…少し、見直した

 執務室にある自分の席に身を投げるように座り、斎藤は煙草に火を点けた。
 今日は朝からずっと、観柳の拷問に立ち会っていた。直接手を下すのは拷問吏だが、立ち会って指示を下すというのも疲れるものだ。たとえ相手が犯罪者であっても、長々と苦痛を与えるのが目的の拷問というのは、あまり気分の良いものではない。
 昼食を終えたら、また拷問の続きだ。簡単に吐くだろうと思っていたのが、思いの外しぶといのか、本当に知らないのか、観柳は政界絡みの情報はなかなか吐き出さない。口を割らないのか知らないのか見極めるにも、もう暫く時間が必要だ。の望み通り、長い拷問になりそうである。
 今日は家に帰れないかもしれないと早くもうんざりしつつ、斎藤は大きく煙草の煙を吐いた。
「あれー? 藤田警部補、戻ってたんですかぁ?」
 午後からの拷問はどういう方針でいこうかと考えていると、蜷川の呑気な声がした。どうやら一足先に食堂に行っていたらしい。
「やっと一段落着いたからな。休憩だ」
「思ったより長引いてますねぇ。もう一寸キツめにやったらどうですか? 水攻めなんか結構効くらしいですよ。胃が破裂するギリギリまで水を飲ませて、吐き出させるのを繰り返すんですって」
 呑気な口調とは裏腹に、蜷川の言っていることはかなり残酷だ。いくら仕事の関係上、拷問には慣れているとはいえ、若い娘の言うことではない。拷問に立ち会って現実を見たことが無いから、何処までも残酷になれるのだろうか。
 他人に助言するなら実際に拷問に立ち会ってみろ、と言いたいが、それを言ったら本当に嬉々として立ち会われそうな気もする。上司である斎藤に対しても明らかに凹んでいる姿を楽しんでいるのだから、拷問に興味があるくらいの残酷性は持っているかもしれない。下手に立ち合わせて更なる残酷性を目覚めさせたら大変だ。
 斎藤が黙って煙草を吸い続けていると、蜷川はふと思い出したように言った。
「そういえばさっき、警部補を訪ねてきた女の人がいたんですよ。どうせまだ拷問中だと思って帰ってもらったんですけど―――――」
「女? この前の女か?」
 が来たのかと、斎藤は怪訝な顔をする。何かあったらいつでも相談に来いと言ってはいたが、もう何かあったのだろうか。
「いいえ。あの美人さんよりは一寸落ちる感じですけど。もしかして、もう新しい人を見つけたんですか?」
「新しい人………?」
 興味津々に目を輝かせる蜷川の言葉に、斎藤は益々怪訝な顔になる。
 恥ずかしながら斎藤には、以外にわざわざ職場まで訪ねてくる女に心当たりが無い。行きつけの飲み屋にはツケは無いし、その他の集金もきちんと払っている。今のところ親しい付き合いをしている女は居ないし、勿論昔の女とは綺麗さっぱり切れている。他に思い当たりそうな女は―――――
 ここ最近接触のあった女の顔を幾つか思い返しているうちに、一つの顔に行き当たった。
 の同居人のあの女だ。斎藤のことを気にしていたというか、探るような不審げな目で見ていた。ひょっとして、斎藤がに相応しい男かどうか探りに来たのだろうか。
 はっとした顔をする斎藤に、蜷川はニヤニヤしながら、
「へーえ。あの美人さんに振られて、また次の人に粉かけるなんて、見かけによらず積極的ですねぇ。もしかして、結構焦ってます?」
 毎度のことながら、最後の一言が余計である。確かに斎藤もう30代半ば。世間的にはかなり焦らなければならない年齢ではあるが、それをわざわざ口に出すという神経が理解できない。それ以前に、強がりでも何でもなく、斎藤は別に焦ってはいないのだが。
 むっとしている斎藤に気付いているのかいないのか、蜷川は笑いながら言葉を続ける。
「さっき出て行ったばかりだから、今から追いかければ、もしかしたら追いつけるかもしれないですよ」
「そうだな………」
 どういうつもりであの女が来たのかは判らないが、わざわざ職場までやって来るというのは余程の事情だろう。待っていればまた来るかもしれないが、どうも胸に引っかかるものがある。
 どうせ昼休みを取るつもりでいたし、女も家に帰るのならそっち方向に追いかけたらすぐに捕まるだろう。すぐ済む話なら立ち話でも良いし、長くなりそうなら昼飯を食べながら話せば良い。ついでに観柳に関する途中経過も言付けたかった。
「じゃあ、一寸出かけてくる」
「はい、行ってらっしゃい。今度は振られちゃ駄目ですよ。警部補ももう崖っぷちなんですから」
 出て行こうとする斎藤に、蜷川は朗らかに言う。悪気無さそうな天然な口調であるが、悪気が無ければ何を言っても良いというわけではない。
 既に扉に手をかけていたが、斎藤は踵を返してわざわざ蜷川の前に立つと、腰を曲げてぐっと顔を近付ける。そして驚きで目を瞠っている蜷川にしっかりと目線を合わせて、
「俺はまだ崖っぷちじゃないし、あの女にも振られちゃいない」
 こんなことをわざわざ言うのも大人気ないと思ったが、たまには反撃しておかないと調子に乗りすぎるというものだ。特に蜷川のようなのを調子付かせると、妙な噂を流されたりして後が面倒である。
 いつもは黙って溜息をつくだけの斎藤に思わぬ反撃に出られれ、蜷川はびっくりして硬直してしまった。が、すぐに立ち直ると、また部屋を出て行こうとする彼の背中にボソッと言う。
「二股か………。サイテー」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 聞こえよがしな蜷川の声に、斎藤は一気に脱力してしまった。
 どうも彼女の頭からは、訪ねてくる女とはみんな男女関係にある、という先入観が外れないようだ。そう考えながらも、蜷川の中の斎藤は“冴えないおっさん”で確定しているのだから、訳が解らない。自分の想像に不都合な条件は全消去という、便利な脳を持っているのだろうか。
 二股なんかかけていないし、そもそもともあの女ともそんな関係ではないと説明しようと思ったが、話すと先が長くなるし、それで蜷川が納得するかも怪しい。あの女も早く追いかけなければならないし、斎藤は無言で溜息をつくと執務室を出て行った。





 警視庁を出ての家の方角に走ると、程なくしてあの女の後ろ姿が見えた。
「おい、あんた!」
 斎藤の声に、女が怪訝な顔をして振り返る。が、彼の姿を認めると、軽く頭を下げた。
「取調べ中とお聞きしたのですが」
「丁度行き違いになったらしくてな。今終わったんだ」
「そうですか―――――」
 そういった女の顔が、一瞬怪訝そうに曇った。
「血の臭いが………」
「血の臭い?」
 女の言葉に、斎藤は反射的に腕の臭いを嗅いでみた。が、鼻が慣れてしまっているのか自分ではよく判らない。そもそも、彼は直接拷問していたわけではないのだから、血の臭いが付く筈は無いのだ。
 今度は斎藤が怪訝な顔をする番だ。そんな彼を見て、女は思いついたように言った。
「ああ、私、鼻が人一倍利くんです。ちゃんにも犬並みって言われるくらいですから。
 でも血の臭いがするなんて、どんな取調べをしているんですか?」
「まあ、あれだ。観柳の取調べをな」
 一瞬応えるのに躊躇ったが、相手はの同居人であるから普通の女ではないだろうと判断して、斎藤は答えた。が、まだ現在進行形の事件であるため、どうしても言葉は濁してしまう。
 それでも女には伝わるものがあったのだろう。ほっとしたように口許だけで小さく微笑んだ。
「ありがとうございます。これでちゃんもあんな仕事から足を洗えますし、りせの両親も安心して成仏できると思います」
「…………え?」
 女の言葉に、斎藤は耳を疑った。
 たった今、女は“りせの両親”と言った。成仏するのは父親のみで、母親はまだ生きているではないか。とりせは母子ではないとでも言うのか。しかし、あの二人は誰が見ても親子と思うほど面差しが似ている。
 訳が分からなくて混乱する斎藤に、女は深く息を吐いて意を決したように口を開いた。
「今日は、そのことについてお話に参りました。お時間をいただけますでしょうか」
 お時間をいただけるも何も、そんなことを言われたら長い話であっても聞かないわけにはいかない。りせの母親が何者なのか、そして何故が母親を名乗ったのか。自分の子でもないのに、好意を寄せている男の前で子持ちであると言い切るなど、その逆はあっても、普通はそんな嘘はつかない。
 驚きで硬直した表情のまま、斎藤はぎこちなく頷いた。





 女は“千津”と名乗り、りせの父親の姉だと言った。彼女もかつては御庭番衆であったそうだが、足を怪我してからはそこを抜けて普通の職に就き、そのまま江戸城開城を迎えて今に至るという。
 そして肝心のとりせの関係であるが、叔母と姪に当たるのだそうだ。りせの本当の母親はの双子の姉で、あまり体が丈夫でなかった彼女はりせを産んですぐに亡くなったらしい。その後、双子の妹であるがりせの父親と一緒に暮らして、今日まで“母親”をやってきたという。その後のことは、の話の通りだ。
「―――――ということは、あいつは姉さんの旦那と結婚していたってことか? 随分とややこしい人間関係だな」
 予想外の展開に、斎藤は頭痛までしてきた。嫁いだ先で若くして死んだ姉の替えとして妹を嫁がせるという話は、由緒正しい家系や財産家の家ではよくある話らしいが、まさかにそういう過去があったとは。
 しかし、りせを抱いていたの顔はすっかり母親のものであったし、泥棒稼業に手を染めてまで父親であった男の敵討ちをしようと思っていたのだから、彼女自身は姉の夫だった男に嫁ぐことは嫌ではなかったのかもしれない。それとも自分と姉に似た姪可愛さに、姉の夫に嫁いだのだろうか。色々考えてみるが、斎藤には判らない。
 眉間に皺を寄せて悩む斎藤に、千津は一口茶を啜って答える。
「一緒に暮らしてはいましたけれど、夫婦ではなかったと思います。こればかりは本人たちでないと判らないことですが、私の目には夫婦のようには見えませんでした」
 千津の記憶の中の二人は、確かに家族のように暮らしていたけれど、“夫婦のよう”ではなかった。同じ屋根の下に暮らしていても、“夫婦”と“同居人”では空気が違うものだ。特にとその姉は同じ姿をしていたから、その違いはよく判る。
 だからこそもう、には柵の無い自由の身になって欲しい。未婚の女が新生児だった子供を幼児まで育て上げるのは並大抵の苦労ではなかったろうし、する必要の無いりせの父親の敵討ちまで果たしてくれた。好きな男が出来たのなら、りせのことも自分のことも忘れて、その男と幸せになって欲しいと思う。
 けれどそれを千津の口から言っても、は頑として首を縦に振らない。そんなことができる女だったら、とっくの昔にりせを捨てて何処か遠くに逃げていたはずだ。そんな彼女が自由の身になろうとするとしたら―――――
 千津は緊張を解すように大きく深呼吸をした。そして、斎藤の顔を真っ直ぐに見て、
ちゃんは弟の嫁でもないし、りせの母親でもないんです。なのにあの子ったら変なところに頑固で、自分がりせの母親だと言い張るんです。だから、あなたの方から、もうりせを手離して自由の身になるように言って頂けないでしょうか」
「俺が言ったところで聞かんと思うが」
 吸っていた煙草を揉み消して、斎藤は静かに応える。
 千津の気持ちは解らないではないが、外野が何を言ったところで本人の意志が固ければ固いほど、かえって意固地になるものだろう。それは言う相手が斎藤でも同じことだ。
 それにもう、は立派に母親なのだ。血の繋がりは薄いとはいえ、生まれた時から今日までりせを育てたのは彼女である。一番大変な時期を漸く乗り切ったに、もう良いから自由の身になれとりせを取り上げるのは、一見優しいようで実は生木を裂くように残酷なことだと斎藤も思う。
 けれど千津は、からりせを引き離して彼女を自由の身にしてやるのが幸せだと頭から信じ込んでいるから、一歩も引かない。強い意思を持った目で、しっかりと斎藤を見据えて、
「いいえ。あなたが言えば、きっと聞きます。あの子はまだ若いんですよ。りせに縛られて、あの子自身の幸せを見失って欲しくないんです」
「…………………」
 千津の考えも、多分間違ってはいない。はまだ若くて女としても十分に魅力的だから、誰かと結婚して新しい人生を切り拓くのも可能だ。けれど、いくら若くて魅力的でも、コブ付きとなると話は一気に変わってくる。いくら好きでも、子供ごとを受け入れる男など、そうそういないだろう。
 とはいえ、既に母親として生きる意思を固めているからりせを取り上げるのは、あまりにも残酷だ。おまけに、りせも千津よりに懐いているようではないか。此処で二人を引き離すのは、多分誰のためにもならない。
 面倒臭そうな顔で黙り込んでいる斎藤の姿が癇に障ったのか、千津は苛立たしげな声で言葉を続ける。
「死んだ姉の代わりに子供を育てるなんて美談かもしれないけれど、誰にも褒められなくて良いからちゃんにはこれまで苦労した分、誰よりも幸せになって欲しいんですよ。大体あなただって、りせごとちゃんを受け入れる覚悟は無いでしょう?」
「はぁ?」
 前半部分には賛同しないでもない斎藤だったが、最後の言葉には流石に頓狂な声を上げてしまった。どうやら千津にとっては、これまでの発言は彼のことも考えてのことだったらしい。
 どうやら千津の中では、斎藤はの恋人として確定らしい。のこれまでの言動から、斎藤のことをどう千津に伝えているのかは大体想像がつくし、とどめに傷の手当てをして彼の家に一晩泊めてやったのだから、そういう誤解をされても仕方が無いところはある。
 まったく女というものは、男と女がいればどうしても男女の仲に仕立て上げたいものらしい。や蜷川はまだ若いし、その上に思い込みの激しさも加わって妄想が暴走していると呆れた目で見ていたのだが、三十路も超えているような千津まで同じことを考えているとは思わなかった。これまで“若い女は……”と思っていたが、“女ってやつは……”に修正するべきなのかもしれない。
 とはいえ、わざわざ誤解を解く説明をするのも面倒臭いし、下手をするとから逃げようとする無責任男の烙印まで押されそうな気もするので、斎藤は黙っている。こういう“否定するのも面倒臭い”という態度が、相手の妄想をさらに掻き立て、の思い込みを深めているというのも解っているのだが、それでもわざわざ否定する気にはなれない。おそらく斎藤自身、消極的ではあるが、を受け入れつつあるのだろう。
 警官のくせに泥棒である女の好意を受け入れようとする自分にも呆れてしまうが、まあ今はそのことを深く追求する時ではないだろう。泥棒稼業から足を洗ってしまえば、はとりあえず“普通の女”だ。
「そんなに言うなら、まあ俺の方からも言ってみるが。どうせ聞く耳は持たんと思うがな」
 殆ど吐き捨てるように言うと、蕎麦屋の店員が掛け蕎麦を持ってきたのを期に話を打ち切った。





 就業時間が終わって、斎藤は真っ直ぐの家に向かった。本当はまだ残業をして観柳の取調べをしたかったのだが、面倒なことを優先して処理する主義なのである。
 家の近くまで来たところで、偶然散歩をしていたのか、りせを抱いて歩いていたと鉢合わせた。
「あら、斎藤さん」
「ああ………」
 りせを抱いて微笑むの顔は、まさに下町のいじらしいお母さん風で、世間を騒がす大泥棒の彼女しか知らない斎藤はまだ違和感を覚える。
 千津は、はりせに縛られて可哀想だと言っていたけれど、こうやっているの姿は不幸そうには見えない。それどころか、やっと得られた普通の母親としての時間を存分に楽しんでいるように見える。
 千津に言われたことを伝えに来た斎藤だったが、この姿を見たら何だかどうでも良くなってきた。千津の言い分も理解できるし、それも正しい選択なのかもしれないが、今のとりせを引き離しても良いことは何一つ無いような気がする。
「どうしてるのかと思ってな、近くまで来たから寄ってみた」
 言うことが何も無くなってしまって、斎藤は見え見えの嘘をつく。彼の家も警視庁も此処からは遠く、偶然立ち寄るには無理がありすぎる。
 案の定、にもあっさりと見破られてしまったようで、彼女は可笑しそうにくすくす笑う。
「私のことが気になったの?」
「まあ……そんなところだ。今日、千津さんが俺を訪ねてきてな」
「千津さんが………?」
 歯切れの悪い斎藤の言葉に、の顔色がさっと変わる。警戒するような目で斎藤を見詰めながら、りせを取られまいとしているのか、ぎゅっと抱き締める。
 の方でも、千津が斎藤に何を言ったか予想がついているのだろう。自分とりせの本当の関係を知った斎藤が、りせを取り上げに来たと思っているのか。そう誤解されても仕方がないところではある。
 りせをしっかりと抱いているの姿は、逆毛を立てて敵を威嚇する母猫を連想させる。愛しいはずの男も、りせが絡むと敵と認定してしまうなど、腹は痛めてなくてもは本当に“母親”なのだ。
 敵意丸出しの目でキッと睨みつけたまま、は斎藤との距離を測る。絶対にりせに触れない距離を保ちながら、
「千津さんが何と言っても、りせは私の娘よ! 生まれたばかりのこの子をここまで育てたのは私なの。この子だって私を母親だって思ってるわ」
「いや、俺はまだ何も………」
 の剣幕に圧されて、斎藤は珍しくうろたえてしまう。
 泥棒の時だって、こんなに必死な姿は見たことが無い。いつも飄々としているしているだけに、りせを強く抱き締めている姿は他の女がそうするよりも凄みがある。今りせに触れようものなら、たとえ斎藤でもその手をへし折ってしまいそうな勢いだ。
 気が付くと、すれ違う通行人が斎藤を非難するような目で見ている。どうやら、離縁した夫が元妻から子供を取り上げに来たと誤解されているらしい。そう誤解されても無理も無い状況であるが、どうしてが絡むとこういった誤解を受けるのだろうと、斎藤は一日の疲れがどっと出たかのようにぐったりしてしまう。
 しかも間が悪いことに、強く抱きすぎたせいか、興奮状態のに触発されたのか、りせまで泣き始めた。子供を取り上げられまいとすると、声を上げて泣く小さなりせという組み合わせのお陰で、傍から見れば益々斎藤は人でなしだ。
 斎藤には何一つ後ろ暗いことは無いし、人目を気にする必要も無いのだが、警官の制服を着てこの状況というのは見た目の良いものではない。衆人環視の中で話すような内容ではないし、これは何処かに移動した方が良いだろう。
「何処か落ち着けるところで話そう。りせには触らないから。それなら良いだろう?」
 興奮している猛獣を宥めるような柔らかな口調で、斎藤は提案する。それでもまだは警戒を解かないが、“りせには触らない”の一言が効いたのか、渋々ながらも頷いた。





 近くの茶屋に連れて行って茶を飲ませたら少し落ち着いたのか、の表情が漸く柔らかくなった。それでもまだ完全に信用はしていないのか、りせはしっかりと膝の上に座らせている。
「まあ、何だ―――――」
 が抹茶茶碗を置いたところで、斎藤は出来るだけ柔らかな物腰で話を切り出す。下手に出ているような気がしないでもないが、店の中でまた激昂されたら面倒だ。
「この前から色々な話を聞きすぎて、正直頭が混乱している。結局、りせはお前の子じゃないってことで良いんだな?」
「産んだのは姉だけど、育てたのは私よ。だから私の娘も同然だわ」
 茶を飲んで落ち着いたお陰か、は静かに応える。
「そうだな。お前さんたちは見た目も同じだし、りせは母親似のようだし、余計にそう思えるのかもしれん。おまけに、姉さんの旦那と一緒に暮らしてまで育てていれば―――――」
「千津さん、そんなことまで話したの?!」
 斎藤の言葉に、は驚いた声を上げた。
 りせとの本当の関係を言うのはともかくとして、姉の夫と暮らしていたことまで話していたとは。そのことを恥じるつもりは無いけれど、やはり今好きな男に知られるのは避けたいと思うものだ。自分たちの関係を説明するために話したのかもしれないが、もう少し配慮して欲しかった。
 が、今更そんなことを言っても仕方が無い。知られてしまったのなら、包み隠さず話すのが誤解を生まない最良の方法だろう。は自分を奮い立たせるように、手遊びをしているりせの手を握って、斎藤を真っ直ぐに見た。
「千津さんがどう言ったか知らないけれど………。本当はね、りせの“母親”になることで、姉と入れ替わりたかったの。義兄さんと一緒に暮らしたのも、もしかしたら姉の代わりに奥さんにしてくれないかなあって思ったからなのよ。私、本当は義兄さんのことが好きだったから………」
「え………?」
 突然のの告白に、斎藤は頭の中が真っ白になる。薄々、そういう事情があるかもしれないとは思っていたが、まさか本当にそうだとは思わなかった。
 驚きで固まっている斎藤を無視して、は淡々と話を続ける。
「でも同じ姿をしてたけど、やっぱり駄目だったみたい。義兄さんは私のことを義妹としてしか見てくれなかったし。りせの世話をすることに感謝はしてくれたけれど、でもやっぱり………」
 と姉は姿こそ同じだったが、中身は殆ど正反対といっていいほど違っていた。あの頃のは、姿が同じなのだから自分は姉と入れ替わることが出来ると思っていたが、姿が同じでも中身が違えば全く別の人間なのだ。義兄が姉と同じようにを愛せるわけがない。
 今ならそれが理解できるのに、当時は自分が姉のように愛されない理由が解らなくて、は静かに苦しんでいた。面と向かって義兄に何か言うことは無かったけれど、それでも彼にもの想いは伝わっていたのだろう。を見る彼の目もまた、少し辛そうだったのを思い出す。
「…………………」
 口を噤んで目を伏せるの姿に、斎藤は何ともいえない息苦しさを覚える。知れば知るほどの過去は重くなっていって、かける言葉も見付からない。
 初めて会った時からずっと、自信家で押しが強くて、蜷川のように何も考えていないような明るい姿ばかりが強烈に印象付けられていただけに、の過去は余計に重く感じられる。しかし、そんな過去があってもそれを微塵も感じさせないのは、何ものにも負けない強い心を持っているということだ。その強さは年下でも尊敬に値すると、斎藤は思う。
 “近頃の若い娘は”と十把一絡げにしていたけれど、とんでもない間違いだった。は若い娘だけれど、蜷川のような“近頃の若い娘”とは違う。
「お前の姉さんがどんな女だったかは知らんが、お前にはお前の良さがある。自分の子じゃないりせをこんなに大事に育てているし、いつも前向きだし―――――まあ前向きすぎるところはあるが―――――そういうところは同じくらいの歳の女よりはずっと良いと思うぞ」
 我ながら呆れるほど陳腐な言葉だと思うが、慰めでも何でもない正直な気持ちだ。りせの父親は結局のこういう美点には惹かれなかったけれど、彼女が泥棒ではなく、斎藤ももう少し若かったならきっと、そういう女に惹かれていたと思う。
 斎藤の優しい言葉に、は顔を上げて目を瞠った。
 誰かに褒めて欲しくてりせを育てているわけではないし、この性格だってこうしようと意識して作っているものではなくて、持って生まれた資質だけれど、こうやって斎藤に認められたのは嬉しい。しかも、“同じくらいの歳の女よりもずっと良い”だなんて。いつも素っ気無い斎藤にそう言われるのは、他の誰に言われるよりもずっと嬉しい。
 嬉しくて嬉しくて、は興奮してきて頬が紅潮してしまう。さっきまで怒ったり落ち込んだりしたけれど、そんなのも一瞬で吹き飛んでしまうほどの威力が、斎藤の言葉にはあった。
「斎藤さん………」
 喜びのあまり、目まで潤ませて恍惚の表情を浮かべるを見て、また変なツボを圧してしまったと斎藤は小さく舌打ちをする。一寸浮上させるつもりで言ったのに、この分だと月に向かって発射されそうだ。
 月まで飛んで行かれては困るので、少し醒ましてやろうと斎藤が口を開こうとしたが、その前にが凄まじい勢いで喋りだした。
「やっぱり斎藤さんだけは解ってくれていたのね! 男って、お姉ちゃんみたいな家庭的で物静かな女が好きだって思い込んでたけど、斎藤さんだけは違うって信じてたわ」
「いや、あのな………」
「りせ、あんたも大きくなったら、こういう人を選ばなきゃ駄目よぉ? あんたはどんな人を連れてくるのかなあ。私に似て美人だから、すっごいイイ男を連れてくるかもねぇ」
 あまりの豹変ぶりに引き気味の斎藤の姿など目に入っていないのか、はりせを向かい合うように抱き直すと、楽しげに語りかける。当然りせは何を言われているのかは解ってはいないが、がご機嫌なのにつられてか、嬉しそうな声を上げた。
 別にお前のことを好きだとは言ってないとか、自分で“私に似て美人”とか言うなとか、突っ込みどころは幾つかあるが、斎藤はもう突っ込みを入れる気力も無い。出会った頃はまだ機関銃のような喋りの間に口を挟む余裕があったような気がするのだが、いつからそうすることが出来なくなったのだろう。黙っているから、もイイ気になって暴走するのだ。
 さっきは一瞬、と蜷川は違うと思ったが、こういうところは蜷川と同じだ。若い娘というのは、勢い付くとどこまでも勢い付いて、もう斎藤には付いていけない。
 りせを相手に盛り上がっているの姿に溜息をつきつつ、それでもとりあえずいつものに戻って良かったと、斎藤は思うのだった。
<あとがき>
 この主人公さん、いろんな過去があるなあ………(←他人事?)。これまでのシリーズものの主人公さんの中で、一番ドラマチックな過去を持つ主人公さんですよ。ああ、この設定、それぞれ小分けにして違うシリーズで使えば良かったような気がするよ、今更だけど。
 しかしこの二人、くっ付きそうでくっ付かないんですけど。どうしよう、あと一話で最終回なのに………。まあ、一応ちゅうはしてるんですけどねぇ(苦笑)。
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