素顔
朝日が顔にかかるのを感じて、は目を醒ました。「う〜………」
一度ぎゅっと目を瞑って、光から逃れるようにもぞもぞと布団の中に潜り込んだ。
昨日は色々あって遅かったから、まだ目蓋がぴったりとくっ付いていて、無理に開けようとすると目の奥が痛くなる。昨日、一昨日と働き詰めだったから、今日は思う存分休養を取るのだ。
そのまま二度寝入りしかけただったが、此処が自宅ではないことを思い出して、がばっと跳ね起きた。
「やっと起きたか」
布団の横では、斎藤が朝食を摂っていた。
「あ………」
今日は絶対斎藤よりも早く起きて、味噌汁の一つも作って良いところを見せようと思っていたのに。しかも窓の外を見ると、どうやら昼近くのようだ。
こんなに寝坊するなど、自分の家でも殆ど無いのに、よりにもよって斎藤の家でやってしまうとは。、人生最大の大失態である。
「ごめんなさい。早起きして朝御飯作ろうとは思ってたんだけど………」
「別に構わん。家の中を勝手に弄られるのは好きじゃないしな」
布団の上に座ってしゅんとするに、斎藤は味噌汁を啜りながら素っ気無く応える。昨日はあんなに優しかったから少しは距離が縮んだのではないかと思ったけれど、どうやらあれは一晩限定の優しさだったらしい。
そう簡単に靡いてくれるとは最初から思ってなかったし、泥棒と警官という線をそう簡単に乗り越えられては興醒めではあるが、もう少し違う雰囲気があっても良いのではないかとは思うのだ。抱き締めてくれたり、一夜を共にした(結局何も無かったが)翌朝の態度がこれというのは、つまらない。
期待外れの斎藤の態度に、はつまらなそうに小さく鼻を鳴らす。が、何気無く時計に目をやった瞬間、悲鳴のような声を上げた。
「大変! もうこんな時間?! 急いで帰らなきゃ!」
「どうしたんだ、急に? 今更慌てることも無いだろう」
慌てて身の回りの荷物を纏めるを尻目に、斎藤はあくまでも落ち着きをはらって食事を続ける。
顔も腫れていることだし、本当は夜明け前に帰りたかったのだろう。人相が変わるほどではないが、痣のある顔で明るい往来を歩きたくないという女心くらい、斎藤も承知している。
が、の言葉は斎藤の予想外のものだった。
「どうしよう。変な心配をしてないと良いんだけど………」
「仲間がいたのか?」
の呟きに、斎藤は思わず尋問するような口調になってしまう。
今鼠小僧は完全な単独犯だと思っていたが、まさか仲間がいたとは。否、心配をしているというなら、もしかしたら家族なのかもしれない。家族を養うための泥棒稼業というのも、大いに考えられる。
案の定、は躊躇うように口籠もりながら、
「うん、まあ………」
「そうか………」
きっと帰りを待っている家族は、にとっては誰にも触れられたくない“弱味”なのだろう。こういう稼業なら尚更だ。
それを察して、斎藤もそれ以上の追求はしない。こんなことまでして支えている家族がどんなものか気にならないでもなかったが、聞いたところで彼が何をしてやれるというわけでもないのだから、それなら聞かない方がマシだ。
黙って何事も無かったかのように食事を再開させる斎藤の横で、も黙って荷物を纏める。そして、
「いろいろありがとう。体が治ったら、改めてお礼に伺うから」
そう言って立ち上がるが、何処か痛んだのか、は軽く顔を顰めた。大方、観柳から受けた打撲痕が痛んだのだろう。打撲は二日目から本格的に痛むものだ。
の様子を横目で一瞥して、斎藤は茶碗を置く。
「食い終わるまで待ってろ。送ってやる」
「でも………」
「家を知ったからといって、ガサ入れなぞせんから安心しろ。裏帳簿の礼だ。そんなふらふらで帰して、途中で何かあったら気分が悪い」
戸惑うに、斎藤がぶっきらぼうに言う。
もしかして心配してくれているのかな、とは思ったが、黙っている。言ったら怒られそうだし、下手をすると臍を曲げて送ることさえ辞めてしまうかもしれない。
家を知られることや、待っている人間を見られるのには少し躊躇いがあったが、斎藤ならきっと大丈夫だと思う。これで何かが変わるということは無いと信じたい。
「ありがとう。お願いするわ」
泥棒ではない自分の姿を見せたところで、何も変わらない。口許だけで微笑みながら、は自分に言い聞かせた。
の家は、何処にでもあるような普通の長屋だった。泥棒が住んでいるような所なのだから、破落戸長屋のようなところだろうと斎藤は勝手に想像していただけに、少し拍子抜けだ。考えてみれば、いくらとはいえ、若い女がそんなところに住むには防犯上の不安があるのだろう。
「此処が私の家。どうしたの、そんな変な顔をして」
傍から見ても判るくらい、間抜けな顔をしていたのだろう。もきょとんとした顔をした。
「いや、何でもない」
いつもの無愛想な顔に戻って、斎藤は応えた。
「派手に盗んでいるから、もっと違うところに住んでいるのかと思った」
まさか、こんな長屋に住んでいるとは思わなかったとは言えなくて、斎藤は微妙に言葉を濁す。
が、当然言いたいことは伝わっていて、彼の言いたいこととは逆に解釈したらしく、は困ったように苦笑した。
「ま、カタギの仕事をするよりはお金になるけど、皆が思ってるほどには稼いでないわ。それに、お金が必要だしね。
ただいまー」
それだけ言うと、は玄関の戸を開けて明るい声を上げた。
「おかえりー。あんまり遅いからてっきり―――――」
中から出てきたのは、より幾つか年上のような、小さな女の子を抱いた女だ。とは全く似ていない地味な感じの女である。
女も明るく出迎えたが、玄関に立つと斎藤を見て、笑い顔のまま硬直してしまった。全身どころか顔にまで痣を作っていると、人相の悪い見知らぬ男が立っているのだから当然だ。
数秒ほどそのまま固まっていた女だったが、はっと我に返ると同時に、警戒するように抱いている子を抱き締める。そして、斎藤との間合いを取るように少しずつ移動しながら、
「ちゃん、その人誰?」
女の動きを見て、彼女もそれなりの訓練を受けた女だと、斎藤はすぐにピンときた。彼女もと同じ御庭番衆だったのかもしれない。
子供を抱いているから大立ち回りはできないだろうが、元御庭番衆なら油断は出来ない。相手に気取られない程度にたち姿勢を変えた。
「この人は、藤田さんっていうの。怪しい人じゃないわ。怪我の手当てもしてくれたのよ」
警戒を解かせるように、は説明する。が、女は益々胡散臭げに、
「どうしてこの人が怪我の手当てをしてくれたの? 大体その人、何なの?」
尤もな疑問であるが、説明すると長くなるし、したところで話がややこしくなるだけだ。それにこれは、玄関先で話すようなことではない。
話さなければならないことは、斎藤に対してもある。観柳の処分にも関わってもらわなければならないのだから、とあの男の関わりも話さなくては。これもまた、どこから話せば良いのか分からないくらいややこしい事情なのだが。
これからこの二人にそれぞれ事情説明をしなければならないのかと思うと、は今から気が重い。が、これは自分の義務なのだと、気持ちを奮い立たせる。
と、女に抱かれて眠っていた子供が目を醒ました。そしての存在に気付くと、甘えるように手を伸ばす。
「あー、起きたの? ごめんねー、いなくなっちゃって」
女から子供を受け取りながら、はあやすような少し高めの声で語りかける。子供もの方が良いのか、自分から彼女にぎゅっと抱きついてきた。
と子供という組み合わせは想像したことも無かったが、案外似合うものだと斎藤は思う。こうして見ていると親子だと言われても違和感が無いくらいで―――――
「……………!」
子供の顔を良く見ると、雰囲気がに良く似ている。違和感が無かったのは、そのせいか。
歳の離れた妹なのだろうかと、斎藤はかなり無理のある発想をしてみる。仮にが長子で子供が末子だとしても、20以上歳が離れているのだから、腹違いでもない限り姉妹というのは難しいだろう。ということは―――――
と子供の顔を交互に見比べて唖然としている斎藤の視線に気付いて、は子供の背を撫でながら彼の方を見る。
「その子は………」
「私の娘。“りせ”っていうの。可愛いでしょう?」
りせの顔を斎藤に向けさせて、は母親の顔で微笑んだ。
折角だから上がってお茶でも、とに言われるままに家に上がった斎藤だが、何から話せば良いのか分からないし、同居人らしい女の不審げな目が痛くて、どうも居心地が悪い。だけはいつもと同じく楽しげに振舞っているが、それもどこか芝居がかっていて、それがまた彼の居心地の悪さに拍車をかけた。
茶を出すと、は斎藤と向かい合うように座る。そして隣でりせを膝に抱いて座っていた女に、席を外すように頼んだ。
女は何か言いたげな顔をしたが、が無言で目配せをすると、何か通じるものがあったのか大人しくりせを抱いて出て行った。出て行く前に、女が一瞬だけ斎藤を睨むように見たのが、少し引っかからないでもなかったが、こういう目には彼も慣れている。一応、自分が胡散臭く見える部類の人間であるというのは自覚しているのだ。
しかし二人きりになると、居心地の悪さが更に強くなってしまった。こちらから声を掛けるのも躊躇われるようで、別に緊張する必要など無いはずなのだが、口の中がからからに乾いてしまう。
口を潤そうと斎藤が湯飲みを持ち上げた時、がゆっくりと口を開いた。
「観柳の件、ありがとう。これでやっと、いつでもこの稼業から足が洗えるわ」
泥棒稼業に手を染めたのも、金が欲しかったというのも勿論あったけれど、元々は敵討ちのために始めたものだったのだ。観柳の犯罪の証拠を掴んで処刑台に送ること、それさえ出来ればいつでもこの稼業からは足を洗うつもりだった。泥棒など長く続けられる商売でもないし、りせが大きくなった時のことを考えたら、もうそろそろ潮時だろう。
「それは結構なことだな。親が泥棒では、あのりせとかいう娘も可哀想だ」
茶を一口飲んで、斎藤はありきたりなことを言う。
しかし、の口から「私の娘」と言われたけれど、彼女が子持ちだったというのは未だに信じられない。それ以前に、人妻であるということも信じられない。鬱陶しいほど斎藤への好意を表していたのに。もしかして、人妻ではなくて未亡人だったのだろうか。
あまり踏み込んだことを訊くのも憚られるような気がするし、下手をするとに気があると思い込まれそうだと思ったが、一応確認の意味で訊いてみる。
「そういえば、父親はどうした? 仕事に行っているのか?」
「あの子の父親は………もういないわ。観柳の手下に殺されたの」
その時のことを思い出したのか、は苦しげな顔をした。
の話によると、りせの父親はと同じく元御庭番衆で、警察で密偵の仕事をしていたという。その仕事の流れで“蜘蛛の巣”に関する調査をしていたのだが、元締めが観柳であるということを突き止めたところで、私兵団の連中の闇討ちに遭ったのだそうだ。
そういえば去年の今頃だったかに、他所の部署の密偵が殉職したという話を斎藤も小耳に挟んだことがある。密偵の殉職など珍しいことではないし、顔も知らぬ相手だったから気にも留めていなかったが、それがの夫だったとは。噂では殺された密偵の遺体は、元の姿が解らなくなるほどに損傷していたと聞いている。そんな遺体と対面した時のの嘆きを想像すると、他人事ながら斎藤も胸が痛む。
何と言葉をかけて良いのか判らずに、斎藤は黙って湯飲みの中を見詰める。こういう時は陳腐な慰めの言葉を言っても何の慰めにもならないのに、陳腐な言葉しか思い浮かばない。
そんな斎藤の姿を見て、は困ったように小さく微笑んだ。
「同情はしないで。私は今、とても清々しい気分なの。纏まったお金も出来たし、カタギの仕事でも贅沢をしなければ、女二人でりせを育てることも出来るわ。泥棒稼業からも足を洗えるし、だからそんな顔をしないで」
「………ああ」
観柳は警察に逮捕されて、拷問を受けた後に絞首台行きになる。そしては泥棒稼業から足を洗えるのだから、同情する必要は何処にも無い。逆に、念願の仇討ちが出来てカタギにも戻れるのだから、「よかったな」と言ってやるべきだろう。
それでも手放しで喜んでやれないのは、これからのの苦労を想像してしまうせいだ。いくら泥棒稼業で金が貯まったとはいえ、子供が成人するまでには金がかかるし、女の稼ぎはたかが知れている。贅沢をしなければ、とは言っていたけれど、女手一つで子供を育てるというのは並大抵の苦労ではないはずだ。
「まあ、あれだ。これも何かの縁だから、何か困ったことがあったら相談に来い。大したことは出来んが―――――」
「それって―――――」
斎藤の思いがけない言葉に、は一瞬きょとんとした。が、彼の言葉が染み込んでいくのを示すように、の表情は次第に笑顔全開になっていく。
しまった、と斎藤が思った時にはもう遅い。の中の妙なツボを刺激してしまったらしく、それまで別人のようにしおらしくなっていたのを取り戻すかのように、勢い良く喋りだした。
「やっぱり斎藤さん、私のことを一番に考えてくれていたのね。子持ちだから引かれると思ったけど、一瞬でも斎藤さんのことを疑った私が馬鹿だったわ」
「あー……あのな―――――」
「あ、でも、りせのことは私が何としてでも育て上げるわ。私の娘だもの。斎藤さんには迷惑はかけられない。気持ちだけありがたく受け取らせていただくわ」
「あー………」
何処から突っ込みを入れればいいのやら、斎藤は脱力したようにがっくりと肩を落とした。
が元気になったのは結構なことだし、母一人子一人で前向きに生きていこうとする力強さにも感心するが、この斎藤に対する前向きすぎる感情はどうにかしてもらいたい。どうやらの中では、彼と彼女は相思相愛ということになっているようだが、どうしてそうなってしまったのか、斎藤には解らない。
やはり昨日の夜にうっかり抱き締めてしまったのがいけなかったのだろうか。弱っている野良猫を拾い上げるのに似た感情で抱き締めたのだが、確かに猫ではなく若い女にそれをしたら誤解されるに決まっている。いくら気が動転していたとはいえ、あれは迂闊だったと斎藤は今更ながら後悔した。
まったく、最近の若い娘というのは、蜷川にしろにしろ、自分の立場というのを全く解っていない。普通に考えて、警官が泥棒(元泥棒になるのかもしれないが)と恋仲になるわけが無いではないか。更正に手を貸すことはあっても、それ以上の関係にはならないし、なってはいけないと思う。
「………もう好きにしてくれ」
反論するのも体力の無駄のようで、斎藤は力無く言うと大きく溜息をついた。
りせと女が帰ってきたのを期に、斎藤はの家を辞した。
が実は子持ちだったというのは、斎藤にも少なからず衝撃的な事実だったが、だからといって彼女の何が変わるというわけではない。死んだ亭主の敵討ちと子供を育てるための泥棒稼業、そして敵討ちを終えて足を洗うというのは芝居の題材にでもなりそうな話である。一応、めでたしめでたし、といったところだろう。
芝居は「めでたしめでたし」の後は無いけれど、現実はそうはいかないから、斎藤も何かしらの協力は惜しまないつもりだ。それは別にがどうこうというのではなく、犯罪者更正の一環である。食い詰めた元犯罪者が再び悪事に手を染めるというのは、定番の末路だ。にはそんな惨めな思いはさせたくない。
「うーん………」
そこまでいい訳じみたことを考えたところで、斎藤は眉間に皺を寄せて小さく唸る。
これまで関わった犯罪者にはそんなことは思いもしなかったが、何故に関してはそんなことまで考えてしまうのか。“今鼠小僧”としてのではなく、女手一つで小さな子供を育てているもう一つの姿を見てしまったからだろうか。
同情、とは少し違うと思う。けれど、その感情が何なのか、斎藤自身にも解らない。否、解らないのではなく、その感情の存在を認めたくないのだろう。その感情は、彼の常識の範囲を超えるものかもしれないから。
「さて、どうするかな………」
“その感情”をどう処理するか、悩ましいところだ。けれど、気分の悪い悩みではない。
斎藤は口許だけで苦笑すると、小さく溜息をついた。
『素顔』というわけで、主人公さんの“泥棒”ではないもう一つの顔です。主人公さん、家に帰ればお母さんだったんですねぇ………。そりゃ、斎藤もびっくりだわ(笑)。
斎藤、観柳邸では主人公さんを抱き締めたり、家に泊めてあげたり、ラブラブの予感を見せておきながら、やっぱり意地でも自分の気持ちを認めない方向のようです。うーん、結構お堅い人なんですね(笑)。
さて、このシリーズも残すところあと2話。斎藤はりせちゃんのお父さんになるのか、それとも………。