味方を売るのか?

 バタバタと凄まじい足音がこちらに向かってきたかと思うと、執務室の扉が乱暴に開け放たれた。
「警部補! 大変ですっっ!!」
 息せき切って飛び込んできたのは、蜷川だ。まるで黒船が東京湾に攻め込んできたかのような慌てぶりである。
 けれど斎藤は、対して興味も無さそうに軽く一瞥をくれると、再び視線を落とす。どうせまた、給湯室に油虫でも出たのだろうと、たかを括っているのだ。この部下が騒ぐことなど、それくらいしかない。
「何だ? また油虫でも出たのか?」
「そんな下らないことじゃないですよ!」
 書類から顔を上げずにつまらなそうな声で尋ねる斎藤に、蜷川はまだ肩で息をしながら思い切り否定した。
「じゃあ、ドブネズミか? お前たちがしょうもない菓子を食い散らすから―――――」
「警部補の家じゃないんだから、油虫もドブネズミもそうそう出てきませんってば」
 やっと落ち着いたのか、蜷川はいつのも調子に戻ってサクッっと斬りつける。
 斎藤の名誉のために書いておくと、彼の家にはドブネズミや油虫の類が出没したことは一度も無い。食事は基本的に外食で、自炊をすることが皆無に近いから家に食料も無いので、そういう生き物が住み着くことが出来ないのだ。
 けれどわざわざ否定するのも言い訳がましいような気がして、斎藤は無表情で沈黙を決め込む。どうせ否定したところで、蜷川お得意の「ああ言えばこう言う」攻撃が返ってくるのだ。そんなものを相手にするよりも、目の前の書類を片付けた方が何倍も有益というものである。
 殆ど無反応に自分の仕事を続ける斎藤の様子に、蜷川は一寸つまらなそうな顔をした。どうやらこの部下には、不機嫌な顔よりも反論よりも、無視が一番堪えるらしい。次回からはこの方法を採用しようと、斎藤は密かに決心した。
 このまま無視を決め込んだらどうするだろう、と一寸意地悪な気持ちが頭をもたげてきて、斎藤は蜷川の存在など忘れた振りをして書類に書き込みを続ける。いつもやられっぱなしなのだから、たまには仕返しも必要だ。最近調子に乗っているようだから、上司からの愛の教育的指導である。
「あのー……警部補?」
 いつもと様子が違う斎藤に、怒りに触れたと思ったのか、蜷川にしては珍しく様子を窺うような、媚びるような声音で話しかけてきた。
「お客様がみえてるんですけど………」
「客?」
 漸く、斎藤は視線を上げた。
 誰かが斎藤を訪ねてくるなど、今まで無かったことだ。集金だの何だの個人的な用件の人間は自宅に来るはずだし、仕事上の用件で来る人間は前もって約束を入れてから来るだろう。
 しかも、あの蜷川が慌てる人間である。当然警察内の人間ではないだろうし、集金人でもないだろう。ますます身に覚えが無くて、斎藤は怪訝な顔をした。
「誰だ?」
さんという女性の方です」
………?」
 ますます斎藤は怪訝な顔をした。などという名前は、一度も聞いたことが無い。
「どんな女だ?」
「それが、凄い美人なんですよ。背がすらっと高くて、何ていうかこう、色気があるっていうんですか? 一寸玄人っぽい人です。警部補、もしかして飲み屋のツケが溜まってるんじゃないですか?」
 斎藤が反応を見せたところでほっとしたのか、蜷川はさっきまでの殊勝な態度は何処へやら、すぐに元に戻ってしまった。最近の若い娘というのは、立ち直りが早いというか、自分に都合の悪いことは即座に消去できる都合のいい脳を持っているらしい。
 家に油虫やドブネズミが出るだの、飲み屋にツケを溜めているだの、どうやら蜷川は斎藤の私生活を相当だらしないものと想像しているらしい。まあ独身男の生活というと、そういうのを想像されても仕方が無いところもあるが、それにしたって蜷川よりも整理整頓の行き届いている斎藤の執務机を見て、何処をどうしたらそんな想像が出来るのか。目の前の部下を小一時間問い詰めたいくらいだ。
 しかしそれを本当にやると話が進まなくなってしまうので、斎藤は憮然として続きを促す。
「そんな覚えは無いが、とりあえず通せ」
「あら。やっぱり警部補も男なんですねぇ。本当に凄い美人ですから、びっくりしないで下さいよ」
 ニヤニヤと笑いながら冷やかすように言うと、蜷川は客を呼ぶために部屋を出て行った。
 斎藤は書類を置くと、煙草を咥えて火を点ける。煙を吸うと頭の中が解れていくような感じがした。
「凄い美人………」
 煙を吐きながら、小さく呟く。さっきから考えているのだが、斎藤の知り合いの中で“凄い美人”と蜷川に言わしめるほどの美人など、全く思い浮かばない。否、“そこそこに美人”は数人いるが、“色気のある玄人っぽい美人”というのには思い当たるふしが無い。
 もしかして京都時代の女が訪ねてきたのかと一瞬思ったが、それもまずありえないだろう。各地を転々とし、何度も名前を変えた彼の足跡を辿るなど、凄腕の密偵でもない限り無理だ。
 現在の知り合いには思い当たるふしは無い、昔の女でもない。となると他は―――――と咥え煙草で記憶の糸を辿っていると、蜷川が戻ってきた。
「どうぞ」
 よそ行きの上品な声に促されて入ってきたのは、斎藤の全く知らない女だった。
 確かに蜷川の言う通り、すらりとした美しい女である。髪を凝った形に結い上げて、渋い色の着物を粋に着こなした様は、確かに少し玄人の匂いがする。昔、水商売をやっていて、今は素人に戻っています、といった感じの女だ。
 顔を見れば何か思い出すかと思ったが、それでも斎藤には女が何者か皆目見当がつかない。かといって「どちら様ですか」と訊くのも憚られるような気がする。女の方から何か言い出さないかと、斎藤は時間稼ぎのようにゆっくりと煙草の火を揉み消した。
「藤田さん」
 いかにも知り合いのように馴れ馴れしい声音で呼びかけると、女は楽しそうに口許を綻ばせた。ぽってりとした唇が左右に引き延ばされて、その動きに何ともいえない色気がある。
「来ちゃった」
 悪戯っぽく言うその口調、そしてその笑い方。記憶の中に同じ口調、同じ笑い方の女を発見した瞬間、斎藤は驚きと動揺で大きく目を張ったまま硬直してしまった。
 顔立ちも身にまとう雰囲気も違うけれど、それは間違いなく―――――
っ………!?」
 斎藤が動揺する筋合いのことでは無いのだが、あまりにも大胆なの行動に、彼の方が焦ってしまう。天下の“今鼠小僧”が警視庁にのこのこ現れるなど、一体何を考えているのか。
 普段は仏頂面で派手な感情の動きが全く無い斎藤の動揺ぶりに、の後ろにいた蜷川までびっくりした顔をした。が、すぐに面白そうにニヤニヤと笑って、
「あー、何か私、いない方が良いですかねぇ」
 どうやらのことを、斎藤の恋人と誤解したらしい。何を想像しているのか、目がカマボコ形になるような意味ありげな笑い方をして、蜷川は冷やかすように言う。
 この様子では、部屋を出て行ったら絶対、給湯室にいる女性職員に今のことを微に入り細に入り報告するだろう。否、事実をそのまま報告するならまだマシだが、蜷川の性格なら確実に脚色を入れるはずだ。その脚色を入れた話を聞いた女性職員も更に尾鰭を付けて他の者に話すのは確実で、数日後にはもう何が何だか分からないくらい話が大きくなって斎藤の耳に入るのが容易に想像できる。
 かといってこのまま蜷川を同席させ続けるのも何かとまずい。“今鼠小僧”が易々と警視庁の中に入ってきたのを知られるのもまずいが、それ以上に、の口振りから斎藤と親しいと誤解されるのがもっとまずい。蜷川は余計なことには察しが良いから、の正体に気付かれでもしたら大変だ。
 とはいえ、部屋から蜷川を追い出したとしても、扉の外に耳を貼り付けて盗み聞きをするのは確実。斎藤とが出て行った方が安全だろう。幸い、まだ昼休みは取っていなかったことだし、一時間くらいなら出て行っても問題は無い。
 こうするとまるでを庇っているようで腹立たしいが、斎藤自身の立場を守るためには仕方が無い。二人の女に見せ付けるように大袈裟な溜息をつくと、斎藤は大儀そうに立ち上がった。
「一寸外に出てくる。誰か来たら、一時間くらいで戻ると伝えてくれ」
 早くも疲れたような口調で蜷川に言うと、についてくるように目で促す。
「うまく言っておきますから、一時間と言わずにごゆっくり〜」
 蜷川は二人の関係を完全に誤解しているらしい。ニヤニヤと笑いながら、冷やかすような声で二人を見送るのだった。





 二人が入ったのは、警視庁から少し離れたところにある蕎麦屋だ。此処なら警視庁の関係者はまず来ないし、昼時を避けた今なら客もそれほどいない。
「どういうつもりだ?」
 店員に注文して座敷に上がるのが早いか、斎藤が口を開いた。
「会いたかったから、会いに来たの。だって私、藤田さんの家知らないし。“お仕事”の時はゆっくりお話できないでしょう?」
 不機嫌な斎藤の様子など目に入っていないように、は楽しそうに答える。大方、照れ隠しに不機嫌な振りをしているのだと、調子良く脳内変換しているのだろう。
 久々に恋人に会ったかのように、嬉しそうににこにこしているの顔を見ていると、斎藤はますますげんなりしてきた。「私は藤田さんの虜」などと言ってみたり、自分の方から接吻してきたり、果ては警視庁に乗り込んできたり、この泥棒の考えていることは全く理解できない。からかうにしてはやることが大胆すぎるし、本気だったらますます謎だ。泥棒が警官に惚れるなど、常識ではありえない。
 頭を冷やそうと、斎藤は煙草を咥えて火を点けた。無言で煙草を吸う姿を、何が楽しいのかはにこにこして見ている。斎藤の仕草の一つ一つを見ているだけで、楽しくてたまらないといった感じだ。
 は楽しいだろうが、こうずっと見詰められていると斎藤は落ち着かない。特に、こうやって恋人を見るような目で見られていれば尚更だ。こんな美人に、しかも泥棒にそんな目で見られう日が来るなど、思ってもみなかった。
「煙草を吸うのがそんなに珍しいか?」
 気まずいのを誤魔化すように、斎藤は過剰に憮然とした顔を作る。が、そんな表情さえにはたまらないのか、うっとりしたように目を細めて、
「お仕事じゃない藤田さんを見ているのが楽しいの。藤田さんにもこういう“日常”があるんだなあ、って」
「それならもう気が済んだだろう。今日のところは見逃してやるから、蕎麦食ったら帰れ」
「ひどぉい。今日は藤田さんにお手柄を立てさせてあげようと思って来たのに」
 冷ややかな斎藤の言葉に憤慨したように、は軽く睨みつける。が、本気で怒っていないのは、その目に微量の媚が含まれていることから明らかだ。
 こういう目で睨めば男の心をぐらつかせることができるというのを自覚してやっているのが見え見えの表情に、斎藤は些かげんなりする。が、それ以上にげんなりするのは、の狙い通りに一瞬ドキッとしてしまった自分を自覚してしまったことだ。いくら色気があるとはいえ、泥棒に媚を売られてドキッとするなど、どうかしている。
 毎度のことながら、どうもこの女の前では調子が狂ってしまう。今だって、蕎麦屋ではなく取調室に連れ込むのが筋であるというのに、「今日のところは見逃してやる」などと通常なら絶対に言わない甘いことを言ってしまうとは、自分でも信じられない。
 斎藤はこれまでも女の犯罪者に接したことはあるし、その中には以上の美女や妖婦もいたけれど、男と同じように接してきたつもりだ。どんなに美しい形をしていても相手は“女”ではなく、“犯罪者”なのだから。いちいち美しい形に惑わされていたら、警官は務まらない。それにそういう女は自分の形が如何に有益かを知っているから、なりふり構わず色気や媚を振り撒く者も多く、斎藤もこれくらいの媚びには免疫がついているはずなのに。
 このままの目を見ていたら彼女に良いように操られそうで、斎藤は忌々しく思いながらも自分から視線を逸らした。それを見て、は可笑しそうにくすっと笑う。
「まだ私は逮捕されるわけにはいかないから、お詫びに別件でお手柄を立てさせてあげる。だから、一寸だけ私のお願いを聞いて欲しいの」
「なっ………?!」
 あまりにも非常識な提案に、斎藤は思わず大きな声を上げてしまった。店員が驚いたようにこちらを見たのに気付いて、慌てて言葉を飲み込む。
 どんな手柄を立てさせようと思っているのか知らないが、警官が泥棒の頼みを聞くなどできるわけがない。は“司法取引”のつもりなのかもしれないが、そんな司法取引があってたまるものか。
 斎藤は煙草を揉み消すと、低く抑えた声で言う。
「阿呆なことを言うんじゃない。そんなことが出来るわけがないだろう」
「いいえ。あなたの協力が必要なの。斎藤一さん」
 その言葉と同時にの顔から微笑みが消え、その目には初めて出会った時の、幕末の動乱を思い出させる光が宿る。
 突然昔の名前を呼ばれて、斎藤は何故その名を知っているのか追求するのも忘れて唖然としてしまう。彼の過去は表向きは完全に消され、警視庁のごく一部の人間しか知らないはずなのに。
 言葉も出せずに口を半開きにした阿呆面を晒している彼が可笑しかったのか、は目元だけで小さく笑った。が、すぐに真顔に戻って、
「他人と関わって生きている限り、自分の過去を完全に消すなんて出来やしないわ。調べるコツさえ掴んでいれば、どんな人間の過去だって簡単に洗い出せるのよ」
「お前―――――」
 がただのコソ泥ではないことは分かっていたが、まさか斎藤の過去を洗い出せるほどの技術を持っていたとは。彼女はいかにも簡単なことのように言うが、何度も名前を変え、居場所を転々とした斎藤の過去を洗うなど、殆ど不可能に近いはずだ。
 のこれまでの仕事振りから、隠密上がりではないかと睨んでいたが、もしかしたらそれ以上の過去を持っているのかもしれない。今更ながら斎藤は、目の前の泥棒の能力にぞっとした。
「これを見て欲しいの」
 驚きで固まったままの斎藤を無視して、は持参していた巾着袋から小さな薬包を取り出すと、彼の前に滑らせた。
「“蜘蛛の巣”よ。今、世間を騒がせている新型阿片。斎藤さんもご存知でしょう?」
「………ああ」
 まだ硬い声で、斎藤は応える。
 麻薬は斎藤の管轄ではないが、“蜘蛛の巣”なる新型阿片が世間を騒がせていることは知っている。同じ量の材料で通常の四倍の量を製造でき、それでいて依存性は二倍という、売人にとっては夢のような阿片だ。
「これの元締めを―――――武田観柳を逮捕させてあげる」
「何を言い出すかと思えば………」
 の偉そうな物言いに、斎藤は嘲笑するように小さく喉を鳴らした。
 泥棒ごときが「逮捕させてあげる」と言って逮捕できるものなら、これほど楽なことはない。それができるなら、今日まで武田観柳を野放しにしているわけがないではないか。
 武田観柳は、最近台頭してきた青年実業家であるが、その周辺には黒い噂が絶えない男だ。表向きは“輸入業者”ということであるが、麻薬密売の噂は以前から聞こえていたし、最近では武器の横流しの噂も聞いている。それでいて決定的な証拠は掴ませないし、金の力で政界に太い繋がりを持っているために警察も噂を聞きながらも手をこまねいている状態なのだ。
 それを泥棒ごときが「逮捕させてあげる」とは。証拠の品を盗み出すとでも言うのだろうか。観柳邸には斎藤の部下も内偵として入っているが、それでも証拠物件は挙がらないというのに。
「真面目に聞いて」
 小馬鹿にするような斎藤の表情を察して、は少しムッとした顔をする。
「明日、観柳の裏帳簿を盗み出すわ。金の流れを見れば、麻薬密売の証拠が挙がるはずよ。それが出来なくても、政治家への贈賄の証拠物件になるから、そっちの方でも逮捕は出来るでしょう? そこから“蜘蛛の巣”についても口を割らせれば良いじゃない。新型阿片の元締めを逮捕したら、“今鼠小僧”を逃がした失態も挽回できると思うけど?」
 はきっと、観柳の裏帳簿を盗み出すことが出来るだろう。このことは観柳も警察沙汰にはしないだろうし、子飼のチンピラどもの警備ではを捉えることは出来ないに決まっている。その帳簿が斎藤の手に渡れば、一気に観柳逮捕に持ち込めるのは確実だ。
 ただ、気になるのはの交換条件だ。観柳逮捕と引き換えになるほどの見返りとは、何なのだろう。
 斎藤は、新しい煙草に火を付ける。そこまでしてが望むことが何なのか、条件を飲むかどうかは別として気になった。
「で、お前は何を望むんだ?」
「武田観柳の首」
 そう言うと、はくすっと小さく笑う。
 一瞬、いつもの悪ふざけかと斎藤は思ったが、の目は真剣だ。真剣に、観柳の首を望んでいるらしい。
 煙草を中途半端に咥えたまま、斎藤は固まってしまったが、すぐに気を取り直して口を開く。
「何を馬鹿な………。日本は法治国家だ。いくら罪人とはいえ、裁判も受けさせずに殺すわけにはいかん」
「だからあなたにお願いしているの。新選組の頃は、仲間内の暗殺はお手のものだったんでしょう?」
 斎藤の顔を真っ直ぐに見て、はにぃっと残忍な笑みを浮べた。
「お前は………」
 お前はどこまで知っているのだと言いかけて、斎藤は口を噤んだ。恐らくは、彼の全てを調べつくしているのだろう。そうでなければ、彼が内部粛清を一手に引き受けていたことなど知るはずがない。
 緊張で喉がカラカラになるのを自覚して、斎藤は吸いかけの煙草を灰皿に置くと、冷たくなった茶を飲んだ。誰かと向かい合ってこれほどまでに緊張するのは、久し振りのことだ。刀を抜かれているわけでもないのに、ただの女に此処まで精神的に追い詰められるなど、彼の人生ではありえなかったことだ。
「どうして観柳の首を?」
「私の知り合いが、“蜘蛛の巣”のせいで死んだの」
 知り合いとは、おそらくにとって誰よりも大切な人間だったのだろう。どこか痛むような苦しげな顔をした。
 が観柳の首を望む事情は分かったが、それでもそれを聞いてやるわけにはいかない。明治の世では、仇討ちはもはや美徳ではなく犯罪なのだ。
 とはいえ、斎藤にこんな話を持ってくるほど思い詰めているのかと思うと、多少なりとも憐憫の情を覚えてしまう。目を伏せて思い詰めたように睫毛を震わせているの姿は、斎藤の胸を打つに十分すぎる威力があった。
 殆ど吸わないうちに短くなってしまった煙草を消して、斎藤は労わるように言う。
「俺やお前が直接手を下さずとも、奴の犯罪が噂通りのものだったら、絞首台送りになるだろうさ。拷問くらいならしてやる」
「そんなのじゃ足りないわ」
 キッと睨みつけるように視線を上げて、は強い口調で言った。よほど観柳には強い憎しみを抱いているのだろう。
 “蜘蛛の巣”で死んだのは恋人だったのだろうかと、斎藤はふと思った。根拠は無いが、の様子を見ていると、そんな気がしてならない。
 この女泥棒にはどんな過去があったのだろうかと、急に気になってきた。他人の過去など気にしたことは無かったが、の過去に何があったのか、猛烈に知りたいと思った。勿論、そんなことを訊ける雰囲気ではないけれど。
 代わりに、斎藤は口許を皮肉っぽく歪めて言う。
「すんなり殺すよりも苦しいだろうさ。新選組仕込みの拷問だからな。いっそ殺してくれと思うようなのをやってやる」
「そうね……。そうしてもらえるとありがたいわ」
 漸く、は小さく口許を綻ばせた。続けて、
「お願いついでに、もう一つ良いかしら?」
「まだあるのか?」
 観柳の首以外にまだ要求があるとは。一つ聞いてやっただけでも斎藤にとっては大きな譲歩だというのに、その図々しさに思わず呆れた声を上げた。
 あからさまに嫌そうな顔をする斎藤に、は申し訳無さそうに苦笑して、
「ごめんなさい。本当は、こっちの方が一番のお願いなの」
「何だ?」
「もし明後日、私が裏帳簿を持って斎藤さんのところに来なかったら、あなたが観柳邸に来て。生きているにしても死んでいるにしても、私の身体を引き取りに来て欲しいの」
「……………何を………」
 の意外な頼みに、斎藤は大きく目を瞠ったまま硬い声を出した。
 “生きているにしても死んでいるにしても”ということは、逃げられないことを前提に考えているということなのか。どんな警備でも颯爽と抜け出し、斎藤の前からでも軽やかに逃げ出す彼女が、逃げ出せないかもしれないと危惧するなど、信じられない。しかも、死ぬことさえ覚悟しているとは。
 茫然としたまま固まっている斎藤に、は言葉を続ける。
「あの屋敷には、御頭がいるの。あの人に見付かったら逃げられないから………」
「御頭?」
「元江戸城御庭番衆御頭・四乃森蒼紫。私の昔の上司で、隠密の師匠よ」
「なるほど………」
 昔の隠密仲間で、しかも師匠ともなれば、の手の内は判りきっているだろう。そんな相手であれば、逃げられないかもしれないと覚悟するのも無理はない。
 隠密の精鋭ともいえる江戸城御庭番衆が、片や如何わしい青年実業家の下で働き、片や大泥棒とは、時代の流れを感じさせる。新選組だった自分が警官というのはまだ恵まれた転身だったのだと、斎藤は他人事のように思った。
 しかし、もしが観柳の裏帳簿を盗み出せたとしたら、その御頭も関係者として逮捕を免れないだろう。彼だって、観柳の後ろ暗い仕事に関わっているはずだ。自分の復讐のために、かつての同志までも警察に差し出すことになるということを、は気付いているのだろうか。
「お前、成功すればかつての仲間を売ることになるのは解ってるのか?」
「それでも―――――」
 斎藤の言葉に、は苦しげに眉根を寄せた。彼女自身、そのことにはまだ迷いがあるようだ。
 けれど、それを振り切るように、は真っ直ぐに斎藤を見た。
「それでも構わないわ。お願い」
 その瞳にはもう、迷いの欠片も見付からなかった。





 蕎麦を食べた後、二人は何事も無かったような顔をして右と左に別れた。
 別れた後も、斎藤はの言葉をずっと考え続けていた。
 
 ―――――生きているにしても死んでいるにしても、私の身体を引き取りに来て欲しいの
 
 多分は、死ぬ覚悟で裏帳簿を盗みに行くのだろう。命を懸けてまで、そしてかつての仲間を犠牲にしてまで仇討ちをしてやりたいと思う“知り合い”とは、誰なのだろう。
 二度しか会ってないが、はいつも他人を小馬鹿にした、ふざけた態度を取っていた。それがあんな真剣な目で、思い詰めたように斎藤に頼みごとをするなど、“知り合い”とは本当はどんな関係だったのだろう。肉親なのか。それとも恋人なのか。もしかして夫なのか。
「………馬鹿馬鹿しい」
 止まらない思考を振り払うように、斎藤は軽く頭を振った。が何を考えていようと、斎藤には関係無いではないか。彼はただ、が証拠物件を持ってくることだけを祈っていれば良い。
 もし持ってこなかったら―――――斎藤は再び頭を振った。あの“今鼠小僧”が仕事に失敗するはずが無いではないか。たとえ相手がかつての仲間で師匠であったとしても、きっと華麗に逃げ出すに決まっているのだ。
 けれど何故か胸の中のもやもやは取れなくて、斎藤はそれを吐き出すように大きく溜息をついた。





「おかえりなさい、警部補!」
 警視庁の執務室に戻ると、蜷川が元気な声で出迎えた。
「ああ………」
 いつものように素っ気無く答えると、斎藤は執務机に座って煙草に火を点ける。
 机の上には出て行った時と同じく、やりかけの書類が乱雑に置かれているが、それを整理する気にもなれない。ぼんやりと煙草を吐きながら、考えまいと思っていてものことを考えてしまう。
 いつもだったら即行で机の整理をするはずの斎藤が、煙草を咥えたままぼんやりとしている姿を見て、蜷川は不審そうに首を傾げた。仕事の鬼のようなこの上司が物思いに耽るなど、珍しいことだ。
「警部補………?」
 様子を窺うように、蜷川はそっと声を掛ける。が、斎藤の反応は無い。
 もしかして、あの美人に手酷く振られたのだろうか、と蜷川はありがちなことを想像した。けれどさっき見た時は、あの美人は斎藤に好意を持っているようだったし、それで振られるというのは辻褄が合わない。いくら男女の仲は当人同士にしか解らないとはいえ、ここまで辻褄が合わない話はないだろう。
 それとも逆に、仲が良すぎて仕事が身に入らないようなことをしてきたのだろうか。斎藤が女とそんなことをするのは蜷川には想像を絶するが、あらゆる可能性を考慮しようとすると、その可能性も外せない。
「………いやらしい」
 勝手に想像して、蜷川はぼそっと呟いた。
「あ?」
 低い声であったが、斎藤にもしっかり聞こえていたらしい。訝るように目を細めて、聞き返した。
 が、蜷川はぷいっとそっぽを向いて、
「休憩時間に何をしててもご自由ですけど!」
「は?」
 不快そうに吐き捨てる蜷川の真意が全く解らなくて、斎藤はますます怪訝な顔をする。まさか蜷川の脳内でとんでもない世界が繰り広げられているなど想像もしていないのだから当然だ。
 といい蜷川といい、最近の若い娘の頭の中は解らない、と斎藤はうんざりする思いで煙草の煙を吐くのだった。
<あとがき>
 お笑いから一変、此処からシリアス編です。流石にハードボイルドっぽいタイトルになってきてるんで、そろそろ路線変更したいなと。
 主人公さんに焦点を合わせたら、蜷川ちゃんの存在が薄くなってしまいました。いや、蜷川ちゃんは完全脇役なんですから、本来はこれくらいの存在感に抑えとかなきゃいけないわけなんですが。今までが目立ちすぎだったんですよ(苦笑)。
 次回は多分、蒼紫も登場してきます。斎藤ドリームに蒼紫がでてくるとは……と思われるかもしれませんが、ご安心ください。主人公さんのハートは斎藤だけのものです(笑)。蒼紫も蜷川ちゃん同様、完全脇役の予定です。
 これからずっと、ハードボイルド風のお題が続くので、これからは格好良い斎藤が書ければ良いなあと思っています。気長に見守ってやってください。
戻る