、人間が兎になれるわけがない。それとも、兎の被り物でもしろというのか。そんなことをしたら、に不気味がられて終わりのような気がするが。悪人面のおっさんが兎の被り物をしている様は、斎藤だって怖いと思う。
けれど土方は全く問題を感じていないように、
「目が醒めたら楽しい一日が待ってるから、俺たちに感謝しろよ」
楽しそうにそれだけ言い残すと、斎藤の返事も聞かずに煙のように消えてしまった。
「!」
目が醒めると、既に外は明るくなっていた。どうやら夢だったらしい。そもそも死んだ人間が枕元に立つなんて、現実にありえるわけがないのだ。
おかしな夢を見たものだ、と思いながら、斎藤は布団の中で伸びをした。川路の娘の兎の件から一月近く経つのに、まだ心のどこかで兎のことに拘っていたのだろうか。こんな夢を見るようでは、土方に兎に嫉妬しているといわれるのも無理はない。もしかしたら未だに兎に拘っている自分を諌める夢のお告げだったのかもしれないと、斎藤は苦笑した。
『さてと………』
呟きながら起き上がったが、どうも様子がおかしい。呟いたはずなのに声が出ないし、何より周りの家具が異様に大きく見える。訳が分からなくて慌てて部屋を見回すと、頭の上でぱたぱたと何かが動く気配がした。
嫌な予感がして恐る恐る掌を見てみると、見慣れた大きな掌ではなく、真っ黒な毛に覆われた“前足”で―――――
『ぎゃ―――――っっ!!』
声にならない悲鳴を上げると、全身の毛が逆立つのを感じた。頭の上にある耳がピンと硬直するのも判った。
斎藤は慌てて布団から抜け出すと、文机によじ登って鏡を見た。
『嘘だろ………?』
そこに映っていたのは、いつもの目つきの悪いおっさんの顔ではなく、川路の娘のものと同じ黒兎の姿。ラビよりは大きいけれど、どこに出しても恥ずかしくない立派な兎だ。ただ、兎にしては少々目つきが鋭いのが、人間であった頃の名残か。
こんなことあるはずがない。昨日まで人間だったのに、目が醒めたら兎だなんて。
―――――目が醒めたら楽しい一日が待ってるから、俺たちに感謝しろよ
夢の中の土方の言葉を思い出し、斎藤は全身から血の気が引いていくのを感じた。あれは夢ではなかったのだ。本当に土方が枕元に立って、斎藤を兎に変えてしまったらしい。
このまま人間に戻れなかったら―――――これからの兎人生を想像したら貧血のように頭がくらくらしてきて、斎藤は後ろ向きに文机から落ちてしまった。
『痛っ………!!』
腰を強かに打って思わず手で擦ろうとしたが、兎の身体の構造上、腰に前足を回すこともできない。というか、痛いということは夢ではないのだ。その事実に、立っていた耳もへたってしまう。
こんな体になってしまって、これからどうやって生きていけば良いのか。仕事に行くことも出来ないし、仕事ができないということは給料が入ってこなくて、このまま飢え死にである。
とはいえ、元に戻る方法も思いつかない。もう一度寝直せば土方が出てきてくれるという保障も無いし、一体どうすればいいのか見当もつかない。“楽しい一日”どころか、最悪の一日の始まりである。
良い方法が思いつかなくて、斎藤は部屋の中をぐるぐると回る。傍から見ると、兎が部屋の中をぴょんぴょん跳ね回っているようにしか見えないが、本人は深刻なのである。兎の姿では苦悩する姿もままならない。
今日が非番の日というのは、不幸中の幸いだった。そういえば今日はも非番のはずだ。とりあえずのところに行って、何とかしてもらおう。勿論に何かが出来るとは思わないが、飯くらいは食わせてもらえるはずだ。この身体では食事を作ることもままならないのだ。
今からの家に向かったら、兎の脚でなら昼時には着くはずだ。今日はどこかに出かけるなど言っていなかったし、多分家にいるだろう。は動物好きな娘だから、玄関先に腹を空かせた兎がいれば、喜んで飯を食わせてくれるはずだ。
何だかんだ言いながら、斎藤はいつの間にやらこの状況に順応している。兎になってしまったものは仕方が無いのだから、戻る方法が思い浮かばないことをくよくよ悩むより、当座の飯の方が大切なのだ。
そうと決まったら、即行動だ。四苦八苦しながら戸を開けて外に出ると、斎藤はの家に向かって走っていった。
兎が一匹で町を歩くというのは、想像以上に障害が多い。人通りが多いところを歩けば、通りがかりの子供に絡まれるし、路地を歩けば野良犬や野良猫に追いかけられて、兎というのは大変な生き物のようだ。人間だったらどいつもこいつも蹴散らしてやれるのに。土方は“楽しい一日”と言っていたが、これでは人生最悪の日である。
いろいろなものから追い掛け回されて回り道をしたせいで、予想外に時間を食ってしまった。予定ではもうの家で何か食べさせてもらっているはずだったのに、実際はまだ半分にも届いていない。この調子ではの家に着くのは、夕方になってしまうかもしれない。
『腹減ったなぁ………』
路地にあるゴミ捨て場の陰で休憩をして、斎藤は溜息をつく。朝から何も食べていないのに子供や犬猫に追い回されて走り回ったせいで、空腹のあまり気分まで悪くなってきた。今までの人生で、こんな逃げ隠れしてまわることなんか一度も無かったのに、犬猫にさえびくびくしていなければならないとは。情けなくて、耳もへたってしまう。
「あー、兎さんだー!」
頭上から若い女の声がして、斎藤はビクッと耳を立てた。また面白半分に撫でられたら堪らない。さっきも子供に手加減無しで撫でくり回されて、もうへとへとなのだ。
慌てて逃げ出そうとしたが、腹が減って力が出ないのか動きが鈍くて、あっさり捕まってしまった。
「可愛いー。ラビちゃんみたいー」
きゅうっと抱き締めて嬉しそうに言う女の言葉に、斎藤は驚いて女の顔を見た。
『っ!!』
その女は、今まさに斎藤が会いに行こうとしていただったのだ。買い物籠を下げているところを見ると、どうやら買い物の途中だったらしい。
その兎が斎藤だと思いもよらないは、嬉しそうに身体を撫でている。こうやって抱き締めてもらったり身体を撫でてもらえるのは、兎の身でないとしてもらえないことなのだから、まあ役得と言えば役得なのだろう。土方の“楽しい一日”というのはこういうことを指していたのだろうかと思ったが、兎になった代償がこれと言うのは一寸割に合わない。
暫く身体を撫でていたが、腹を撫でてみて斎藤が空腹であることに気付いたらしい。
「あれ? お腹空いてるの?」
『朝から水も飲んでないんだ。何でも良いから食わせてくれ』
斎藤は身体をの方に向き返ると、縋るような目で必死に訴える。
「そっか、お腹空いてるんだ。じゃあ、うちで御飯食べさせてあげるよ」
斎藤の必死の訴えが通じたらしい。は楽しそうにそう言うと、斎藤を抱えて立ち上がった。
「すぐに御飯を作るから、待っててね」
畳の上に斎藤を置くと、は厨房に入っていった。
これまでを家まで送って行ったことは何度かあったが、中に入るのは初めてのことだ。間取りは斎藤の家とそう変わらないようだが、若い娘の家だけあって可愛らしい置物で所々飾られている。女の家というのは、斎藤の家のように殺風景ではなくて良いものだ。
折角なので庭も覗いてみると、狭いながらも花が植えてあったりして、これまた斎藤の家の殺風景な庭とは全く違う。物干し台には洗濯物が干してあって、そういえば溜まった洗濯物はどうしよう、と一寸憂鬱な気分になった。兎の体では洗濯も出来ない。まあ、兎だったら着替えもいらないから洗濯しなくても良いのだが。
そんなことを考えていると、煮物の良い匂いがしてきた。の料理は酒の肴程度しか食べたことが無いけれど、この匂いだと食事の方も期待できそうだ。
「兎さーん、御飯だよー」
明るい声で斎藤を呼びながら、がお盆を持って厨房から出てきた。
『おお、待つくたびれたぞ。早く食わせろ』
朝から飲まず食わずで、お腹と背中がくっ付きそうだ。斎藤は後ろ足で立って、前足をばたばたさせながら全身で催促する。体が兎になってしまうと、動作も自然と兎じみてくるようだ。
言っていることは偉そうだけど、どこから見てもおねだりの動作にしか見えない斎藤の仕草を見て、は蕩けそうな笑顔を見せる。そして斎藤の頭を撫でながら、
「はいはい。じゃあこれが兎さんの分ね」
斎藤の前に皿が置かれた。そこに載っていたのは―――――
「大好きな人参ですよー」
棒状に切られた生人参を、は楽しそうに斎藤の口許に突きつけた。
確かに兎といえば人参が好物だが、体は兎でも中身は人間である。人参は嫌いではないけれど、でも生は勘弁してもらいたい。突きつけられた人参から顔を背けて、斎藤は拒否の姿勢を見せた。
が、は遠慮していると思っているのか、背ける口許を追いかけるように、更に人参を突きつける。
「ほらぁ、遠慮しなくて良いのよ? お腹空いてるんでしょ?」
『腹が減っててもこんなもん食えるか!』
眉間に皺を寄せて、斎藤は前足で人参を叩き落とした。そして驚いているを尻目に、卓袱台に飛び乗って鼻先での昼御飯を指す。
「えー? もしかして、それが食べたいの?」
ますます驚いた顔をして、が尋ねる。いつもは鈍いくせに、兎の斎藤とは意志の疎通が出来るみたいだ。
今日のの昼御飯は、厚揚げの煮物と卵焼きとほうれん草のおひたしである。兎が好きそうな献立ではない。けれど、目の前の兎はそれを食べたがっているようだし、まあ少し食べさせたら自分に向かない食べ物だと解るだろう。
は仕方なさそうに厨房から皿を取ってくると、おかずと御飯を自分の分から少しずつ取り分けて斎藤の前に出した。
「はい。でも、人参の方が美味しいと思うよ?」
『生人参よりはマシだろ』
斎藤は早速厚揚げの煮物にかぶりつく。兎の歯には柔らかすぎるように感じられるが、でも人間らしい食べ物であるし味付けも上手だ。一人暮らしでも、ちゃんと毎日料理をしている味付けである。
子供っぽくて何も出来ない娘だと思っていたが、こうやってちゃんと家のことをこなしているとは、新しい発見だった。家の中も綺麗に飾り付けられているし、所帯持ちは良い方だと思う。これならいつ嫁に行っても良いだろう。
兎がそんなことを考えているとは夢にも思わず、は黙々と食べている様子を見ながら、驚いたように鼻を鳴らした。
「人間の食べ物が好きなんて、変わってる………」
飼い主が自分と同じ物を食べさせて育てたのだろうかと思いながら、は箸を取った。
やっと満腹して、斎藤は縁側で暖かな日に当たりながらうとうとしていた。厨房からはが後片付けをしている音が聞こえてきて、のどかな昼下がりである。
朝はあんなに焦ったけれど、慣れてみれば兎の生活というのも暢気なものである。との意思の疎通も何とかできているし、此処にいれば食べ物の心配もいらないようだし、こうやってゴロゴロしていても文句も言われないのだから、楽なものだ。
このまま人間に戻れないままだったら、に養ってもらうのも悪くないかもしれない。多分あの世の仲間たちも、そういう生活をさせようと思って斎藤を兎に変えたのだろう。
と、そこまで考えて、斎藤ははっとした。こんな怠惰なことを考えるとは、体だけでなく頭まで兎になりかけているらしい。このまま兎のままでに養ってもらおうなど、とんでもないことだ。何とかして人間に戻る方法を考えなければ。
これまでの考えを振り払うように、斎藤はぷるぷると頭を振った。
「どうしたの? 夢を見たの?」
どうやら後片付けが終わったらしく、は手拭いで手を拭きながら斎藤の方にやってきた。そして縁側に腹這いになって、斎藤に目線を合わせて、
「明日になったら、拾得物で届けないといけないのかなぁ………」
野良犬や野良猫だったらそのまま飼っても問題無いのだが、兎となったらそうはいかない。特に黒兎は高価な動物だから、野良兎というのは考えられないだろう。どこからか逃げ出したと考えるのが自然だし、そうなると元の飼い主も捜しているだろうし、警察に届けるのが筋だ。
でも、拾得物として届けたら、元の飼い主が現れなくても半年は離れ離れになってしまう。それに拾得物預かり所は何度も行ったことがあるが、薄暗くてお世辞にも良い環境とは言えない。動物は小さな檻に閉じ込められっぱなしだし、そんなところに持っていくのは可哀想だ。
斎藤も拾得物預かり所の動物の生活を知っているから、慌てて首を振る。元々飼い主なんかいないのだから、あの碌に身動きも出来ない檻に半年閉じ込められるのは確実である。
焦ったようにぴんと耳を立てて首を振るのが人間の動作のようで(中身が人間なのだから当然なのだが)、は可笑しそうにくすっと笑った。
「そうだよねぇ。うちから出さなかったらバレないから、このまま飼っちゃおうかなぁ………」
独り言のように呟くの言葉に、斎藤は何度も力一杯頷く。警察なんかに届けられたら、兎にされた意味が無い。
斎藤の反応に、は心の底から嬉しそうな笑顔を見せる。
「うちの子になってくれるの? 嬉しい!」
は斎藤を自分の方に引き寄せると、その口にちゅっと接吻した。
『……………っっ!!!!』
予想外の展開に、斎藤は耳をピンと立てたまま硬直してしまった。黒い毛に覆われてなければ、全身が真っ赤になっていただろう。
川路の娘の兎にもそうしているのを見たことがあるから、それと同じ感覚で斎藤にもしてくれたのだろうが、でも接吻は接吻である。土方の“楽しい一日”とは、こんなことも指していたのだろうか。確かにこれは兎の役得である。
接吻なんて初めてではないけれど、でも全身が心臓になってしまったかのようにドキドキして、耳もぱたぱたしてしまう。
「照れてるの? 可愛いー」
顔もまともに見れなくて小さくなって俯いている斎藤に、はからかうようにくすくす笑った。
その後も一日中、は斎藤を抱っこしたり口付けたりして、人間の身では絶対にありえないことばかりされてしまった。こういうことをされると兎の人生も悪くはないと思うが、でもそれは斎藤と解ってされていることではないので、何だか気持ちは複雑だ。
確かに“楽しい一日”かもしれないが、どうせだったら人間の体で楽しい一日にしてほしかったものだと、斎藤は贅沢なことを考えてしまう。人間の体だったら、こんな一方的にされっぱなしなんてことは無いのに。どうも受身一辺倒というのは性に合わない。
今も斎藤はの膝の上に乗せられて、首に鈴をつけた赤い組紐を結び付けられている。どうやら首輪の代わりらしい。猫じゃないのだから鈴付きというのはどうかと思うが、こうした方が何処にいるか判りやすいかららしい。動くたびにチリチリ五月蝿いのだが、自分では解けないのだから仕方が無い。
面白くなさそうに膨れている斎藤には気付かない様子で、は彼の姿を見て嬉しそうに体を撫でる。
「兎さんは真っ黒だから、赤が似合うねぇ。
さて、今日はもう寝ようか。明日は早いしね」
『そうだな。今日は疲れた』
本当に今日は疲れた。朝起きたら兎になっているし、この体のせいで犬猫に追い回されるしで、もうへとへとだ。
は斎藤を抱えると、当たり前のように抱いたまま布団に入った。
「今日は一緒に寝ようね」
『えぇっ?!』
確かに斎藤の体は兎だけれど、でも男なのである。嫁入り前の娘が男と同衾なんてするものではない。
腕の中でじたばたとされるのがくすぐったくて、はくすくすと笑う。じたばたしている兎が斎藤だと知ったら笑うどころではないはずだが、知らないとは幸せなことである。
「もう。早く寝なきゃ駄目だよ」
きゅうっと抱き締められると、身体にふにふにしたものが当たって、ますます斎藤は焦ってしまう。着物で抱っこされていた時は気付かなかったが、は童顔の割には意外と胸は大きいようである―――――って、そうじゃなくて!
手も握ったこと無いのにこんな密着状態など、かなり道徳的にまずい。斎藤が兎の姿だから何とか我慢できているが、人間の姿だったらどうなっていたことか。否、そもそも人間の姿だったら、こんな状況はありえないだろうが。
土方言うところの“楽しい一日”の締めがこれというのは、まあ土方らしいといえば土方らしいのだが、この中途半端な状況は楽しいというより生殺しな一日だったのではないだろうか。まあそれなりに良い思いは出来たけれど、でもどれもこれも中途半端だ。
今日は微妙な一日だったと、斎藤は一つ溜息をついた。明日は一体どうなっているのだろう。明日は出勤日であるから、人間の姿に戻らないと無断欠勤になって勤務査定にも響いてしまう。こうやってに可愛がってもらう兎の体も悪くはないけれど、やっぱり人間の方が良い。
ちらっとを見ると、もう既に規則正しい寝息をたてている。さっきまで起きていたと思っていたのに、幼児並みの寝つきの良さだ。無防備な寝顔も子供みたいで、斎藤は思わず目を細める。
『本当に寝てるのか?』
の顔に鼻先を近付けて、ふんふんと鼻を鳴らしてみる。が、の反応は無くて、どうやら本当に熟睡しているみたいだ。
今日は一日、の方からばかり接吻したり身体を撫でたりして、斎藤は手も足も出せなかった。それはそれで嬉しかったのだが、でもやっぱりこういうことは自分から仕掛けた方が楽しい。
もう一度確認するように前足での頬を叩いてみるが、やっぱりは目を醒まさない。一寸迷ったが、半開きのその柔らかな唇に掠めるように、斎藤は自分の口を触れさせた。
『おやすみ』
最初は人間の時にしたかったなあと思いながら、斎藤はの腕の中に潜り込んで目を閉じた。
首を強く締め付けられる感覚で、斎藤は目を醒ました。昨日の夜にが結びつけた組紐が、首を締め付けていたのだ。
うなじの結び目に手を伸ばして―――――後ろに手を回せることに気付いて、斎藤は思わず自分の手を見た。その手は黒い毛に覆われた前足ではなく、見慣れた大きな掌で、どうやら人間に戻れたらしい。
「戻った……のか……?」
そういえば、土方も“楽しい一日”と言っていた。一日限定の兎生活だったらしい。
とりあえず人間に戻れてほっとしたが、今はそれどころではない。どういう結び方をしているのか、組紐が解けないのだ。これでは窒息まではしなくても、気分が悪くなって吐きそうだ。
斎藤が四苦八苦していいると、横で大きな物がもぞもぞしているので目が醒めたか、が寝ぼけ眼でゆっくりと上半身を起こした。そしてぼんやりと斎藤を見ていたが、本当に目の前にいるのだと認識すると、一気に覚醒したように大きく目を見開いた。
「きゃああっ?! どっ……斎藤さっ……どうしてっ?!」
真っ赤な顔をして、が悲鳴を上げた。目が醒めて隣に寝巻き姿の男がいたら、それはいくらでも驚くだろう。
「それは後で説明するから。お前一体どんな結び方したんだ? 先にこれを解いてくれ。苦しくてたまらん」
「えっ……?! それ、昨日兎さんに結んであげたやつ………えっ?!」
訳が分からないながらも、はとりあえず斎藤の首に結ばれた紐を解いてやる。そして、組紐と斎藤を交互に見比べて、
「何で斎藤さんの首にこの紐が………?」
今にも泣きそうな顔をして、斎藤を見る。薄々事実には気付いているようだが、でも常識が邪魔をして口には出せないらしい。
漸く首を解放されて、斎藤は大きく深呼吸をする。何と説明すればいいのか困ったところだが、本当のことを話すしかないだろう。でないと、斎藤は女の独り暮らしの家に夜這いをかけた犯罪者になってしまう。
斎藤は正座をしてを真っ直ぐに見ると、覚悟を決めて口を開いた。
「まあ何というか………お前も薄々分かってはいると思うが、昨日の兎は俺だ」
「………えっ…とぉ………」
目玉が落ちそうなほど目を見開いて固まったまま、は次の言葉も出ないらしい。どうやら頭の中も固まってしまっているようだ。人間が兎になるなんてありえないことなのだから、当然の反応だろう。
それでもゆっくりと昨日からのことを思い返しているらしく、は眉間に皺を寄せて考え込む表情を見せた。が、それも束の間、一瞬にして全身を真っ赤にする。
斎藤と知らずに抱き締めたことや接吻したこと、果ては一緒の布団で眠ったことが一気に思い出されて、は顔を覆って声を上げて泣き出してしまった。
「どうしよう………もうお嫁に行けないよぉ………」
「や……大丈夫だったから! 兎だから何もしてないから大丈夫だ! せっ…接吻したのだって、兎だから、数のうちには入らないぞ。ほら、川路さんの兎にも兎にもしてたじゃないか。あれと同じだ」
子供のように声を上げて泣くに、斎藤は弁解するように慌てて言う。確かに兎の体だったのだから傷物になるようなことはしていないし、接吻だって兎だったのだから、“本当の”初物ではないはずだ。
けれどいくら見た目は兎だったとはいえ、中身が斎藤であることは変わりない。にとっては斎藤と接吻して同衾したのと同じことなのだ。何も無かったのは頭では解っているけれど、でも精神的にはもう“綺麗な身体”ではないのも同然だ。
何を言っても今は聞く耳を持たないの様子に、斎藤はどうして良いか解らなくて溜息をついた。こんなことになってしまって、泣きたいのはこっちの方だ。土方たちも、こんな中途半端な時に人間に戻さなくても良かっただろうに。せめてが出て行った後に戻してくれれば、こんなことにはならなかったはずだ。
「わかった! もしお前が嫁に行けなかったら、俺が貰ってやる! だから泣くんじゃない!」
斎藤の強い言葉に、しゃくりあげていたの身体がぴたりと止まった。そして、泣き濡れた顔をそっと上げて信じられないような上目遣いで斎藤の顔を見る。
これで機嫌が直ったかと思ったのも束の間、はまた顔を覆って泣き始める。
「そんな嫌々貰ってもらっても嬉しくないですぅ〜〜〜!!」
それは尤もな意見である。言い方を失敗したと思ったが、もう遅い。は頑固なところがあるから、こうなったら機嫌が直るまで時間がかかるのだ。多分一週間は臍を曲げたままなのは確実だ。
これからの機嫌が直るまで、付きっ切りでご機嫌取りをしなければならないのかと思うと、斎藤は頭が痛くなってきた。昨日一日の代償とはいえ、それは大きすぎる代償だ。こんなことだったら、昨日の夜は遠慮せずに思う存分やっておけば良かったと、斎藤は見当違いな後悔の溜息をついてしまうのだった。
“思う存分”って、何をなさるつもりだったんですか、斎藤さん………?
『ラビット病』をUPした後、BBSにて文月金魚草さまより「斎藤さん、いっそ兎になってみますか? バニー……」という書き込みをいただきまして、バニーな斎藤はちょっとキツいので、本物の兎になってもらいました。って、これってドリームじゃないやん……。
ギャグで動物が絡めば評判が良いということに味をしめて、こんな話が出来上がってしまったわけですが、だんだんドリームの定義から外れていってますね(笑)。おかしいなあ……。