部下さんのお願い

 吐く息が白くなって、今年もが膨れる季節がやってきた。
 一体何枚着ているのだろうと思うほど着膨れしている上に、ぐるぐる巻きの襟巻きと厚手の手袋も標準装備なものだから、本当に丸々している。こうなると兎というよりは冬篭りの小動物のようだ。
「………お前、どこまでが身だ?」
 毎度のことであるが、本当にどこまでがの中身なのか、斎藤には全く判らない。寒いのは分かるのだが、明らかに体型が別人になるまで着込むというのはどうかと思うのだ。小さな女が着膨れているのは可愛いが、ものには限度というものがある。
「そんなに言うほど膨れてないですよ」
 斎藤の言葉を冗談だと思っているのか、コートの上から両手で身体を撫でながらは笑いながら言う。
 だって一応、着膨れしないように対策はしているのだ。去年の冬と今年の夏の賞与の殆どをつぎ込んで舶来のコートと襟巻きを買って、去年よりは着込む枚数を減らしている。舶来品だから寸法が一寸合っていないせいでコートが歩いているように見えるかもしれないが、去年よりは膨れていないはずだ。
 が、そんなの涙ぐましい努力も斎藤には全く伝わっていない。高いコートを着ていようが、膨れているものは膨れているのだ。しかもコートが踝近くまであるものだから、普通に歩いていてもヨチヨチ歩いているように見えてしまう。
 ただでさえ子供っぽく見えるがそうやって歩いていると、本当に子供のように見えてくる。一緒に歩いていると親子に間違われはしないかと、斎藤が余計な心配をしてしまうほどだ。
「あ、焼き芋屋さん!」
 公園で客待ちをしている焼き芋屋を見付けて、が走り出した。
「おーい、転ぶなよー」
 走るの背中にそう言いながら、斎藤は歩いて後についていく。
 新聞紙に包まれた焼き芋を受け取って、が斎藤のところに戻ってきた。焼き立てで熱いのか、手を袖の中に引っ込めて持っている。
「丁度焼き立てだったんですよ。斎藤さんも食べます?」
「いらん。晩飯前にそんな物食って大丈夫なのか?」
「おやつは別腹です」
 ふふっと笑うと、は長椅子に座って早速包みを広げた。
 いくらおやつとはいえ、芋は腹にたまるだろうと斎藤は思うのだが、は全く気にしていないらしい。帰ったらすぐに晩飯だというのに、そのことも頭には無いようだ。女というのは目の前に甘いものがあると、食事のことなんか忘れてしまうものらしい。
 大きな芋を取るとは皮を剥き始める。が、熱くて上手く持てないのか、今にも落としそうな危なっかしい手つきなものだから、横で見ている斎藤ははらはらしてしまう。
「貸せ」
 必死に皮を剥いているから芋を取り上げると、斎藤はさっさと半分くらいまで剥いてしまった。
「ほら」
「ありがとうございますぅ!」
 子供のように顔をくしゃくしゃにして笑うと、は芋にかぶりついた。
 湯気を立てている黄色い芋は、いかにも甘そうだ。隣に座る斎藤の鼻先にも微かに甘い匂いが漂ってきて、それだけで腹が一杯になりそうである。
 斎藤はいつも不思議に思うのだが、空きっ腹にそんなに甘いものを食べて気持ち悪くならないのだろうか。餡子や蜜の甘さとは違うのだろうが、甘いものが苦手な彼には不思議でならない。
 しかしこうやって芋を食うことに夢中になっているの様子を見ていると、甘いものを食べない斎藤でも美味しそうに思えてくる。前から思っていたが、彼女は本当に美味しそうにものを食べる。そういう顔を見ると、斎藤も嬉しい。
 熱いうちに全部食べようと思っているのか、芋を押し込むように必死に食べているの顔は面白い。頬を膨らませている様子など、必死に木の実を頬袋に詰め込んでいるリスかモモンガのようだ。着膨れして丸々しているから、余計にそう見える。
 人間には頬袋は無い筈だが、の食べている姿を観察していると、実は彼女は持っているのではないかと思えてきた。大人なのに妙にぷくぷくしている頬は、頬袋のせいに違いない。
 何となく、の頬を引っ張ってみた。
「何するんですかっ?!」
 斎藤の不意打ちに、はびっくりして身を引く。
 普段はそんな様子は全く見せないのに、斎藤は時々の想像の斜め上を行くような行動をする。突然手を握られるというのなら嬉しいが、この前はいきなり尻を触られて、次はこれだ。今まで気付かなかったけれど、本当は斎藤は変な人なのかもしれない。
 焼き芋を大事そうに抱えて上目遣いに睨みつけるとは対照的に、斎藤は平然として、
「何だ、思ったより伸びんな」
「はぁ?」
「必死に詰め込んでるから頬袋があるかと思ったんだが、無いのか」
「頬袋ぉ?」
 何を言っているのか理解できなくて、は頓狂な声を上げた。
 頬袋というものはも知っている。しかしあれは木の実を食べる小動物に付いている物で、人間のに付いているわけがないではないか。
「そんなの付いてません!」
 そう言ってぷうっと膨れるの顔は頬袋一杯に木の実を詰め込んでいるリスみたいで、斎藤は可笑しくてたまらない。やっぱりには頬袋が付いていると思う。
 が怒っているのに斎藤は笑いを堪えるような顔をしていて、そんな顔を見たら彼女は益々腹が立ってきた。いつだってそうだ。がどんなに怒っていても、斎藤はいつも本気にしていない。
 斎藤はいつもを子供扱いしているから、彼女が怒っても子供が癇癪を起こしているくらいにしか思っていないのだろう。否、ひょっとしたら兎が怒っている程度にしか思っていないのかもしれない。
 子供扱いどころか小動物扱いなのかと思ったら、情けないやら悔しいやら。付き合いが長いのに斎藤が何も仕掛けてこないのは自分が子供っぽいせいで、恵のようになったらきっとちゃんと見てくれると思っていたのに、兎と同じだったらどうしようもないではないか。
 斎藤にとっては兎も自分も同じだと思ったら悔しくて悲しくて、は長椅子を蹴るように立ち上がった。
「おい、どうした?」
 いきなり歩き出したを見て、流石の斎藤も慌てて追いかけた。が、は足を止めることもなく、ずんずん歩いていく。
「何を怒ってるんだ?」
 からかうのはいつものことなのに、がこんなに怒り出すのは初めてのことだ。何がそんなに彼女の気に障ったのか、斎藤には全く解らない。
 怒るに焦る斎藤を見るのは多分初めてのことだが、今更焦ったって遅いのだ。は本当に本気で怒っているのである。
 突然足を止めると、は斎藤を睨み上げて言った。
「斎藤さんにとっては、あたしも兎さんも同じなんでしょ?! もういいですっっ!! あたしも斎藤さんのことを兎さんと同じくらいにしか思わないようにしますから!」
「は?」
 叩きつけるようなの言葉に、斎藤は目を丸くした。
 一体どうしたら、と兎が同列になるのだろう。確かに斎藤はのことを兎みたいだとか、心の中で小動物に喩えたりするけれど、本気で小動物と同じだと思っているわけではない。第一彼は、小動物と付き合う趣味など無いのだ。
「お前と兎が同じなわけないだろう。何言ってるんだ」
「同じじゃないですか! 兎さんもあたしも同じ扱いだし」
「は? 全然違うだろうが。何言ってるんだ、お前は?」
「同じです! 恋人らしいことも何も無いし、名前を呼んでくれたこともないじゃないですか! あたしは“おい”とか“お前”なんて名前じゃありません!!」
 言ってるうちには悲しくなってきて涙が出てきた。
 よくよく思い返してみれば、は一度だって斎藤に名前を呼ばれたことが無い。手を繋いで歩かないとか、接吻もしないとか、そういうのはベタベタするのが嫌いなのだろうと思えば納得できる。けれど名前を呼ばないなんて、それはいくら何でもひどすぎるではないか。
 の名前を知らないということは無いと思う。兎から聞いた話によると、拾ったばかりの頃はの名を付けていたというではないか。それなのに本物の彼女には名前で呼んでくれないなんて、斎藤が何を考えているのか全く解らない。
 の名前なんかどうでも良いと斎藤が思っているとしたら、悲しくて泣けてきた。怒り出したと思ったら泣き出して、斎藤は益々焦ってしまう。
「名前を呼ばないから嫌なのか? じゃあ、今度から名前で呼ぶから泣くな」
「無理して呼んでもらっても嬉しくないですぅ」
「無理なんかしてないぞ。ちゃんと呼ぶ!」
 勢いで宣言してみたものの、やはり名前を呼ぶのは恥ずかしい。苗字なら兎も角、下の名前となると妙に構えてしまうというか、とにかく口に出すのに勇気が要る。
 剣心など自分とほぼ同世代のはずなのに、どうしてあんなに簡単に女の名を呼べるのか、斎藤には不思議でならない。剣心は狸娘に惚れているはずなのに、どうしてあんなに照れも無く名前を呼べるのだろう。斎藤には理解できない感覚だ。
 宣言を早くも後悔しているような困り顔の斎藤を見上げて、は試すように言う。
「じゃあ呼んでくださいよ。今すぐ、此処で」
「えっ………」
 の要求に、斎藤は絶句する。
 二人きりの家の中でなら何とかやれないこともないが、此処は天下の往来である。しかも帰宅時間で人通りも多いのだ。そんなところでやれだなんて、初めてなのに要求がきつすぎる。
 言葉どころか息まで詰まって顔を紅くする斎藤を追い詰めるように、は一歩進み出て強い口調で言う。
「さあ、呼んでください。今度から呼ぶって言ったでしょ?」
「ぐっ………」
 いつになく強気で押すに、斎藤はますます困り果ててしまって、変な汗まで出てきた。
 ここで斎藤が拒否したら、または泣くだろう。しかし此処で名前を呼べだなんて、斎藤の方が泣きたい気分だ。ある意味、新選組の拷問よりきつい仕打ちである。
 じっと見上げるの目は、名前を呼ぶまで絶対に逃がしてくれそうにない。敵前逃亡は士道不覚悟なのだから斎藤も逃げる気は無いのだが、しかしこれは―――――
「………すまん。心の準備ができてないから、今度にしてくれ」
「えぇ―――――?!」
 折角ドキドキして待っていたのに、これだなんて。というか、たかだか名前を呼ぶだけのことなのに“心の準備”というのは一体何なのか。
 しかし、がっくりと項垂れている斎藤を見ると、もこれ以上強くは言えない。かといって、今度、今度と誤魔化され続けるのは困る。これを機会に、絶対次に進まなくては。
「じゃあ、今度っていつですか?」
「………そのうち………」
 の勢いに圧され、斎藤は情けない声で答える。
 きっとこれから毎日、から名前を呼べとせっつかれることだろう。今までのツケが回ってきただけのことなのだろうが、本当に気が重い。
 これからのことを考えると、胃が痛くなってしまう斎藤なのだった。
<あとがき>
 ただ焼き芋を食べるだけのネタのはずが、勢い余ってこんな話になってしまいました(笑)。
 考えてみたらもう3年近くこのシリーズを書いているのに、一回も部下さんの名前を呼んでないんですよね。たま〜に苗字を呼んでくれるくらいで。いい加減、名前くらい呼ばせてあげないと、ねぇ………(苦笑)。
 っていうか斎藤、情けなさすぎだな。お付き合いする前はもっと余裕があったはずなんだが………。
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