赤い糸
今日はが用事があるから来ないと言うので、斎藤は一人で夕食である。一人分作るのも面倒だから外食にするかと出かける準備をしていると、戸を叩く音がした。今月の支払いは全て済ませているし、来客の予定は無い。物売りにしても、こんな時間に来ることは無いだろう。何だろうと玄関に出てみると、茶色の兎が三羽並んで座っていた。
「………兎?」
斎藤の家は野中の一軒家ではない。こんな町中で兎だけが三羽―――――もの凄く嫌な予感がした。そして、そんな予感に限って的中してしまうものである。
早くも警戒して身を引いている斎藤に、兎たちが口々に声を上げた。
「こんばんはです!」
「斎藤さんですね? いつもセンパイがお世話になってるです」
「神様お使いで来たですよ〜。お土産もあるから中に入れてください」
やっぱり………と斎藤は早くもげんなりしてしまった。“センパイ”というのは、斎藤家の兎のことだろう。あの兎の後輩で、しかもあの山の神の使いとなったら、この兎たちも碌でもない輩に決まっている。
が来ない日にやって来たのは、不幸中の幸いだった。彼女がいたら、こいつらも兎と一緒になって何を言い出すか分かったものではない。
斎藤だけなら斎藤だけで、これまたくだらないことを根掘り葉掘り訊くに違いない。言葉は喋れても所詮は獣であるから、人間なら遠慮することでも平気でズバズバ訊いてくるだろう。動物の遠慮の無さは兎とラビで懲りている。
どうやってこの三羽を追い返そうかと斎藤が考えていると、声を聞きつけた兎が奥から出てきた。
「お前たち、山からわざわざ来てくれたんですか? 男の独り暮らしでむさ苦しい所ですけど、上がるといいですよ」
思ったとおり、この三羽は兎の知り合いだったらしい。嬉しそうな声を上げて歓迎した。
懐かしい山の仲間がやって来て嬉しいのは斎藤も解るが、仮にも飼い主様の家を“むさ苦しい”とは何事か。大層なお屋敷ではないが、兎ごときにむさ苦しい呼ばわりされるような家ではない。それ以前に、此処は兎の家ではなく、斎藤の家である。訪問者を家に入れるかどうかは兎ではなく斎藤が決めることだ。
「わあ、センパイ! お久しぶりですぅ〜」
「お元気そうですね〜」
「センパイの大好きな山葡萄のお酒も持って来たですよ〜」
三羽の兎たちも嬉しそうにきゃあきゃあ騒ぎながら、斎藤を無視して勝手に家に上がり始める。
「あ、こらっ………!」
斎藤も慌てて中に入ると、既に兎たちは酒瓶だの栗だのアケビだのを広げて宴会の用意を始めていた。外にいた時は手ぶらに見えていたのに、どうやって出したのか結構な量である。
「お前ら、勝手に何やってんだ?!」
「斎藤さんも食べるといいですよ。今年の栗は大きくて美味しいです。ちゃんと茹でてあるからお腹は壊さないですよ」
斎藤が怒鳴っても、兎は涼しい顔で早速栗を頬張っている。彼に怒られるのは日常茶飯事だから、すっかり慣れてしまっているのだろう。
「山の綺麗どころも揃ってることですし、今夜はぱぁっといきましょう。あ、この子たちは私の後輩で、ランちゃんとスーちゃんとミキちゃんです。山で神様たちの宴会がある時には接待をやってるんですよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
どれがランでスーでミキか、斎藤にはさっぱり判らない。というか、山の綺麗どころと言われても、兎の美醜に疎い彼にはこの三羽が美形なのかどうかすら判らない。
言われてみれば、この三羽は斎藤家の兎より多少毛並みが良いようには思う。しかし、斎藤の目にはどう見ても普通の兎だ。神様たちの宴会の接待要員らしいが、兎がどうやって接待するのかも疑問である。
渋い顔で唸っている斎藤を見て、兎が後輩兎たちをけしかける。
「ほらほら、斎藤さんを接待してあげてください」
「はーい!」
三羽揃って返事をすると同時にポンと弾ける音がして、三人の少女が現れた。
「おおっ………!」
三人それぞれ個性は違うが、食べてしまいたいくらい可愛らしい美少女達である。これには斎藤も驚いた。
この姿なら、山の綺麗どころというのも納得できる。こんな美少女達に接待されれば、男の神様なら楽しいだろう。
「さあさあ、斎藤さん。座って座って」
一寸色っぽい感じの美少女が、斎藤に抱きつくような感じで強引に座らせる。中身は兎だと解っているのだが、斎藤は不覚にもドキッとしてしまった。
「斎藤さん、お酒をどうぞ」
「斎藤さん、栗とアケビ、どっちが好きですか?」
「この栗、私が拾って来たんですよ。たくさん食べてくださいね。はい、あ〜ん」
口々に美少女達からまくしたてられて、斎藤はつい流されるままに口を開けた。そこに、おっとりした感じの美少女が栗を放り込む。
反対側ではさっきの色っぽい美少女が酒を注ぎ、前では知的な感じの美少女がせっせと栗やアケビを剥いていて、斎藤は何だかお大尽にでもなった気分だ。否、お大尽でもこんな美少女を三人も侍らすのは難しいだろう。
今夜はも来ないことであるし、兎の言う通りぱぁっと楽しむのも悪くはない。兎たちが来た時は追い返してやろうと思っていたくせに、人間の姿になった途端こうなのだから、現金なものである。
「あ、そうだ。ミキちゃん、神様のお使いって何ですか? 斎藤さんの接待をするのがお使いじゃないでしょう?」
山葡萄の酒を飲んでいた兎が思い出したように、栗を剥いている少女に話しかける。
「そうそう。神様が斎藤さんとさんのことを占ったら、大変なものが見えたらしいんですよ。それで、斎藤さんに知らせて来なさいって。ねえ、ランちゃん」
手を止めて応えるミキに、酌をしていた少女も頷いて、
「そうなんですよ。何だか斎藤さんが寒〜い所で一人で凍えている姿が見えたんですって。見渡す限り真っ白で、おまけに吹雪いている所に一人でいるんです。東京じゃないみたいだし、何処を探してもさんの姿も見えないし、きっとさんに振られて北の方に行くんだって、神様が言ってました」
「それで、様子を見に行くように言われたんですけど………さんいないみたいですし、やっぱり振られちゃったんですか?」
悪気の欠片も無い無邪気な顔で、スーが斎藤に尋ねる。こういう時はもう少し回りくどい訊き方をするものだろうが、兎だからそんな知恵も無いのだろう。
「今日は用事で来ないだけだっ」
折角いい気分になっていたのに、あっという間に台無しだ。やはりこいつらは追い返すべきだったと斎藤は後悔した。
寒い所にいると言うのは多分、北海道のことだろう。にはまだ話していないが、斎藤は北海道行の内示を受けている。いつ帰れるか判らない転属だから、は東京に置いていくつもりだ。寒がりの彼女に北海道の冬は過酷だろう。
山の神が見たというのは、北海道転勤後の斎藤の姿に違いない。がいないのも、東京に残して行ったということだ。
「そうですよねぇ。斎藤さんとさんの赤い糸は太くてしっかりしているから、振られるとは思えないんですよねぇ。なんで振られるんでしょうねぇ」
斎藤がに振られるわけがないというのに、ミキは振られることを前提にして不思議そうに首を傾げる。
「だから振られるわけないだろう」
赤い糸だか何だか知らないが、斎藤とは兎どもに心配されなくても強い絆で結ばれているのだ。たとえ東京と北海道で離れ離れになろうとも、別れるなど絶対にあり得ない。
が、兎たちは山の神の占いは絶対と思っているようで、ランはにこにこしながら、
「大丈夫ですよ。さんに振られても、私たちがちゃんと次を用意してあげますから。センパイがお世話になってるんですから、それくらいお安い御用です」
「よかったですねぇ、斎藤さん。私に感謝してくださいよ」
「何が感謝だ、この阿呆兎!」
良い感じに酔いが回ってへらへら笑う兎を、斎藤が叱りつける。
まったく、どいつもこいつも兎のくせに人間様を何だと思っているのか。ラン、スー、ミキの三羽は兎も角として、斎藤家の兎は彼に養ってもらっている立場である。飼い主様に向かってその口の利き方は如何なものか。四羽まとめて最寄りの山に捨てに行きたいくらいだ。
眉間に皺を寄せて静かに怒りを溜めている斎藤に気付いて、スーが機嫌を取るように甘ったるい声で話しかける。
「斎藤さん、そんな顔しないでくださいな。これ食べて機嫌直して。ね?」
「そうですよ。今夜はさんも来ないことですし、羽目を外して楽しみましょうよ」
そう言ってランが斎藤に抱きついた時、玄関の方で何かが落ちたような大きな音がした。
何事かと思う間も無く障子が乱暴に開けられて、真っ青な顔をしたが姿を現した。
「なっ……な、何でっ………?!」
予想外のの登場に、斎藤は赤くなるやら青くなるやらでみっともなくうろたえてしまう。慌ててランを振り払ったものの、もう何もかもが手遅れである。
今夜は用事があるから来ないと言っていたのに、何故が此処にいるのか。しかも、よりにもよって、ランが抱きついている時に。これではがいないのを良いことに女を引き入れて馬鹿騒ぎをしていたようではないか。
この三人は勝手に上がり込んだのだが、宴会を始めるのを許してしまったのは斎藤だ。引き入れたとに責められても言い訳出来ないものかもしれない。
が、この三人の正体は兎である。これは他所の女を引き入れたのではなく、兎と戯れていただけなのだ。この三人はたまたま人の姿を取ることのできる兎というだけなのだから、問題は無い―――――と考えてはみたが、これでが納得するとは斎藤も思えない。けれど一応言ってみる。
「こっ……これは兎だ! 人間の女に見えるかもしれんが、本当は兎なんだぞ!」
「………最近の兎さんは着物を着て、お化粧もするんですね」
真っ青な顔のまま、は呟くように応える。金切り声を上げて泣き叫ぶのを覚悟していたが、この反応の方が斎藤には恐ろしい。
の目は見たことも無いほど冷やかで、もう軽蔑とか嫌悪とかを軽く超越している。女は冷める時はあっという間だというが、も一瞬にして絶対零度まで冷めてしまったような顔だ。
「早く帰れたからご飯を作りに来たんですけど、お邪魔だったみたいですね。材料置いていきますから、その兎さんたちに作ってもらってください。明日からもずっと兎さんに作ってもらうといいですよ」
無表情でそれだけ言うと、はくるりと背を向けて出て行ってしまった。
「あーあ、神様の言ったとおりになっちゃいましたねぇ。赤い糸がどんどん細くなっていってますよ」
兎なだけに重苦しい雰囲気を察することが出来ないのか、ミキが暢気に言う。
「ま、さんに振られても、私たちが次を用意してあげますから。さんよりもっと可愛くて美人な人とくっ付けてあげますよ」
「そうそう。他所の男の人とくっ付いてても、赤い糸をぶっちぎって斎藤さんのと結び直せばイチコロですって」
慰めているつもりなのか、ランとスーも明るく言ってのける。
兎の感覚では、振られてもすぐに美人とくっ付ければ問題無しなのだろうが、人間の斎藤はそうはいかない。どんな美人を用意されても、の方が良いに決まっている。斎藤の仕事のことを理解して、公私ともに世話をしてくれて、おまけに可愛くて素直な女というのはなかなかいないのだ。
「馬鹿なことを言うなっっ!」
さっきまでに絶対振られるわけがないと安心しきっていたが、あの顔を見たらそんなことは言ってられなくなってきた。このままでは本当に振られてしまう。自分の落ち度で振られるなら兎も角、こんな兎どものせいで振られてたまるものか。
子供っぽくて扱いに困ることもあるが、は出来た女である。本人に面と向かって言ったことは無いが、いつも感謝している。兎たちがどんな女を連れて来たとしても、に敵うわけがない。
今から追いかけてもう一度話せば誤解は解けるだろうか。否、何としてでも解かなければ。兎のせいで別れるなんて馬鹿馬鹿しすぎる。斎藤も慌ただしくを追って出て行った。
「行っちゃいましたねぇ。放っといたって美人を用意してあげるのに」
「ねぇ。去る者は追わずです」
「ほんと、ほんと」
呆れたように言うランに、スーもミキも同調する。三羽には、折角美人に乗り換えるいい機会なのにに拘る斎藤の気持ちが理解できないのだろう。
兎はというと、何やら真剣に考え込んでいる。そして思い切ったように、
「やっぱり斎藤さんにはさんじゃないと駄目です! 私たちも追いかけますよ!」
そう言うが早いか、兎は勢いよく走り出した。
追いかけてそれほど経たないうちに、とぼとぼ歩いているの後ろ姿が見えた。
「っ!」
斎藤がの腕を掴んで引き寄せる。少しは抵抗するかと思ったら、あっさりと捕まえられた。
「あれは本当に兎なんだ。うちの兎の後輩で―――――」
「兎さんの後輩は人間なんですか! どうせならもっとましなことを言ったらどうです?!」
金切り声を上げながら、は心底情けなくなってきた。
自分がいない間に女を三人も連れ込んでいたことは勿論悔しくて悲しかったが、これ以上にこんな言い訳をすることが情けない。素直に謝られれば考えないでもないが、こんなことを言われては百年の恋も一気に冷めきってしまう。
「いや、あれは人間に変身しているだけでだな。ほら、前に兎がお前になったことがあっただろう。あれと同じだ」
「あんなことができる兎さんが何羽もいるわけがないじゃないですか! もういいです! 兎さんでも人間でも好きにしてください!」
「だから―――――」
「斎藤さぁーん! さぁーん!」
必死に説得しようとする斎藤の声に、兎の声が重なった。振り返ると、兎とラン、スー、ミキが走って来ている。
「さん、早まっちゃ駄目です。このランちゃんとスーちゃんとミキちゃんは私の後輩です。いつもお世話になっている斎藤さんの接待をしてもらってただけですよ。
お前たち、元の姿に戻りなさい」
「は〜い!」
息を切らしながら指示する兎に従い、三羽はポンっと兎の姿に戻った。
「うわぁ………」
美少女達が本当に兎の姿になって、は目を丸くするしかない。斎藤の言ったことは本当だったのだ。
唖然とするに、一羽の兎が説明する。
「さんが出て行った後、もっと美人を用意してあげますって言ったんですけど、斎藤さん、さんじゃないと駄目らしくって。だから元に戻ってあげてください」
「えっ………?!」
後輩兎の言葉に、の顔が一瞬で真っ赤になる。
以上の美人よりもの方が良いだなんて、本当だろうか。斎藤を見ると、困ったような顔であらぬ方を見ている。そんな様子を見ると本当なのかなと思うが、美少女兎たちにちやほやされてまんざらでもなさそうな様子を思い出すと、またむかむかしてくる。
そんな半信半疑のに、斎藤の兎が別の方向から説得する。
「考えてもみてくださいよ。斎藤さんが浮気なんか出来る人に見えますか?私にはそんなことが出来る人には見えません」
「それは………」
それは兎の言う通りだとも思う。斎藤はいつだってのことだけを見ていて、他の女に目をくれたことは一度も無いのだ。それを思えば、浮気を疑うなんてありえない。
兎の言葉に、斎藤も感動した。いつも減らず口ばかりの生意気な兎だと思っていたが、よく主人のことを見ているではないか。この兎は人間よりも人を見る目がある。
ところが―――――
「大体ね、浮気をするには相手をしてくれる女の人がいないと駄目なんですよ? さんは斎藤さんを余程いい男だと思っているみたいですけど、世間様から見たらそうでもないんですから」
兎のその一言に、斎藤はがっくりしてしまった。
兎の目から見れば斎藤は“そうでもない”のかもしれないが、それは今言うことではないだろう。折角兎を見直したというのに、やはりただの獣だ。
説得力のある良いことを言ったと思っているのか、兎は満足げに鼻をひくひくさせている。そんな兎には顔を真っ赤にして、
「そんなことないもん! 一さんは世界一だもん!」
「いやー、そんなことありますって。恋は盲目ですねぇ」
微笑ましいと思っているのか馬鹿にしているのか、兎はにやにや笑っている。兎のくせに人間に対して上から目線とは、生意気な奴である。
“一さんは世界一”というのは言い過ぎだと斎藤も思うが、兎なんぞに否定されるいわれは無い。が世界一と言うのなら、黙って頷いてやれば良いではないか。
「ま、世界一かどうかは別にして、斎藤さんを振らないであげてくださいよ。斎藤さんはさんじゃなきゃ駄目なんですから」
「………………」
兎の言葉に、は様子を窺うようにちらっと斎藤を見上げる。兎の言葉を疑っているわけではないだろうが、斎藤からの言葉を待っているのだろう。
ここでうまいことを言えれば良いのだが、残念ながら斎藤は女が喜ぶようなことを言える性格ではない。言葉が出てこなくて、難しい顔で唸っているのがせいぜいだ。
肝心な時にへたれてしまう斎藤を奮い立たせるように、兎たちが足許に集まって口々に意見する。
「ほらほら斎藤さん、びしっと言ってあげてくださいよ」
「ここでキメとかないと、本当に振られちゃいますよ」
「世界一なところを見せてくださいよ。ほらほらほら〜」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
兎たちには悪気は全く無いのだろうが、こいつらがいるから余計に言い出せないのだ。兎は兎らしく黙ってろと言いたい。
後輩兎たちに囃し立てられて唸るだけの斎藤を見て、兎は情けないとばかりに深いため息をついた。
「みんな、一旦引き揚げますよ。私たちがいると、斎藤さんは何も言えなくなりますから」
「えー………」
「みんなの前で言ってこそ意味があるんじゃないですかぁ」
「二人きりにしたら、もっと言わないですよぉ」
「うるさいですよ! さっさと帰るですよ!」
口々に不満の声を上げる後輩たちに、兎が先輩らしくびしっと締める。後輩兎たちはまだ不満そうに小声で何やら言い合っていたが、兎が一睨みすると渋々ながら斎藤から離れていった。兎の世界の上下関係というのは厳しいものらしい。
兎たちが去って、漸く二人きりになった。二人きりになったとはいえ、気の利いた一言が出ないのは変わらない。
「………一さん?」
促すようにに見上げられ、斎藤はますます言葉に詰まってしまう。兎たちから口々にせっつかれるのもきついが、こんな無言の圧力もきつい。
から好きだという気持ちを真っ直ぐに伝えられるのは、斎藤も嬉しい。だからこそ斎藤からもそう言う言葉を返さなければならないとは思うのだが、言葉にするのはどうも抵抗があるのだ。くらい若ければ簡単に言えるのだろうかとも考えるが、簡単に言えるようではその程度の軽い気持にも思えてくる。
しかし言葉にしなければどんな気持ちも伝わらないわけで、そこが斎藤には何とも悩ましい。これまでは唸るだけでやり過ごしてきたところがあるが、これから離れ離れになるかもしれないことを考えれば、きちんと言葉にして伝えておくべきだろう。
「その……まあ、何だ………。うん、あれだ、アレ。ほら、何というか………」
今度こそちゃんと言おうと思っているのに、口から出るのは意味不明の言葉だけだ。まるで肝心なことを言うと死んでしまう呪いが掛けられているようである。
変な汗をかきながらしどろもどろになって「あれ」を繰り返す斎藤をじっと見上げていたが、急に可笑しそうに噴き出した。
「そんなに固くならなくていいじゃないですか。もう良いですよ、“あれ”なんですね」
可笑しくてたまらないとばかりに、は笑い転げる。
ちゃんと“でなければ駄目”と言ってもらえないのは残念だが、沈着冷静な大人の男が汗をかきかき「あれ、アレ」と繰り返している姿は可愛くて可笑しい。こんな斎藤の姿を見ることができるのはだけで、それは彼女が彼にとって特別ということだ。
斎藤が平然と「好き」だの「愛してる」だの言い出したら、多分そっちの方が嘘臭いと感じてしまうだろう。そういう言葉も言って欲しいけれど、でも言えなくて困っている斎藤の方が斎藤らしい。いつも冷静で仕事ができる大人の男のくせに、こういう可愛い面もあるから“世界一”なのだ。
けらけら笑うの様子にほっとしつつも、何だか良いように扱われているようで斎藤はむすっとしてしまう。そんな顔を見てはますます可笑しそうに笑った。
困った顔をしたり恥ずかしそうにしたり、むすっとしたり、斎藤はの前ではとても表情が豊かだ。恵の話では、いつもつまらなそうな顔か馬鹿にするように鼻で笑うだけだというから、こういう表情豊かな斎藤を見ることができるのはだけだということなのだろう。それだけでもは斎藤にとって特別な存在だということだ。そういうことが“じゃなきゃ駄目”なのだと解釈してみる。
ひとまず一件落着だが、こうやってにけらけら笑われていると、“大人”の威厳が台無しである。ここは一つびしっとしなくては、と斎藤は思い切って言う。
「と……とにかくアレだ。要するに、お前と同じだ」
思い切った割には腰砕けな台詞である。大人の威厳を保つどころか、はますます可笑しそうに笑った。
「あー、何か、赤い糸の太さが元に戻ったみたいですねぇ。あんなに切れそうだったのに」
斎藤の家でアケビを食べながらミキが言う。
「ま、私が本気を出せばこんなもんです。縁結びは押すだけじゃ駄目なんですよ。引いて見守ることも大事です」
偉そうに胸を張って、兎は得意げに鼻を鳴らした。
「流石センパイです!」
「斎藤さんはセンパイに感謝しないと駄目ですね!」
「これからも斎藤さんを見守ってあげてくださいね!」
後輩たちに持ち上げられて、兎は気持ち良さそうに鼻をぐふぐふ鳴らす。自分たちで引っかき回しておいていい気なものであるが、誰もそのことには気付いていないようだ。
「斎藤さんは私がいないとダメダメな人ですからねぇ。もう大変ですよ。
さあ、今日はぱぁっといきましょう! 一仕事した後のお酒は美味しいですねぇ」
斎藤が聞いたら殴りつけそうな台詞であるが、本人がいないと言いたい放題である。後輩兎たちも尤もだとばかりに頷き、仕事の成功を祝って派手に乾杯するのだった。
兎さん、何もしてないやん………。
何だか、兎さんさえいなければ斎藤と部下さんの関係は飛躍的に進むのではないかとすら思えてきましたよ(笑)。斎藤がそのことに気付いたらヤバいな。
っていうか、家主がいない間に宴会なんかして、後で斎藤にお鍋にされないのか、兎さん?