貸しひとつ

 事後処理のドサクサに紛れてを観柳邸から連れ出したものの、問題はここからである。
 診療所に連れて行こうにも、こんな時間に全身に打撲痕のある女が担ぎ込まれたとなったら、医者からいらぬ詮索を受けるだろう。斎藤は警官なのだし、適当に誤魔化せないこともないが、署に連絡されたりでもしたら厄介だ。適当な言い訳を考えるのも、今は面倒臭い。
 となると―――――
「うちで休んでいくか? 怪我の手当てもあるだろう」
 泥棒を自宅に引き入れるというのは甚だ不本意ではあるが、このまま帰すわけにもいかないだろう。怪我をした迷い猫を追い出せないのと同じである。
 が、は何を思ったのか、ぱっと顔を赤らめて、
「そんな……休んでいくだなんて………。私にも心の準備があるし、こんな顔の時には一寸………」
 両手で顔を覆って小娘のように恥らうの姿に、斎藤は些かげんなりしてしまう。
 手当てをしてやると言っているだけなのに、なぜそっちの方に解釈するのか。この状況でそういう流れに持っていけるの頭の中身を見てみたい。
 観柳邸の地下室では今にも泣き出しそうなくらい落ち込んでいただが、この様子ではもう立ち直ったようだ。否、弱味を見せるのを嫌う女だから、もしかしたら気丈に振舞っているだけなのかもしれないが。は何かにつけて芝居がかった態度を取るから、斎藤には判断がつかない。
 だから斎藤も、いつものように冷たく突き放すように言う。
「何考えてるんだ、このど阿呆。怪我の手当てをしてやると言ってるんだ」
「なぁんだ。期待させる言い方をするから」
「誰がそんな言い方をした」
 不満そうな声を上げるに、斎藤は冷たく応じる。続けて、
「で? 来るのか来ないのか、はっきりしろ。来ないなら、俺は署に戻る。一昨日から仕事が溜まってるんだ」
 一昨日の昼に蕎麦屋でと別れて以来、悔しいことにずっと仕事が手に付かなかったのだ。別れた後はずっと彼女の言葉の意味を考えていたし、昨日も今日もが生きているのか死んでいるのか、そのことで頭が一杯だった。お陰で書類を読もうにも書こうにも頭が全く働かず、この二日半は完全な仕事放棄状態だったのだ。
 相手はただの泥棒で、生きるも死ぬも斎藤には係わりの無いはずなのに、何故こんなにものことで頭が一杯になってしまったのか、自分でも解らない。いつもの彼なら、観柳との共倒れを期待しても良さそうなものなのに、だ。おまけに地下室では彼女のことを抱き締めてしまうし、自分で自分が解らない。
 考えれば考えるほど苛々してきて、斎藤はおもむろに煙草を咥えると火を点けた。気を落ち着かせるには、これが一番だ。
 けれど、苛々を紛らわせている斎藤とは反対に、は嬉しそうにぴょんと彼の腕に抱きつく。そして掬い上げるような上目遣いで、
「もしかして、私のことが心配で仕事が手に付かなかった?」
「そんなわけあるかっっ!!」
 図星を指され、斎藤は耳まで真っ赤にしての手を振り払った。その様子が可笑しかったのか、はくすくす笑いながら、再び腕を絡ませる。
「嬉しいわぁ。やっぱり斎藤さん、私のことを心配してくれてたのね」
「うるさいっ!」
 しおらしい姿を見せたから一瞬心が揺らいでしまったが、やっぱりこの女は大嫌いだ。斎藤は怒鳴りながらもう一度、思いっきりの腕を振り払った。





「明るいところで改めて見ると………酷い顔をしてるな」
 赤黒く腫れ上がった頬に湿布をしてやりながら、斎藤は改めて呆れたように言う。
 これまで暗がりの中だったから気付かなかったが、身体どころか顔まで腫れ上がるほどに殴られているとは思わなかった。応急処置を施された跡があるからこの程度で済んだのかもしれないが、それでも酷い顔をしている。こんな顔では、暫くは外を歩けないだろう。
「かなり殴られたり蹴られたりしたからね。でもまあ、歯が折れてないから良かったわ。腫れだって、2、3日もしたら引くでしょ。私、トカゲ体質だから、傷の治りは早いの」
 大して気にも留めていないように、は笑いながら応える。
 これくらいの怪我は、御庭番衆だった頃はしょっちゅうだった。稽古の時にだってこれ以上の怪我を何度もしていたし、そのせいか怪我の治りも早いのだ。
 痣が酷いから見た目は大怪我をしているように見えるが、これまで受けてきた怪我に比べれば大したものではない。観柳なんかにここまでやられたのは腹が立つけれど、斎藤にこうやって手当てをしてもらえるのは嬉しい。自分が守られるべきか弱い存在になったようで、しかも守ってくれるのが斎藤なのだから、嬉しさは倍増だ。
 思えばの人生は強くあることだけを求められて、誰かの庇護を受けるということは一度も無かったのだ。誰にも頼らずに一人で生きてきた自分というのも好きだけど、誰かに寄りかかるというのがこんなにも心地良いものだとは思わなかった。
「これが女の幸せってやつなのねぇ………」
「は?」
 突然うっとりとして口走るの様子に、斎藤は眉間に皺を寄せて怪訝な顔をした。
 顔の怪我と“女の幸せ”とやらに何の因果関係があるのか斎藤には皆目見当が付かないが、の頭の中では何か繋がりがあるのだろうと思う。彼女の思考はいつも斎藤の右斜め上をいっているから、筋道を聞いたところで、理解は出来ないだろうが。
 このままこの話題を引き摺るとのびっくり思考の世界に引きずり込まれそうなので、斎藤は速やかに話題を変えた。
「そんなことより、観柳の裏帳簿はどうした?」
「ああ、あれね」
 斎藤の言葉に、は急に目が醒めたような顔をする。そしてすぐに背嚢から三冊の帳簿を出して、丁寧に畳の上に置いた。
「これよ。中をざっと見たけど、大物政治家の名前がゴロゴロしてる。いい金蔓だったみたいね。“上層部から横槍が入って執行猶予になりました”なんてオチにだけはしないでよ?」
「これは………」
 一冊手に取ってパラパラと捲ると、斎藤はその内容に絶句してしまった。
 政治家に観柳の金が流れていたのは判っていたが、正直ここまで政界に食い込んでいるとは斎藤もも思っていなかった。政治には金がかかるというけれど、『蜘蛛の巣』で作った金がこれほどまでに流れていたとは。道理で捜査の度に何かと上から横槍が入っていたわけである。
 この帳簿でどれだけの政治家を引っ張れるかは解らないが、それでも政界を揺るがす大醜聞にはなるだろう。そうなればトカゲの尻尾切りと同じで、逆に観柳を急いで始末にかかるかもしれない。
 一通り目を通すと、斎藤は静かに帳簿を閉じた。
「逆に処分が早まるかもな。大臣級まで贈賄が行ってる。ただの金なら問題無いだろうが、世間を騒がす『蜘蛛の巣』で作った金を受け取っていたとなると、話は別だ。この帳簿が表に出ることは無いだろうが、今後も色々使えそうだ」
 そう言って、を安心させるようにニヤリと口の端を吊り上げる。
 正直言って、この裏帳簿にはあまり期待をしていなかったのだが、予想外の収穫だった。この帳簿だけでは本当の大物を引っ張ることは出来ないだろうが、これをネタに揺さぶりをかければ、今後の政治家絡みの事件の捜査はかなりやりやすくなるはずだ。
 緊張を解すように小さく息を吐いて、斎藤はの顔を真っ直ぐに見据える。
「感謝する。借りが一つ出来たな」
「………え?」
 斎藤の言葉に、は一瞬耳を疑った。
 確かに今、斎藤は“感謝する”と言った。いつものことを鬱陶しがるようなことしか言わないのに、初めて感謝されたのだ。短い言葉だけれど、その一言で全てが報われたような気がした。
 今夜は大きなものを失ってしまったけれど、それと同じくらい大きなものを得たと思う。そう思ったら急に力が抜けて、それまで張り詰めていた何かがぷつんと切れるのを感じた。
「あ………」
 温かなものが頬を伝うのを感じて、は初めて自分が泣いていることに気付いた。斎藤の前でだけでは泣かないつもりだったのに、一旦涙が零れるととめどなく溢れてくる。
 悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、自分でも判らない。それまで押さえつけていた色々な感情が自分の中でごちゃ混ぜになって、それが涙と一緒に溢れているかのようだ。
 男の前で泣くなんて、いかにも“女”を前面に出しているようで、好きな男の前では絶対にしないと決めていたのに。せめて声を出すまいと両手で口を覆って、斎藤から顔を隠すように俯いた。
「…………………」
 俯いて泣くをなるべく見ないように、斎藤も軽く視線を伏せて無意味に帳簿を揃える。
 普通の女なら、甘い慰めの言葉をかけてやるか、抱き締めてやれば事足りるだろうが、はそういうのは望んでいない。涙の理由も、泣いているという事実にさえも触れないのが一番の慰めだろう。何でも言葉にしたり行動に移せば良いというものではないのだ。
 は感情を暴走させているようで、きちんと自分の中で静かに処理できる女だと斎藤は思っている。今日は色々あったから処理するには時間がかかるかもしれないが、彼の手など借りずに立ち直れるはずだ。
 だから斎藤は、何も気付いていない振りをして、いつも通りの少し不機嫌な声で言う。
「今日は疲れただろう。もう遅いから泊まっていけ」
 そう。は心も身体も少し疲れているのだ。疲れていれば、感情も少しだけ不安定にもなる。一晩休めば、きっといつものに戻るだろう。
 泥棒を介抱した上に家に泊めるなど、警官として失格だと思う。けれど、には裏帳簿の借りがあるのだ。大きな借りの一部を返しているだけだと、見え透いた理屈をつけて斎藤は自分を納得させる。決して、に特別な感情を抱いてるわけではない。
 声は冷たいけれど温かな言葉に、は俯いたまま小さく頷いた。
<あとがき>
 情緒不安定気味の主人公さんと、何だか急に優しい斎藤。警官と泥棒の壁は、じわじわと壊れているようです。
 泣いている相手に慰めの言葉をかけたり、抱き締めたりするのは、案外簡単な解決法なんですよね。とりあえず、一番手っ取り早い「私はあなたのことを考えている」というパフォーマンスだし。だけどそれを望んでいない人もいて、そうすることでかえって傷をこじらせてしまうこともあるんですよね。かといって、何もしないと無関心のようで、“慰める”って大人の高等技術だと思う今日この頃。
 一瞬で相手の性格を把握してそれに相応しい対応が出来るっていうのは、大人の条件ですね。そして、たとえ情緒不安定になっても、他人の手を煩わせずに一人で処理するというのも、大人の条件だと思います。で、自分はその条件を満たしているかというと―――――“大人”って、大変だなあ………(遠い目)。
 観柳への憎しみの理由ですが、すみません、次回の『素顔』に先送りになってしまいました。
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