ラビット病

 の朝一番の仕事は、執務室の掃除だ。斎藤と二人でしか使わないからそう汚れるものではないはずなのだが、ちゃんと掃除をしてみると意外と髪の毛やら埃やらが落ちているものなのだ。
 掃除が終わる頃に、計ったように同じ時間で斎藤が出勤してくる。その前に湯を沸かして茶の用意をするのも、の大事な仕事だ。熱過ぎず温過ぎず細かく温度も決まっているので、これが一番面倒な仕事なのである。
 斎藤は悪い人ではないのだが、この異常なほど細かいところは正直辟易している。こんなんじゃ、お嫁さんになったら大変だなあ、とお茶を淹れる度には思うのだ。尤も、そんなことを言われたことは一度も無いけれど。
「おい、一寸開けてくれ」
 一旦沸かした湯を適温になるように冷ましていると、部屋の外で斎藤の声がした。いつもと同じ出勤時間である。
「はーい」
 扉を開けると、段ボール箱を抱えた斎藤が立っていた。こんな荷物を持って出勤してくるなんて初めてのことで、挨拶より先にの目は箱に釘付けになってしまった。
「何ですか、これは?」
「ああ―――――」
 斎藤が答える前に、段ボール箱の蓋がカサカサと動いた。そして蓋が跳ね上がると、そこから出てきたのは―――――
「兎だ―――っ! 可愛い―――っっ!!」
 つやつやの毛をした真っ黒い兎が前足を箱の縁に掛けて、長い耳をぱたぱたさせている。大きな目で辺りをきょろきょろ見て、初めて来た場所に警戒しているようだ。
 最近、兎を愛玩用に飼うのが異常なほど流行っていると新聞に書いてあったけれど、斎藤と兎という組み合わせは凄く変だ。斎藤が兎を飼ってはいけないという法律は無いけれど、でも彼が家で兎を可愛がっている姿というのは、妄想癖のあるにも想像を絶する。
「この子……斎藤さんのですか?」
 なんともいえない複雑な顔をして、は問う。の表情が気に入らなかったのか、質問自体が気に入らなかったのか、斎藤は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「そんなわけあるか、阿呆。これは川路さんの御令嬢の兎だ」
「あー………」
 それなら納得できる。川路大警視の娘は女学生だと聞いているから、女学生と兎という組み合わせはぴったりだ。
「でも、どうして大警視のお嬢さんの兎を斎藤さんが持ってるんですか?」
「一寸預かってほしいと言われたんだ」
 斎藤の話によると、最近川路の娘は兎に夢中になっていて、勉学が疎かになっているという。それで先日の試験の結果が著しく下がってしまったことに川路が激怒して、次の試験で成績が戻らなければ兎を処分する、と取り上げてしまい、何故か斎藤のところに回ってきたのだ。
「まあ一ヶ月弱くらいだし、手もかからんらしいから預かることにしたんだがな」
「へーえ………」
 箱の中でもぞもぞしながら忙しなく耳を動かしている兎を見る。野生の兎よりは二周りほど小さくて、こんなに可愛いなら川路の娘でなくても夢中になるだろう。だってもう既にめろめろである。
 もぞもぞしている兎に、はそっと指先を触れさせてみる。
「やぁんっ!! ふかふか〜〜〜っっ!!」
 興奮のせいかは頬を紅潮させて、目まで潤ませている。掌で撫でる度にの身体がふるふると小さく震え、“恍惚”といった感じだ。
 兎に触っただけでどうして此処まで恍惚感を得られるのか、斎藤には分からない。世の中には色々な人間がいるから、は毛深いものに触るとそうなる人間なのかもしれないと思ってみる。その割には、“熊男”とあだ名されている警視庁一毛深い男には「気持ち悪い」などと容赦ない感想を述べているのが謎なのだが。
 このままでは川路の娘のように一日中兎に触ってうっとりしかねなくて、斎藤は慌てて兎を取り上げた。
「あぁんっ」
 閨での声を連想させるような妙な声を上げられ、思わず斎藤は赤くなる。
「変な声を出すんじゃない! 休み時間になったら好きなだけ触らせてやるから。仕事するぞ」
 何故か斎藤の方が恥ずかしくなって、それを隠すのに過剰に怒った声を出すと、兎の箱を持って自分の席についた。





 斎藤の机の隣でカサコソと音がする度に、はぴくっと顔を上げて兎の箱を見る。
 足許では兎が耳をぱたぱたさせているし、目の前ではが落ち着かなくしていて、鬱陶しいといったらない。大きい兎と小さい兎を部屋においているような気分になって、斎藤は早くもうんざりしてきた。
 そうこうしているうちに、昼休みの鐘が鳴った。それと同時に、は通常からは想像もできない素早さで兎の箱に走る。
「ねー、斎藤さん。うさちゃんの御飯はー?」
 どうやら自分の手から餌をやりたいらしい。斎藤の方に手を伸ばして目を輝かせている。
 兎の餌より自分たちの昼飯が先だろうと斎藤は呆れたが、餌を渡すまでは箱から離れそうにないので、仕方なく持参の紙袋から半分に切った人参を出した。それをの掌に載せて、
「それを箱に放り込んでおいたら勝手に食うさ。それから、そいつには“ラビ”という名前がついてるらしいから、勝手な名前は付けるなよ」
「ラビ? 何でラビちゃんなんですか?」
 変な名前、と言いたげな顔で、が尋ねる。
「兎は英語で“ラビット”と言うんだそうだ。ま、女学生らしいハイカラな名前だな」
「ふーん………。じゃ、ラビちゃん、御飯ですよー」
 箱の中に人参を置くと、兎は早速鼻をひくひくさせながら人参にかぶりついた。が、兎の口に対して人参が大きすぎるらしく、噛み付こうとするところころと転がってしまう。逃がさないように前足で人参を押さえつけるが、それでも食べにくそうだ。
 必死になって人参にかぶりついている姿が可愛くて、にこにこしながら兎の食事を眺めていただったが、あまりの必死さに何だか気の毒になってきた。
「斎藤さん、何だか食べにくそうなんですけど」
「昨日はそうやってやったが、全部食べたぞ」
 面倒臭そうに斎藤は答える。兎の昼御飯なんかより、自分たちの昼御飯の方が気になっているようだ。
 けれどは、兎の必死な様子の方が気になってならない。
「やっぱり切ってあげた方が良いですよ。
 ラビちゃん、一寸ごめんね」
 は兎から人参を取り上げると、部屋を出て行った。食堂で包丁を借りて切ってやるつもりらしい。
 どうやら自分たちの餌のことは完全に忘れ去っているらしい、と斎藤は呆れて溜息をついた。確かに兎は可愛い形をしているが、そこまで夢中になるほどのものなのだろうか。
 箱に目をやると、いきなり人参を取り上げられてしまった兎が、何が起こったのか分からないような顔をして、顔だけちょこんと出している。さっきまでかぶりついていた人参が何故消えたのか理解できていないらしい。薄々感じていたがウサギというのはあまり賢い生き物ではないようだ。
 暫くすると、縦に四つに切った人参と売店の紙袋を持ったが戻ってきた。
「おまたせー。これで食べやすくなりましたよぉ」
 小さな子供に言い聞かせるような甘ったるい口調でそう言うと、は兎の口許に人参を突きつけた。
 形が変わったせいでさっきまで食べていた人参と同じものだと判らないのか、兎は不思議そうな顔をした。が、匂いで理解したらしく、すぐにそれに齧りつくと、そのままはこの中に引っ込んでしまった。
 自分の口に合った大きさになって、兎は一心不乱に人参を齧る。鼻をひくひくさせながらカリカリやっているのを微笑ましげに眺めて、は残りの人参も箱に入れた。
「じゃ、俺たちも食いに行くぞ」
 これでやっと食事にありつけると、斎藤は急かすように声を掛けた。兎も腹が減っていただろうが、斎藤だって腹が減っているのだ。
 が、は素っ気無く、
「あ、行ってきてください。あたし、売店で買ってきましたから」
 そう言いながら紙袋からパンを取り出した。何としても兎から離れる気が無いらしい。
 呆れて言葉も出ない斎藤を無視して、はパンを食べ始める。両手で持ってはむはむとやっているその様は、やっぱり兎みたいだ。
「美味しい?」
 人参に夢中になっている兎に訊きながら、ゆらゆらしている長い耳を指先でなぞる。と、耳だけがびっくりしたように激しく動いた。
「ぱたぱたしてるー。可愛いー」
 別の生き物のように耳が動くのがそんなに面白いのか、は何度も耳を撫でる。その度に兎は耳をぱたぱたと動かして、の笑いを誘った。
 そこで面白くないのが斎藤である。まるでこの部屋にはと兎しかいないと思っているような様子に苛立ちさえ覚える。
「やめないか。嫌がっているだろうが」
 自分の存在を主張するかのように、斎藤は憮然とした声で言う。こんな声を出せば、いつものだったら慌てて機嫌を取ろうとするはずだ。
 が、は振り向きもせず涼しい声で、
「えー、嫌がってないですよぉ。全然気にしてないみたいですもん」
などと言いながら、しつこく耳を撫でている。全くもって斎藤には面白くない。
 あまりにも面白くなくて、斎藤は兎に集中しているの耳の裏を指先でそっと撫でてみた。
「ひゃうっ?!」
 一瞬背筋をピンと伸ばして、は甲高い悲鳴を上げた。そして撫でられた耳を押さえて、真っ赤な顔で怒鳴る。
「何するんですかっ、いきなり?!」
「ほらみろ。お前だって食ってる最中に耳を触られたら嫌だろうが。兎だって同じだ」
「う………」
 皮肉っぽく口許を歪める斎藤に何も言い返せなくて、は言葉に詰まってしまった。
 ぷぅっと膨れるを見下ろして、斎藤は息を漏らすように笑った。
「兎を可愛がるのも良いが、あまり構い過ぎるのも鬱陶しがられるぞ。こういうのはたまに構ってやるくらいで丁度良いんだ」
 だから兎ばかり構うんじゃない、と言外に含ませてそう言うと、斎藤は部屋を出て行った。





 斎藤が注意したにも拘らず、はその後も兎に夢中だ。仕事が終わっても余程名残惜しかったのか、とうとう斎藤の家まで着いてきてしまった。ここまでくるともう病気だ。実際、兎を見るときのの目は、熱に浮かされたかのように潤んでいる。
 斎藤の家でも相変わらずの目には兎しか映っていないように、斎藤は完全無視である。ここは誰の家かと問い詰めたいくらいだ。
「おい」
「何ですか?」
 あからさまに不機嫌な声を出してみるが、はどこ吹く風といった感じで振り向きもしない。抱いている兎の額に接吻なんぞして、斎藤の機嫌が悪いことにすら気付いていない様子だ。
 まったく、昨日までは「斎藤さん、斎藤さん」と鬱陶しいくらい纏わり付いてきて、非番の日にも家に押しかけて来るくらいだったくせに。一寸目新しくて可愛い生き物がやって来たら、完全無視である。
 今まで、休みの日まで纏わり付かれるのは一寸勘弁して欲しいと思うこともあったけれど、ここまで完全無視されると、鬱陶しい方がまだマシだ。が自分以外のものに関心を移すなど想像もしていなかっただけに、完全無視は相当堪える。
 最初はに警戒していた兎だったが、ずっと構われていたせいか、今ではすっかり懐いているらしい。抱っこされていると、自分の方からに顔を近付けて、小さな舌での顎や唇を舐めている。兎は警戒心が強いと聞いていたが、一旦警戒を解くと人懐っこくなるらしい。まったく、愛玩用にはぴったりの生き物だ。
 しかし、このまま兎とが仲良くなってしまったら、ますます斎藤は蔑ろにされてしまう。これは早々に引き離さなくては。
「そろそろ暗くなるぞ。今日のところはもう帰れ」
「えー?」
 斎藤の言葉に、が漸く振り返って名残惜しそうな声を上げる。それは斎藤との別れを惜しむのではなくて兎との別れを惜しむ声であるのが明らかで、斎藤はますますむかむかしてくる。
「“えー”じゃない。明日も触らせてやるから、暗くなる前に帰れ」
「でもぉ………」
 まだしつこく兎を撫でながら、は不満そうに唇を尖らせる。そして再び兎に目をやって俯いたまま、
「今日、泊まっていっちゃ駄目ですか?」
「えっ?!」
 の突然の申し出に、流石の斎藤も顔を赤くしてしまった。
「そしたら、一緒のお布団で寝られるし………」
「そっ……それは………」
 あまりにも大胆な発言に、斎藤は耳まで赤くなる。
 一緒の布団に寝るということは、つまりそういうことなのだろう。まさか今日は、そのつもりで家に来たのだろうか。兎と一日中いちゃいちゃしていたのも、斎藤の気を引くための作戦だったのだろうか。
 とそうなるのは、斎藤としても吝かではない。のことは可愛いと思っているし、そのうち上司と部下以上の関係になるだろうとは薄々思っていた。その機会が予想以上に早く来たことには驚いているが。
 斎藤としては吝かではないのだが、問題はである。はまだ若いから、一時の思いつきだけでそう言っているのかも知れない。男はそれでも良いかもしれないが、女は違うのだ。下手をすると一生を左右するかもしれないことなのだし、一度は諌めてやるのが年長者である斎藤の役目だろう。
「それはお前、いくら何でも時期が早すぎるっていうか………。こういうことは順序立てでやらないと……まだ手も握ってないのに、いきなりそんな………」
 こういう時は何と言っていいのやら、いつもの斎藤らしからぬ歯切れの悪い口調でぼそぼそと言う。女に誘われたのは初めてではないのだが、のような子供みたいな女に誘われると、どうも調子が狂ってしまうのだ。
 が、は斎藤の言葉など聞いていない様子で、兎にちゅっと口付けて、
「今夜は一緒に寝ようねー、ラビちゃん」
「………は?」
 まるで熱愛中の恋人同士のように甘ったるい声で兎に語りかけるの言葉に、斎藤は一瞬で顔の熱が引いて、間抜けな声を上げてしまった。
 まあ良く考えてみれば、手も握ったことの無い相手と一緒に寝ようなんて、いくらが考え無しの女でもそこまで考え無しではないだろう。だが、いくら兎と離れたくないからといって、独り暮らしの男の家に泊まろうとするとは。もし相手が斎藤じゃなかったら、今夜のうちにあっさりと戴かれているところじゃないか。
 が此処に泊まるのは斎藤としては構わないけれど、でもその理由が兎だというのは何だかムカつく。
「駄目だ駄目だ駄目だ! 若い女が独り暮らしの男の家に泊まるもんじゃない!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴る斎藤に、は心底びっくりしたように目を丸くして見詰めた。口は悪いけれどいつもは静かな斎藤が、こんなに声を荒げるなど初めてのことだ。
 斎藤は立ち上がると、驚いた顔のまま固まっているの腕から兎を取り上げる。
「暗くなる前に早く帰れ! 兎だって何時間もお前にベタベタ触られて疲れてるんだからな」
「はあ………」
 何をそんなに怒っているのか分からないような顔で、は曖昧に返事する。自分が斎藤を無視していていたことすら気付いていなかったらしい。そんなの鈍さにも、斎藤は腹が立ってくる。
 斎藤はの腕を掴んで無理やり立たせると、そのまま玄関に連れて行く。そして外に押し出して、
「はい、じゃあまた明日な!」
「あ……はい。また明日。ラビちゃんも―――――」
 突然の展開に訳が分からないながらも一礼すると、は最後に兎にも手を伸ばす。が、の手が触れる直前に、その手を避けるように斎藤は片手で兎を高々と持ち上げて、
「兎はもう終了! 店仕舞いだ。じゃあな!」
 そう言うと、の目の前でぴしゃりと戸を閉めた。
「まったく………」
 手の上でもぞもぞしている兎を見て、斎藤は吐き捨てるように呟く。腹の下に回された手だけで支えられているから内臓が圧迫されているのか、少し苦しそうだ。
 結局、は最後の最後まで斎藤が何を怒っているのか解らなかったようだ。この分では、明日も斎藤を無視して一日中、兎といちゃいちゃすることだろう。こんなことが一月近く続くのかと思うと、うんざりする。
 確かに兎は可愛い。はまだ子供っぽいところがあるから、悪人面のおっさんと可愛い兎が並んでいたら、兎に夢中になるのも無理は無い。にとって斎藤はまだ、ただの上司なのだから。もしもう少し進展した関係になっていたら違っただろうかと考えてみるが、今日のの様子を思い返してみると、そうでもないような気がする。
 兎を乱暴に段ボール箱に入れると、斎藤は荒々しく畳に座った。
 兎もと同様、何が起こったのか解らないようにもぞもぞと落ち着き無く動いていたが、暫くすると前足を箱の縁に掛けて顔をちょこんと出した。自分を構ってくれた人が急にいなくなったので、今度は斎藤に構って欲しいらしい。黒曜石のような大きな目でじっと見詰めている。
 そういう風に真っ直ぐに見詰める目はどことなくに似ていると、斎藤はふと思った。朝から時々思っていたが、は兎に似ている。
 耳をぱたぱたさせて気を引こうとしている兎を見て、そういえばも色々なことをして自分に関心を向けさせようとしていたなあ、と斎藤は苦笑した。





 そして翌日。
 いつもと同じくが執務室をしていると、斎藤がいつもと同じ時間に出勤してきた。
「おはようございまーす!!」
 朝っぱらから元気一杯の声で挨拶をすると、は笑顔全開で斎藤を見た。が、斎藤が手ぶらであることに気付いて、あからさまにがっかりした顔をする。
「あれ? ラビちゃんは?」
「ああ、あれは昨日の晩に川路さんに返した。やっぱり自分の家が良いらしくてな。兎は寂しいと死ぬらしいし」
 斎藤はサラッと答えたが、事実は少々違う。
 兎はあれからも元気だったのだが、「兎がいると部下が仕事をしなくなる」と言って川路に返したのだ。試験が終わるまでという約束だったのにすぐに返されて川路も困惑したようだったが、仕事に支障が出ると言われれば強くは言えないらしかった。
 兎がいるとが仕事に集中できなくなるのは事実だし、何より兎に夢中になって斎藤を蔑ろにし続けるのは確実。昨日は苛々するだけで済んだが、これが一ヶ月も続いたら、そのうち苛々のあまり斎藤が兎を虐待するかもしれない。そうなる前に返して良かったと、斎藤は思っている。
「そっか………。あんなに元気そうだったのに………」
 心の底から残念そうな顔をして、は小さく呟いた。が、すぐに元の顔に戻って、
「斎藤さん、今日の新聞の折り込み広告に入ってたんですけどね―――――」
 そう言いながら、自分の机の上のチラシを斎藤に見せた。新しく出来た愛玩動物専門店の広告だ。扱っている動物の絵が、総天然色で描かれている。
「ほら、兎も売ってあるんですよ。ラビちゃんみたいな黒兎は高いから買えないけど、この白い兎だったら給料が出たら買えそうでしょ?」
 広告の兎の絵を指して、は嬉しそうに言う。兎は色によって値段が違うらしく、川路の兎のように真っ黒いのは最高級品での給料ではとても手が出ないが、普通の白兎なら確かにの給料でも一寸無理をすれば買えそうだ。
 昨日の様子でかなり兎にめろめろになっているとは思っていたが、まさか買う計画まで立てていたとは。自分の兎を手に入れたら、昨日の比ではなく斎藤を蔑ろにするようになるだろう。否、それどころか、もう斎藤なんかどうでも良くなってしまうかもしれない。それは困る。
 そう思うと昨日の苛々が一気に思い出されて、斎藤は過剰なほど勢い良く反対の声を上げてしまった。
「駄目だ駄目だ駄目だ! 兎を買うのには金がかかるんだぞ」
「えー、野菜をあげればいいんだから、そんなにかからないでしょ? 私の給料でも兎くらい養えますよぉ」
「お前……兎を飼うのには税金がかかるんだぞ。知らんのか?」
 勿論それは嘘である。養殖業者には一匹につき幾らと税金がかかるが、愛玩用に飼う分には税金はかからない。
 けれど、自信たっぷりに言う斎藤の言葉を、は信用したらしい。斎藤がそんな嘘をつくとすら思ってはいないのだろう。
「えー? そうなんですか?」
「そうだ。その税金も結構高くてな。払えなくなってしまっても兎を手離したくなくて、吉原に身を売る女もいるくらいだ。嘘だと思うなら吉原に行ってみろ。兎を飼ってる遊女が結構いるぞ。お前がどうしても兎が欲しいと言うのなら止めはしないが、しかし可愛い部下が夜な夜な客を引く身の上になるのを黙って見ているわけにもいかんからな」
 勿論これも嘘である。確かに兎を飼っている遊女もいるが、それは兎のために苦界に身を落としたのではなく、好きで流行りの動物を飼っているだけだ。親や子供を養うために身を売る女はいても、愛玩動物のために身を売るなんてあるはずがない。
 けれど、これもは信じてしまったらしく、悲しそうに眉を曇らせる。
「えー? そんなの嫌ですよぉ」
「そうだろう。だから兎は諦めろ」
 の反応に、斎藤は満足そうに口の端を吊り上げた。これで兎は諦めて、斎藤だけに関心を向ける日々に戻るはずだ。
 が、はすぐに立ち直って、今度は別の動物の絵を指す。
「じゃあ、これは? スナネズミっていうんですよ。砂漠に住んでいる珍しいネズミなんです。可愛いでしょ? これだったら税金もかからないし―――――」
「ネズミなんてとんでもない!!」
 斎藤は再び声を荒げた。兎の次はネズミとは。しかも、家に住んでいるネズミよりもふかふかした感じの、愛玩用らしい可愛らしい姿をしている。兎よりも小さいだけに、可愛さも倍増だろう。兎よりも持ち運びが簡単そうだし、こんなものを買った日には、職場にも隠し持って来て一日中一緒にいるかもしれない。
「ネズミは病気を持ってるんだぞ! 昔、欧州で“黒死病”という人口の三分の一が死ぬような恐ろしい病気が流行ったことがあったけれど、それもネズミが媒介していたんだ。お前、そのスナネズミとやらを飼って黒死病になったらどうするんだ? すぐに隔離病棟にぶち込まれて、ろくな看病も受けられずに、誰にも看取られないまま一人寂しく死ななければならないんだぞ。お前がそんな死に方をしても良いと言うのなら、俺はもう止めないがな」
 当然これも嘘である。黒死病を媒介するのは別のネズミだ。愛玩用のネズミがそんな危険な病原菌を持っているわけがない。
 けれどこれもまたは信じたらしく、ますます悲しそうに眉を曇らせる。少し考えればおかしいと思いそうなものだが、斎藤の言葉は何でも信じてしまうらしい。そういうところは素直で可愛いと思うが、同時にこんなので大丈夫なのだろうかと斎藤は心配になるくらいだ。
 しょんぼりとしているに、斎藤は今度は慰めるように優しい声で、
「まあ、可愛い動物が欲しいのは解るがな。動物を飼うのは危険が伴うんだ」
 は俯いたまま小さく頷く。
 どうやら少し強く言いすぎたらしい。斎藤は少し反省をした。
「そんなに動物が好きなら、今度の誕生日に兎の置物でも買ってやる」
「本当ですか?!」
 斎藤の言葉に、は嬉しそうに顔を上げた。さっきまでの落ち込みが嘘みたいだ。単純な性格で良かったと、斎藤は胸を撫で下ろした。
「ああ。だから、さっさとごみを捨ててこい」
「はーい」
 は嬉しそうに返事をすると、ゴミ箱を抱えて跳ねるような足取りで部屋を出て行った。
 部屋の扉を後ろ手に閉めて、はゴミ箱を胸に抱えてこみ上げる笑いを必死に噛み殺す。
 誕生日に兎の置物を買ってくれるというのが嬉しかったのは勿論だが、それよりも兎やスナネズミを飼うと言った時の斎藤の反応のほうが可笑しかった。あんなに必死に嘘をつく斎藤なんて、見たことが無い。
 斎藤の言葉が全部嘘だということは、最初から解っていた。彼が嘘をつく時は、いつもよりもずっと饒舌になるのだ。それでもその嘘に乗ってあげたのは、どうやらが動物に夢中になるのを阻止したい一心であるらしいことが解ったからだ。
 昨日、兎と一緒にいる時も薄々感じていたが、どうやら斎藤はが自分以外のものに関心を寄せるのを面白く思っていないらしい。いつもはのことを一寸鬱陶しそうに振舞うこともあるけれど、でも完全に自分から関心が逸れてしまうと面白くないと思ってくれているのは、嬉しい。それって、兎に焼きもちを焼いてくれていたということだろうから。
 動物に焼きもちを焼くなんて、斎藤も見かけによらず可愛いところがあるものだ。新しい発見が嬉しくて、は兎のような跳ねるような足取りでゴミ捨て場に向かったのだった。
<あとがき>
 Web拍手で“斎藤のライバルは兎かスナネズミというのはどうでしょう”というご意見をいただいて書いたものです。蒼紫とちぃちゃんとは微妙に違うライバル関係ですが、文月さま、こんなものでよろしかったでしょうか?
 星新一の『夜明けあと』によると、明治初期に兎ブームがあったそうです。あまりにも過熱しすぎて、政府も手を焼いて養殖業者に税金を掛けるほどだったのだとか。で、黒兎と耳が黄色い(薄茶色?)の兎が高級品だったそうです。そういえばペットショップでも黒い兎はあまり見ませんね。珍しいのでしょうか。
 斎藤は蒼紫より年上なので、本格的にライバルになる前に、主人公さんが兎を飼うのを徹底的に阻止するという知恵が回ったようですね。しかし、こんな嘘は如何なものかと………。斎藤、別人やん。
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