縄張り争い
斎藤の家の縁側に、巨大な茶色の兎がどーんと横たわっている。どれくらい大きいかというと、その全長は斎藤の身長の半分以上はあろうかという巨大さだ。これを兎と呼ぶには、些か無理がある。しかし大きさを除けば、姿は斎藤家の兎と変わらない。耳は長いし、尻尾は丸く、くりくりした黒い目も紛れも無く兎のものだ。とんでもない大きさではあるが、多分兎で間違い無いのだろう。
「………でかいな………」
鼻をひくひくさせている巨大兎をしみじみと見ながら、斎藤は今更のように呟く。その横では、お気に入りの日向ぼっこの場所を取られた兎が、困ったように斎藤を見上げていた。
此処は斎藤の家であり、そこに飼われている兎にこそ一等地を占領する権利があるはずなのだが、相手が此処まで巨大だと追い払う勇気も出ないらしい。それは斎藤も同じことだ。いくら兎とはいえ、本来小さなはずの生き物がここまで巨大化すると、行動を起こすのにも躊躇いが出てしまう。常識外れの生き物というのは、その存在で攻撃力があるものらしい。
そんな常識外れの生き物が何故斎藤の家でまったりしているのかというと、理由は今日の昼に遡る。
今日はだけが公休日ということで、斎藤は一人で事務処理をしていた。狭い部屋も一人でいると広々として静かなものである。
黙々と作業をこなしているうちに、喉が渇いてきた。がいなくて一番困るのは、茶を淹れてくれる人間がいないことだ。彼も独りが長いのだから茶くらいは自分で淹れられるが、茶を淹れるには給湯室に行かなくてはいけない。これが困るのだ。
給湯室というのは、女子職員の溜まり場である。此処に住んでるのかと思うほど、いつ行っても2、3人必ずいるのだ。女が溜まっている所に男が入るのは、どうも気まずい。
かといって、このまま終業まで我慢するには間がありすぎる。あまり気は進まないが、斎藤は仕方なく席を立った。
斎藤が扉を開けようとしたのと同時に、外から扉が開いた。
「おお、いたのか」
そこにいたのは、川路大警視だった。彼が斎藤の執務室に来るとは珍しい。
「少し折り入って頼みがあってな」
「何ですか?」
折角給湯室に行く気になれたのに出鼻を挫かれて、斎藤は不機嫌に尋ねた。
川路がわざわざ斎藤のところに出向いて頼みごとをするなど、私用に決まってる。その私用は、大抵ラビのことだ。
しかしラビを預かるのは、娘の試験期間だけのはず。斎藤は女学校のことはよく知らないが、今はその時期ではないはずだ。
ラビ以外の頼まれごととは何だろうと考えていると、川路が部屋に入りながら言った。
「ラビじゃないんだが、兎を一羽預かってもらいたい。一週間ほどで良いんだが」
「また飼ったんですか?」
「いやいや。その兎は友人からの預かり物でな。旅行の間だけ預かることになったんだが、雄同士というのはどうも駄目らしい。娘が追い出せとうるさいんだ」
「なるほどねぇ………」
兎はああ見えて、縄張り意識の強い生き物である。特に雄同士となると、殺し合いになるほどの喧嘩をするらしい。大方、お坊ちゃん育ちのラビが、預かり物の兎に追い回されて縄張りを取られてしまったのだろう。
幸い斎藤の兎は雌だから、余程のことがない限り喧嘩をすることは無いと思う。サカリに気を付ければいいだけだから、川路の家で預かるよりは楽といえば楽かもしれない。
それにが大の兎好きだから、一羽増えたら大喜びするだろう。ラビを預かっている時は、いつもより楽しそうにしているのだ。
「サカリが付いてないなら良いですよ」
―――――と安請け合いして預かってしまったのが、この巨大兎なのだ。川路家の執事が連れてきた時は、正直ひいた。
ちなみにこの巨大兎、執事の話によると体長一メートルくらい、体重は8キロ近くあるらしい。しかし毛がふかふかしているものだから、それ以上に大きく感じられる。
いくらが兎好きとはいえ、この兎にはドン引きだろう。どうやらこの兎の世話は斎藤の担当になりそうだ。それどころか、こいつがいる間は家にも来ないかもしれない。
「まいったな………」
兎だと甘く見て安請け合いするのではなかった。気性は大人しいようだから助かるが、この異常な大きさははっきり言って化け物としか言いようがない。こんな化け物と1週間も一緒に過ごさなくてはいけないのかと思うと、気が重い。
溜息をつく斎藤とは対照的に、巨大兎は相変わらず鼻をひくひくさせながらまったりとしている。兎は環境の変化に弱いと聞いているが、その巨体に相応しく肝も据わっているようだ。まるで我が家にいるかのような寛ぎようである。
斎藤の横では、兎が怒ったように鼻先で彼を突付いている。自分のお気に入りの場所を取り返せと言いたいのだろう。兎の気持ちは解るが、斎藤もアレをどかす気力は無い。
「気持ちは解るけどなあ………」
「こんにちはー。あれー? 今日は早かったんですねぇ」
玄関が開いて、がぱたぱたと家に上がってきた。
「あっ! 一寸待っ―――――」
これを見せる前に、心の準備をさせておかなくては。
斎藤が慌てて立ち上がろうとしたが、その前にが部屋に入ってきてしまった。
「わあっっ!! 何ですか、この子?!」
巨大兎を見た瞬間、がびっくりした声を上げる。当然だ。これを見て動じない人間がいるのなら、斎藤も会ってみたい。
「これはな、大警視からの預かり物で―――――」
「おっきーい!! 可愛いー!!」
斎藤が説明しようとしたが、そんなものは耳に入らないようには走り出すと、巨大兎に抱きついて頬擦りを始めた。
こんな化け物に抱きつけるとは、も大した女だ。実は自分より肝が据わっているのではないかと、斎藤は思う。それとも姿形が可愛ければ、女は大きさなどには拘らないのだろうか。
ふかふかの毛に顔を埋めて一頻りすりすりした後、は斎藤を振り返って尋ねる。
「この子、何て名前何ですか?」
「あぁ……えーと“玉三郎”だ」
泣くかと思いきや大喜びされて、複雑ではあるが斎藤も一安心だ。これなら巨大兎の世話も任せられるだろう。
「玉三郎なら、玉ちゃんですね。玉ちゃん、よろしくー」
名前を呼ばれ、玉三郎は初めてに関心を持ったように彼女の匂いを嗅ぎ始めた。匂いが気に入ったのか、の膝に前足を置いて顔をつき合わせて暫くくんくんやっていたが、何を思ったのか突然彼女を押し倒してしまった。
「きゃあ!」
「こら! やめんかっ!!」
慌てて斎藤が引き離しにかかるが、玉三郎がしっかりと踏ん張ってびくともしない。巨大兎はこういう時は手に負えない。
小柄なが巨大兎に圧し掛かられている様は、じゃれ付かれているというより襲われているようだ。しかも玉三郎は、図々しくもの口の周りをぺろぺろと嘗め回しているのである。斎藤さえもそんなことはしたことが無いというのに。
はというと、こんな巨大な生き物に乗られているというのに、楽しそうに笑っている。巨大でも兎に懐かれるのは嬉しいのだろう。しかし斎藤には笑い事ではない。
玉三郎をどうにか引き離そうと引っ張ったり尻を叩いたりしている斎藤を見遣って、が笑いながら言う。
「大丈夫ですよぉ。玉ちゃん、あたしと遊びたいだけなんですから」
「何言ってるんだ。普通の兎がじゃれ付いてるのと違うんだぞ!」
いくら大人しい生き物とはいえ、こんなものが圧し掛かってきたら怪我をするかもしれないではないか。大きな生き物には、行動の制限が必要なのだ。
それより何より、兎のくせにを押し倒したり、口を嘗め回すのが斎藤には気に入らない。斎藤など付き合いが長いというのに、押し倒すことも出来ないどころか、接吻すら一度しかしたことを無いのだ。それを兎のくせに初日からやってしまうなど、彼の立場が無いではないか。
動物相手に本気で焼き餅を焼いている斎藤に、兎は心底呆れたような生温かい視線を送るのだった。
どうにかと玉三郎を引き離すことが出来たが、これで玉三郎の世話を彼女にさせるのは危険だということが判った。やはり斎藤がやるしかないらしい。
しかし斎藤が触ろうとすると、玉三郎は不機嫌そうに鼻を鳴らして移動してしまう。それまでは全く動く様子が無かったくせに、の後ろをどすどすと追い回したりして、どうやら女が好きらしい。兎なら雌兎の尻でも追いかけていれば良いものを、の尻を追い回すのが気に入らない。
を追い掛け回す玉三郎を斎藤が追い掛け回すというのを何度も繰り返していると、玉三郎も男に追い回されるのは嫌になったのか、今度はそこいら中に顎を擦り付け始めた。女を追いまわした後は、縄張り作りらしい。この兎は、ラビや斎藤の兎よりもはるかに本能のままに生きているようだ。羨ましい生き方である。
川路の家でもこの調子だったのだろうか。川路の娘を追い回したり、こうやってラビの縄張りをなし崩しに取り上げていたのだとしたら、娘が玉三郎を追い出せと怒るのも当然だ。斎藤も出来ることなら追い出してしまいたい。
「御飯ですよー」
早くも玉三郎を追い出す方法を考えていると、が盆を持って台所から出てきた。
の姿に気付くと、それまで縄張り拡大に夢中になっていた玉三郎がどすどすと駆け寄ってきて、彼女の足許をぐるぐると回り始める。どうやら兎のくせにに求愛しているらしい。図々しいにも程がある。
「邪魔だ」
むかむかしながら斎藤は玉三郎の首根っこを引っ掴んで、強引にから引き剥がした。まったくこの兎は、自分の姿が可愛らしいのと迫力のある巨体をいいことに、やりたい放題である。飼い主が相当甘やかして育てたに違いない。
玉三郎は抗議するようにぶうぶう鳴くが、そんなことは斎藤の知ったことではない。人間なら殴りつけているところを、兎だからと体罰は免除してやってるのだから、ありがたいと思えと言いたいところだ。
しかしは、そんな斎藤の不機嫌な様子など気付かないように笑いながら、
「後でゆっくり遊ぼうねー、玉ちゃん」
に頭を撫でてもらうと機嫌を直したのか、玉三郎は嬉しそうに目を細めた。
人間も兎たちも一緒に食事を始めるが、玉三郎は目の前の野菜よりの方が気になって仕方がないらしい。もともと兎は食べては休み、食べては遊びと一日中ダラダラ食べている生き物だが、玉三郎は一口食べてはの周りをうろうろして落ち着かない。
斎藤の兎のように腰を据えて食えと言いたくなる姿だが、は全く気にならないようだ。それどころか、自分の周りを離れない玉三郎を可愛くてたまらないといった様子である。
見ていると苛々してくるから斎藤はなるべく見ないようにしようとするが、図体がでかいだけに嫌でも視界に入ってしまう。しかもが纏わり付かれて嬉しそうな顔をするものだから、苛立ちも倍増だ。
「もぉ、後で遊んであげるから、待っててってばぁ」
じゃれ付く玉三郎を甘ったるい声で叱るの姿は、まるで恋人といちゃいちゃしているようだ。いくら相手が動物とはいえ、斎藤の目の前で彼以外の“男”といちゃいちゃするというのは如何なものか。斎藤だってこんなことはしたことが無いというのに。
動物相手に焼き餅を焼くなんて馬鹿馬鹿しいとは、斎藤も思う。馬鹿馬鹿しいのだが、自分は我慢しているのに、玉三郎は獣だというだけでやりたい放題なのだ。腹が立つというか羨ましいというか―――――まあ羨ましいのだろう。あれだけ欲望のままに突き進めれば、今頃は二人の関係も大きく変わっていたはずである。
むかむかしながらも、これくらいで何か言うのは大人気ないと、斎藤はぐっと堪えて黙々と食事を続ける。彼が何もしないのを負けを認めたと思ったのか、玉三郎は今度はの肩に顎を擦り付けて臭い付けを始めた。
箪笥や襖に臭い付けをして縄張りを主張するのは、どうせ一週間の滞在なのだから許しても良い。しかしにまで縄張りを主張するのは言語道断だ。は斎藤の縄張りなのである。
はで、玉三郎からすりすりされるのが嬉しいのか、笑いながら頭を撫でている。こんな兎野郎に縄張り認定されているというのにだ。
もう我慢の限界である。斎藤は荒々しく箸を置くと、玉三郎の唯一の弱点である首根っこを引っ掴んで無言で隣の部屋に引き摺って行った。
襖を乱暴に閉めると、斎藤はきょとんとしている玉三郎の顔を掴んで低い声で一語一語区切るように言い聞かせる。
「あの女は俺の縄張りだ。勝手に臭い付けするな」
人間なら真っ青になるような斎藤の形相だが、玉三郎は不快そうに斎藤の手を払っただけでどこ吹く風といった様子だ。ふてぶてしい性格なのか、図体が大きいだけに知恵の回りが遅いだけなのか。どちらにしても反省する様子が無いのが腹立たしい。
口で言って駄目なら、実力行使あるのみだ。斎藤は玉三郎の頭をぎゅ〜っと畳に押し付ける。これだけやれば、どちらが強いかくらいは解るだろう。
玉三郎はじたばたと抵抗するが、人間の男の力に敵うわけがない。頭を押さえつけたまま、ついでに空いた手で尻も押さえつけて、完全に身動きできないようにする。これで斎藤が格上の雄だと骨身にしみるはずだ。
「あれは俺の女だ。今度同じことしたら、ぶっ飛ばすぞ」
「斎藤さん! 玉ちゃん苛めちゃ駄目ですぅ!!」
いつの間に部屋に入ってきたのか、斎藤の後ろでが悲鳴を上げた。
いつからいたのか分からないが、いつからいたにしても斎藤としては非常にまずい。動物相手に嫉妬するというのも大人気ないし、それで力任せにぎゅうぎゅうと身体を押さえつけているというのも、いい大人としてどうかと思うような行動だ。
斎藤はいつでも大人として節度ある態度でいるし、の前では特にそうだ。だからも彼のことを“頼れる大人の男”だと思っている。それなのにこんな姿を見られたら、玉三郎の姿よりもドン引きだろう。
「ちっ……違うぞ! これは躾だ!」
「躾ならもう良いでしょう? 玉ちゃん、痛いって言ってますよ」
顔を真っ赤にして反論する斎藤から玉三郎を奪い取って、はぎゅっと抱き締めた。
斎藤の前ではふてぶてしい態度だったくせに、に抱き締められている玉三郎は、苛められて怖かったとでも言いたげにぶるぶると震えている。女の前では“か弱い兎”を主張して、そういうところには恐ろしいほど知恵が回るらしい。
なし崩しに自分が悪者にされているようで、斎藤はぶすっとする。妙なところにだけ知恵が回る玉三郎も玉三郎だが、それにあっさりと騙されるもだ。女というのは、可愛いものは無条件に正しいとでも思っているのだろうか。
は玉三郎を畳に下ろして、安心させるように暫く身体を撫でている。玉三郎の震えが止まったところで、今度は何を思ったのか、突然両手で斎藤の頭を掴んだ。
「ぅわっ………?!」
斎藤の頭を自分の方に引き寄せると、は彼の顎を自分の肩にごしごしと擦りつけた。それからぱっと手を離して、
「玉ちゃんが付けた上に付け直したから、これで大丈夫ですよ」
「………………………」
は無邪気に笑っているが、斎藤は唖然として言葉も出ない。は時々とんでもないことを言うことがあるが、まさかこんなとんでもない行動に出るとは思わなかった。毎度のことながら、の思考は斎藤の想像の斜め上をいっている。
唖然とした間抜け面の斎藤が可笑しいのか、は声を上げて笑う。そして今度は自分の顎を斎藤の肩に乗せて、
「縄張り、縄張り〜」
と、笑いながらごしごしするのだった。
コンビニで立ち読みした雑誌を見て思いついたネタ。ジャーマン・ジャイアントとかいう品種で、飼い主のドイツ人おじさんが膝抱っこをしている写真が載ってたんですけど、でかい………。ドイツ人はかなり体格の良い人種のはずなんですが、それでも兎がでかく見えるんですよ。
雑誌に載っていた兎は体長1メートル以上、体重は7.8キロらしいんですが、大型犬並みの大きさですよ、これ。もふもふして可愛いんですけどね。でもこれだけ大きかったら、トイレの世話とかブラッシングとか大変だろうなあ。雄だったら発情期が怖いよ(笑)。
そもそもこのシリーズは“兎に焼き餅を焼く斎藤”ってところから始まってたんですが、今ではすっかり忘れ去られてたんで、ふてぶてしくて女好きな巨大兎・玉三郎を投入して初心に帰ってみました。玉ちゃんは演技派兎です。兎のくせに恐ろしい奴め………。
今後一週間は、斎藤と玉三郎の熾烈な縄張り争いが繰り広げられるんでしょうか。二人(?)とも、顎が擦り切れちゃったりして(笑)。