キスして
縁日で買った文鳥は、蒼紫の心配をよそに相変わらず元気である。翌日に新しい文鳥を買って、番にしてやったのが良かったのかもしれない。その後間も無く雛も生まれて、は手乗り文鳥にするのだと張り切っていた。早々に親鳥から引き離して暇さえあれば構ってやっていた甲斐があってか、雛も今では立派な手乗り文鳥である。
ああいう小さな生き物が自分の手や肩に乗って、ちょんちょんと跳ね回る姿が可愛いのは、蒼紫も解る。にとっては初めて飼った生き物であるらしいし、一人暮らしの無聊を慰めてくれているのだから、その可愛さもひとしおだろう。それも解らないでもない。だが最近、の文鳥に対する愛情は、少し度を越しているような気がするのだ。
最近、蒼紫と何処かに出かけても、やたらと文鳥のことを気にして日が暮れる前に家に帰ろうとするし、話題の中心も文鳥の“ちぃちゃん”(生意気にも名前があるらしい)のことばかり。一寸前までは蒼紫のことを一番に考えてくれていたのに、今では何もかも文鳥優先である。それが蒼紫には面白くない。
今日も、折角蒼紫が来ているというのに、は最初にお茶を出したきり、楽しそうに文鳥と戯れている。
「ね、こうやって籠から出しても外に逃げようともしないんですよ。きっと、私のことを親だと思い込んでいるんだわ」
チチッと鳴きながら掌の上を跳ね回る文鳥を、は嬉しそうに目を細めて見ている。もう、文鳥の仕草の一つ一つが可愛くて堪らないといった様子だ。
小鳥とはいえ、ここまで懐いてくれていれば、そりゃあ可愛いだろう。白くて小さくて、女子供が好みそうな形もしているし。けれど、たまに遊びに来た自分を差し置いて、こんな鳥がを独占しているのかと思うと、蒼紫は面白くない。
が蕩けそうな目で文鳥を見詰めるのも気に食わない。と会うようになって3ヶ月は過ぎているのに、一度だって蒼紫にそんな目を向けてくれたことはないというのに。これは、にとっての蒼紫は、文鳥以下の存在ということなのだろうか。江戸城御庭番衆の御頭まで勤め上げた自分が文鳥ごときに負けるなど、ありえない。
面白くなさそうに無言で茶を啜る蒼紫を見て、は不思議そうな顔をする。彼女には、蒼紫の不機嫌の理由は全く解っていないようだ。だが、普段から表情があまり無い男であるから、それほど気にしてはいない。
「四乃森さんは、小鳥は嫌いなんですか?」
「別に嫌いではありませんけどね」
普通に答えようと思っていたのに、蒼紫の声は自分でも解るくらい不貞腐れている。これでは文鳥に嫉妬しているようではないか。
多分、文鳥に嫉妬しているのだろうと思う。本当に、あの可愛がり方はただ事ではない。餌は手から直接与えているらしいし、文鳥が犬猫くらい大きな動物だったら、風呂に入るのも寝るのも一緒にしそうな勢いなのだ。蒼紫など、の手から何かを食べさせてもらったことなんか一度も無いのに。
とはいえ、いい歳をした大の男が文鳥なんかに嫉妬しているなんて、一寸言えない。そんなのに知られたら、呆れ返って冷たい目で見られるに決まっている。
やっぱりあの時、何が何でも文鳥を買うのを阻止しておくべきだったと、蒼紫は今更になって後悔する。あの文鳥を買わなければ雛も生まれなかったし、そしたらだって蒼紫が目に入らないくらい文鳥に夢中になったりしなかったのだ。あの時に戻れるなら、全力でを止めたいくらいだ。
まったく、が文鳥といちゃいちゃしているのを見ると、苛々してくる。蒼紫だってそんな風にしてもらったこと無いのに。
もう文鳥の何もかもが苛立たしくて、チチッっと鳴くのも羽を羽ばたかせるのも、自分がそうすると可愛いのを自覚していてに媚びているように見えてくる。所詮鳥なのだからそんな知恵は無いことくらい蒼紫も頭では解っているのだが、それでもそう思ってしまうのだ。これはもう重症である。
蒼紫のどす黒い感情に気付いているのかいないのか、は楽しそうに話しかける。
「本当によく懐いてくれてるんですよ。こんなことも出来るんですから」
そう言いながら、文鳥を自分の顔の高さにまで持ってきた。そして、
「ね、ちぃちゃん。ちゅってして」
が甘ったるい声を出すと、文鳥は嬉しそうに羽を羽ばたかせて、小さな嘴をの唇にトントンとぶつける。
普通に見ればほのぼのとした光景なのであろうが、それは蒼紫にとっては痛恨の一撃だった。あまりの衝撃に、眩暈さえしそうになる。何とか湯呑みを取り落とさなかったのは、に対する見栄だろうか。
蒼紫がと口付けを交わしたのは、二人でわらび餅を食べたあの日の一度きりなのだ。あれから機会を掴めないまま一度もあの唇に触れることが出来ないというのに、あの文鳥は鳥のくせに当たり前のようにに口付けている。あの様子ではこれまで何度もこのようなことをしているのだろう。人前だというのに、なんて破廉恥な。
大体、もである。これまで一度だって蒼紫にはあんな甘ったるい声で口付けをねだってくれたことが無いくせに、あんな畜生には自分からねだって易々と唇を許すなんて。一言言ってくれたら、蒼紫だっていつでも何処ででも“ちゅっ”ってしてやるのに。“ちゅっ”どころか、それ以上のことだって、いつでもしてやる。
悔しさのあまり、考えていることがだんだんずれているが、そんなことに気付く余裕すら今の蒼紫にはない。もう悔しくて悔しくて、の目が無ければ自分の頭を何度も壁にぶつけたいくらい悔しいのだ。
もう悔しいやら憎たらしいやら、蒼紫はじっとりとした目で文鳥を睨みつける。その突き刺さるような視線にも漸く気付いたらしく、きょとんとした顔で蒼紫を見た。
「四乃森さんもしたいんですか?」
「え……あ…いや………その………」
確かに蒼紫もに接吻したいけれど、こうもあからさまに訊かれると答えに詰まってしまう。即答すると、いかにもしたくてしたくて堪らないみたいだし、にがっついてると思われるのだけは避けたい。したくてしたくて堪らないのは事実だけど、それを前面に出したら、それだけが目当てで此処に来ているみたいではないか。
顔を朱に染めて俯いてしまう蒼紫の様子が可笑しかったのか、はくすくすと小さく笑う。殆ど表情を変えない彼がこんな顔をするのは、初めて見た。
「したいなら、そう言ってくだされば良かったのに」
「はあ………」
「じゃあ、手を出して」
「…………は?」
の言葉に、蒼紫は不審な顔をしたが、言われるままに両手を差し出した。
その掌に載せられたのは、何故か文鳥で―――――
「ちぃちゃん、四乃森さんもちゅってして欲しいんだって」
「や………あの………」
の半端じゃない勘違いっぷりに、蒼紫は何処から説明して良いのか分からなくなってしまう。蒼紫はと“ちゅっ”としたかったのに、どこをどうしたらこんな畜生としたいなんて勘違いできるのだろう。文鳥を可愛がりすぎて、脳まで蕩けてしまったのだろうかと思うくらいのボケっぷりである。
文鳥を掌に乗せたまま、蒼紫は呆然としてしまう。は促すような目でじっと見ているし、これは文鳥に接吻してやらなければならないのだろうか。しかし、二十代も半ばを過ぎた男が文鳥に口付けるなんて、想像するだに気色悪い絵である。
困っているのは文鳥も同じようで、落ち着き無くきょろきょろと周りを窺っている。いつも乗っている掌と違うことに気付いたのだろう。暫くそうしていると、今度は何かを確認するかのように蒼紫の掌を嘴で軽く突付いた。
二、三回嘴で叩くようにすると、今度は親指の下の少し膨らんでいる部分に噛み付いた。最初は甘噛みかと思って蒼紫も放置していたのだが、そのうちに文鳥の嘴に力が入ってきて、とても小鳥とは思えないその鋭い痛みに、蒼紫は思わず小さく声を上げて振り払ってしまった。文鳥も悲鳴のように甲高く鳴いて、の膝に飛んでいく。
噛まれたところを見ると、小さく肉が抉れて血が出ていた。文鳥は女子供でも飼える大人しい性質の鳥だと聞いていたが、これでは猛禽類と同じではないか。こんな危険な生き物とを一緒にしておくわけにはいかない。
蒼紫はの膝に乗っている文鳥を掴もうと手を伸ばした。が、その手から庇うように、の手が文鳥に覆いかぶさる。
「ごめんなさい! いつもはこんなことしないんです。私以外の人の手に乗ったのが初めてだったから、きっとびっくりしてしまったんだわ。ごめんなさい」
両手で文鳥を庇いながら必死に謝るの姿に、蒼紫は仕方なく手を引っ込めた。今にも泣きそうな顔でに哀願されたら、たとえそれが毒蛇だったとしても取り上げることが出来るわけがない。
蒼紫が取り上げる意思が無くなったのを確認すると、はほっとしたような顔をして文鳥を籠の中に入れた。そしてすっと立ち上がって、
「すぐにお薬を持ってきますから」
それだけ言うと、は小走りに隣の部屋に入って行った。
の姿が襖の陰に見えなくなると、蒼紫はそっと文鳥の籠を覗いた。さっきのことなど全く反省していない様子で、文鳥は嘴で身体を掻いている。鳥なんて3歩も歩けば全て忘れてしまうような生き物であるらしいから、“反省”なんて高等なことが出来るわけがないとは蒼紫も思うのだが、それでもその態度には腹が立つ。
蒼紫の殺気立った視線に気付いたのか、文鳥は身体を掻くのを止めて彼を見上げる。警戒するように首を傾げる文鳥に向かって、蒼紫は籠の隙間から指を差し入れた。
「やい、こら」
指先で文鳥の頭を軽く弾く。蒼紫にとっては弾くくらいの力でしかないが、小さい文鳥には殴打されるほどの衝撃だったらしく、全身が激しく前のめりになる。ぷるぷると不快そうに全身を揺すって体勢を立て直すが、そこをすかさず蒼紫の指が再び弾く。
「一寸可愛い
低い声でぼそぼそと呟きながら、蒼紫は何度も文鳥の頭を弾いた。その度に文鳥も負けじと体勢を立て直すから、まるで起き上がり小法師のような滑稽な動きになってしまう。何度もそうされているうちに文鳥も我慢できなくなったのか、全身を丸々と膨らませて威嚇した。
が、文鳥ごときが身体を膨らませたところで恐ろしいことは一つも無くて、蒼紫はますます弾く速度を早くする。
「何が“ちぃちゃん”だ。お前なんか“鳥肉”で十分だ。この“
「ちぃちゃんは鶏じゃないから、“鶏肉”じゃありませんよ」
ぼそぼそ言う蒼紫の背後にいつの間にか立っていたが、冷ややかな声で言った。その声にビクッと肩を震わせて、蒼紫は恐る恐る後ろを振り返る。
薬箱を抱えたが、冷ややかな目で蒼紫を見下ろしていた。こんな呆れたような軽蔑するような目をしているなんて、相当怒っているらしい。溺愛している文鳥をぱしぱし叩かれたり“鶏肉”呼ばわりされれば、当然だろう。
とんでもないところを見られてしまった。図体の大きな男がこんな小さな鳥を苛めている図など、理由が何であれ蒼紫が一方的に悪者である。何と言い訳しようかと蒼紫は脳細胞を総動員して考えるが、言い訳すればするほど見苦しいと思われるかもしれない。
を見上げたまま固まっている蒼紫を見下ろして、は心底呆れたように小さく息を漏らした。そしてその場にストンと腰を下ろすと、
「お薬塗ってあげますから、手、出してください」
怒ったような口調ではあるが、手当てはしてくれるらしい。蒼紫は素直に傷口を差し出した。
焼酎を含ませた脱脂綿で消毒をしてくれているのだが、その手つきがどことなく乱暴なのは、やはり本気で怒っているせいだろう。蒼紫が痛みで顔を顰めているが、は完全に無視している。
「あの……もう少し優しく―――――」
「ちぃちゃんを鳥肉呼ばわりする人なんか、知りません!」
遠慮がちに言う蒼紫の言葉も、即座に却下である。
「鶏肉といったのは言い過ぎたと思いますが、でも………」
憮然とした表情で、蒼紫は掌の傷口を見ている。
確かに鶏肉発言はまずかったと蒼紫も思う。自分が可愛がっている小鳥をそんな風に言われたら、そりゃあでなくても怒るだろう。だけど蒼紫にだって、そこに至るまで色々と思うところがあったのだ。
外で会っている時は文鳥のことが頭から離れないようだから、それなら文鳥の姿が見える処で会うなら安心して蒼紫に意識を集中してくれるだろうと思って家に来たのに、は相変わらず文鳥にべったりで。自分をもてなせとまでは言わないけれど、せめて蒼紫がいる間くらいは蒼紫だけを見ていて欲しいのだ。まあ一応、蒼紫はの恋人なのだし。
文鳥相手にを取り合う状況はどうかと自分でも思うのだが、でも実際蒼紫の中ではそんな感じだ。鳥とはいえ、の手から餌を食べさせてもらうのも、の唇に嘴を付けるのも、蒼紫には腹が立つし、そんなことをしているにも腹が立つのだ。
「“でも”、何ですか?」
黙りこくってしまった蒼紫を、が促すようにじっと見詰める。うなだれている蒼紫が可哀想に思えてきたのか、の表情も声も、さっきよりは随分と柔らかい。
顔を上げて、蒼紫は何と言おうかと考える。思っていることをそのまま言うと、あまりにも女々しすぎるし、だけど遠回しに言うとに伝わらないかもしれない。
なんと言って良いか解らなくて、蒼紫は途方にくれてしまう。その様子を見て、は困ったような顔で首を傾げる。
「怒らないから言ってください。思ってることは言ってくれないと、私には解らないんだから」
「はあ………」
そうは言われても、まさか文鳥に焼きもちを焼いているなんて言えない。けれどこのまま黙っていればがまた怒り出すのは必至で、蒼紫は仕方なく口を開いた。
「さん、遊びに来ても文鳥の相手ばかりして、全然俺の相手をしてくれないじゃないですか。しかも文鳥とあんなこと………」
言いながら、蒼紫は自分が情けなくなってきた。これでは、相手をしてもらえなくて拗ねている子供のようである。子供なら拗ねても可愛げがあるが、いい歳をした男が拗ねても可愛くも何ともない。
けれど、此処まで正直に自分の気持ちを他人に吐き出したのは、初めてのことだ。“江戸城御庭番衆御頭”が四乃森蒼紫としての感情を表に出すことは許されなかったし、御庭番衆がなくなった今も『葵屋』では相変わらず“御頭”で、とてもそんなことが出来る雰囲気ではないのだ。もしそんなことをしたら、『葵屋』は上へ下への大騒ぎになりそうだし、蒼紫自身も今更そんなことは出来ないと思う。
過去の自分を知らない相手だから、そうできるのだろうか。それとも、だから、そうできるのだろうか。蒼紫自身にも判断がつかない。
蒼紫の言葉に、は一瞬きょとんとした顔をした。が、すぐに笑いを堪えるように小さく唇を震わせて、下を向いてしまう。
「わ……笑い事じゃ………」
片手で口を覆って声を堪えているに、蒼紫は顔を紅くして抗議する。勇気を出して言ったのに、笑い飛ばされたのでは堪らない。
悪いと思ったのか、は小さく咳き込むようにして笑いを誤魔化す。漸く笑いをおさめて顔を上げたが、それでも目が笑っている。
「ごめんなさい。でも―――――」
そこまで言って、は両手で包むように蒼紫の手を柔らかく握る。
「四乃森さん、ちぃちゃんとじゃなくて、私とちゅってしたかったんですか?」
の単刀直入な言葉と悪戯っぽい目に、蒼紫は顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。にこんなことを言われたのも初めてだ。
紅い顔で俯いてしまう蒼紫に、はふふっと小さく笑って顔を近付ける。
「言ってくれれば、いつだってしてさしあげたのに」
「そうじゃなくて………」
「違うんですか?」
近付けていた顔を一寸戻して、は少しがっかりした顔をした。
「そうじゃなくて、文鳥にしたようにさんの方から………」
もじもじしながら、蒼紫は途切れ途切れに言う。ここまで来たらもう、恥も外聞も無い。
蒼紫だって、あの文鳥がしてもらったように、甘えた声でに口付けをねだってもらいたいのだ。自分からするのも良いけれど、がねだってくれたら、もっと嬉しい。
蒼紫の言葉に、今度はの顔がぱっと朱に染まった。恥ずかしいのではなく、嬉しくて顔が熱くなった。
と会う時の蒼紫はいつもあまり表情が変わらなくて、一緒にいて楽しいのか楽しくないのかよく判らないところがあった。特に最近は不機嫌そうな顔をすることが多かったし、一緒に歩く時は手を引いてはくれるけれど、それ以上の恋人らしいことは何もしてくれないし、もしかしてへの気持ちが冷めつつあるのだろうかと少し不安に思っていたのだ。
けれど、不機嫌の理由もやっと解ったし、本当は蒼紫もとそういうことをしたいと考えていたのだと解ったら、安心すると同時にもの凄く嬉しい。お堅い人だと思っていたけれど、今日の蒼紫の様子を見ていたら、は急に親近感が増してきた。
は再び蒼紫に顔を近付けると、嬉しくて堪らないように顔の全ての筋肉を使って微笑む。そして、わざとらしいくらいに甘えた様子で、
「私、四乃森さんにちゅってして欲しいなあ」
「………何か、馬鹿にされてるみたいなんですけど」
このやり方は気に入らなかったらしく、蒼紫は一寸不満そうだ。意外と我が儘な男である。
は一寸考えると、今度は息が触れ合うくらいに顔を近付けて、囁くように言ってみた。
「ね、四乃森さん。ちゅってして」
今にも唇が触れ合いそうで、蒼紫はドキッとする。自分が頼んでそう言ってもらっているのに、まるで本当にからねだられているような気分になって、全身がかぁっと熱くなった。
微かに震える手での顔を包むように上向かせると、蒼紫はその唇に自分の唇を重ねた。