油断

 錦絵新聞というものが巷に出回って久しい。通常の新聞と違い、文字通り錦絵で事件を語る新聞だ。当代きっての人気絵師が描く絵と、普通の新聞が扱わない噂話や醜聞が大衆に受けて、ここ数年着実に売り上げを伸ばしている。
 その錦絵新聞を最近賑わしているのが、“今鼠小僧”だ。警察では事件番号から取って“52号”という味も素っ気もない呼称で呼ばれているし、一般新聞もそう表記しているのだが、錦絵新聞が名付けたこの名が世間では通称になってしまっている。知的階級から三流紙と蔑まれがちな錦絵新聞であるが、世間に対して大きな影響力を持っていることを示す現象だ。
 さて、この“今鼠小僧”、その名が示す通りの大泥棒である。黒い噂のある政治家や実業家のところに盗みに入っては金品を奪い、時には外国人商人によって国外に流出する寸前の美術工芸品や日本刀を盗み出すということまでやってのけて、汚職政治家や日本で我がもの顔に振舞う西洋人に対して不満を持っている庶民の溜飲を下げてくれる一種の『義賊』だ。ごく稀に犯罪者が一般大衆の共感を得て人気者のようにもてはやされることがあるが、“今鼠小僧”も本家鼠小僧に勝るとも劣らない人気者らしい。
 そこで面白くないのが、取り締まる側の警察だ。“今鼠小僧”の人気が上がれば上がるほど、錦絵新聞では警官は間抜けな道化扱いをされてしまう。今日発売の錦絵新聞紙上でも、実業家の屋敷から鎌倉時代に作られた仏像が盗み出された一昨日の事件が載せられていた。仏像を小脇に抱えて颯爽と窓から逃げる美男の“今鼠小僧”とそれを慌てふためきながら追う間抜けな警官隊の姿が、人気絵師の鮮やかな筆致で描かれている。
「何なんだ、これはっ?!」
 錦絵新聞を執務机に叩きつけて警視総監の川路が怒鳴った。“怒髪天を突く”という表現があるが、川路の後退して雛鳥状態になっている髪の毛も逆立ちそうな勢いである。顔も真っ赤になって茹蛸みたいだ。
 始業時間早々の川路の大爆発は、錦絵新聞に“今鼠小僧”の記事が載った日の恒例行事だ。そして、呼び出された所轄の警察署長と警視庁の関係者が恐縮するように平身低頭する姿も、お馴染みの光景である。が、そのいつもと同じ光景の中に、何故かこの件に一切関わったことの無い藤田警部補こと斎藤一の姿もあった。
 出勤して早々に執務室に呼び出された上に、いきなり川路に雷を落とされて、斎藤はあからさまに不機嫌な表情を見せる。斎藤は一度も“今鼠小僧”の事件に関わったことが無いし、そもそも密偵なのだからコソ泥の相手など専門外である。此処に呼び出された理由が皆目見当もつかない。
 が、川路は斎藤の様子にはまったく気付いていないらしく(というよりも、怒りで部下の表情など見えていないのかもしれない)、更に言葉を続ける。
「こんな三流紙に面白可笑しく書き立てられるとは! これでは警察の威信が丸つぶれではないかっっ!! 毎回毎回雁首揃えて鼠一匹捕まえられんどころか、姿を掴むことも出来んとは情けない!! 貴様らは一体何をしてるんだっっ?!」
「お言葉ですが大警視………」
 怒鳴り散らす川路に、官僚風の男が恐る恐る口を挟んだ。どうやら彼が事件の総指揮を任されているらしい。
「全ての入り口を猫の子一匹出入りできないように警護しているのですが、何処からも出入りした形跡が無いのです。何処からとも無く湧いて出て、煙のように消えたとしか―――――」
「猫の子は出入りできずとも、鼠が出入りしているようでは意味が無いだろうがっ、この大馬鹿者がぁっっ!! “何処からとも無く湧いて出て、煙のように消えた”だと?! “52号”は幽霊だと言うのか?! 幽霊が金品を盗むかっ!!」
 男の言葉は川路の怒りを煽るだけで終わってしまった。当然である。
 一気に怒鳴りつけて息が切れたのか、それともただ単に興奮しているだけなのか、川路は鼻息を荒くして一旦言葉を切った。が、呼吸が落ち着くと、更に言葉を続ける。
「貴様らが無能だから、“52号”も調子に乗って犯行予告を送りつけてくるんだ! 次に捕まえられなかったら、貴様ら全員降格だっっ!!」
 錦絵新聞に犯行予告を送りつける西洋紳士風の“今鼠小僧”の姿絵が書かれていたのを、斎藤も見たことがある。記事によると、その予告状もいつの間にか部屋の中にあって、その家の使用人が見付けるというのが定番なのだそうだ。
 犯行予告があって、前々から警備しているのに、それでまんまと犯行を許してしまうのだから、川路の怒り狂いようも当然のことだろう。降格というのは少々厳しい処分のような気がしないでもないが、“今鼠小僧”の人気がこれだけ高まれば、腹いせというか見せしめとして仕方の無い処置なのかもしれない。仕方が無いとはいえ、やられる当人にすれば、たまったものではないだろうが。これは大変なことだと、他人事ながら斎藤は思う。
 一頻り怒鳴って気が済んだか、川路は大きく深呼吸をした。そして今度は落ち着いた声で、
「何処から出入りしているのか判らぬというのなら、もしかしたら“52号”は元隠密という可能性もある。ああいう輩は、誰にも気付かれずに屋敷に潜り込んで煙のように消えるのはお手のものだからな。食い詰めた元隠密がコソ泥に転身したという話もよくある。そこでだ、藤田君」
「は?」
 それまで緊張感無く上の空だったのにいきなり声を掛けられて、斎藤は頓狂な声を上げてしまった。
 が、川路はそれには何も言わずに言葉を続ける。
「相手が元隠密なら、こちらも密偵をぶつけるのが筋だろう。というわけで、次回は君にも現場に同行してもらう」
 どういう理屈から、隠密には密偵という発想が出たのかよく解らないが、斎藤には迷惑な話である。確かに隠密も密偵も似たような仕事をすることもあるが、基本的には別物だ。
 そもそも斎藤は、泥棒相手の警備などやったことも無い。というか、そういうのは斎藤の管轄ではないのだ。警察組織は管轄ごとにきっちり分かれていて、部外者が入るのを極端に嫌うのだから、仮に斎藤がこの仕事を請けたとしても、思うように働くことは出来ないと思う。この組織の排他性は川路もよく知っているはずなのに、よくもそんなことを言えるものだと、斎藤は内心舌打ちをした。
 あからさまに厭そうな顔をする斎藤に気付いていないのか、気付かない振りをしているのか、川路は更に言う。
「今は密偵の仕事も無くて暇だろう。君は協調性というものが無いから、他の部署を手伝って協調性を身に付けるといい」
 川路の一方的な言葉に、斎藤はますます不愉快そうな顔をする。密偵の仕事が無くても他の仕事が山積みだし、そもそも独りで行動する密偵には“協調性”など必要無い。川路が思っているほど斎藤の仕事は暇ではないし、協調性の件も余計な世話というものだ。
「余計な世話だ、この鈴カステラハゲ」
「何か言ったか?」
 ぼそっと呟いたつもりだったが、しっかり聞こえていたらしい。川路が片眉を上げて嫌味っぽく尋ねる。
 それに対して、斎藤も警邏中の時の胡散臭い作り笑いを浮べて、
「喜んでお受けいたします」





 
 煙草を片手に渡された資料と“今鼠小僧”が紙面を飾っている錦絵新聞に目を通していたが、これは思ったよりも厄介そうな相手だと斎藤は改めて思った。どの警備配置図を見ても完璧な布陣であるし、家の構造を見ても警備を潜り抜けて内部に入るというのはまず不可能だ。ということは内部の犯行かとも思われるが、全ての事件に関わって聞き込みをした刑事の話では、共通しそうな人物はいなかったというから、それも無いだろう。尤もそれは、“今鼠小僧”が一人の人間であるということが前提の話ではあるが。
 誰も姿を見たことが無いから確証は無いが、それでも斎藤は“今鼠小僧”は単独犯であると睨んでいる。根拠は無いが、もし複数犯だったら誰かが尻尾を出して然るべきだと思うのだ。どんな犯罪であれ、関わる人間が増えると必ず何処からかボロが出る。それに、これは斎藤の勝手な想像であるが、“今鼠小僧”は自分以外誰も信用していない人間なのではないかと思う。わざわざ犯行予告を送りつける極端な自己顕示欲も、警察を嘲笑うような華麗とも言える犯行も、自分に対して極度に自信を持っている人間のやることだ。
 しかし―――――斎藤は盗まれたものの一覧を見て不思議に思う。独りでの犯行にしては、盗んだものに関して一貫性が無い。殆どの場合、泥棒には専門分野というものがあるはずなのだが、“今鼠小僧”が盗んだものにはそれが無いのだ。現金や貴金属類という定番のものから、美術工芸品、それに政治家の裏帳簿や機密書類など、幅が広すぎるのだ。しかも美術工芸品に関しては、元の持ち主の許に戻されていたり、博物館の軒下に無造作に置き捨てられていたり、当人の利益にならなそうな処分の仕方がされていて、理解に苦しむ。
 まあ現金や貴金属類に関しては、自分の生活の糧にしているのだろうが、その他のものに関しては誰かに依頼されている可能性がある。実際、“今鼠小僧”が盗んだ裏帳簿や書類が何処からともなく流出して、それが原因で失脚した政治家が何人かいるのだ。発表した側は「朝起きたら玄関に置かれていた」と言っているが、そんな調子の良いことがあるのだろうか。相手が政治家なだけに深く追求できないが、直接にではないにしろ、裏で繋がっている気がしてならない。
「“今鼠小僧”の記事ですか?」
 斎藤の秘書のような仕事をしている蜷川という女部下が、お茶を出しながら興味深そうに言った。
「凄いですよね〜。鉄壁の警備でも、易々と狙ったものを盗み出すんでしょ? 講談みたい」
「感心することじゃないだろう」
 不機嫌な顔をして、斎藤は窘める。
 この部下はまだ学校を卒業して間もないせいか、まだ女学生気分が抜けていないというか、とにかく警察としての自覚が無い。それだけに、世間の“今鼠小僧”に対する感情はこのようなものなのかと思わせられはするのだが。
 窘められても別に気にする様子は無く、蜷川は執務机に散らばっている錦絵新聞を手に取った。そして一枚一枚丁寧に目を通しながら、
「それにしても、版元や絵師によって、こんなにも姿が違うんですねぇ。おもしろーい」
 蜷川の言う通り、書かれている“今鼠小僧”の姿は絵師によってまちまちだ。昔ながらの頬かむり姿もあれば、役者風の颯爽とした美男だったり西洋紳士風だったり、思い切ったところになると艶やかな美女が描かれていたりと、もう滅茶苦茶だ。それぞれに錦絵としては面白いし、絵になる姿なのだが、そんな泥棒がいるならお目にかかりたいと思わせるものばかりである。
 こんな風に美化して書き立てるから、犯罪者が人気者になるのだ。これが何の特徴も無いさえない男の姿で描かれていたら、これほどまでの人気は得られなかっただろうと斎藤は思う。
 が、蜷川は大蘇芳年とかいう人気絵師が描く“今鼠小僧”を見ながら楽しそうに、
「本当にこんな人だったら良いですねぇ。素敵………」
 うっとりとして見るその錦絵は、燕尾服を着た気障ったらしい“今鼠小僧”。ご丁寧にシルクハットなんぞ被っていて、こんな格好で仕事をする泥棒が何処の世界にいるのかと、斎藤など問い詰めたいくらいだ。が、それは流石に大人気無いような気がするので黙っている。しかしそれ以前に、警察勤めのくせに犯罪者の絵姿(想像図)なんかにうっとりするなと言いたい。
 斎藤は蜷川から錦絵新聞を取り上げて、面白くなさそうに、
「本物は冴えない中年男だったりしてな。現実はそんなもんだ」
「えー? 警部補みたいなー?」
 悪意の欠片も無いような無邪気そうに見える笑顔で、蜷川は明るく言った。言った後も自分の失言に気付いていないようににこにこしていて、完全に天然で言っているのか、天然を装っているのか、毎度のことながら斎藤には判断がつかない。
 最近の若い者は、と思わずにはいられないが、それを口にすると「その言葉が出るのは年寄りの証拠ですよ」などと返されるのがオチなので(一度言われたことがあるのだ)、それも黙っている。
 “今鼠小僧”も忌々しいが、目下の敵はこの年若い部下だなと苦々しく思いながら、斎藤は温くなった茶を飲み干した。





 それから数週間後、ある外国人貿易商の屋敷で、“今鼠小僧”の犯行予告が発見された。見つけたのはその家の日本人メイドで、応接室の掃除をしている時に見つけたのだという。
 事情聴取は通常、所轄の警官が行っているのだが、今回は特別に斎藤が当たることになった。最初から全ての流れを掴んでおけと、川路に命じられたからだ。当然、所轄からは鬱陶しがられるし、何故本庁の警部補がこんなところにいるのかという視線も痛いが、斎藤は別段気にしていない。それぞれの所轄と本庁の担当者が無能だから出張ってやっているのだと思っているのだから当然だ。
「―――――それで、不審な人物が屋敷に出入りしたということはないのですね? 不審でなくても、これまで見たことの無い御用聞きとか、何でも良いんですけど」
 件の応接室で、斎藤は第一発見者に事情を訊いていた。事情聴取というのは、訊かれる方に何も疚しいところが無くても緊張して萎縮するものであるらしいから、いつもより三割増の笑顔と柔らかな声を作っている。
 その甲斐あってか、メイドは少しだけ緊張の色を見せてはいるものの、尋ねられたことにはすらすらと答えてくれる。
「ええ。他の使用人にも訊いたのですが、これといっては………。窓もきちんと鍵がかかっていましたし、誰かが出入りしたという跡もありませんでした」
 まだ若いように見えるが、メイドの受け答えは落ち着きがある。予告状を見つけた時は掃除をしていたというが、本来は客人に茶を出したり宴会での給仕をやる客間女中パーラーメイドであると聞いているから、主人の教育が行き届いているのだろう。蜷川に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
 それに子猿のような蜷川と違い、目の前のメイドはすらりと背が高くて、品のある顔立ちの美人だ。客間女中は容姿で採用されるという噂は案外本当かもしれないと、斎藤もこのメイドを見て思う。このあたりも、蜷川に爪の垢を煎じて飲ませたいところだ。
 まあそれはともかくとして、斎藤は言葉を続ける。
「今回は、桃山時代の茶碗を盗むと予告したそうですが」
「当家の主人が、どこかの没落した大名家から安く買い入れたのだそうです。国宝級の名器だったそうなのですが………。来週の船便で本国に送ると聞いています」
「ほう………」
 御一新で領地を失った大名が生活の糧を得るために家宝を二束三文で売り飛ばすというのは、よく聞く話だ。それを買い取るのはこの家の主人のような外国商人が殆どで、明治の初期にはおびただしい数の絵画や工芸品、そして日本刀が海外に流出したという。それを苦々しく思う日本人は多く、だからこそそういう流出寸前の品物を盗み出す“今鼠小僧”はともすれば英雄扱いされてしまうのだろう。
 説明するメイドの表情もどことなく暗くて、恐らく彼女も同じように日本の美術品が海外に流出するのを面白くないと思っているのだろう。主人の手前、表立ってそれを表すことが出来ないが、それでも屈折した思いを抱えているのは、その表情からも見て取れる。
 斎藤も国宝級の名器が二束三文で国外に流出するのは面白くないが、かといって“今鼠小僧”の犯罪を許すわけにもいかない。大名が没落するのも、美術品が海外に流出するのも、それは時代の流れなのだと、自分に言い聞かせる。
「まあ、今日から警備が入りますので、ご安心ください」
「でも………」
 斎藤の言葉に、メイドはそれでも不安そうな顔をする。本来の顔とは違う、へらへら笑っているようにも見える胡散臭い作り笑いの顔なだけに、頼り甲斐が無いと思っているのだろう。
「今まで誰にも姿を見られずに盗み出しているっていうじゃないですか。金庫のお金も、厳重に守られた品物も、機密書類だって盗み出すっていうくらいなのに、大丈夫なのですか?」
「いやあ………」
 困ったように苦笑しながらも、作り笑いを浮べていた斎藤の目が鋭くなる。
 が、それは外部からは窺えないくらいの細かな変化であったので、メイドはまったく気付いていないようだった。





 そして、犯行予告の夜―――――
 屋敷の全ての出入り口は勿論、茶碗を保管している部屋の前にも警備が張り付いていて、それこそ本当に猫の子一匹侵入できない完璧な布陣だ。今回こそ、流石の“今鼠小僧”も尻尾を巻いて逃げ出すか、大人しく捕まるかのどちらかだと、本庁も所轄も自信満々だ。
 茶碗が保管された金庫の前には、二人の警官が警備に当たっている。しかし、外の警備があまりにも完璧すぎると、どうしても気が緩むもののようで―――――
「しかし、こんな茶碗盗んでどうするつもりなんだろうなあ。売るにしても、ああいうのはすぐに足が付くだろう?」
「そりゃお前、市場に出なくても、裏で取り引きできるじゃないか。それか、いつかの仏像事件の時みたいに、元の持ち主の所に置き捨てるか。どっちにしても盗み出せなきゃ、お話にならんがな」
 そんな下らないことを話し合いながら、警官たちは外に聞こえないように小さく笑う。
 と、二人の頭上でそっと天井板がずらされ、その一瞬後に何かが落ちるような軽い音がした。
「?!」
 二人が音の方を振り返る間も無く、後頭部に強い衝撃が走った。“今鼠小僧”だ、とその時になって思ったが、敵の姿を認識する前に二人の視界は暗転してしまった。





 それから数分後、同じ邸宅内のある部屋の天井板が外され、上から茶碗箱を抱えた人影が降り立った。“今鼠小僧”である。
 “今鼠小僧”は茶碗箱を大事そうに抱えたまま、部屋の隅にある西洋箪笥の戸を開けようと手を伸ばした。その時―――――
「そこまで!」
 男の怒声と共に、明かりが点けられた。
「残念だったな、“52号”」
 そう言ったのは、メイド部屋の壁に寄りかかるようにして立っていた斎藤。その表情はもう、“藤田警部補”の作り笑いではない。
「あなた………」
 驚愕したように大きく目を瞠って、“今鼠小僧”―――――否、予告状を発見したメイドは絶句した。
 流石にメイド服ではなく、忍び装束に似た黒い着物を着て、髪も無造作に縛っているだけだが、それでも目の前の姿は艶やかだ。彼女の姿が錦絵新聞を飾れば、美人画としても一級品のものが出来上がるだろう。泥棒にしておくには惜しい女だと、斎藤でさえそんな不謹慎なことを考えてしまう。
 が、どんな美人であれ、泥棒は泥棒。立派な犯罪者だ。斎藤は皮肉っぽく口許を歪めて、“今鼠小僧”の方に歩み寄る。
「鼠“小僧”だと聞いていたが、とんだ泥棒猫だったな」
「………どうして私だと判ったの?」
 近くの棚に茶碗箱をそっと置いて、女は警戒するように身構える。近付いてくる斎藤との間合いを計りながら、隙あらば跳びかかろうと窺うその様は、まさに“猫”そのものだ。
 毛を逆立てて威嚇する猫を思わせる女だが、立ち姿や身に纏う張り詰めた雰囲気から察するに、恐らく相当の手練れだと思わせる。これまで誰一人殺さずに盗みを働けたのも、今日まで誰にも姿を見られずに逃げおおせられたのも、相当な訓練を受けた人間の仕業だ。川路は“52号”を元隠密ではないかと読んでいたが、その読みは案外正しかったのかもしれない。
「判ったも何も、お前が自分から口を滑らせてくれたからさ」
 じわじわと間合いを詰めながら、斎藤は腰に帯びた日本刀の柄に手を添えた。基本は生きたまま捕らえることだが、相手の出方によっては死体であっても構わないと言われている。斎藤自身、女が本気で飛び掛ってきたら手加減できるかどうか判らないし、無駄に揉み合ってこちらまで怪我するよりは、一息に片を付けるのもやむを得ないと思う。
 怪訝な顔をする女に、斎藤は種明かしをするように言った。
「“今鼠小僧”は金庫の中の金も、厳重に守られた品物も、機密書類も盗み出すと言っていただろう。他のことはともかくとして、機密書類が盗まれたことは、新聞発表されていない極秘事項だ。それを知っているのは俺たちのような限られた警察関係者か、実際に盗み出した“52号”だけ。つまり、お前だ。俺のことをこれまでと同じ無能な警官だと思っていたようだが、油断したな」
「それはそれは………。へらへらしていたから万年ヒラの冴えない男だと思っていたけど、意外と切れ者だったのねぇ」
 正体を見破られた上に、この狭いメイド部屋で警官と対峙しているという危機的状況であるはずなのに、女はまだ口許に笑みを浮べている。この期に及んで、まだ逃げ切れると思っているのだろうか。だとしたら、斎藤も相当舐められたものである。
 おまけに、この状況でありながら、この言い草である。部下の蜷川もそうだが、最近の若い女というのは、どいつもこいつも空気を読まないというか、天真爛漫と傍若無人を履き違えているような気がしてならない。これだから若い女は嫌いなのだと、斎藤は見当違いなところで腹を立てた。
 が、それは表には出さずに、斎藤は更に一歩進める。刹那、女が跳びかかった。
 こめかみを狙って跳び蹴りを喰らわせようとする女の膝を、斎藤の腕が間一髪のところで防御する。防御するついでに弾き返すように腕を振って、その勢いで女は受身を取る間も無く床に転がった。そこをすかさず斎藤が日本刀を抜いて、女の上に振り下ろす。が、女は咄嗟に手近にあったブリキのゴミ箱を盾にしてそれを防いだ。
 ぎりぎりと斎藤に押され、女は上半身を半分起こした中途半端な姿勢のまま、次の動きを窺っている。これで斎藤が刀を上げるなり、立ち居地を変えるようであれば、そこに生じる一瞬の隙を衝いて攻撃に転じるつもりなのだろう。それが判っているから、斎藤も迂闊には動けない。
 若いくせに、女のくせに、幕末の頃のあのぞくぞくする緊張感を髣髴させる目をした女だと、斎藤はこんな状況であるのに妙に気分が高揚する。この仕事を回された時は、コソ泥相手のつまらない仕事だと思っていたが、なかなかどうして面白い相手である。
「藤田さん」
 そろそろ限界にきているのか、女はゴミ箱を支える手をぶるぶると震わせながら苦しそうの声を掛ける。が、その表情は見栄なのか意地なのか、まだ皮肉っぽい笑顔を作っていて、降参する気はさらさら無いようだ。
「この体勢、かなり辛いんだけど。そろそろやめにしない? 藤田さんも力みっぱなしで辛いでしょう」
「お前が大人しく逮捕されるなら、やめてやるさ」
 斎藤も皮肉っぽく口の端を吊り上げて、更に全体重をかけるように刀を押した。お互いの息がかかるほどに顔が近付いて、お互いの隙を探るように見詰め合う。
 暫く見詰め合っていると、女の目がいきなりニヤリと笑った。と、女の口の中で何かを砕くような硬い音がして、次の瞬間、斎藤の目に向けて何かが吹きかけられた。
「……………っ?!」
 唾を吐きかけられたと思った刹那、何かが目の中で破裂したような激痛が斎藤を襲った。思わず刀を落として、両目を覆って床に倒れる。声も出せないほどの痛みの前には、姿を取り繕う余裕も無い。
 激痛に蹲る斎藤を、女は荒く呼吸しながら見詰める。そして、口の中に残っているものを吐き出すように唾を吐き捨てて、
「唐辛子から作った目潰しだから、失明はしないわ。まあ、二三日は傷むだろうけど、こっちも口の中がヒリヒリするんだから、傷み分けってことで許して」
「………“52号”っ」
「そんな無粋な名前で呼ばないでちょうだい」
 呻き声を上げる斎藤に、女は楽しそうにくすくす笑いながら言う。そして、斎藤の耳元に口を近づけて、
「私の名前は、“”っていうのよ。正体を見破ったご褒美に教えてあ・げ・るっ」
 そう言って艶っぽくクスッと笑うと、と名乗る泥棒は立ち上がって茶碗箱を取った。
 足音が遠のいて窓が開けられる音がしたが、まだ激痛に苦しんでいる斎藤にはそれを追いかけることすら出来なかった。





 そして翌日の新聞と、数日後の錦絵新聞には、“今鼠小僧”の記事が華々しく踊ることになってしまった。特に錦絵新聞には、目潰しを食らわせられて床に転がる間抜けな警官と、それを尻目に颯爽と逃げる美青年“今鼠小僧”が描かれていた。その痛快活劇のような構図に、その日の錦絵新聞は飛ぶように売れたそうである。
 錦絵新聞の版元は大儲けできて御機嫌であろうが、それとは正反対に川路の機嫌は最悪である。早速発売日に関係者全員が呼ばれて、いつもの倍くらいの雷が落とされてしまった。今回は“今鼠小僧”対峙したというのに、まんまと逃げられてしまったのだから、川路の怒りもひとしおだ。
 長い説教の後、斎藤はぐったりとして執務室に戻った。から目潰しを受けて数日が過ぎたのに、まだ目はヒリヒリ痛むし、朝っぱらから川路から大目玉を食らうし、もう最悪だ。
 しかも、泣きっ面に蜂とでもいうべきか、蜷川がお茶を出しながら追い討ちをかけるようにくすくす笑いながら言った。
「“今鼠小僧”を追い詰めたのに、取り逃がしたそうですねぇ」
「うるさいっ!」
 まだ痛む目を濡れ手拭いで冷やしながら、斎藤は忌々しげに吐き捨てる。
 が言った通り、失明はしなかったが、それでもまだ目が充血して痛みが残っている。医者の見立てでは一週間はこの状態が続くそうだ。目の痛みだけでも忌々しいのに、部下からも心の傷に唐辛子を塗られるようなことを言われて、もう身も心もぼろぼろだ。部下たるもの、こういう時は上司を慰めることをいうのが筋だと思うのだが、蜷川にはそんな知恵は無いらしい。それとも解って言っているのか。
 怒られてもまったく堪えていないように、蜷川は無邪気に言葉を続ける。
「で、“今鼠小僧”の顔、見たんですか? 錦絵新聞みたいな男前でした?」
 蜷川には上司の具合よりも、“今鼠小僧”の容姿の方が重要事項らしい。大袈裟に労われとは言わないけれど、この態度はどうかと斎藤は忌々しい。
 蜷川は“今鼠小僧”を男だと頭から決め付けているが(世間の大多数もそうだろうが)、実は女だったと言ったらどんな顔をするだろうか。しかもそうお目にかかることが出来ないような美女だと言ったら。
 真実を教えて彼女を凹ませてやったら少しはすっきりしそうな気がしないでもないが、女にやられたとは口が裂けても言えない。そんなことを言ったら、「女一人捕まえられないんですか? くすっ」なんて小馬鹿にしたように小さく笑われるのがオチだ。蜷川は斎藤を凹ませるツボをよく心得ている。
「さあな。暗いところで見たから、顔まではよく見えなかった」
「なぁんだ、つまらない。捕まえられなかったのは仕方ないですけど、顔くらい見ておいてくださいよ。折角楽しみにしてたのに」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 蜷川の辞書には、“労わり”という言葉は無いらしい。それどころか、斎藤を凹ませるのに生き甲斐を感じているのではないかとさえ思うくらいだ。斎藤を凹ませながら、かといって怒鳴るには大人気ないと思わせる絶妙なところをいつも衝いてきて、蜷川はきっと、彼の見えないところで凹ませる修行をしているに違いない。
 この蜷川にしろ、にしろ、若い女というのはどうしてこう斎藤に対して傍若無人なのか。というか、“若い女”という生き物には、年長者に対する礼儀が欠落しているとしか思えない。それとも、斎藤個人に対する礼儀が欠落しているのだろうか。少なくとも蜷川に関しては、後者のような気がする。
 これ以上蜷川と口を利くのも疲れるだけのようで、斎藤は嫌味っぽく大きく溜息をつくと、そのままむっつりと黙り込んでしまうのだった。
<あとがき>
 新シリーズ開始です。以前、ネタに詰まっているのでネタ募集、というのを日記に書いていたところ、うちと相互リンクさせていただいている『逝路』のタカギさまから“大泥棒と斎藤”ネタを戴きまして、使わせていただくことになりました。
 大泥棒のハートを盗むのは斎藤、という設定を戴いたはずですが、蓋を開ければ………斎藤、部下には虐げられ、主人公さんには目を潰され、女難の相が出まくってますよ(笑)。若い女に振り回されるおじさんの悲哀、ってところか。駄目じゃん、それじゃ。
 今回は登場編ということで、主人公さんの活躍の場はあまりありませんでしたが、次回からは大活躍できればと思います。そして斎藤も活躍できれば良いなあ………(遠い目)。
 ネタ提供のタカギさま、まだまだこれからのシリーズなので、生温かく見守ってやってください。
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