おまえが敵でなかったら
“今鼠小僧”が世間から姿を消して、二ヶ月が過ぎた。花形を失った錦絵新聞は売り上げが伸び悩んでいると聞いているが、斎藤たち警察関係者にとっては非常に喜ばしいことだ。結局“今鼠小僧”の事件の数々は迷宮入りしてしまうとはいえ、これ以上犯罪を重ねられて警察の権威を失墜させられるよりは、いくらかマシである。世間では“現代の義賊”の活躍が無くなって残念がる声がちらほら聞こえてくるし、中には政財界の裏側を知りすぎたために“今鼠小僧”は暗殺されたのだと実しやかな噂まで耳にする。こんな話まで出てくるとは、錦絵新聞で煽られていたことを差し引いても、“今鼠小僧”は世間から愛されていた義賊だったということを示しているだろう。
さて、その“今鼠小僧”の現在であるが、当然暗殺されたということは無く、今も斎藤の目の前で人形を使って幼女の遊び相手をしている。
「おい、お前、どうやら殺されたことになってるぞ」
鮮やかに彩られた錦絵新聞を見ながら、斎藤はりせと遊んでいるに言う。
最近、斎藤は休みの度にの家に顔を出している。別に何か世話をするというわけではないのだが、何となく気になっているのだ。
は人形を動かす手を止めると、斎藤が見ている錦絵新聞を覗き込む。それには『黒ずくめの暗殺者に短刀で胸を突かれて絶命する今鼠小僧の図』が劇的に描かれていた。
「あら、本当。それにしても、“今鼠小僧”ってどうしてこう役者みたいな美男に描かれてるのかしら。たまには美人に描いて欲しかったわ」
生々しい筆致の暗殺の図を見ても、は他人事のようだ。性別は違うし、実際は彼女は殺されていないのだから当然だが。
それに加えて、もう“今鼠小僧”は既ににとって、過去のものになってしまっているのだろう。観柳邸での仕事を最後に、いつも使っていた忍装束は捨ててしまったと言っていた。
「いつだったか、女の絵もあったぞ。評判が良くなったらしくて、一度で消えたがな」
初めて“今鼠小僧”の事件に携わった時に渡された資料の中に、美人画のような“今鼠小僧”の錦絵新聞があったのを思い出した。あの頃は下らないと思って読み捨てていたが、一番下らないと思っていたあの一枚が最も実像に近かったのだ。
思えば、資料として錦絵新聞の束を渡されたのが、全ての始まりだった。世間を騒がす義賊などと言われてイイ気になっているコソ泥など、さっさと監獄送りにしてやるとあの時は思ったものだ。結局、初戦は目潰しを食らわされて完敗してしまったが。二回目はもっと酷くて、唇を奪われた上に、再び目を潰された。二回連続で負けたのは、新選組時代から数えても彼女ただ一人だけだ。
新選組時代は三番隊組長として京の町でその名を轟かせ、明治に入ってからも凄腕の密偵として大警視からも一目置かれているというのに、小娘一人捕らえることが出来なかったとは。そしてその小娘は、勝ちっぱなしのまま勝負から身を引いたのだ。あれだけの腕を持っていればまだ稼げるというのに、見事な引き際だった。
そして今、その若い娘は幼い子供と人形遊びに興じている。楽しげに声を上げて笑うりせを見ているの横顔は、どこから見ても優しい母親のものだ。彼女が実は“今鼠小僧”だったと、誰が想像できるだろう。
結局勝ち逃げされてしまったけれど、不思議と斎藤は悔しくはない。それどころか、こうやって楽しそうに母子をやっているを見ていると、逮捕できなくて良かったのではないかとさえ思うくらいなのだ。大泥棒とは言われたけれど、汚職政治家やいい噂を聞かない実業家からしか金品を盗まなかったのだし、世間からも“義賊”ともてはやされていたのだから、心情的には罪は軽いのではないかと思えてくる。勿論、警官という立場上、そんなことは言えないけれど。
もしも警官と泥棒ではなく、ただの男と女として出会っていたら、自分との関係は今と少し違っていたのだろうかと、斎藤は時々思うことがある。会う度にまっすぐに好意をぶつけられて絆されてしまったのかもしれないが、彼女に対する自分の気持ちが急速に変わりつつあることを感じている。
認めたくはないけれど、斎藤自身もまた、をただの知り合いとして見ることが出来なくなってきているのだ。意味も無く休みのたびにこの家を訪ねているのが、それを顕著に示している。そのことを認めてしまうのは、今でも癪ではあるけれど。
「どうしたの?」
無意識のうちに、の横顔をじっと見ていたのだろう。怪訝な顔をして、彼女が斎藤を見た。
「………いや、何でもない」
自分の考えを読まれそうで、斎藤は慌てて顔を逸らした。そして不自然な間を誤魔化すように話題を変えた。
「そういえばお前、これからの身の振り方は考えてるのか? いくら泥棒時代の蓄えがあっても、千津さんの収入だけじゃやっていけんだろう?」
余計な世話かと思ったが、は泥棒から足を洗ってからこっち、全く収入が無いのだ。これまでの時間を取り戻すように毎日りせと遊んでいて、それはそれで結構なことなのだが、そろそろ働かないと経済的にも苦しくなるだろう。
が、は斎藤の心配をよそに呑気な様子で、
「大丈夫よ。次の仕事のあたりはつけてるわ。あの仕事のお陰で色々と伝
「そうか」
あまりにも順調すぎるの言葉に、斎藤は少し拍子抜けしてしまった。少しは頼られることがあるかもしれないと、此処に来る時はいつもどこか身構えていたのだが、どうやら杞憂に過ぎなかったらしい。何にも考えていないようで、もなりに先々のことをきちんと見据えていたのだ。その辺はやはり、若くても“母親”である。
しかしこれから先、りせにはこれから金がかかるだろうし、千津だっていつかは所帯を持って離れていくだろうし、女一人で子供を育てていける仕事などそうそうあるのだろうか。贅沢をしなければりせが大人になるまで何とかできるだけの蓄えはあるとは言っていたけれど、この先何があるか分からないのだ。女の身で、しかも学の無い人間がそれなりの収入を得ようとすれば、仕事は自ずと限られてくる。
「その仕事は、きちんとした仕事なのか? その……りせが大きくなってもきちんと説明できる仕事なのか?」
斎藤にしては珍しく歯切れの悪い口調に、はきょとんとした顔をした。が、彼が言わんとしていることを察すると、弾けたような笑い声を上げる。
「やだぁ、斎藤さんったら。誰にでも胸張って言える、きちんとしたお仕事よ。まあ、斎藤さんが知ったら、腰を抜かすかもしれないけどね」
そう言うと、は人形に飽きて悪戯をし始めたりせを抱き寄せて、意味ありげににんまりと笑った。
数日後、いつものように登庁して廊下を歩いていると、向こうから蜷川がもの凄い勢いで走ってきた。
「警部補っ! ああ、良かった! 大変なことなんですっっ!! どうしましょう?!」
「何だ、執務室に特大の蜘蛛でも出たか?」
朝っぱらから血相を変えて訴える蜷川に、斎藤は些かうんざりしたように眉間に皺を寄せた。始業くらい爽やかに迎えさせてもらいたいのに、こんなキンキン声を聞かされたら、いきなり疲れも倍増だ。
大体、蜷川は斎藤を凹ませることには余念が無いくせに、掌大の蜘蛛が出てきた時や、油虫が出てきた時だけはこうやって頼ってくるのだ。自分は密偵であって、害虫駆除の業者ではないと言いたい。
「そんなんじゃないんですっ! そんなちんたら歩いてないで、早く来て下さい!!」
こんな時でも余計な一言を忘れないのが蜷川である。それが上司にものを頼む立場の人間の言葉かと説教してやりたいが、言ったところで「そんなことは後で聞いてあげますから、早く!」とさらっと流されるだろう。
諦めの境地で溜息をつく斎藤の腕を掴むと、蜷川はバタバタと走り出した。裾が捲れるのもお構い無しに走る蜷川の足下を見ながら、斎藤はもう一つ溜息をつく。最近の女学校では、女らしい立ち居振る舞いというのは教えないのだろうか。
「一体何なんだ? 蜘蛛じゃないなら、油虫か? 鼠か?」
「そんなんじゃないです! もっと凄いものですよっ」
斎藤の方を振り向きもせずに息を切らしながら応えると、蜷川は執務室の扉の前で足を止めた。そして呼吸を整えるように何度も深呼吸をすると、落ち着いたところで漸く彼の方を振り向いた。
「良いですか? 何を見ても驚かないで下さいね?」
「あー、分かった分かった。分かったからさっさと開けろ」
一人で勝手に盛り上がっている蜷川にうんざりしながら、斎藤は先を促す。朝の5分は昼の一時間に匹敵するほどに貴重なのだ。蜷川の相手なんかに消費して良いものではない。
「本当に驚かないで下さいよ」
醒め切っている斎藤の様子など目に入っていないように、蜷川は一人で興奮しながらゆっくりと扉を開けた。
扉を開けた先にいたのは――――――
「……………っっ!?」
そこにいたのは、巨大蜘蛛でも油虫でも鼠でもなかったが、それを見た瞬間、斎藤は心臓が止まるかと思った。どう考えてもこんな所にいるはずのないものが、そこにいたのだ。
巨大蜘蛛や油虫や鼠の方が、まだマシだった。いや、目の前にいるのはある意味、“鼠”ではあるが。
「おはようございます、藤田警部補!」
朝の爽やかな空気に相応しく元気一杯に挨拶をしたのは元“今鼠小僧”ことだったのだ。
は実に当たり前のような顔をして箒を手に執務室の掃き掃除をしていて、ツッコミを入れようとする斎藤の方がおかしいのではないかと錯覚してしまうほどだ。それほどに、の姿は警視庁の執務室に溶け込んでいる。
そういえばの家に言った時、“誰にでも胸張って言える、きちんとした仕事”だと言っていた。その時は普通の会社なり店なりに勤めるのだと思っていたのだが、まさか警視庁に勤めるつもりだったとは。元泥棒のくせに想像の右斜め上を突っ走る、とんでもない転職だ。前の仕事の伝があると言っていたが、よくもまあ口ぞえをした人間も警視庁に勤めさせるのを許したものである。
「おっ……おま…此処で何をっ?!」
あまりの出来事に、流石の斎藤も噛みまくりである。
動揺しまくりの斎藤とは対照的に、はにっこりと微笑んで、
「こちらで密偵のお仕事をさせて戴くことになったんですよ。これから警部補とも一緒にお仕事することになるかと思いますんで、よろしくお願いしますね」
「一緒にって………」
ついこの間まで警官と泥棒として敵対していたのに、今日からは上司と部下になるとは。二人が警官と泥棒でなかったら、と想像したことは何度もあるが、まさかこんな突拍子も無い形で実現するとは思わなかった。
“今鼠小僧”だった頃もたった一人で警官隊を向こうに回して活躍していたくらいだから、密偵としての腕も期待できるだろう。以前から、使えそうな密偵が入ったらこちらに回して欲しいと川路に言っていたことだし、それを受けて人事も斎藤の下にをあてがったのだと思う。
有能な密偵が部下に付いてくれるのは非常にありがたいが、しかし相手はである。蜷川一人にも手を焼いているというのに、彼女まで相手をしなければならないとなったら、斎藤は心労で倒れてしまうかもしれない。
今から頭がくらくらしてくる斎藤の横で、蜷川が好奇心一杯にに話しかけた。
「さんって、この前来てましたよね? あの時からもう、警部補の下で働くのは決まってたんですか?」
「いいえ。あの時はまだ、そこまでは考えてなかったんですけど。でも、どうせ働くなら藤田さんの下で働きたいなあって。そうしたら、藤田さんといつも一緒にいられるでしょ?」
「………一緒にいたいほど良いですかねぇ? 警視庁には、もっと若くて男前で出世しそうな人もいるのに」
の言葉に、蜷川は納得できないような顔をして斎藤をちらりと見る。言ってることも失礼なら、ちら見するその目つきも失礼だ。もう、蜷川の9割は“失礼”で出来ていると言っても過言ではない。
確かに世間的に見れば、斎藤はあまり若くはないし、役者のような男前でもないし、薩摩出身でもないから出世もたかが知れている。対するは十分に若い上に、美人画の題材になっても良さそうな女だ。そんな組み合わせで、の方が好意を持っているとなったら、蜷川でなくても不審に思うのは当然かもしれない。
しかし、それにしたって、ものには言いようというものがあるだろう。不審に思う権利まで取り上げようとは思わないが、せめてもう少し遠回しに表現するとか、上司に対する気遣いを見せてもらいたいと斎藤は思う。
蜷川の言葉に、は「分かってないわねぇ」と言いたげに、ふふっと笑う。そして、自分だけの取っておきの秘密を披露するような口調で、
「あら、お仕事をしている時の藤田さんって、とっても素敵よ。それに優しくて頼りになるし」
「へ〜ぇ………。此処では煙草吸ってるか、書類に印鑑押してるくらいですけどねぇ。頼りになるところなんて、見たことも無いですよ」
「蜘蛛や油虫が出てきた時には真っ先に泣き付いて来てる奴が何言ってるんだ」
度重なる蜷川の失礼発言に、大人気ないと思いながらも斎藤はささやかな反撃に出る。が、蜷川は全く堪えていないようにしれっとして、
「そこですら頼られなくなったら、男としてお終いですよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ」
どうしてこの部下は、こうも口が減らないのか。即座に減らず口が出てくるなど、ある意味才能かもしれない。一文にもならない才能であるが。
二人の会話を聞いて、は可笑しそうに声を立てて笑った。そして、それまで少しかしこまっていた表情が、急にくだけた様子になって、
「なぁんだ。女の子の部下さんがいるから一寸心配だったけど、この分なら大丈夫ね。正直、蜷川さんが藤田さんを狙ってたらどうしようかと思ってたの。ほら、やっぱり三角関係ってまずいでしょ?」
「………や、絶対狙わないし」
浮かれるに圧倒されたのか、蜷川の反応は斎藤の時に較べると少し鈍い。こういう種類の人間には接したことが無いのか、対処に戸惑っているようだ。
いつもは向かうところ敵無しの蜷川が圧され気味なのは、斎藤も見ていて痛快だ。女の相手は女が一番良いということか。贅沢を言えば、もう少し彼に対する好意の表現を抑えてもらいたいところなのだが。
戸惑っている蜷川という世にも珍しいものを横目で観察していると、反対側の腕にがぴょんと飛びついてきた。人目を憚らぬその行動に斎藤も、蜷川でさえぎょっとしたが、そんな二人の様子など目に入らないようには屈託無くにっこりと微笑む。
「これからは3人で仲良くお仕事しましょうね。私、蜷川さんとはいいお友達になれそうな気がするの。それに藤田さんと一日中一緒にいられるなんて、夢みたい」
ふふっと笑いながら、は猫のように斎藤に身をすり寄せる。動物が自分の匂いをつけて縄張りを宣言しているような行動に、二人とも言葉も出ない。
傍から見れば、分不相応な美人に迫られている幸せな中年男の図であろうが、斎藤の胸中は複雑だ。もう敵対関係ではなくなったのだから、とどうなろうと誰彼憚ることは無いのだが、ここまで駆け引き無しに真っ直ぐに迫られると、どうして良いのか分からない。
これも蜷川の減らず口と同じで、すぐに慣れることが出来るだろうか。嬉しそうに微笑んでいるの顔を見ていると、思いのほか簡単に慣れることができるような気はしてきた。蜷川のように凹まされるわけではないのだから、きっと大丈夫だ。
天然減らず口の蜷川と、好き好き攻撃全開のに挟まれて、暫くは大変な日々が続きそうだと溜息をつきつつ、心のどこかではそういうのも悪くはないかと思ってしまう斎藤なのだった。
これにて大泥棒シリーズは完結です。なんていうか、なんていうかびっくりネタを幾つか仕込んだ割には、ラストはあっけなかったですね。尻すぼみ気味というか。
この後の二人を書く予定はありませんが、まあこの調子で斎藤が寄り切られてしまうのではないかと。今後もひたすら、斎藤が振り回されていくことでしょう。え? 彼がりせちゃんのお父さんになるかどうかですか? それは皆さまのご想像にお任せいたします(笑)。
2005年の始まりとともに始まったシリーズですが、何とか今年中に終わって良かったです。最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。