爽秋
爽秋 【そうしゅう】 さわやかで心地のよい風。
早いもので、もう秋である。紅葉にはまだ早いが風は涼しく、ついこの前までの陽射しのきつさが嘘のようだ。今日も秋晴れの、絶好の陶芸日和だ。こういう日は轆轤の回りも軽いような気がする。は鼻歌を歌いながら上機嫌に轆轤を蹴り、皿作りに挑戦していた。
丼だの茶碗だの湯飲みは独学である程度作ることが出来るようになったが、平らな皿は難しい。どうやっても歪な形になったり凸凹になってしまったりして、使えそうな形にならないのだ。
「おかしいなあ………」
轆轤を蹴るのを止めて、は小さく溜息をつく。朝からずっと作っているけれど、どれ一つとしてまともな形にならないのだ。たかだか丸い平べったい皿を作るだけなのに、こんなに苦労するとは思わなかった。
真夏だったらキレて失敗作を地面に叩きつける頃合であるが、気候が良くなると心にも余裕が出来るようで、無言で失敗作を破棄するだけだ。の横には粘土がうず高く積み上げられ、彼女の苦労を物語っている。
ここ数日こんなことを繰り返している。ずっとここまで独学でやってきたけれど、ここでもう限界なのだろうか。
かといって、比古にどうすれば上手くいくのか訊くわけにはいかない。彼の手は煩わせないと大見得を切って此処に居座っているのだ。助言を求めたりしたら、きっと追い出されてしまう。
聞いた話によると、比古は誰かに師事して陶芸を極めたのではなく、完全な独学で今の技術を身に着けたのだそうだ。才能の差はあるかもしれないが、比古にできなのならに出来ないはずがない。数をこなせば、きっといつかコツを掴むことが出来ると思う。否、掴まなければ。
大きく深呼吸をして気持ちを切り替えると、は新しい粘土を轆轤に置いて回し始めた。
そんなの様子を、比古は昼酒を呷りながらずっと観察している。彼もそろそろ陶芸を始めてもいい頃合なのだが、何となくダラダラ生活を続けているのだ。
ダラダラ生活の自分に引き換え、は毎日毎日朝から晩まで熱心なことである。失敗を繰り返してもめげること無くひたすら轆轤を回し続ける姿は、心から感心する。何処からそんな情熱が湧き上がって来るのだろうと思うほどだ。
しかし惜しいことに、情熱に技術がついていっていない。基本が出来ていないまま自己流で作っているのだから当然だ。比古は天才だから基本を知らずとも作品を作ることが出来るが、にそれを望むのは無理な話だろう。否、独学で湯飲みや茶碗は出来るようになったのだから、才能はあるのかもしれない。しかし天才ではないのだから、此処で限界だ。
一生懸命なの姿を見ていると、少しくらい教えてやった方が良いだろうかと思わないでもないが、彼女が何も言わないから黙っている。それに、此処で情に絆されて教えてしまったら、本当に弟子になられてしまう。
とはいえ、目の前で次々と失敗されると苛々してくるものだから、つい口出ししてしまう。
「お前、変なところに力が入ってるんじゃねぇか?」
「肩の力は抜いてるつもりなんですけど………」
轆轤を止めて、は呟く。
力むのがいけないのは分かっている。柔らかな粘土は少しの力で歪んでしまうのだから、指先にも力が入らないように注意しているのだ。このやり方で湯飲みも茶碗も作れたのに、どうして皿は出来ないのだろう。
去年の冬にずっと比古の作業を観察して、同じようにやっているはずだ。どうして同じように出来上がらないのだろう。自分には才能が無いのだろうかとさえ思えてくる。
轆轤の上の粘土を見て、はまた溜息をついた。いくら気候が良いとはいえ、溢れるほどの情熱があるとはいえ、こう何度も何度も失敗を繰り返してしまうと、気が滅入ってしまう。少し休憩を入れるべきなのかもしれない。
これを最後に休憩を入れようと決めて、は改めて轆轤を回し始めた。
くるくると丁度良い調子で回り始めたところで、は粘土に手を添える。と、突然その手に大きな手が重ねられた。
「ぅわあああああっっ?!」
悲鳴と共に、粘土がありえない形に歪む。
「なっ……何するんですか、いきなりっっ?!」
驚きで顔を真っ赤にして、は背中にぴったり張り付いている比古に怒鳴りつけた。
粘土に全ての意識を集中させているところに、二人羽織のようにぴったりと張り付かれたら、びっくりするではないか。何のつもりか知らないが、一声かけての承諾を取ってからやってもらいたい。一声掛けられたところで、理由によっては承諾しないのだが。
が、比古は平然として、
「てめぇのやり方見てると苛々するんだよ。一回だけ教えてやっから、絶対力入れるなよ」
どうやら指導をしてくれるつもりだったらしい。教えてくれるのはも非常にありがたいのだが、教えてくれるならくれるで一声かけて欲しかった。また粘土が無駄になってしまったではないか。
しかし絶対教えないと言い張っていた比古が、一度だけとはいえ教えてくれるのは嬉しい。まだ成功していないというのに、早くも光明が見えたような気がしてきた。
「じ…じゃあお願いします」
椅子に座り直して大きく息を吐くと、は新しい粘土を置いて轆轤を回し始めた。
速度が上がったところでが粘土に手を添え、その上から比古が手を重ねる。
くるくると回りながら、粘土が形を変えていく。いつもならこの辺りで失敗するのだが、今回は嘘のように皿の形が形成されている。
一人でやっている時と手の角度は変わらない。やはり比古の言う通り、力加減が問題だったようだ。
問題点は解った。解ったのだが―――――
<これは一寸………>
比古が教えてくれるのは嬉しい。とてもありがたいと思うのだが、こうもぴったりとくっ付かれていると落ち着かないというか居心地が悪いというか、とにかくにとっては気まずいのである。
人間というのは不思議なもので、何とも思っていないはずの相手でも一定以上の距離を詰められると、変に意識してしまうものだ。一年以上一つ屋根の下で暮らして、一つの布団で寝た時も何とも思わなかったというのに、こうもぴったりくっ付かれると体が勝手にドキドキしてしまう。
比古のような俺様男はの好みではない。おまけに一日の殆どが酒臭い男である。酒臭いのを除いたとしても、顔は兎も角、あんな大男は圧迫感があって嫌だ。しかも変な外套を着ているし。だからがうっかりよろめくことなんて、絶対にありえない。
距離のせいだとしたら、比古も少しは意識してしまったりするのだろうか。ちらりと彼の方を見たが、別に何とも思っていないようだ。本人は教えているだけのつもりなのだから、当然である。
と、そんなの視線に気付いた比古が不思議そうな顔をした。
「何だ? そんな変な顔して」
「へっ……この顔は地顔ですっっ!!」
思わず顔を真っ赤にして反論すると、は再び粘土に視線を落とした。
比古が何も感じていないとなると、一人でドキドキするは間抜けだ。実際、何とも思っていない男相手に、密着されただけでドキドキしてしまうというのは、間抜けというか馬鹿である。そんな馬鹿な自分に腹が立ってきた。
やり場の無い怒りに悶々としているうちに、皿が出来上がった。比古が作るのと同じくらい、見事な円形の皿である。
「ま、こんなもんだ。分かったか」
「はあ………」
頬を染めたまま、は小さく頷く。
成形する時の力加減は分かったような気がする。しかし今のの頭の中はそれどころではないのだ。
そんなの様子に気付いた比古が、ますます怪訝な顔をする。
「どうしたんだ、お前? 顔が紅いぞ」
「どうもしません! 暑いだけですっ」
一番気付かれたくないことを指摘され、はますます顔を紅くした。
「暑い? 涼しくねぇか?」
比古の言う通り、今日は日は照っているが気温は涼しい。気持ちの良い秋晴れである。これを暑いと感じる者はそういないだろう。
どこか具合でも悪いのかとの様子をしげしげと見詰めていた比古だったが、何かピンときたようににやりと笑った。
「ふーん、ひょっとしてアレか? 久々に男に触られて、ドキドキしちゃったりなんかしてんのか? ま、俺様みたいなイイ男に手を握られるなんて、そうあることじゃねぇからな」
「なっ………?!」
半分は当たっているだけに、は耳まで真っ赤にしたまま言葉が出ない。
密着されてドキドキしてしまったのは本当だが、別に比古が好みの男だからというわけではない。というか、自分のことを“イイ男”だなんて、どこまで自信過剰な男なのだろう。“天才”だの“イイ男”だの、ここまで自分に自信を持てたら生きていくのも楽に違いない。
何と反論すれば良いのやら、がわなわな震えていると、比古はますます可笑しそうな顔をする。
「成程ねぇ。でも俺に惚れるなよ。悪いがお前みてぇな女は好みじゃねぇからな」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
どうしたらこんなに自分に自信を持てるのか。ここまで来ると、あらゆる感情を突き抜けて溜息しか出なくなってしまう。
何だか何もかもが馬鹿馬鹿しく思えてきたら、の顔から赤味が消えた。そして頭が冷静になったところで、まだ背後に密着している比古の顎を拳で思いっきり突き上げるように殴った。
「ぐぁっっ!!」
まさかが殴るとは思わなかったから、流石の比古も避け損ねてしまった。
「まったく、いつまでくっ付いてるつもりですか。そっちこそ惚れないで下さいね。私、こう見えても理想は高いですから」
吐き捨てるように言うと、は出来上がった皿を乾燥させるための台へ持って行く。
さっきはうっかりドキドキしてしまったが、比古の言い草を聞いたら改めて絶対に男として見ることは無いということが判った。一年以上一緒に暮らしても何も無かったというのも、こんな自信過剰な俺様男が相手だったからだと思えば頷ける。
しかし、弟子を取らないと言っていたのに、今回だけとはいえ皿の作り方を教えてくれたのはありがたかった。これでの作品も幅が広がるだろう。
殴られた時に舌を噛んだのか、まだ痛そうに蹲っている比古をちらりと見て、は少しぶっきらぼうに礼を言う。
「とりあえず、ご指導いただいたことには感謝します。ありがとうございました」
本当に感謝の気持ちを込めて言うとまた調子に乗りそうなのでこれで留めておいたが、教えてもらえたのは本当に嬉しかった。俺様で自信家で飲んだくれだけれど、比古は多分、本当は良い人なのだろうとは思っている。
これでもう少し控え目になって、ついでに酒も晩酌だけにしてくれたら本当に心から尊敬できるのに、とは無いものねだりをしてしまうのだった。