一時休戦
とん、と塀から飛び降りて、は観柳邸の敷地に入った。庭の中は、警備の私兵団がうろうろしている。が、どれもこれもチンピラ上がりのようで、全員が束でかかってきてもの敵ではないだろう。何しろこちらは元江戸城御庭番衆。宵闇に紛れて動くのが商売だったのだ。
ただ、問題は同じ御庭番衆の蒼紫とその部下たち。警視庁に忍び込んで斎藤の情報を漁ったついでに、観柳邸についての資料も漁ったのだが、あれには蒼紫には4人の部下が付いていると書いてあった。般若、式尉、べしみ、ひょっとこの、御庭番衆の中でも特に異形異様の4人だ。
べしみとひょっとこはこの際どうでも良いが、問題は般若と式尉だ。特に般若に見付かったらまずい。共に蒼紫の下で修行をした間柄なだけに、蒼紫と同じくらい手の内は知られているのだ。
「さて、どうしますか………」
大して困っている風でもなく、は軽く興奮しているように小さく口許を吊り上げた。
同じ頃、斎藤は一人で執務室に残って残業をしていた。蜷川が帰ったこの時間帯だけが、斎藤にとって心休まる時間だ。彼女がいないだけで仕事ははかどるし、頭は冴えるし、良いこと尽くめ………のはずだったのだが―――――
いつもならすいすいと処理できるはずの書類が、今日は二枚目から止まっている。書類を作ろうとしても、昨日聞いたの言葉が何度も頭の中を駆け巡って、どうにも仕事の方に意識が向かない。
―――――もし明後日、私が裏帳簿を持って斎藤さんのところに来なかったら、あなたが観柳邸に来て。生きているにしても死んでいるにしても、私の身体を引き取りに来て欲しいの
明後日―――――つまり明日、は観柳の裏帳簿を持ってくるはずだ。仕事が成功すれば。
ということは今夜、“仕事”をしているのだろう。今頃、観柳邸に忍び込んでいるのだろうか。あのが仕事に失敗するとは思えないが、あんな弱気な彼女は初めて見た。“初めて見た”というほど、彼女に会ったわけではないけれど。
観柳邸で内偵している部下からの資料によると、が言っていた“御頭”こと四乃森蒼紫は15歳で江戸城御庭番衆御頭になった凄腕の隠密なのだそうだ。あの激動の時代、たった15歳で江戸城御庭番衆御頭の地位に就いた彼の能力は、確かに侮れるものではないだろう。しかもの師匠だったというのだから、尚更だ。
しかしとて、警官隊の追跡を軽やかに振り切って、狙ったものを盗み出すという技を持っているのだ。いくら天才隠密とはいえ、たった一人で警官隊以上の働きができるわけが無いではないか。きっとはいつものように易々と裏帳簿を盗み出して、明日の昼頃には「貴方の為に盗んであげたよの」なんて無駄に甘ったるく斎藤に言うに違いない。
そうは思っているものの、斎藤の中に生まれた漠然とした不安はなかなか消えてくれない。の能力は斎藤もよく知っているはずなのに、それでも彼女が無事に彼の許に来ないような気がしてならないのだ。
「………どうかしてるな」
いつの間にやらのことを真剣に心配している自分に気付いて、斎藤は自嘲するように小さく息を漏らした。
考えてみれば、コソ泥の仕事の成否を心配するなど、警官としてあるまじき行為だ。たとえ盗み出すものが、麻薬密売の元締めと目されている男の裏帳簿だとしても。
しかしそれでも気になるのは、別れ際に見たの思い詰めた目のせいだろう。かつての同志を売ることも、自分の死さえも厭わないあの目。これまでにとは二回しか会っていないが、いつも自信過剰で自意識過剰で、何かを覚悟して行動するということを知らないような女があんな目をするということが、斎藤の心に引っかかるのだ。
もしもが蒼紫に捕らえられたら、どうなるのだろうか。部下から伝え聞いた情報では、昔の仲間だからと情けをかけるような男ではないらしいから、それ相応の報いを受けることになるだろう。後ろに誰が付いているか吐かせる為に拷問にかけるか、それとも問答無用で切り捨てるか。どちらにしても捕まったら、は生きて観柳邸を出ることは無いだろう。
―――――生きているにしても死んでいるにしても、私の身体を引き取りに来て欲しいの
そう斎藤に頼んだ時、は何を思っていたのだろうか。死んだ自分の体を引き取りに来いなど、尋常な頼み事ではない。しかも泥棒が、警官に頼むのである。そんな頼み、聞いてもらえると思っていたのだろうか。
もしも―――――勿論そんなことは無いだろうが―――――万が一、が明日裏帳簿を持ってこなかったら、自分はどうするだろうか。知らぬ振りを決め込んで、いつもと変わらぬ一日を過ごすだろうか。それともの頼み通り、観柳邸に忍び込んで彼女を探しに行くだろうか。
令状も無いのに、警官が一個人の屋敷に侵入することはできない。しかもその“一個人”は政界と太い繋がりを持つ青年実業家だ。ヘタを打ったら、斎藤の首が飛ぶだけでは済まないのだ。
ただの女泥棒に、そこまでしてやる義理は無い。そうは思うものの、斎藤の中には割り切れない思いが蟠って、煙草の煙が胸に籠っている様な何とも知れない嫌な気分になってくる。この得体の知れない気分の正体が何なのか、斎藤には解らない。
「さて、どうしたものかな………」
たかだか女に、しかも泥棒なんかのために、仕事も手に付かないほど心をかき乱されるなど、どうかしている。が観柳の裏帳簿を盗み出してくれるのは勿論ありがたいし、もし失敗したとしても“今鼠小僧”という稀代の大泥棒が消えるのだから、それはそれで斎藤には好都合ではないか。
そう自分に言い聞かせてみるものの、それでも胸の中のもやもやは消えない。そんな自分に、腹立たしいような納得のいかない気分になって、斎藤は大きく息を吐いた。
観柳邸の庭の一角で、硝子窓を振動させるほどの大きな爆発音が起こった。
「何だっ?!」
「あっちだっ!」
庭を見回っていた連中が一斉に爆発音の方に走っていく。暫く間があって、屋敷の中にいた私兵団らしき男たちも出てきた。
庭をうろうろしている男たちの中に、元御庭番衆の姿は無い。恐らく中で、観柳の警護をしているのだろう。
あまり長居はできないな、とは喧騒と宵闇に紛れて屋敷に侵入する。屋敷から一番離れたが所で起きた爆発のせいで、みんながそっちに気を取られているお陰で、侵入するのは容易だった。
あの爆発を起こしたのは、勿論だ。御庭番衆に伝わる、時間差で爆発する爆弾を使ったのだ。
爆弾を使うこのやり方は、御庭番衆の頃によく使っていた。蒼紫たちにの犯行だと気付かれる危険がある方法だが、それでもこれを使ったのは、一種の“保険”だ。
こんな派手な騒動が起きれば、警察も介入しやすい。もしがここで失敗しても、警察が介入できる余地を作っておけば、きっと斎藤が来てくれる。彼ならきっと、観柳の後ろに何が付いていても、の望む結果を出してくれるだろう。
屋敷の間取りは、斎藤の部下が作った見取り図を盗み見て、頭に叩き込んである。帳簿を保管している金庫がある部屋は、観柳の私室からは遠いから、彼の警護をしている蒼紫がそこに来ることは多分無いだろう。
案の定、金庫の部屋までは誰にも鉢合わずに辿り着くことができた。あまりにも簡単に辿り着けて、そのことが逆に不審にも思えたが、恐らく屋敷に残っている人間は観柳の警護で手一杯なのだろう。が手に入れた情報では、観柳は異常なほど警戒心が強く、それ故に護衛無しでは外に出ることもできないというくらいだから、蒼紫も御庭番衆も彼の私室に詰めているのかもしれない。
警戒心が強い故に警備もしっかりしていて、裏帳簿を盗むにはいつもよりも手こずりそうだと思っていたが、その強すぎる警戒心がかえってに有利に働いてくれたようだ。念のために、脱出用の爆弾も仕掛けておいたのだが、それは必要無かったかもしれない。
裏帳簿が入っている金庫は舶来製のもので、これは少しばかり手こずりそうだ。は腰に括りつけている皮袋から開錠の道具を出すと、鍵穴の横に耳を当てて鍵を開け始める。
微妙な音を聞き分けながらの作業は、非常な集中力と精神力を要する。ここで誰かが来ても、すぐには対応できないだろう。焦りは禁物だが、早急に開けてしまわなくては。
息をすることさえ忘れて、は開錠に集中する。暫くそうしているうちに、カチリと手ごたえのある音がした。鍵が開いたのだ。
「やった………」
大きく息を吐いて、額にかいた汗を袖口で軽く拭うと、は音を立てないようにそっと金庫の扉を開けた。
中にあるのは大量の現金と小切手の束。そして契約書などの書類と帳簿――――――けれどこの帳簿は表向きの帳簿だ。が探している裏帳簿は恐らく、その奥に隠すように置かれている小口金庫の中にある。
金庫の中に更にまた金庫を入れて、随分と用心深いものだとは苦笑した。けれどその用心深さのお陰で、かえって探す手間が省けた。しかもこの小口金庫の鍵の造りは、さっきの鍵よりも格段に甘い。用心深い観柳も、高性能な舶来製の金庫を過信して、油断したのだろう。
小口金庫を軽々と開けると、中に入った3冊の帳簿を手早く背嚢に収める。これさえ手に入れれば、もう此処には用は無い。そろそろ二発目の爆弾が爆発する頃だし、脱走にも良い頃合だ。
「さて………」
「そこまでだ」
背嚢を背負いながら立ち上がった刹那、背後からくぐもった男の声がした。
「―――――――っっ?!」
振り返ると、そこに立っていたのは般若の面を付けた忍装束の男―――――かつて共に蒼紫の下で修行した“般若”だ。
よりにもよって、とは小さく舌打ちをする。他の3人ならともかくとして、般若というのは相手が悪い。手の内が解っているのはお互い様だが、一対一の格闘ではやはり男の般若に分があるのだ。
これは強行突破するよりも、窓から逃げる方が得策だろう。此処は二階だが、なら楽々飛び降りることができる高さだ。着地点は、私兵団が集まっている爆発地点に近いが、般若を相手にするよりもヤクザ者を相手にする方がずっと楽だ。
「あ〜ら、般若君、お久し振り」
引き攣りながらもニヤリと笑い、はどうにか余裕の表情を見せようとする。けれど声が上擦ってしまって、動揺しているのは誰に目にも明らかだ。
「こんな形で再会するなんて思わなかったわ。かれこれ10年振りかしら。随分背が伸びたのねぇ」
どうでも良い事を早口でべらべらと喋りながら、はじわじわと窓側に後ずさる。そして窓との距離がある程度近付いたところで、
「元気そうで良かったわ。じゃあ、さようなら!」
動かないままの般若にそう言い捨てると、は勢い良く窓を打ち破って下に飛び降りた。
般若が追ってくるかと思いきや、その気配は無い。昔の仲間だから見逃すということは、彼に限ってありえないはずだ。
けれどそれを不審に思う余裕も無く、はそのまま走り出す。いつもは飄々と仕事をこなす彼女であるが、昔の仲間の姿を見ただけで驚くほど余裕を失っていた。
とにかく早く逃げなくては。般若に見付かったということは、蒼紫が此処に駆けつけるのは時間の問題。彼に見付かったら、絶対に逃げられない。
「ひっ………?!」
走る先に長身の人影を認めて、は小さく悲鳴を上げた。
「……お、かしら………」
全身を硬直させて大きく目を見開いたまま、は辛うじて掠れた声を出す。ただ目と目が合っただけなのに、滑稽なほど体が震えてしまう。
小刻みに震えるを見ても表情一つ変えず、蒼紫は氷のような冷たい目で見下ろした。そして腰に帯びた小太刀をすらりと抜く。
「お前は昔から、俺が読んだ通りの行動をする。少しは頭を使えと昔から言っていただろう」
「………これも想定内のことですか」
上目遣いで睨みつけて、は静かに問う。
この遣り取りは、御庭番衆だった頃も何度も繰り返していた。敵と味方に分かれての想定戦で、いつも蒼紫に先手を取られて、この説教をくらっていたのだ。まさか明治も10年を過ぎた今になって、同じことを言われることになるとは思わなかった。
そう、明治ももう10年が過ぎたのだ。もあの頃のではない。
「じゃあ、これも想定の範囲内ですか?」
ニヤリと不敵な笑みを作り、は袖口に隠していた小さな玉を叩きつけた。
カッと真っ白な光が一面を覆い、即座に黒眼鏡をつけたは一気に走り出す。いくら蒼紫でも、暗闇に慣れた目でこの光を食らったら、目が潰れるはずだ。が―――――
「それも想定の範囲内だ」
同じく黒眼鏡を付けた蒼紫が、無表情での腕を掴んだ。そして、驚愕の表情を浮べるの上に小太刀が振り下ろされる。
首が飛ぶような衝撃を受けた刹那、の意識は暗転した。
落ち着き無く煙草を吸い続ける上司の様子を、蜷川は怪訝な顔をして朝から観察していた。朝刊も読まず、蜷川が入れた茶にも手を付けず、それどころか机に山と積まれた書類も目に入らないようにひたすら煙草を吸い続けるなんて、ただ事ではない。
けれど落ち着かない上司よりも気になるのは、この籠った煙だ。煙突のようのひっきりなしに煙を吐き続けるせいで、視界が薄っすらと白く霞んでいる。これでは昼休みには煙の匂いが染み込んで、燻製の出来上がりだ。
蜷川はわざとらしく咳き込むと、一気に窓を開けた。と、白っぽい空気が外に流れていく。
「警部補、吸いすぎです!! 私まで煙草臭くなるじゃないですか」
「ああ………」
眉を吊り上げて怒る蜷川の言葉にも、斎藤は上の空だ。
もう昼休みも近いというのに、まだは姿を現さない。一昨日此処に来た時は大体これくらいの時間だったと思うのだが、昨日が仕事だったから今日は遅いのだろうかと考えてみる。
裏帳簿を盗み出したら必ず今日持ってくると、は宣言していた。彼女はどんな約束でもきちんと守る女だ。そのお陰で斎藤は二度も川路に怒鳴られたではないか。
そうは思ってみても、斎藤の心は落ち着かない。昨日の夜も碌に眠れなかったし、あんな女のためにこんなに思い悩まねばならないなど腹が立って、更に煙草の本数が増えてしまう。
短くなった煙草を揉み消すと、次の煙草に火を点けようと箱に手を伸ばす。が、朝に開けたばかりなのにもう空になっていて、斎藤はそのまま箱を握りつぶすと、腹立たしげにゴミ箱に叩きつけた。
「一寸煙草を買ってくる」
荒々しく立ち上がると、斎藤は蜷川の返事を待たずに大股で扉まで歩いていく。そして取っ手に手をかけたところで、ふと思い出したように、
「そうだ。もし一昨日の女が俺を訪ねてきたら、そのまま待たせておけ」
その言葉に、きょとんとしていた蜷川の顔が、意味ありげにニヤニヤと崩れる。
「あー……そういうことですかぁ。ふーん………」
大方、が来るのを待ちわびて苛々していたと誤解しているのだろう。それはある意味当たっているから、斎藤もわざわざ訂正はしない。というか、訂正をしたら、逆にいらぬ誤解を与えてしまいそうだ。蜷川はいつも、斎藤の想像の右斜め上の発想をしてくれるのだから。
忌々しげに見る斎藤の様子など気にしていないように、蜷川はにっこり笑って言葉を続ける。
「美人さん、来てくれると良いですね」
皮肉の一つも言われると身構えていただけに、妙に優しい蜷川の言葉は不意打ちだった。が、いつもの蜷川の言動を思い起こすと、その言葉も額面どおりに受け取ることはできなくて、斎藤は中途半端に苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
本当に、無事にが此処にきてくれれば良いと思う。彼女の身の安全を心配するなど、本人が知ったらまた勘違いを加速させそうで微妙な気持ちになるが、それでも無事に裏帳簿を持ってきてくれればもう彼女のことを考えずに済む。
けれどもし、このまま夕方まで来なかったら―――――また不吉な考えに支配されそうになって、斎藤は軽く頭を振る。は必ず此処に来る。来ないはずは無いのだ。
「………そうだな」
小さく答えると、斎藤はそのまま部屋を出て行った。
一時休戦ということで、警官と泥棒の枠を超えて主人公さんのことを心配し続ける斎藤です。心配する自分に苛々してしまうなんて、素直じゃないですねぇ(笑)。
そして主人公さん、お仕事に失敗です。斎藤からは軽々逃げられて、蒼紫にはあっさり捕まるというのは、蒼紫の方が強いのか? と疑問を持たれそうですが、まあ手の内を全て知っているかつての仲間だから、しくじってしまったのでしょう。元上司で師匠となると、主人公さんにも心理的圧力があるでしょうしね。
次回は“捕虜”です。主人公さんはこれからどうなるのか? そして斎藤はどう出るか? ついでに(←おいっ!)蒼紫は?
………次回も斎藤の出番は少ないみたいです(斎藤ドリームなのに)。