君の名は
夕飯の片付けをした済ませたが、斎藤の前にちょんと座った。「さあ、斎藤さん。今日こそお願いしますよ」
絶対に逃がすまいとする強い目で見上げられ、斎藤の顔が軽く引き攣る。食後の茶を飲んで寛ぎたいところなのに、とてもそんな雰囲気ではない。
のお願いは、彼女のことを下の名前で呼ぶことだ。「おい」とか「お前」ではなく、「」と呼べということなのだが、これがなかなか斎藤には難しい。何だかんだで、この遣り取りも遂に一週間目だ。
喉の奥で唸りながら斎藤は腕組みをする。先延ばしにすればするほど気まずいのは解っているのだが、どうしても最初の一言が出ないのだ。名前を呼ぶだけのことを恥ずかしいと思う斎藤にも多少問題があるのかもしれないが、名前を呼ぶだけのことに過剰に期待をしているにも問題があると思う。そういう期待を込めた目で見られると、ますます彼は緊張してしまうのだ。
名前を呼ぶことで何かが変わると斎藤は思わないのだが、は大きく変わると信じているらしい。これで何も変わらなかった時のことを考えると、本当に気が重い。これを機に斎藤が変える方向に動けば良いだけのことなのかもしれないが、を相手に“大人のお付き合い”というのは斎藤にとっては想像も出来ない“未知の世界”なのだ。
「………どうしても呼ばないと駄目か?」
どうにか免除してもらえないものかと斎藤にしては珍しく下手に出てみるが、は睨みつけるだけだ。
「斎藤さんが自分で呼ぶって言ったんですよ」
「いや、あれは………」
それを言われると斎藤も困る。確かに名前を呼ぶと力強く宣言してしまったが、あれはその場の勢いというか、ああでも言わなければ場が治まらなかったからだ。そんな時の言葉を持ち出されても困る。
しかし、そう言ったところでが納得するわけがない。それどころか嘘つき呼ばわりで更に手が付けられなくなってしまう。
困ったものだと斎藤は溜息をついた。それを見て、はみるみる表情を曇らせる。
「そんなに私の名前を呼ぶのが嫌なんですか?」
「いや、嫌とかそういう問題では………そうだ。お前、そこまで言うなら俺の名前を呼んでみろ。呼んだら俺も呼ぶ」
自分の名前を呼べと言う人間が、相手にだけそれを強要するというのはおかしな話だ。要求するのなら、それなりに手本というものを見せてもらいたい。
するとはむっとして、
「あたしはいつも呼んでるじゃないですか」
「下の名前で呼べと言ってるんだ。まさか、俺の名前を知らないわけじゃないだろう?」
「えー?!」
思わぬ斎藤の反撃に、は顔を真っ赤にする。
苗字で呼ぶのは皆が呼んでいるから何も意識しないが、名前となったら別だ。しかも皆が知っている“藤田五郎”ではなく、限られた人間しか知らない“斎藤一”の名前で呼ぶのだ。
“斎藤一”の名前を知っているのは、警視庁では川路大警視と一部の幹部だけらしいし、それ以外では恵たちだけだと思う。そして彼らは“斎藤”としか呼ばない。ということは、“斎藤一”の名前を知っている者で下の名前で呼ぶのは、斎藤の肉親以外では唯一人ということになる。斎藤を名前で呼べるたった一人の他人だなんて、凄い。
が真っ赤になっているのを困っているのだと誤解した斎藤は、意地悪く口の端を吊り上げる。
「さあ、呼んでみろ」
「本当に良いんですか?」
は興奮で目まで潤ませてしまう。
「一さん」「」なんて呼び合ったら、何だか恋人を通り越して夫婦みたいだ。仕事帰りに夕食の買い物に行った時にそうやって呼び合ったら、店員に夫婦と間違われてしまうかもしれない。想像したら、心臓が破裂しそうなほどドキドキしてしまう。
今まではずっと遠慮していたけれど、斎藤からの許可が出たのだから、これからは「一さん」と呼び放題だ。勿論職場では呼んだりしないけれど、休みの日なら一日中好きなだけ呼べる。そう思ったら嬉しくて嬉しくて、暫くは意味も無く名前を呼んでしまいそうだ。
困っているのかと思いきや、どうやら浮かれて真っ赤になっているらしいことに気付いて、斎藤は激しく後悔した。が困ってこの話が流れることを期待していたのに、これでは益々彼が追い詰められてしまう。
「じゃ……じゃあ、呼びますね」
ドキドキする胸を押さえて、は自分を落ち着かせるように深呼吸をする。そして、すぅっと息を吸って、
「は…一さん……」
「…………………っ」
不覚にも、斎藤まで顔が真っ赤になってしまった。頬を染めて潤んだ目でそう呼ばれると、何だか呼ばれる方がドキドキしてしまう。のように可愛い女がそうするなら尚更だ。
胸を撃ち抜かれたような衝撃に、斎藤は頭がくらくらしてきた。女に名前を呼ばれるのは初めてではないし、今まで何とも思っていなかったが、に呼ばれるのは予想外に破壊力がある。
名前を呼ぶくらいで何が変わるのかと思っていたが、との間に限っては何か変わるのかもしれない。少なくとも今の斎藤は、身体に様々な異変が現われている。
不整脈と貧血と過呼吸が一気に来たようで、斎藤は思わず畳に右手をついた。と、下を向いた途端、兎と目が合った。
さっきまでの遣り取りを全部見ていたのか、兎は面白そうににやにや笑っている。ここで口が利けたら「だらしないですねぇ」とくすくす笑いそうだ。人間に笑われるのも腹が立つが、兎に笑われるとなると腹立ち倍増だ。
いっそ殴ってやろうかと思うが、の目があるから流石にそれはできない。しかしこのやり場の無い怒りのお陰で、さっきまでの妙な緊張は消すことが出来た。
斎藤は改めて座り直すと、の方を見た。
「よし、約束だからな。呼ぶぞ」
力強く宣言したものの、期待に溢れる目でじっと見上げられたら、またまたあの緊張が蘇って気持ちが萎えてしまう。
ただ、「」と呼ぶだけで良いのだ。別に好きだとか愛しているとかいう言葉を求められているわけではない。簡単なことだと頭では解っているのだが、最初の一声が出なくてこの体たらくである。
は急かすように斎藤を見詰めているし、兎は興味津々で見上げているしで、どうも斎藤は尻の辺りが落ち着かない。こうやって注目されるから、益々やりにくくなるのだ。
「お前はあっちに行ってろ」
低い声でそう言って、斎藤は手の甲で兎の鼻先を払う。兎は面白くなさそうに眉間に皺を寄せたが、素直に隣の部屋の一番隅に走って行った。
邪魔者が消えたところで、斎藤は再び深呼吸をする。
「よし、いくぞ」
「はい!」
今度こそ名前を呼んでもらえると、はぐっと身を乗り出した。
「…………………」
口を開いたものの、声が出ない。の期待が重過ぎるのもそうだが、隣の部屋から妙な気配もするのだ。
ちらっと兎の方を見ると案の定、一応こちらに背を向けてはいるものの、耳だけはしっかりとこちらを向いていた。出歯亀の次は盗み聞きである。まったく、油断も隙もあったものではない。
忌々しげに舌打ちをして斎藤は立ち上がると、ひょいと兎を持ち上げて庭に投げ捨てた。
「いいか、絶対こっちに来るなよ」
不満そうな兎に念押しすると、斎藤は改めての前に座った。
今度こそ邪魔者はいなくなった。これで心置きなくの名前を呼べるはずである。
「よし、今度こそ!」
「はい!!」
三度目ともなると、流石のも緊張が高まってくる。今度こそ、今度こそ名前を呼んでもらえるのだ。
全身が心臓になったみたいにドキドキして、もうこれ以上耐えられない。これ以上引き延ばされたら、本当に心臓が破裂してしまいそうだ。
それは斎藤も同じことで、彼ももう限界だ。これ以上引き延ばすことになったら、心労で倒れてしまうかもしれない。
斎藤は大きく息を吐くと、思い切って口を開いた。
「っ」
思い切りすぎて微妙に上擦った声になってしまったが、とりあえず目標達成である。傍から見ればつまらない目標だが、達成できたと思ったら急に力が抜けてしまった。
脱力して大きく息を吐いたと同時に、が上体を折り曲げるようにパタッと倒れてしまった。
「おい、どうした?!」
突然の異変に、斎藤は慌ててを抱き起こす。
「名前を呼んでもらったら、気が抜けて力も抜けちゃいましたぁ」
本当に嬉しくてたまらなかったのか、は頬を染めて恥ずかしそうに笑う。名前を呼ぶだけでこんなになるなんて、そんなに嬉しかったのかと斎藤は改めて驚いた。
しかし斎藤も名前を呼ばれただけで身体に異変が出るほどだったのだから、のことは言えない。名前を呼ぶというのは、予想外に大変なことである。だから下の名前は特別な間柄の人間としか呼び合わないのかと、斎藤は妙に納得した。
斎藤はその辺の同年代の人間より人生経験豊富なつもりだが、との付き合いの中では新発見の連続だ。何もかもが初めての女と付き合うと、自分まで何もかも初めての気分になれるものらしい。それとも、が何でも初めての気分にさせてくれる女なのだろうか。どちらでも構わないが、初めての気分というのは楽しい。
すっかり忘れていた初々しい気分を楽しんでいると、がふと思い出したように言った。
「あ、“おい”じゃなくて、“”ですよ。一さん」
「あ………」
ふふっと笑いながらに指摘され、斎藤はばつが悪そうに苦笑した。
「そうだったな、」
「はい」
名前を呼ばれて、は嬉しさを全身で表現するように斎藤に抱きついた。
名前を呼ぶだけの話なんですけど、この二人だと大騒ぎです。ある意味、ちゅうより大騒ぎですよ(笑)。
相手をどう呼ぶかっていうのは、二人の関係において結構重要なことだと思うんですが、如何なものでしょう? 今までの呼び方から変えるのって、かなり勇気がいりますよ。それこそ、ちゅうより勇気がいるんじゃないでしょうか。どんな小さなことでも何かを変えるっていうのは大変なことです。
これから主人公さんは、ことある毎に「一さんv」って呼んじゃいそうですね。斎藤もちゃんと名前で呼び返してくれれば良いんですけどねぇ………。