情けはいらない
上の方が騒がしい。手足の自由を奪われた身体をどうにか捩って、は真っ暗な通気窓を見上げる。音の様子では、正門辺りが騒ぎの発生源らしい。
般若が言っていた“ごたごた”というのは、これのことだったらしい。昨日はが爆発騒ぎを起こして、今日も何だかよく判らない騒ぎが起きて、観柳邸は連日落ち着かない。観柳にとっては災難続きだが、蒼紫たちにとっては理想的な環境だろう。
上で何が始まろうとにはどうでも良いのだが、いつになったら此処から出してくれるのか、それだけが気がかりだ。まさか忘れ去られているとは思わないが、斎藤と行き違いになってしまったら困る。
「ま、来てくれるとは限らないんだけどね」
期待してしまう自分を戒めるように、は少し突き放した口調で呟く。
斎藤が来てくれることを前提に考えているけれど、約束はしていないのだ。裏帳簿を持ってきてあげると話を持ちかけた時も、どちらかというと迷惑そうだったし、此処に来ない確率の方が高そうだ。
そもそも斎藤は警官である。警官が泥棒を助けるなんてありえないし、もし此処に来てくれたとしても、そのまま取調室に直送と考えるのが筋だろう。まあとしては、たとえ取調室に直送ということになっても、取調官が斎藤なら別に良いかな、などと思ってしまうのだが。狭い取調室で斎藤と二人きりなんて、一寸そそられる気がする。
「………阿呆だ………」
いくら今の状況が辛いとはいえ、こんな阿呆な妄想をしてしまうとは。自分に呆れて、はぐったりと項垂れてしまった。
「………一人でも楽しそうだな」
いつの間にそこにいたのか、蒼紫が出入り口のところでを見下ろしていた。相変わらずの無表情だが、その目には僅かに呆れた表情が見て取れる。
どの辺りから見られていたのかは判らないが、取調室妄想をしてにやにやしていたところを見られてしまったのは、その口振りから確実だ。よりにもよって、そんなところを見られてしまうとは。恥ずかしくてそのまま消えてしまいたくなる。
真っ赤な顔で黙り込むの前に、蒼紫は風呂敷包みを投げて寄越した。
「観柳の裏帳簿だ。金庫にしまう前にすり替えておいた。持って行け」
「………え?」
何を言われたのか理解できなくてきょとんとするをそのままにして、蒼紫は手足を縛る鎖と枷を外す。
丸一日ぶりに自由になった手足は、まだ痺れで使い物にならない。上半身を起こそうと両手をつくが、上手く力が入らずにガクッとなってしまう。
起き上がるのに四苦八苦しているを見ながら、蒼紫は淡々と言葉を続ける。
「人斬り抜刀斎が来ているから、上はまだ危ない。落ち着いたら呼びに来てやるから、それまで此処で大人しく待っていろ」
「人斬り抜刀斎? どうして人斬り抜刀斎が此処にいるんですか?」
幕末の京都でその名を轟かせて忽然と姿を消した人斬り抜刀斎が、何故この観柳邸にいるのか。これにも“蜘蛛の糸”が絡んでいるのだろうか。
上の騒ぎの原因が人斬り抜刀斎だとしたら、用心棒の蒼紫たちが相手をすることになるのだろう。私兵団の連中が束になってかかってきたところで、人斬り抜刀斎の敵ではないだろうから。
「抜刀斎を倒したら、もう此処には用は無い。一緒に出て行くぞ。此処を出た後は、お前の好きにすれば良い」
の質問には答えずに一方的に宣言する蒼紫の顔は自信に満ちていて、彼女が尊敬していた“あの頃”の御頭のままだ。幕末最強と謳われた剣客であろうと、彼ならきっと完膚なきまでに叩きのめして“最強”の称号を手に入れるだろうと、にも思わせた。
蒼紫たちが観柳邸にいると知った時は、麻薬密売の元締めの用心棒をしているなんて、と悲しんだり軽蔑したりもしたけれど、今の彼の姿は“あの頃”と何も変わらない。こんなところにいても何も変わらない“御頭”のままだからこそ、4人の部下も付き従っているのだろう。
敬愛する御頭が今も昔のままでいてくれたのが嬉しくて、は思わず目を潤ませてしまった。身体が弱っている時だから、少し涙腺が緩くなってしまったらしい。
潤んだ目を誤魔化すようには慌てて目を伏せると、大きく深呼吸をして居住まいを正して言う。
「御武運をお祈りしています」
「お前に言われるまでもない」
言葉こそ素っ気無いものの、蒼紫の声はこれ以上望めないほど優しくて、は何故か胸が締め付けられるように切なくなるのだった。
外にいる観柳の私兵どもを捕縛しながら、斎藤はやれやれと溜息をついた。
観柳邸に着いたらすぐに別行動をしてを探そうと思っていたのに、今日に限って警察署長も一緒で監視がきつくてそれもできない。署長がいたところで大して役にも立たないと思うのだが、大きな事件になりそうだから張り切っているのだろう。まったく鬱陶しいことである。
捕まえた私兵の一人から聞き出した情報に寄ると、侵入した“賊”は赤毛の頬に十字傷を持つ男と、背中に“悪”と大書きした羽織を着た赤い鉢巻の男、それに子供らしい。随分と妙ちくりんな組み合わせであるが、その中でも気になるのは十字傷の男―――――斎藤の勘が正しければ、幕末の京都で遂に決着を付けることのできなかった最強の人斬り、緋村抜刀斎だ。
御庭番衆御頭といい、人斬り抜刀斎といい、は妙なものを引き寄せる女らしい。元新選組三番隊組長である斎藤も、傍から見れば彼女が引き寄せた“妙なもの”になるのだろうが。世の中には金持ちを引き寄せる女がいたり、逆にダメ男ばかり引き寄せる女もいるらしいが、は“最強”の男を引き寄せる女らしい。そんな一文にもならないものを引き寄せても仕方が無いのだが。
「おい、昨日の夜も爆発物騒ぎがあっただろう。下手人はどうなったんだ?」
周りの隙を見て、斎藤は縛り上げた私兵の一人に低い声で訊く。が、チンピラ上がりらしい私兵はふてくされた声で、
「知らねぇな。それを調べるのがお前ぇらの仕事だろうが」
「あんまりナメた口利いてると、留置所の前に病院行きだぞ、貴様」
ドスの利いた低い声と、殺気を帯びた鋭い眼に、私兵は一瞬怯んだように顔を真っ青にした。今はただの警官とはいえ、幕末の京都を生き抜いた元新選組とその辺のチンピラ風情では、格が違うのだ。
斎藤の迫力に圧されるように、私兵は震える声で答える。
「俺も詳しくは知らねぇが、観柳さんや“御頭”たちがやたら地下室に行ってたぜ」
「地下室か………」
私兵を突き飛ばすように放すと、斎藤はすっと立ち上がる。周りを見回すと、誰も彼も私兵の捕縛に集中していて斎藤のことなど見ていない。一部の警官は屋敷の中に向かっていて、別行動をするなら今が絶好の機会だ。
斎藤はさり気なくその場を離れると、屋敷に向かって走った。
屋敷に一歩足を踏み入れた途端、鼓膜を突き破らんばかりの凄まじい轟音に、斎藤は思わず耳を覆った。
この音は、恐らく回転式機関砲だろう。麻薬密売だけかと思っていたが、武器の売買にまで手を伸ばしていたのか。他にも叩けばいくらでも埃が出てきそうな男であるから、逮捕されれば懲役刑では済まないだろう。それも斎藤にはどうでも良いことだが。
地下室に向かおうとする斎藤を、同僚の警官が目ざとく注意する。
「藤田さん、階段はこっちですよ」
こういうときに限って、つくづく間が悪い。これだけの人間がいるのだから、全員が同じ行動をしなくても良いと思うのだが、そうもいかないのが組織というものだ。
斎藤は小さく舌打ちをすると、屋敷中央の大階段に走った。
そしてダンスホールに入って、斎藤たち警官隊が見たものは―――――
「何だ、これは?!」
部屋に籠った血と硝煙の臭いに、一番乗りした警官が鼻と口を覆って叫んだ。
ダンスホールにあったのは、弾切れした回転式機関砲が一台と、その傍で倒れている武田観柳と思しき白背広の男。余程強い力で殴られたのか、顔が奇妙に歪んでいる。が、驚くべきはそこではない。
広いダンスホールに、4体の首無し死体が転がっていたのだ。大きさは様々だが、どれもそれなりの訓練を受けた成人男性のものと思われる。
<“御頭”の部下か………>
資料によると、“御頭”こと四乃森蒼紫には4人の部下がいたらしい。人前に姿を出すことは無かったらしいから容姿に関する情報は全く無いが、忍装束を着ている死体があるところを見ると間違い無いだろう。どの死体も弾痕で蜂の巣のようになっていて、恐らく観柳が殺したと思われる。
人斬り抜刀斎との乱闘の間に仲間割れでもあったのか、それとも思わぬ襲撃に心身喪失した観柳が誤って回転式機関砲を乱射したのか。死体に首が無いのは、生き残った蒼紫が持ち去ったのだろう。蒼紫は一人で逃げたのか、それとも―――――
「藤田警部補!」
気が付いたら、同僚の制止も聞かずにに走り出していた。
四乃森蒼紫が生きているとしたら、かつての部下だったを連れて逃亡するか、下手をすれば彼女を道連れに自決をするかもしれない。と蒼紫の繋がりがどれほどのものか斎藤には判らないが、部下でもあり弟子でもあった彼女をそのまま置いて何処かへ行くとは考えにくい。
が殺されるのは流石に良い気持ちはしないが、蒼紫と共に姿を消すということを危惧している自分に気付いて、斎藤は忌々しく思う。が蒼紫と逃避行をしたところで、斎藤には関係無いはずなのに。
思えばあの蕎麦屋の一件以来、ずっとのことばかり考えている。というより、のことしか考えていない。これでは斎藤がのことを特別な存在として見ているようではないか。まあ、ある意味“特別”ではあるが。
「ったく………」
誰に対して舌打ちをしたいのか斎藤自身にも判らないのだが、とりあえず舌打ちをした。
上がまた騒がしくなって、は不安げに天井を見上げた。
蒼紫が出て行ってから、もう一時間以上経っているだろう。さっきまで回転式機関砲と思われる音が鳴り響いていたかと思うと、不意にしんと静まり返って、今度は大勢の人間が出入りしているようなざわめきだ。上では一体何が起こっているのだろう。
落ち着いたら呼びに来る、一緒に出て行こう、と蒼紫が言ったから大人しく待っているのだが、こうも目まぐるしく状況が変わっているのを感じると、もこのままじっとしていてはいけないような気がしてきた。呼びに来るまで待ってろと言った蒼紫の命令は絶対だけど、でも凄く嫌な予感がする。
「どうしよう………」
蒼紫に渡された風呂敷包みを膝に置いて、は不安げに呟く。
勝手に部屋を出て行って、蒼紫と行き違いになっても困るし、それ以上に彼と鉢合わせたら気まずい。御庭番衆を抜けて10年過ぎたが、今でもにとって、“御頭”の命令は絶対なのだ。待ってろと言われたら、蒼紫が戻ってくるまで待っているしかない。
此処で蒼紫の命令どおり大人しく待っているか、それとも上の様子を見に行くか迷っていると、出入り口の扉が開いた。
「おかし―――――」
やっと来てくれたとほっとしたのも束の間、待ち人ではなくて、は呆然とする。
否、そこに立っているのも、が待ちわびた男だったのだが。けれど手離しで跳び付ける気分ではない。
「斎藤さん………」
呆然と目を見開いたまま、は小さく男の名を呼ぶ。
そんなの顔を見て、斎藤の顔が一瞬強張った。いつも自信に満ちていたの顔が弱々しく見えたことに驚いたせいなのか、今の彼女の待ち人が自分でなかったことに落胆したせいなのか斎藤のも判らない。
蒼紫は4人の部下の首だけを持って姿を消したようだ。のことはその程度の存在だったのか、それとも彼女のことに思いが及ばないほどに彼の心は壊れてしまったのか。どちらにしても、が無事で良かったと思う。思うのだが、やはりこの反応は面白くない。
「四乃森蒼紫でなくて悪かったな」
言ってしまって、まるで当て付けのようだと斎藤は忌々しく思う。
案の定、は責められているのだと勘違いしたらしく、すまなそうな顔をした。自分から来てくれと頼んでおいたのに、斎藤が来ても嬉しそうな様子を見せられなかったことは悪いと思っているのだろう。
「ごめんなさい。斎藤さんが来てくれたこと、凄く嬉しい。でも私………」
目を伏せて、は長い睫毛を震わせる。そんな顔をされると、ますます斎藤が彼女を責めているようで、居心地が悪い。
今は何を言ってもを責めるような言葉を吐いてしまいそうで、斎藤はむっつりと黙り込む。けれどその沈黙にさえも、は自分を責めていると思っているのか萎縮するように身を縮こまらせる。
自信家で押しの強いがそうするといかにも卑屈に見えて、斎藤はますます苛々してきた。このままではとんでもない暴言を吐きそうで、斎藤はの手首を掴むと無理矢理立たせる。
「四乃森蒼紫は此処には来ない。行くぞ」
「………え? どうして………」
乱暴に手を引かれて、は戸惑うように大きく目を見開いた。
蒼紫は来ないなんて、どうして斎藤が言い切れるのか。もしかして、観柳と共に警察に逮捕されたのか。否、あの蒼紫が警察なんかに捕まるなんてヘマをするはずが無い。観柳を置いて、さっさと此処から脱出するはずだ。勿論、約束通りを連れ出して。
まさか、さっきの回転式機関砲の音は―――――考えまいとして意図的に避けていた不安に囚われて、の顔から血の気が失われる。
「あの回転式機関砲の音………」
強張った顔で、は斎藤を見上げる。
あの回転式機関砲は、人斬り抜刀斎に向けられたものではなかったのか。それとも、巻き添えを喰って御庭番衆の皆も撃たれてしまったのか。皆が撃たれたとしたら、一体どれくらいの怪我をしているのだろう。早く手当てをしてあげないと―――――
専門的な知識の無いに何ができるというわけではないけれど、でもこのまま自分だけ斎藤と逃げるわけにはいかない。一旦は袂を分かってしまったけれど、あの5人はの仲間で、家族も同然だったのだ。
掴まれていた手を乱暴に振り払って走り出そうとするの手を、斎藤はもう一度掴み直して自分の方に引き寄せる。
「行くんじゃない! もう何もかも終わったんだ」
「終わったって………嘘………。だって………」
頭が上手く回らなくて、自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。何もかも終わったなんて、それはつまり―――――
硬直した表情のまま大きく見開かれたの目が、少しずつ潤んでいく。その顔が今にも泣き顔になってしまいそうで、斎藤は反射的にその身体を抱き締めてしまった。
何故抱き締めてしまったのか、斎藤自身にも判らない。一瞬頭の中が真っ白になったかと思うと、気が付いたら腕の中にがいたという感覚だ。
が泣きそうな顔をするから、つい抱き締めてしまった。自分がこうしたからといっての心の痛みが和らぐとは思えないけれど、でも斎藤にはこうすることしか思い浮かばなくて、頭が迷う前に身体が勝手に動いてしまったのだろう。さっきから、斎藤の頭と身体はばらばらだ。
「泣くんじゃない」
強く抱き締めたまま、斎藤は低く囁く。こういう時、こんな陳腐な言葉しか思い浮かばない自分がもどかしい。
「泣いてないわ。泣いてない」
硬い声で、は意地を張るように応える。けれどその声は少し湿り気を帯びていて、やはり今にも泣き出しそうだ。
こんな時くらい声を殺してでも泣けば楽になるのに、それをするには意地と誇りが邪魔をするのだろう。“理解できない今時の若い女”と思っていたが、こういうところは自分によく似ているような気がして、斎藤は急にを身近に感じた。男だとか女だとか、警官だとか泥棒だとか、そんなことさえもどうでも良くなって、斎藤はを抱く腕に更に力を込める。
けれどは、抵抗するように斎藤の腕の中で小さく身を捩る。
「同情なら、こんなことしないで。可哀想なんて思われたくない」
斎藤が抱き締めてくれるのは嬉しい。だけど、それが同情なら、いらない。片想いの男に哀れまれるなんて、これほど惨めなことは無いのだ。
身体を引き離そうとするを押さえ込むように、斎藤は更に腕に力を入れる。
「同情じゃない。俺がこうしたいから、しているだけだ」
抱き締めるのは恋愛感情ではないと思うけれど、かといって同情なんかでもない。気が付いたら身体の方が先に動いてしまっていて、それはきっと、斎藤がそうしたいと望んでいたからなのだろう。何故そうしたいと思ったのかは、また後で考えれば良いと思う。
と出会ってからずっと調子を崩されっぱなしで、何度も腹を立てたこともあったけれど、でも今は全く腹が立たない。こんなことをしてしまっては、もう警官と泥棒に戻れないかもしれないが、それでも良いとさえ思えてきた。
もしかしたら“心を奪われる”というのは、こういうのをいうのだろうか、と斎藤はふと思った。に恋をしているわけではないけれど、でも明らかに彼女に対する新しい感情が生まれ始めている。
<警官のくせに、泥棒に心を奪われるとは笑えんな>
腕の中で静かにしているを見下ろして、斎藤は苦笑した。
警官と泥棒という枠組みを超えて、やっと二人の気持ちが通じ合えたようです。斎藤も、本当はずっと前に主人公さんにハートを盗まれていたのに、やっと気付いたか………といった感じです。でも恋愛感情については、未だに認めていないようですが(苦笑)。
主人公さんは昔の仲間を失ってしまいましたけれど、でも代わりにまた違うものを手に入れることが出来て、失った痛みはじきに癒されるのではないかと思います。というか、癒してやってくれ、斎藤!
で、結局主人公さんは何故観柳に恨みを抱いていたかということですが、これは次回から語っていきたいと思います。