駆け引き
“今鼠小僧”ことに潰された目も漸く癒えて、斎藤は静かな日常を過ごしている。あれからも何度か“今鼠小僧”からの犯行予告があったが、その時はもう斎藤は一切捜査には関わらなかった。彼女と対峙したたった一人の人間であるのに、おめおめと逃げられて、どうやら捜査班から無能扱いされてしまったらしい。“今鼠小僧”の姿も捉えられない輩から無能扱いされるのは腹立たしいが、同時にもうあんな団体行動をしなくて済むのかと思えば、気楽なものだ。汚名返上の機会は永遠に失われてしまったが、あの胸糞悪い女の顔を見なくて済むのなら、それはそれで構わない。斎藤が捜査から外されて、部下の蜷川は不満のようだが(勿論、上司の能力が見くびられているのが不満なわけではない)、彼女が不満な顔をすればするほど、斎藤は一寸胸がすく思いがするくらいだ。
「暇ですねぇ。“今鼠小僧”の捜査本部は、この前の事件のことで大忙しだっていうのに。警部補にはもうお呼びはかからないんですか?」
今朝来た郵便物の仕分けをしながら、蜷川はつまらなそうに尋ねた。
斎藤が“今鼠小僧”の事件に関われば、部下の蜷川も必然的に捜査資料を目にすることが出来るわけで、それが彼女の楽しみだったらしい。警察関係者とはいえ、まだ若い娘。錦絵新聞に描かれている美男の“今鼠小僧”にうっとりする、その辺の流行り物好き女と同じなのだ。
「俺の仕事が暇だってことは、世の中平和だって証拠だ。それに俺の仕事は密偵で、コソ泥のケツを追っかけることじゃない」
書類書きに一段落着いて、斎藤は煙草に火を点ける。
「その“コソ泥のケツ”も追っかけられなかったのは、どなたでしたっけ?」
蜷川の皮肉に、斎藤は吸いかけていた煙にむせてしまった。目の痛みと共に心の傷も癒えてきていたところなのに、治りかけの傷口を強引に引き裂くような一言だ。まったくこの部下には、上司を労わるという知恵が無い。それとも、上司を傷付ける知恵が有り余っているのだろうか。
一頻り咳き込んだ後、この無礼な部下を怒鳴りつけてやろうと口を開きかけたが、既に蜷川はしれっとした顔で仕分け作業を再開させていて、何となく言葉を飲み込んでしまった。何事も無かったように仕事を再開させている姿を見ると、今更怒鳴りつけるのも大人気ない気になってきたのだ。怒鳴りつけるにはそれに相応しい間合いというのがあるのだが、蜷川はそれを取らせないのが実に巧い。きっと斎藤の知らないところで、そういう雰囲気に持ち込む修行をしているのだろう。
不機嫌な顔のまま、斎藤は気を取り直すように一服する。あのクソ生意気なと関わりあうことが無くなったついでに、この可愛げの無い部下との縁も切ってしまいたいくらいだ。今度の人事異動で希望を出してやろうかと本気で思う。
と、蜷川が仕分けしていた手を止めた。
「あれ? これ、藤田警部補宛てですね。和紙の封筒なんて、随分雅なこと」
若草色の封筒をまじまじと見て、蜷川は感心した声を上げる。封筒に書かれた宛名も、書き手の繊細な感覚を想像させる達筆だ。警視庁に送られてくる事務的な茶封筒の束の中で、その封筒は明らかに異彩を放っていた。
こんな封筒で送ってくるということは、恐らく私用の封書だろう。しかし、斎藤にはそんな雅な封筒を使う知り合いはいない。
「誰からだ?」
「差出人は書いてないですね。心当たり、あります?」
「無い。開けてみろ」
「嫌ですよ。剃刀が仕込んであったら大変じゃないですか。警部補が開けて下さい」
あっさりと言うと、蜷川は封筒を斎藤の机に置いた。
確かにこれは斎藤宛の手紙なのだから彼が開けるのが筋なのだが、蜷川の言い草がこれまた気に食わない。剃刀が仕込んである封書を開けて大変なことになるのは、斎藤も同じである。まあそう言うと、「女の子の柔らかい手と、警部補の硬い手は違います」と返されそうなので黙っているが。
誰だろうと訝りながらも、斎藤は短くなった煙草を揉み消すと、とりあえず封筒を開けてみる。幸い、剃刀は仕込まれていなかったが、代わりに青竹のような爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「香を焚き染めてありますね。警部補、実は平安貴族の知り合いがいるんですか?」
あえかな香りがする同じ色の便箋に、蜷川が無遠慮に鼻を近づける。
「そんなのいるか、阿呆」
とはいえ、名指しで送ってくるのだから、少なくとも相手は斎藤のことを知っているということだ。まさか平安貴族の姫君に見初められたということは無いだろうが、どちらにしても怪しい手紙である。
益々不審に思いながら便箋を開いた斎藤だったが、初めの一行を見た瞬間、思いっきり脱力してしまった。
「どうしたんですか?」
机に突っ伏している斎藤から便箋を取り上げて、蜷川も中身に目を通した。と、脱力した斎藤とは正反対に、彼女は喜色満面といった顔になる。
「凄い! これ、“今鼠小僧”の予告状じゃないですか!」
興奮した弾んだ声で、蜷川は嬉しそうに言った。
青竹の香を焚き染めた若草色の便箋には、繊細な筆跡で犯罪予告が書かれていたのだ。一週間後、とある貴族院議員宅にある絵画を盗み出すと宣言しており、おまけに当日には是非斎藤にも来て欲しいと書いてあったのだ。犯罪予告状兼招待状である。
がどういうつもりでこれを斎藤に送りつけたのか謎だが、茶化しているのだけは確実だろう。捕まえられるものなら捕まえてみろ、とあの美しい顔で高笑いしている姿が容易に想像できて、斎藤は忌々しげに新しい煙草に火を点けた。
そんな斎藤とは正反対に、蜷川は興奮で頬を紅潮させて言う。
「凄いじゃないですか! あの“今鼠小僧”から名指しですよ? ああ、入庁してから初めて警部補が輝いて見える。っていうか、警部補の人生で今が一番輝いてますよ!」
褒めながらも毒を吐くのを忘れないのが、蜷川らしい。“今鼠小僧”から名指しの予告状を貰ったことで斎藤が輝いて見えるなど、自分はの付属品かと問い詰めてやりたくなる。
「俺もそんな輝く目で見詰められたのは、君が入庁してから初めてのことだよ。初めて上司として扱ってもらえた気分だ」
「そうでしょうとも。私も警部補を尊敬したのは初めてのことです」
皮肉をさらりと流すだけでは飽き足らず、返す言葉でサクッと刺されてしまった。この部下は、仕事のことに関してはドン臭いが、こと上司を傷付けることに関しては天才的だ。“上司凹ませ術”なるものがあれば、入門したその日に免許皆伝の腕前である。
これだから若い女は嫌いなのだ。目の前の部下と、ふざけた手紙を送りつけたに対する腹立たしさを少しでも解消しようと、斎藤は頻りに煙草の煙を吸い続けた。
そして予告当日―――――
物々しい警備の中でも某貴族院議員宅の生活は通常通りに動いている。この家の雑事を一手に引き受けているメイドも、いつもと同じように屋敷と庭の掃除をし、警官隊のためにいつもの何倍も茶を出して、いつもと同じ日没時のゴミ出しを行っていた。
“今鼠小僧”が今夜やって来るとは聞いているが、彼女にはまだ現実に起こっていることだとは思えない。錦絵新聞の紙面を飾る義賊だということは知っているが、まだ若い彼女には物語の登場人物のようにしか感じられないのだろう。
「どんな人なのかなあ………」
四つ角のゴミ捨て場にゴミ袋を置きながら、メイドはうっとりとして呟いた。彼女も大多数の若い娘と同様、錦絵新聞の紙面を飾る“美青年の今鼠小僧”に夢中になっているのだ。
予告状を送りつけ、誰にも気付かれずに屋敷に侵入して煙のように消えるなど、本当にお芝居みたいだ。同じ盗賊でも押し込み強盗みたいに家人を傷付けたり殺したりしないし、いつぞやの事件では警官と対峙したにも拘らず、目潰しを喰らわせて颯爽と逃げたと聞いている。泥棒だけど、これまでの泥棒たちよりも遥かに洗練されているではないか。
目潰しを喰らわされるのは嫌だけど、一目その姿を見てみたいと彼女は思う。犯行のやり口が洗練されているのだから、きっとすらりと背が高くて、目元の涼しげな、最近流行の役者のような青年に違いないのだ。その姿を見ても絶対誰にも喋らないと誓うから、一目だけでも自分の前に姿を見せてくれないだろうか。
そんなことを考えながら屋敷に戻ろうと踵を返しかけた時、後ろから若い娘が声を掛けてきた。
「すみません。一寸良いですか?」
振り返ると、袴姿の女学生風の娘が立っていた。薄暗い中でも、綺麗な顔をしているのはよく判る。
「あのぅ……。あそこの溝にお財布を落としちゃって………。溝板を外すの、手伝っていただけませんか?」
娘は悲しそうな顔をして、消え入りそうな声で言う。
本当は無視して帰りたかったのだが、暗がりでも判る悲しそうな様子に、メイドも気の毒になってきた。女学生なら大した金額は持ち歩いていないだろうが、それだけになけなしの金だったのかもしれない。
メイドにも、女学生ではないが、同じ年頃の妹がいる。別々のところに奉公に出てなかなか会えないが、可愛がっている仲の良い妹だ。この娘はそんな妹を思い出させて、力になってやりたい気持ちにさせられた。
「いいですよ。何処ですか?」
「こっちです」
ほっとしたような声で、娘はメイドを細い路地に案内した。
その路地は街灯どころか民家の明かりも殆ど漏れてこないような暗くて寂しい道で、人通りもあまり無いようだ。若い娘が一人歩きするような道ではない。
「あなた、女の子がこんな暗い道を歩いちゃ危ないわ。もっと明るい道を通らないと―――――」
そう言いながらメイドが娘の方を向いた刹那、小さな霧吹きのようなもので鼻先に何かを吹きかけられた。
甘い匂いがすると思ったのも束の間、メイドの意識は急激に薄れていく。意識が切れる寸前に「ごめんなさいね」と大人の女の声が聞こえたようだったが、彼女にはもうそれも夢の中の出来事のように感じられた。
「お疲れ様です」
ゴミ捨てから帰ってきたメイドが、玄関の警備をしている中年の警官に声を掛けた。警官も応えるように軽く敬礼をする。
ぱたぱたと小走りに屋敷に入っていくメイドの後ろ姿を見送った後、少し背が伸びていなかったかと警官はふと思った。出て行くのを見送った時は少し見下ろしていたような気がするが、さっきは殆ど目線の高さは同じだった。
しかし、顔は同一人物のものであったし、背の高さが違って見えたのも目の錯覚だろうと思い直す。芝居じゃあるまいし、現実の世界で摩り替わりなどあるわけがないではないか。しかも遠く離れた舞台上ではなく、間近で見ているのだ。さっきより少し暗いとはいえ、見間違えるほど耄碌はしていないはずだ。
「本当に来るのかなあ………」
夕方からずっと立ちっぱなしで気分がダレてきたのか、警官は一つ小さな欠伸をした。
そろそろ“今鼠小僧”が予告した時間になる。玄関は勿論、全ての出入り口は警官隊に守られている。今回は警視庁に予告状が送られたということもあって、警備の数も通常の倍に増やしているのだ。これで中に入られて件の絵画も盗まれてしまったら、警察の威信はガタ落ちだ。
これまでに無い鉄壁の布陣を前にしては、猫の仔一匹どころか鼠一匹入ることはできないだろう。仮に入ることが出来たとしても、逃げ出すことは出来ないはずだ。今度こそ、“今鼠小僧”も大人しくお縄に付くしかあるまい。
「どんな顔をしてるのかな………」
錦絵新聞では美青年に描かれている“今鼠小僧”であるが、実際のところはどれほどのものなのだろう。今夜捕まるのなら、是非見てやりたいものだと、彼は思った。
絵画が置かれている部屋に詰めている警官たちに出すための茶を乗せたワゴンを押しながら、メイドはふと窓硝子に映る自分の顔を見た。窓の外が真っ暗になっているせいで、硝子には鏡のようにはっきりと顔が映っている。
十人並みの際立った特徴のない顔立ちであるが、人の良さが滲み出ている顔だ。実際、見ず知らずの娘にも親切にしてくれたのだから、本当に“良い人”だったのだろう。
「一寸悪いことしちゃったなあ………」
自分の顔をそっと撫でて、メイド―――――に変装したは呟いた。
女学生に変装してメイドに声を掛け、難無くこの屋敷に入ることが出来た。すり替わりの時に嗅がせたあの鼻薬は一時間は持続するはずだから、誰かがあの路地を通ってメイドを起こさなければ、仕事が終わるまで意識を失ってくれているはずだ。メイド服を取り上げたけれど、代わりに自分が着ていた袴を着せてやったから、風邪は引かないと思う。
けれど、これから会えるはずの相手のことを考えたら、メイドのことなどどうでもいい様な気がしてくる。初めて出会ったあの夜から、この日が来るのをどんなに待ちわびたことだろう。“あの人”に会いたい一心で、一寸危ないかなと思いながらも仕事の頻度を増やしたのに、あれから一度も現場に来てくれなくて、遂に警視庁に名指しで予告状を送ったのだ。お陰で警備はいつもよりもずっと厳しくなってしまったけれど、それで“あの人”に会えるのなら構わなかった。この警備を掻い潜って逃げる自信もあるし。
「藤田警部補、来てくれてるかなあ」
恋する乙女の表情で、はうっとりと呟く。気分はもう、男に会いたい一心で江戸の町に火を放った『八百屋お七』だ。磔になることを覚悟で放火をしたお七も、きっとと同じ気持ちだったに違いない。
初めて出会った時は、へらへらした冴えない男だと思っていたけれど、あれは世を忍ぶ仮の姿だったらしい。二度目に会った時は、鋭い目をした、まるで狼のような男だった。あれが本当の姿だったのだろう。背が高くて痩せぎすで、幕末の動乱の頃を思い出させるような目をした、の理想の男だ。おまけに最初からの正体を見破るほどの切れ者で、メイド部屋で対峙したあの瞬間に恋に落ちたのだと思う。日本刀を振り下ろされ、ブリキのゴミ箱で防御するという色気も何も無い状況だったが、恋に落ちるのに場所も状況も関係無い。とにかくあの時に、の心は斎藤に奪われてしまったのだ。
泥棒が警官に恋をするなんて非常識だということは判っているけれど、でも恋する気持ちは止められない。斎藤になら逮捕されても良いとさえ思っているくらいだ。否、まだ逮捕されるわけにはいかないが。
変装しているこの姿を気付いてくれるだろうかと、ドキドキしながら考える。気付かれては困るけれど、でも気付いて欲しい女心も確かにあるのだ。間近で見ても気付かれない完璧な変装を見破ってもらえるというのは、それだけ斎藤がのことを見てくれているということなのだから。
初めて男と逢い引きをする時に似た胸の高鳴りを感じながら、は絵画のある部屋の扉を開けた。
「失礼します」
ドキドキしながら扉を開けただったが、次の瞬間にはその気持ちも急激に萎んでしまった。部屋の中には10人近くの警官がいるのに、あれほど恋焦がれた男の姿は、そこには無かったのだ。
落胆しながらも、はそれを表情に出すことなく、部屋にいる全員に紅茶を配る。警官たちも、メイドの中身が摩り替わっていることに気付いていないようだ。まあ、メイドの顔などまともに見てはいないだろうから当然だろう。
全員に紅茶を配り終わった後、部屋の隅にいる大人しそうな若い警官に声を掛けてみた。
「今日の予告状を貰ったお巡りさんって、どなたですか?」
無邪気な野次馬を装うに、警官は一寸うんざりしたような顔をした。彼も、錦絵新聞や講談の影響で“今鼠小僧”を人気役者か何かのようにもてはやす風潮を面白くないと思っている一人なのだろう。警察関係者なのだから当然だ。
が、別に叱りつけるでもなく、警官は丁寧な口調で答えてくれた。
「ああ、あの人なら、屋敷の見回りをしてるんじゃないですか? あの人、すぐ団体行動を乱すから、何処でも煙たがられるんですよねぇ。まあ、他所の部署の人だから、別に良いけど」
「そうなんですかぁ………」
好奇心丸出しの目で警官をじっと見詰めて、は何度も頷いた。
やっぱり斎藤は来てくれたのだ。手紙を出した甲斐があったと、は嬉しくなる。何処にいるか判らないけれど、騒ぎを起こせばきっと駆けつけてくるはずだ。しかも単独行動をしているというなら、二人きりで会えるだろう。もしかして斎藤の方も二人きりで会おうと思って単独行動をしているのかもしれない、などとは勝手に脳内変換してしまい、目下の仕事のことなど忘れてドキドキしてしまう。
「どうしました? 顔、赤いですけど」
ぽーっと桜色に染まった顔でぼんやりしてしまうに、警官が不審そうに尋ねた。その声に、もはっとして我に返る。
そうだ。斎藤に会うのも大事な目的の一つだが、一番の目的は目の前の絵画を盗むことだ。幸い、小脇に軽々抱えられる大きさだから、持ち出すのは簡単だ。相手は、目の前の警官を除けば8人。まあ何とかなる人数だろう。
室内をさり気なく見回して、は再び警官を見た。
「すみません。手伝って欲しいことがあるんですけど、一寸来てもらって良いですか?」
「いや……持ち場を離れるわけには………」
「良いんじゃないか? 予告の時間まではまだ間があるし、これだけ人数もいるんだ。すぐ済むなら行ってこい」
困った顔をする警官に、先輩らしい別の警官が言った。“今鼠小僧”は変なところに律儀で、予告時間前に犯行を行うことは無いのだ。それに、この部屋には多すぎるほどの警備なのだから、一人くらい欠けても問題は無いと判断したのだろう。
そう言われて、若い警官は益々困った顔をしたが、先輩にそう言われては仕方が無い。渋々といった感じで、承諾した。
「ありがとうございます。本当にすぐ終わりますから」
心から感謝するように若い警官と先輩警官に頭を下げて、はそっとほくそ笑んだ。
それから10分後――――
メイドを手伝いに出ていた警官が一人で戻ってきた。メイドはそのまま違う仕事をしに行ったのだろう。
「何だ、思ったより時間がかかったな。もうすぐ予告時間だぞ」
先輩警官の言葉に、若い警官は無言で小さく頭を下げた。制帽を目深に被っているので表情は判らないが、あまり悪いとは思っていないようだ。先輩の命令で行きたくもない手伝いに行かされたのだから、少しくらい遅くなっても当然だと思っているのだろう。
近頃の若い者は、と年寄り臭いことを思いながら警官は憮然として後輩警官を見る。と、彼が何だかさっきより一回り小さくなっているような気がした。
「お前―――――」
咎めるように声を掛ける先輩警官を無視して、後輩警官は真っ直ぐに絵画に向かう。そして、流れるような優雅な動きで絵画の前で踵を返した。
何を考えているのかと唖然としている一同に、後輩警官は口許だけでニヤリと不適に笑う。
「さあ、時間です。始めましょうか」
芝居がかった良く響く声で宣言すると、若い警官―――――はポケットから真っ黒な色眼鏡を取り出し、閃光弾をを炸裂させた。
「何だ?!」
窓の外が急に明るくなって、廊下を歩いていた斎藤は驚いて足を止めた。
発光源は、恐らく絵画が置いてある2階の角部屋だろう。というか、それ以外考えられない。
閃光弾を使うとは、これまでのやり方とは全く違う派手なやり口だ。これまでは何処からともなく現われて、煙のように消えるという華麗だが地味なやり口だったくせに、これでは自分に注目しろと言っているも同然ではないか。
予告状の件といい、今の手口といい、斎藤をおちょくっているとしか思えない。これ見よがしに派手に動いて、「捕まえられるものなら捕まえてみろ」と嘲笑っているのだろう。蜷川は天然で嫌がらせをしてくれるが、は悪意たっぷりの嫌がらせだ。どちらにしても腹が立つ。
そんなが逃げるとしたら、何処から逃げるだろう。斎藤をおびき寄せているとしか思えない派手な動きをするということは、コソ泥のように窓から脱出するということは無いだろう。華麗に逃走して斎藤の精神的打撃を狙っているとしたら―――――
「………玄関か」
毎回予告状を出ことや、今回のように斎藤に見せつけるような犯行手口から考えて、はとにかく自分に注目を集めたい性格だと推測できる。わざと自分を危険な状況に追い込んで、そこからするりと抜け出すのを見せ付けて楽しんでいるのなら、今回は斎藤に見せつけるように正面玄関から堂々と出て行くだろう。
斎藤は踵を返すと、玄関に繋がる大階段に向かって走り出した。
奪った絵画を小脇に抱えて、は大階段を駆け下りていた。あの閃光弾には催涙効果のある薬品も混ぜていたから、あの部屋の警官たちは強烈な光と猛烈な目の痛みに暫くは動けないはずだ。おまけにまだ警官の扮装をしているから、絵画を抱えて走っていても誰も疑わない。何か問われても、「“今鼠小僧”が現われたから、絵を避難させるように言われた」と言えば全員納得するのだ。
仕事はいつも通り好調に進んでいるが、問題はもう一つの目的。この屋敷の何処かにいるはずの斎藤がまだ駆けつけてきていないのだ。まさかとは思うが、全く頓珍漢の所に駆けつけているのだろうか。斎藤に会うために、込み入った逃走経路は使わずに一番目立つ通路を使っているのに。
仕事はあらかた大成功だけど、はむかむかしてきた。こんなに会いたいと思っているのに、どうして斎藤は応えてくれないのだろう。
と、一階階段下に、見覚えのある長身の男の姿を認めた。男は待ち構えているかのように、下りてくるの姿をじっと見上げている。
藤田さん、と喜びの声を上げそうになるのを必死に堪えて、は無表情を装って階段を下りる。幸いにも周りには他の人間はいなくて、本当に二人きりだ。二人きりになれるところを選んで待っていてくれていたのだと勝手に脳内変換して、は恋を初めて知った乙女のように胸を高鳴らせた。
けれど、こちらから正体を明かしては意味が無い。こういうのは、斎藤の方から気付いてくれなければ。完璧な変装をしている自分を、恋しい男に気付いて欲しい女心である。
は切羽詰った硬い表情を作って、斎藤に向かって敬礼する。
「上に“52号”が現われました。絵を安全なところに運べと命じられましたので、とりあえず警視庁に持って行きます」
「そうか。ご苦労」
あっさりと納得したように、斎藤も敬礼を返した。
いくら変装が完璧とはいえ、こんなにあっけなく騙されるとは。切れ者だと思っていただけに、の落胆はひとしおだ。落胆は次第に怒りに変わってきて、こんな間抜けな男に心を奪われていたということにも腹が立ってきた。
「失礼致します」
内心の怒りを押し隠して言うと、は斎藤の脇をすり抜けるように玄関へ走り出した。
が、すれ違い様に、空いている左腕をがっちりと掴まれる。
「?!」
「―――――なんて、逃げられると思ったか?」
ニヤリと人の悪い笑みを浮べて、斎藤はを自分の方に引き寄せ、被っていた制帽を乱暴に剥ぎ取った。帽子の中に収められていたの長い髪が、ふわりと宙を舞う。さっきまでのメイドの化粧を落とした、素顔のの顔が現われた。
驚愕の表情で斎藤を見ただったが、次の瞬間には嬉しそうに満面の笑みを浮べた。そして、うっとりとしたように目を細めて、
「素敵………。やっぱり私のことをちゃんと見てくれていたのね。此処で待っていてくれたのも、二人きりで会うため?」
好きな女の腕を掴むというよりは、明らかに“捕縛”といった感じの掴み方なのだが、はお構い無しだ。斎藤に腕を掴まれて接近しているという事実だけで、舞い上がっているらしい。薄暗い場所で二人きりという状況も、舞い上がらせている一因のようだ。どうやらは、一度舞い上がると何処までも舞い上がってしまう性質らしい。
が、斎藤はの様子に気付いているのかいないのか、にべも無く、
「何訳の解らんこと言ってるんだ。頭に何か湧いているのか?」
「だって、手紙を読んでくれたから、此処で待っていてくれたんでしょう? 私に会うために来てくれたんじゃないの?」
斎藤の冷たい言葉が理解できないように、はきょとんとした顔をする。斎藤宛てに予告状を出して、わざわざ名指しで「是非いらしてください」と書いていたのだ。封筒だって便箋だって、いつもなら素っ気無い茶封筒なのに、今回は何日も前からどんなものを使うか吟味して、斎藤に似合いそうな香を焚き染めて送ったのだから、特別な予告状と思って当然だ。恋文だと思われてもおかしくない、それどころかそう思ってほしいと思って送りつけたのに、どうしてそんな素っ気無いことを言うのだろう。
が、落ち込むということを知らないの思考は、照れ隠しなのだろうと、これまた前向きな回答を叩き出した。斎藤のような男が、女から文を貰って浮かれるなど、あって欲しくない。手紙の意味は解っていて、それでも照れ隠しに怒ったような態度を取るというのも、可愛いではないか。それに照れ隠しをするということは、脈があるという証拠だ。
そう思ったら、そんな斎藤の態度も嬉しくなって、はふふっと笑う。
「藤田さん、私の気持ちを解っていてそんなことを言うなんて、そんなに女の口から言わせたいの? それなら今度、場所と時間を変えて、ゆっくり聞かせてあ・げ・るっ」
「後ででなくても、これから警視庁で聞かせてもらおうか」
勝手に盛り上がって頭の中が花畑になっているの様子にうんざりしながら、斎藤は腰に下げていた手錠を取り出して、彼女の手首と自分の手首に嵌めた。
「何、これ?」
夢から醒めたような顔をして、は冷たい手錠を見る。
「手錠だ。お前、自分の立場を忘れたわけじゃないだろう」
「えー? こんな無粋なもの使わなくても、私はもう藤田さんの虜なのに」
「なっ………?!」
の爆弾発言に、流石の斎藤も一瞬にして顔を真っ赤にしてしまった。小娘の戯言だと思っていても、そんなことを堂々と言われると対処に困る。しかも相手は若い美人である。それだけでも動揺してしまうのに、稀代の大泥棒なのだ。何処まで本気で言っているのか斎藤には解らないが、それでも警官が泥棒からそんなことを言われるなどありえない。
暗がりでもわかるくらい真っ赤な顔をして、言葉も出せずに口をパクパクさせている斎藤を見て、は可笑しそうにくすくす笑った。一見酷薄そうな切れ者の男が、ここまで派手に動揺する姿というのは可愛らしくて微笑ましい。
「藤田さん―――――」
笑いをおさめ、は艶っぽい声で囁きながら斎藤に顔を近づける。軽く窄めるように唇が動いたのを見て、斎藤は前回の目潰しを思い出したのか、反射的にぎゅっと目を瞑った。が―――――
ちゅっ
柔らかなものが唇に触れて、斎藤はぎょっとして目を見開く。一瞬何が起こったのか理解できなかったが、に接吻されたのだと認識すると、あまりの出来事に今度は気が遠くなってしまった。
警官なのに、泥棒から接吻されるとは。というか、若い娘が自分から接吻してくるというのも、斎藤には信じ難い。最近の娘は身持ちが固いと聞いているのに、あれは嘘だったのかと、やり場の無い疑問が頭の中を駆け巡った。斎藤に理解不能なことを言ったり、想像の斜め上を行くような行動をしたり、これだから若い娘は苦手なのだと、殆ど八つ当たりのような思いで頭がどうにかなってしまいそうだ。
気が動転して目を白黒してしまっている斎藤を微笑ましげに見ながら、はバキバキと派手に関節を鳴らして手錠から手首を抜き取る。以前川路が言っていたように隠密出身なのか、縄抜け(手錠だが)もお手のものらしい。
「あっ………」
「じゃ、藤田さん。またお会いしましょう」
我に返った斎藤に優雅に微笑みながら、は真っ黒な色眼鏡を掛けると、閃光弾を思いっきり床に叩きつけた。
「待てっ…この――――――」
の手を掴もうとしたが、強烈な光に目が潰れて、何も見えなくなる。斎藤は闇雲に手を振り回したが、に再び触れることは無く、軽やかな足音を聞きながら空しく宙を掻き続けるのだった。
その後、警備をしていた警官の話によると、警官に扮したは「まだ“今鼠小僧”が屋敷内にいるので、絵画は警視庁で預かることになった」と言って、ご丁寧に屋敷の馬車まで借りて逃走したのだそうだ。馬車は翌朝、町外れに乗り捨てられていて、御者席のところに「持ち主のところに返してあげてください」という手紙と地図が置かれていたのだとか。何処までも人を馬鹿にしたやり口である。
これまでに無い派手な手口と、おめおめと目の前で品物を盗まれてしまったことで、今朝の川路の怒りもこれまでに無いほどのものだった。後退してしまった額には破裂しそうなほどに血管が浮かび上がらせ、庁内に響き渡るような怒鳴り声を出している姿は、そのうち脳の血管が切れて倒れるのではないかと思うほどだ。おまけに斎藤は、二度も“今鼠小僧”に目の前で逃げられた張本人として吊るし上げられてしまうし、最悪の朝である。
「今朝の大警視、凄かったですねぇ。怒鳴り声、此処まで聞こえましたよ」
茶を淹れながら、蜷川が呑気な口調で言った。
「あー、そうだな………」
まだチカチカする目を揉みながら、斎藤は不快げに応える。
絵画を警備していた警官たちは催涙効果のある閃光弾でやられたせいで、まだ満足に目を開けられない者もいるそうだ。斎藤には催涙効果の無い閃光弾を使ったようだが、それでもまだ目の調子がおかしい。一度ならず二度までもに目を潰されてしまうとは、我ながら情けない。
「で、今回は“今鼠小僧”の顔は見たんですか?」
斎藤の机に茶を置いて、蜷川は興味津々の目で尋ねる。彼女にとっては、上司が吊るし上げを喰らったことよりも、彼の目の調子よりも、“今鼠小僧”の素顔の方が大事なことらしい。
きらきらと目を輝かせている蜷川の顔を見ていると、“今鼠小僧”の正体をばらしてがっかりさせてやろうかと思うが、何故かそれが出来ない。勿論、蜷川の期待を裏切るのは可哀想だという気持ちは微塵も無く、何となく自分だけの秘密にしたい気分なのだ。多分、女に良いようにあしらわれているというのを認めたくないのだろう。
「見てない。大体、奴がどんな顔をしていようと、お前には関係無いだろう」
湯呑みを自分の方に引き寄せて、斎藤は吐き捨てるように応える。
それにしても―――――と、斎藤は目を揉んでいた指を止めて、そのまま掌で口を覆った。
それにしても、昨日のあの接吻は何のつもりだったのか。逃げるために斎藤を動揺させようと思ってしたのか、それとも本来の意味でしたのか。そういえば昨日はずっと妙なことを言っていたし、まさかは本当に斎藤に好意を持っているのだろうか。そんなことはありえないと思うが(自分でも若い娘に好かれる部類の男ではないことは解っている)、そうでも思わないとの行動は理解を超えている。
とはいえ、泥棒が警官に恋をするなど、芝居や流行小説でしかありえない話だろう。若い娘にからかわれているというのが、一番妥当な線かもしれない。年上の男をおちょくって楽しむというのは、目の前の部下だってやってよくやっているではないか。
まったく、最近の若い女が考えることは皆目解らない。これが歳を取ったということなのだろうかと思いながら、斎藤は茶を啜った。
“駆け引き”……のはずが、一方的に主人公さんから主導権を握られてますね。しかも主人公さんは恋の駆け引きをしているつもりなのに、全く気付いていない斎藤………。おっさん、鈍すぎるよ(笑)。
しかし主人公さん、超ポジティブな人ですね。あんな斎藤相手に、「藤田さんも二人っきりで会いたがってる」とか「素っ気無い態度は照れ隠しだ」とか、羨ましい思考回路ですよ。斎藤にとっては、蜷川さんとは方向性の違う“困ったちゃん”でしょうが。
何でも盗み出せる主人公さん、果たして斎藤のハートは盗み出すことは出来るのでしょうか。せいぜい頑張れや、と他人事のように思うワタクシ(←おいっ!)。いやいや、盗み出させてあげたいとは思ってますよ?
今後のお題は一寸ハードボイルド調ですが、果たしてこの主人公さんキャラでハードボイルドできるのか? かなり心配です(汗)