春宵

春宵 【しゅんしょう】 春の宵。
 暖かな春の夜は、外で星を眺めながら酒を飲むというのも乙なものだ。一人で静かに飲めれば、の話だが。
 比古が飲んでいると、肴と特大湯呑みを持参したが必ず隣に座っている。彼女が飲む量はたかが知れているから良いとして、厄介なのはやたらと話しかけてくることだ。比古は黙って酒の味に集中したいのに、煩いことこの上ない。
 本日の肴は焼き魚である。干物でないところを見ると、自分で捕ってきたものらしい。勝手に畑を作ったり魚を取ってきたり、自称お嬢様育ちのくせに大した生活力である。そのうち肉も自分で調達してくるかもしれない。
「夜も暖かくなりましたねぇ。この間まで寒かったのに、歳を取ると季節の移り変わりが速いですよ」
 早くも酔いが回っているのか、は上機嫌にそう言うと、茶を飲むようにずずっと酒を啜る。
「お前、それ飲んだらもう寝ろよ。っていうか、他人が飲んでるのにコバンザメみたいにくっ付いてるんじゃねえ」
 ご機嫌なとは対照的に、比古はむっつりとして杯を煽る。これまで一人で楽しんでいた時間に乱入された上に、酒まで強奪されるのだから当然だ。しかも、その酒を茶のようにずるずると音を立てて飲むのだからたまらない。酒の飲み方も知らない人間に酒を取られるのだから、苛立ちも倍増だ。
 弱いくせに酒が好きというのは良い。比古もケチではないのだから、少しくらいなら分けてやろうという気はあるのだ。が、湯呑みで、しかもずるずると音を立てて飲むというのは如何なものか。酒を飲むなら飲むで、相応しい器を作るとか、相応しい飲み方をするとか、そういうところにも気を遣えと言いたい。
 むっつりしている比古の様子に気付いているのかいないのか、は相変わらず上機嫌に、
「良いじゃありませんか。先生だって、一人で飲むのはつまらないでしょう?」
「俺は一人で静かに飲みてぇんだよ」
「またまたぁ。二人でお喋りしながら飲んだ方が楽しいですって。ほら、このお魚、食べてくださいよ。お酒ばっかりじゃ胃に悪いですよ。先生ももういい歳なんですから」
 悪気は無い、それどころか善意で言っているのだろうが、最後の余計な一言で全てが台無しである。何かにつけていちいち歳のことを持ち出すなと言いたい。
 はっきり言って、比古は若い。43歳だが、二十代と言っても誰もが信じるだろう。しかも体も鍛えているのだから、肉体年齢もその辺の若造よりも若い。内臓だって同じだろう。それなのに一体何処をどう見たら、彼とその辺の中年のおっさんを同列に語ることが出来るのか。の頭をかち割って中身を見てみたい。
 一度、比古の体がどんなに凄いか見せてやった方が良いかもしれない。どうやらは、外套の下の彼の体は中年太りでぶくぶくだと思っているようなのだ。胴体はよく見えないとはいえ、筋肉質な腕は毎日嫌と言うほど見ているはずなのに、どうしたらそんな解釈が出来るのか不思議である。
「他人を年寄り扱いすんな」
「年寄り扱いなんてしてませんよ。いつまでも若いつもりでお酒ばっかりがばがば飲んでたら体を壊す、って言ってるんです」
 やっぱり年寄り扱いしてるじゃねぇか、と思ったが、これ以上何を言っても無駄なようなので、比古は黙って酒を飲む。
 毎回ここで比古が黙り込んでしまうから、が調子に乗ってしまうのだろう。一度ガツンと言ってやるべきなのだろうが、この女相手にはその労力すら惜しいような気がする。無駄なことに時間と労力を費やすよりは、一人の世界に没頭して春の宵を楽しむ方が何倍も良い。
 の存在を消し去るために、比古は酒に集中する。隣ではがもそもそ動いているが、剣術で培った集中力を使えばどうということはない。
 の存在を意識から消し去ってしまえば、今夜は最高の夜だ。風は暖かく、月も星も明るい。日々の煩わしいことを忘れて飲むに相応しい夜である。
 が、そんな優雅な時間が長く続くわけもなく―――――
「しかしまあ、何ですねぇ。先生もいつまでも“一人がいい”なんて言ってないで、たまには町に下りて他人と接する機会を持った方が良いですよ。社交的じゃないと早くボケるって聞きますし」
 折角の春の宵も、隣の女のせいで全てが台無しだ。体を壊すだのボケるだの、一体何処まで他人を年寄り扱いすれば気が済むのか。
 確かに比古とは一回り以上歳が離れている。お世辞にも“若い娘”とは言えないの更に一回り以上上なのだから、比古も世間的には若くはない。比古自身もそれは認めざるを得ないとは思うのだが、しかし仮にも師匠に当たる人間を面と向かって年寄り扱いというのは如何なものか。口では先生先生と言っているが、本当はただの同居人程度にしか思っていないに違いない。
「ほっとけ」
「あ、そうだ。たまに来る料亭の若旦那さん、名前何でしたっけ? え〜っと……そうそう、四乃森さん、四乃森さん。あの人を誘ったらどうです? 料亭の人たちも呼んで宴会したら楽しいと思いますよ」
 比古が苦虫を噛み潰したような顔をしていても、はお構い無しだ。上機嫌にペラペラ喋り続けて、どうやら良い感じに酔いが回っているらしい。
 辛気臭い話をされるよりは上機嫌な方がマシなのだろうが、ひっきりなしに喋り続けられるのは煩くてかなわない。良い酒を飲ませてやっているのだから黙って飲め、と男だったら鉄拳制裁を食らわせているところだ。
「若い人と話すっていうのも良い刺激になると思いますよ。四乃森さんが来るんだったら、私も張り切ってお料理しちゃうんだけどなぁ」
 何を期待しているのか、は含むように笑う。
 志々雄の一件以来、蒼紫は料亭で使う器を仕入れるために時折比古の山小屋に通っている。男前で余計なことを喋らぬ彼はの好みなのか、蒼紫が来た日は彼女は妙に浮かれているのだ。その度に、いい歳をした出戻りのくせに色気づくんじゃない、と比古は呆れている。
 器の買い付けに来るだけでも浮かれるくらいだから、酒の席に誘いでもしたらは大はしゃぎで今以上に煩くなるだろう。こういう女に好かれるとは、男前というのは大変なものだ。比古ほどの超絶美形になれば、相手の方から高嶺の花だと諦めてくれるのだが。
 内心蒼紫に同情していると、何を思ったかがふふっと笑った。
「あら、先生、黙り込んじゃって。もしかして焼き餅ですか?」
「なっ………?! 寝言は寝て言え、この大馬鹿野郎がっっ!!」
 いつもは無視を決め込んでいる比古も、流石にこれには顔を赤くして怒鳴りつけた。
 一体、何をどうしたらこんな解釈が出来るのか。いくら酔っているとはいえ、の思考は謎だらけである。本気で彼女の頭をかち割って中身を見てやりたい。
 が、怒鳴られてもは楽しそうにふふっと笑って、
「大丈夫ですよ。今は女の幸せよりも陶芸を極めることの方が大事ですから」
「………陶芸よりも女の幸せを極めろよ」
 思わず本音がボソッと出てしまった。
 が女の幸せを求めて山を下りてくれれば、比古は昔のような静かな生活に戻ることが出来るのだ。だって、初婚は無理でも後添いの縁談ならいくらでも紹介してもらえるだろうから、陶芸家になるよりも安楽な生活ができるはずである。が女の幸せを求めれば彼女も幸せ、彼女の家族も比古も安心、と良いことずくめだ。
 すぐに反論するかと思いきや、は俯いて湯飲みをじっと見詰めている。口では陶芸が一番と言いながらも、彼女なりにまだ迷いが残っているのかもしれない。
 家族の反対を押し切って家を飛び出して、比古に何を言われてもずっとこの山小屋に住み着いているのだから、並々ならぬ覚悟をしているのだろうとは思う。陶芸で身を立てるという言葉が本気だということも、賛成反対は別として比古も理解している。しかし、それだけの気持ちがあっても何処かで迷ってしまうのが人間というものなのだ。
「そっちの方もねぇ……諦めきれたわけじゃないんですよ」
 それまで陽気だったの声が、急にしんみりとしたものになった。そんな風に言われると、人として触れてはいけない部分に触れてしまったのかと、比古はぎくりとしてしまう。
 気まずくなって、比古は無言で自分の杯に酒を注ぐと、同じく俯いてちびちびと飲む。
「そりゃあ陶芸家として身を立てるっていうのが一番の目標ですけど、でもやっぱりねぇ………。結婚して子どもを育てて、っていう人生にも正直未練はありますよ。陶芸やりながらそういう普通のこともできたら良いなあって」
「まあ、そりゃあなぁ………」
 一人の生活が好きで、淋しいとか家族を持ちたいとか思ったことのない比古には解らない感覚だが、普通の人間はそう思うのだろう。こういう時、普通の人間は何と返すのだろうと考えてみるが、彼には解らない。解らないから、杯を見詰めたまま曖昧に言葉を濁す。
「先生もそう思うでしょう? だから―――――」
 の言葉が切れたと思った刹那、比古の腕がずしりと重くなった。
 何事かと思ってそちらを見ると、が俯いたまま比古の腕に寄りかかっていたのだ。途中から雰囲気が変わったのは気付いていたが、まさかそんな展開になろうとは。日頃そんな素振りが全く無かっただけに、この展開には比古もびっくりである。
 師匠と弟子が男女の関係になるというのは、どこの世界でもよく聞く話だ。だが、まさか自分の身に降りかかってくるとは思わなかった。女を弟子にする羽目になった時から想定しておくべきことだったのかもしれないが、が相手ではそんなことは思いつきもしなかったのだ。
 はその気なのかもしれないが、正直言って比古には全くその気は無い。彼の好みは大人しくて古風な、つまり彼女とは正反対の女なのだ。いくら据え膳状態でも、好みで無い女に手を出すほど彼も飢えてはいない。
 しかし据え膳状態なだけに、相手を傷付けずに断るのは難しい。も一応女ではあるし、ここまでやって恥をかかされては一生立ち直れないだろう。結構気性の激しいところがある女だから、下手をすると自害してしまうかもしれない。
 何とかを傷付けずに断れないだろうかと、比古は慎重に言葉を選びながら声を掛ける。
「あ……あのな、気持ちはとても嬉しいんだが、師匠と弟子というのは一線を引いた付き合いをしないと―――――」
「………ふがっ!」
「?!」
 一瞬にして緊張を削いでしまうような変な音に、比古は思わず身を引いてしまった。その後に唸り声のような音が続いて、変な音の正体は鼾だったらしい。
 突然寄りかかってきたのは、その気があったわけでも何でもなく、単に酔っ払って眠ってしまっただけだったのだ。話の流れでうっかり誤解して慌ててしまったのが馬鹿みたいである。
「女が鼾なんかかくんじゃねぇよ………」
 やり場の無い恥ずかしさに、比古は八つ当たりのように吐き捨てる。
 家の中に運んでやるべきかと思ったが、面倒臭いからそのままにしておくことにした。今夜は暖かいから、このまま放置していても風邪は引かないだろう。風邪を引いたとしても、自業自得である。
 兎も角、煩い邪魔者は寝入ったのだから、これでやっと一人酒を楽しめる。今夜はまだまだ宵の口。夜空を眺めながらのんびりと、といきたいところだが―――――
「………重い………」
 酔っ払いの体というのは、どうしてこうも重いのか。は特に太っているようには見えないのだが、鉛を仕込んでいるのかと思うほど重い。
 起きていても寝ていても邪魔をするなんて、とんでもない弟子である。女の幸せを諦めきれないのなら、いっそ蒼紫に押し付けてしまおうかと、比古はとんでもないことを考えてしまうのだった。
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