はいからさんのデート

 例の子豚の貯金箱が一杯になった。のおやつ代にちょこちょこ使い込んでいたせいで(斎藤もこっそり使い込んでいたのだが)、あと少しというところでなかなか貯まりきれなかったのだが、今日入れた小銭でめでたくみっしり詰まったのだ。
 蓋を開けて丁寧に小銭を数えてみると、予想外に貯まっていた。小さな貯金箱なのに、侮れないものである。これだけあれば斎藤と二人で洋食を食べて、ワインか麦酒も付けることが出来るだろう。
 ハイカラな洋食屋で斎藤と二人で乾杯する姿を想像すると、の顔はだらしなくにやけてしまう。
 白いテーブルクロスを掛けられたテーブルの上には柔らかな明かりを点す蝋燭が立っていて、グラスの中には赤いワイン。斎藤は魚が好きだから、赤ワインじゃなくて白ワインになるかもしれないが、そんなのはどっちでも良い。とにかくグラスをぶつけると、綺麗な澄んだ音がするのだ。
 グラスを鳴らして乾杯するなんて、西洋人みたいだ。正式にはグラスを鳴らしてはいけないらしいが、そんなことは構わない。たちが行くのは外国人が出入りするような店ではなく、大衆向けの店なのだから、そんな細かいことは言われないだろう。それに、音が出た方が気分が盛り上がるというものである。
 この日のために、西洋料理の作法というものを一寸勉強してみた。実際には練習していないが、ナイフとフォークの使い方は多分大丈夫である。問題は斎藤であるが、作法の教本を読ませれば大丈夫だろう。彼はと同じくらい刃物の扱いは器用なのだ。日本刀とテーブルナイフは一寸違うが、多分何とかなる。
「うふふ………」
 若い娘らしいことを想像して胸を膨らませているが、背中を丸めて小銭をチャリチャリと布袋に入れている姿は、蓄財を確認して悦に入っている因業婆さんのようである。こんな姿を斎藤が見付けたら、何も見なかったことにしてこの場を静かに立ち去ることだろう。
 小銭で会計をするのはみっともないから、明日にでも両替に行かなくては。両替したら、金を見せて斎藤を食事に誘おう。きっと彼はのやりくり上手を褒めてくれるに違いない。
 料理の腕は毎日のように見せているけれど、やりくりについては斎藤は全く知らない。いつも子供だと思われているから、ここでしっかりしているところを見せ付けて、ちゃんとした大人だと知らしめる絶好の機会だ。良い奥さんというのは家事能力だけじゃなく、金の管理もきちんとできなくてはいけない。こんなしっかり者なの姿を見たら、斎藤もきっと自分の奥さんにしたいと思うはずだ。
 止まらない妄想列車に乗ったまま、は流し台の下で一人、にやにやと笑い続けるのだった。





 そして次の日の夕食後、は斎藤の前に銀行の封筒を出した。
「何だ?」
 いきなりそんなものを見せられ、斎藤はきょとんとする。
 は得意げにふふっと笑って、
「私のへそくりです。斎藤さんから預かってたお金、こんなに貯まったんですよ。凄いでしょう?」
「結構貯まるもんだな」
 封筒の中身を確認しながら、斎藤は一寸感心したように鼻を鳴らした。
 彼も煙草代にちょこちょこ使い込んでいたから大して貯まっていないと思っていたのだが、意外に纏まった金額である。あんな子豚の腹に、こんな大金が入っているとは思わなかった。貯金箱の存在に気付いた時からはやりくりが上手いのかもしれないと感じていたが、これは間違いなくやりくり上手だ。
 感心してくれているのは判るけれど、目に見える反応が薄いのがには少し不満だ。金額には驚いているようだが、へそくりの存在にも驚いて欲しかったのに。へそくってたことに反応が無いなんて、まるで斎藤公認で貯金していたみたいだ。彼があの子豚の存在に気付いていた節は無かったのに。
「へそくりしてたの、びっくりしないんですか?」
「あ? ああ、びっくりしたぞ、うん。お前もちゃんとやりくりしてたんだな」
 の突っ込みにはっとして、斎藤は慌てて驚いた風を装う。彼はあの子豚の貯金箱の存在を知らないことになっていたのだ。うっかりしていた。
 斎藤の様子に少し不自然な感じがして、は首を傾げる。が、きっと突然出された現金の方にびっくりしたのだろうと、すぐに思い直した。斎藤が褒めてくれたのだから、とりあえずの目的は達成できたのだ。
 は嬉しそうにふふっと笑って、
「それでですね、このお金で明日の夜は洋食を食べに行きましょうよ。前から目を付けてたお店があるんです」
 のお目当ての店は、斎藤の家からそう遠くない。初めて彼の家に飛び込んだ日に見つけた店だ。
 あの頃はまだ斎藤とはただの上司と部下で、彼と付き合ったら………なんて妄想してばかりだったけれど、今は違う。現実に、あの頃妄想していたように二人で洋食を食べることが出来るのだ。実現するまで長かったなあ、とは感慨深くなってしまう。
 二人で一寸贅沢な外食とか、そういう小さな思い出を積み重ねていくことで恋人同士の絆というのは深まっていくんだろうなあ、とは思う。そういえば斎藤と二人きりで外食なんて、一度もしたことが無い。兎でさえ、の姿を借りて外食したことがあるというのに。これからもこうやって貯金して、外食の機会を作らなくては。
「そうだなあ………」
 の提案に、斎藤は腕を組んで考える。
 洋食は食べたことが無いから、たまにはそういうのも良いだろう。斎藤は正式な作法を知らないが、箸を使わせる店も多いから多分大丈夫だ。
 何より、は恐らくこのためにコツコツと金を貯めていたのだ。茸狩り以来何処にも連れて行ってないから、もそろそろ何処かに出かけたい頃だろう。
 考えてみれば、は斎藤と違って遊びたい盛りなのである。出不精の彼に付き合って何処にも出かけることも出来ず、家で料理を作るか兎の世話をするだけでは、いくら何でも可哀相だ。
 に言われる前に、こちらから何処かへ出かけるように誘うように心掛けなくては、と斎藤は思う。天真爛漫に振舞っているように見えて、は変なところに遠慮する性格なのだ。大人の斎藤が先回りして段取りしてやらなくてはいけない。
「よし、じゃあ明日は仕事を早く切り上げるか」
 斎藤の返事に、の顔がぱあっと明るくなる。
「はい! じゃあ斎藤さん、明日までにこれを読んでおいてくださいね」
 弾むような明るい声でそう言うと、は一冊の本を出した。
「何だ?」
「西洋料理のお作法の本です。ナイフとフォークの使い方も載ってますから」
「あー………」
 畏まった店に行くわけでもないのだから、別に箸で食べても良いではないか。これからはちゃんとを遊びに連れて行ってやろうと決心したばかりなのに、斎藤は早くも面倒くさくなってきた。
 しかし嬉しそうなの顔を見ると、面倒臭いから嫌だと言うわけにもいかず、斎藤は渋々本を受け取ってしまうのだった。





 初めて入った洋食店の内装を、は物珍しげに見回す。流石西洋の食べ物を扱っているだけあって、燭台一つ取ってもハイカラだ。
「一寸緊張しますね」
 興奮のせいか頬を淡く紅潮させて、は小声で言う。
 初めての洋食に、はすっかり浮かれてしまっている。何を注文すればいいから判らなかったから、店員お勧めのカニコロッケとエビフライのセット(定食のようなものらしい)を注文したのだが、どういうものが来るのかというのも楽しみだ。店員は天ぷらのようなものだと言っていたから、揚げ物なのだろう。
「飯を食うだけだろうが。少し落ち着け」
 落ち着き無くきょろきょろしているとた対照的に、斎藤は堂々としたものだ。彼も洋食は初めてのはずなのだが、こういうところは大人だなあとは感心する。
 確かに斎藤の言う通り食事をするだけのことなのだが、初めての洋食なのだ。こんなハイカラな非日常的な空間で、ハイカラなものを食べるのである。斎藤と食事をするのは毎日のことだが、こんなハイカラ尽くしの店で食事なんて、初めての時のようにドキドキする。
 そうこうしているうちに、店員が料理と飲み物を持ってきた。店員の勧めに従って、飲み物は麦酒である。は洋食といえばワインだと思い込んでいたが、揚げ物には麦酒が合うのだそうだ。
「お待たせ致しました」
 二人の前に置かれたのは、狐色の丸い物体と同じく狐色の海老天のようなものだ。それに御飯とサラダが付いてきた。
 興味深げにじっと見詰めるに、店員が説明する。
「こちらの丸いものがカニコロッケで、こちらがエビフライでございます」
「へー………」
 エビの方は兎も角として、丸いものの何処がカニなのか分からない。中にカニが入っているのだろうか。揚げ物らしい香ばしい匂いがして、美味しそうではある。
 料理を一通り観察すると、今度は隣の席にいる客が飲んでいる琥珀色の飲み物に気付いた。小さなグラスに入っていて、何となく美味しそうである。
「あの、隣の方が飲んでいるのは何ですか?」
「あれはデンキブランです。最近売り出されたカクテルで、少し強めですが口当たりが良いと御好評戴いております。ビールとの相性も良いですし、如何ですか?」
「ふーん………。
 斎藤さん、あれも頼みましょうよ」
 デンキブランなんて、初めて聞く酒だ。カクテルというのもよく分からないが、なんだかハイカラそうである。
「そうだな。じゃあ、それを二つ」
 酒好きの斎藤も異存は無いようだ。店員に注文すると、ふと思い出したように言った。
「そういえば、此処は箸は置いてるかな?」
「はい。お持ちいたしますか?」
「えー?! 箸で食べるんですかぁ?」
 斎藤の言葉に、は不満の声を上げる。折角の洋食なのに、箸で食べるなんて。雰囲気が台無しではないか。
 その声に斎藤はムッとして、
「日本人は箸で食うもんだ。ナイフとフォークが良いなら、お前だけ使え」
「……………………」
 折角西洋の作法の本を貸したのに、何の役にも立ってない。もしかしたら斎藤は、あの本すら読んでいないのかもしれない。
 初めての洋食でも気後れしないのは大人だと思うが、こういうところはおじさんだ。はぷぅっと膨れるのだった。





 店のお勧めだけあって、カニコロッケもエビフライもとても美味しかった。デンキブランという酒も料理に合って、も斎藤も大満足だ。など、デンキブランのあまりの口当たりの良さに、3杯もお替りしてしまった。
 店員は少し強い酒だと言っていたが、少し眠気は来ているものの、の頭はまだはっきりしている。意外と大したことは無かったらしい。
「じゃあ、そろそろ出るか」
 食後の珈琲を飲んで一息ついたところで、斎藤が声を掛けた。
「はい」
 元気良く返事をして、は立ち上がる。が、立ったと思った瞬間、その場にへたり込んでしまった。
「あれ?」
 立ち上がろうとするが、何故か身体に力が入らない。もぞもぞ動いているうちに今頃になって酔いが回ってきたのか、頭がくらくらしてきた。
 大したこと無いと思っていたが、どうやら大したことあったようだ。浮かれすぎて調子に乗ってしまったらしい。
「どうした? 気分が悪いのか?」
 急に真っ赤な顔になったの前にしゃがんで、斎藤が心配そうに尋ねる。
「立てなくなっちゃいましたぁ」
「はあ?」
 気まずそうな顔で言うに、斎藤は頓狂な声を上げてしまった。
 大人なんだから立てなくなる前に気付けと説教しそうになったが、そこをぐっと堪える。がこんなに飲んでしまったのも、今日のことが嬉しくてはしゃぎ過ぎたせいなのだ。これくらいのことでこんなにはしゃげるなんて、可愛いものではないか。
 それに、たかが洋食くらいでこんなにはしゃいでしまうのも、斎藤が日頃から遊びに連れて行ってやらなかったせいなのだ。斎藤にも責任があるといえば、責任がある。
 斎藤は仕方なさそうに溜息をついて言った。
「おんぶしてやるから、今日はうちに泊まれ」





「………ごめんなさい、斎藤さん」
 夜道を歩く斎藤に負ぶわれて、は申し訳なさそうに言う。本格的に酔いが回ってきたのか、少し舌足らずだ。
 今日は二人で洋食を食べて、ほろ酔い気分で手の一つも繋いで夜道を歩くつもりだったのに、こんなことになってしまうなんて。これではがいつまでも子ども扱いされてしまうのも、無理は無い。折角やりくり上手なところを見せたのに、全部台無しだ。
 けれど斎藤は別に怒っているようでもなく、軽く答える。
「珍しい酒を飲んで、一寸はしゃぎ過ぎただけだろ。料理も美味かったし、楽しかったんなら良いんじゃないか」
「でもぉ………」
 二人で楽しい時間を過ごすはずだったのに、こうやって斎藤に迷惑をかけてしまったのだ。申し訳ないのと情けないのとで、は泣きたくなってしまう。
 斎藤はいつも優しい。がこうやって迷惑をかけても怒りもしないし、嫌な顔一つしない。優しくしてもらうのは嬉しいけれど、何をしても怒らないというのは、のことを対等な大人として見てくれていないのではないかと思ってしまうのだ。子供がこういう面倒をかけても大人が笑って許してくれるのと同じだ。
 他の人には子ども扱いされても何とも思わないけれど、斎藤にだけはちゃんと大人扱いして欲しい。自分の許容量を考えずに飲んで歩けなくなってしまったが悪いのだから、ちゃんと「調子に乗って飲むからだ、阿呆」くらい叱って欲しい。
「そんなに気にするな。今度から飲み過ぎないように注意すれば良いだけじゃないか」
 今にも泣きそうなに、斎藤は慰めるように優しく言った。
 は酒をあまり飲まないから、自分の許容量が分からなかっただけだと斎藤は思う。こういうのは失敗しながら、自分にとって丁度良い量を学んでいくものなのだ。斎藤だって若い頃はそうやって学習してきた。
 何度もこんな風に潰れられたら流石に怒りたくなるが、今回は初めてなのだから何とも思わない。それどころか逆に、気持ち悪くなったり二日酔いになったりしないかと心配してしまうくらいだ。
 誰だって一度や二度は酒で失敗する。暴れたり誰かを不愉快にしたりするわけでもなく、こうやって謝るくらいなのだから、歩けなくなるくらい可愛いものではないか。
 そう思えるのは、が可愛いからだ。可愛いから、斎藤もこれくらいの失敗は笑って許せてしまう。これが女狐や狸娘だったら舌打ちの一つはしただろうが。
「怒ってないから安心しろ。ほら、着いたから下ろすぞ」
 自宅の玄関の前で、斎藤はもう一度優しく言う。が、からの返事は無い。
 泣いているのかと振り返って様子を見ると、いつの間にかはぐっすり眠っていた。完全に酔い潰れてしまったらしい。
 斎藤は苦笑すると、を起こさないようにそっと地面に下ろす。そして音を立てないように玄関を開けると、もう一度彼女の身体を抱きかかえた。





 客用の布団を敷いて、を起こさないように寝かせた。そして、寝やすいように結い上げている髪を解いてやる。
「形だけは一人前なんだがなあ………」
 髪を手櫛で梳いてやりながら、斎藤独りごちる。
 姿形は大人の女だが、こうやって酔いつぶれて熟睡する様子はまだまだお子様だ。との関係に今ひとつ踏み込む勇気が出ないのは、こういう姿を見てしまうからだと思う。こう自分に対して無防備だと、逆に手を出せない。
 少し楽にしてやった方が良いかなと、斎藤はの帯に手をかけた。
 帯を緩め、腰紐を解いてやると、は楽になったのか更にぐったりする。昔はこうやって女の介抱をしてやるうちに妙な気分になったものだが―――――
 ふと、背後に視線を感じた。振り返ると、兎が段ボール箱の家から顔だけ出してじっと見ている。
 幸い今日は満月ではないから、お喋りを始めることは無いだろう。が、目がにやにやと意味ありげに笑っていて、それが何となくムカつく。
「お前が考えてるようなことは考えてないからなっ」
 との関係にもう一歩踏み込むことに躊躇うのは、彼女が子供っぽいこともあるけれど、一番の原因はこの兎だ。こいつの目があると思うと、それだけで気分が萎えてしまう。
 顔を紅くして鋭い声を出す斎藤が可笑しいのか、兎はまだにやにやしている。そして、お邪魔はしませんよ、とでも言いたげにダンボールの中に引っ込んだ。
 兎の目が邪魔なのではなく、兎の存在そのものが邪魔なのだ。こいつがいる限り、うかうか最後の一線を越えることもできやしない。
 一番の障害はの幼さでも斎藤のヘタレさでもなく、この兎だ。否、やはり兎ごときの目を気にする彼のヘタレさが障害なのかもしれない。
 斎藤は深い深い溜息をつくのだった。
<あとがき>
 遂に、お付き合い前から憧れていた洋食デートです。此処まで来るの、長かったなあ………。
 二人が飲んだ“デンキブラン(電気ブラン)”は明治15年に浅草の神谷バーで発売されたカクテルです。今でも神谷バーで飲むことができます。
 私は飲んだことが無いのですが、雑誌『サライ』によると、ブランデーにジンとオレンジキュラソーと薬草を混ぜたカクテルだとか。現在販売されているデンキブランはアルコール30度で、電気ブラン<オールド>は40度。これでも強いお酒ですが、明治時代は45度で売られていたのだとか。それは強すぎ………。
 でも甘味が強い口当たりの良いお酒で、コロッケなどの揚げ物との相性が良いとか。チェイサーにビールというのが流儀らしいです。
 ちなみにデンキブランの“電気”は、別に電気を使って作っているわけでも電気が流れているわけでもなく(当たり前だ)、新しいものに付ける形容詞のようなものです。戦後で言うなら文化住宅の“文化”みたいなものか(←一体いくつだ、私?)。
 あ、明治15年発売のカクテルを何故二人が飲んでいるのかという突っ込みは、無しの方向でお願いします。酔い潰れる兎部下さんと、優しく介抱してくれる斎藤というのを書きたかっただけなんですよ〜。
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