夜明けあと

 帰ったら異人さんがいた―――――と思ったら、蒼紫だった。いつもは着物姿でいるのだが、何故か洋装だったのだ。
「どうしたんですか、その格好?」
 最近では洋装の日本人をよく見るようになって、今更驚くことも無くなったがだが、流石に蒼紫の洋装姿には驚いた。
 御一新の直後に断髪したり、変わった形のコートを着てみたり、どうやら蒼紫は新し物好きな性格のようだとは思っていた。が、一揃い買ってしまうとは思わなかった。一体いつの間に誂えたのだろう。
 びっくりして固まっているの反応が気に入ったのか、蒼紫は上機嫌だ。洋装が嬉しいのかもしれないが、いつもは感情を表に出さない彼にしては珍しい。
「どうだ、似合うか?」
 “似合う”以外の答えは許さないような自信満々な様子で蒼紫は尋ねる。
 本人が自信を持って披露するだけあって、確かに蒼紫の洋装は似合っている。日本人離れした長身と体格の良さのお陰で、本物の西洋人のようだ。日本人でここまで洋装が似合う者はそういないとも思う。
 だが、いくら似合う洋装姿でも和装姿に慣れたの目には違和感があり過ぎだ。即座に「よくお似合いです」と言ってやるべきなのだろうが、驚きすぎて言葉が出ない。
「どうした?」
 唖然としたまま言葉が出ないに、蒼紫は怪訝な顔をする。手放しで褒められるつもりが反応が薄くて、少しがっかりしているようだ。
「あ、いえ………。お似合いだとは思うんですけど………」
「けど?」
「何ていうか、びっくりしちゃって………」
 最大限に言葉を選んで、はしどろもどろになって答える。
「ああ、見慣れないとそうかもしれない」
 “似合う”という言葉だけが耳に残ったらしく、蒼紫はすぐに機嫌を直した。
 自分に調子の良い言葉だけ耳に入るなんて、余程初めての洋装に浮かれているのだろう。洋服は高価だと聞くから、喜怒哀楽に乏しい蒼紫であっても浮かれるのは無理もない。
 まあ、多少違和感があっても似合っているのだから、に言うことは無い。こんなに嬉しそうな蒼紫を見るのは嬉しい。
「でも、どうして洋装なんですか? 何処かへお出かけなんですか?」
 蒼紫は殆ど引き籠りのような生活なのだから、洋服を誂えてもそれを披露する機会は無いような気がする。これをきっかけに外出をする機会が増えれば良いが、とは思う。そしてその時は自分がお供をしたい。
 洋装の蒼紫と外出したら、きっと注目の的だろう。洋装は珍しいものではなくなりつつあるが、蒼紫ほど洋装が似合う男はそういないのだ。
 洋装の蒼紫と連れ立って街を歩く自分の姿を想像したら、は胸がどきどきしてきた。彼女は典型的な日本人体型だから着物しか着ないが、洋装の男と和装の女の組み合わせはいかにも文明開化といった感じだ。
 自分の想像にうっとりしているに、蒼紫は急に真面目くさった顔で、
「これからは西洋化の時代だ。今から少しずつ慣れていかんとと思ってな」
 尤もらしいことを言っているが、要するに新しい格好をしたいのだろう。蒼紫は陰気な性格の割に着道楽なのだ。
 洋装に慣れるほどに洋服を誂えるとなると金がかかって仕方無そうだが、楽しみを持つのは良いことだ。蒼紫はこれといって金のかかる道楽はしないのだし、これをきっかけに外に目を向けるようになれば『葵屋』の皆も喜ぶだろう。
 御一新の前後はいろんなことがあり過ぎて、ずっとあの頃を引きずっていた蒼紫に漸く新しい時代を楽しむ余裕が出来たのだ。何かに追い立てられているかのように急速に西洋化していく世の中に戸惑ってばかりだっただが、この動きが蒼紫が変わるきっかけになるのなら、ありがたいと思う。
 しかし―――――初見の衝撃が薄れて落ち着いて蒼紫の姿を見ると、この装束はとても暑そうに見える。首まできっちり詰まった長袖のシャツの上に、首周りを締め付けるようなネクタイ。更に長袖の上着である。ズボンも日本の袴と違って脚との間に隙間があまり無さそうで、上も下も恐ろしく風通しが悪そうだ。おまけに白い手袋までしている。見た目はいかにも文明開化らしくて格好良いが、あまり快適ではなさそうである。
「蒼紫様、暑くないですか?」
 文明開化も良いが、こんな格好をしていては蒼紫が逆上せてしまうのではないかと心配になってきた。
 それは蒼紫も感じていたようで、神妙な顔で、
「暑いが、これに慣れねばならん」
 どうやら彼も相当我慢していたようだ。西洋のお洒落というのは忍耐力を求められるものらしい。文明開化も大変である
「上着を脱いだらどうです?」
「いや、上着まで着て一揃いだから、このままでいい」
「じゃあ、せめて手袋だけでも外したら如何です? 家の中ですし」
「いや、イギリス人は家の中でも手袋をしているそうだから、これでいい」
「でも、イギリス人も真夏には手袋はしないと思いますよ」
「彼の国では素手を見せないのが作法らしい。紳士も淑女も一年中手袋をしているそうだ」
 何に対してそんなに意地を張っているのか、蒼紫は頑なだ。外でなら兎も角、家の中なのだから多少く崩しても良いのではないかとは思うのだが、快適性より作法の方が大事らしい。
 とりあえず蒼紫が英国紳士を目指していることは解った。イギリス人は体裁を重んじると聞くから、家の中でも手袋という話は本当なのかもしれない。
 しかし此処は日本である。気候もあちらとは全く違うだろう。イギリスは北の方にあると聞くから、家の中でも手袋をしないと寒いだけかもしれないではないか。
 いろいろ突っ込みたいところはあるが、どこから突っ込めばいいものか分からない。どうしたものかと悩むに、蒼紫は自分の目指す方向性を楽しげに語り始めた。
「まあ日本の西洋人もこんな格好をしているから、すぐに慣れるだろう。あとは帽子とステッキだな。イギリス紳士に外せない道具らしい」
「ステッキ?」
「杖だ」
「杖?!」
 これにはは頓狂な声を上げた。杖なんて、翁だって持ってはいない。イギリス紳士というのは杖をついて歩かなければならないほど足腰が弱いのだろうか。
「蒼紫様はまだ足腰も丈夫ですから、杖は要らないんじゃ………」
「あれは実用で持つわけじゃない。侍の刀みたいなものだ」
「ああ、まあねぇ………」
 考えてみたら、杖をついて歩く虚弱な英国紳士ばかりではイギリスが一等国になれるわけがない。しかし、刀なら護身用にもなろうが、本当に何の使い道も無い杖をわざわざ持ち歩くなんて、イギリスは変な国である。
 には突っ込みどころが増えただけだが、蒼紫は全く気付いていないようだ。本人がそれで良いと思っているのなら、外野が口を出すことではない。
 蒼紫が目指す英国紳士の完成図を想像してみる。かぶる帽子はやはり山高帽だろうか。それは一寸似合わないような気がする。
 英国紳士完成予想図にが微妙な気持ちになっていると、それに追い打ちをかけるように蒼紫がとんでもないことを言った。
「それから髭も生やさないといかんのだが、どういうのが良いと思う?」
「えっ?!」
 髭を生やした蒼紫の顔なんて、には想像がつかない。頑張って想像してみようとはするのだが、どうしても頭が拒否してしまうのだ。
 外国人には髭を生やしているものが多い。あちらの国では紳士の印なのだそうだ。日本でも顔に威厳を持たせるために髭を生やしたりするし、も髭のある顔は嫌いではないが、蒼紫の顔に髭が付いているのはどうかと思う。どうかと思うどころか、積極的に反対したい。
「ダメダメダメダメダメっっっ!!! 髭は絶対駄目ですっ!! そんなもの必要ありません!!」
「し……しかし紳士になるには髭は外せないらしいから………」
 それまで大人しく話を聞いていたが血相を変えて猛反対したものだから、蒼紫は少々引き気味だ。そんな彼の様子にお構いなしに、は興奮したまま話し続ける。
「髭が無いくらいで紳士と認められないなら、紳士じゃなくて結構! 見た目なんか関係ありません! 蒼紫様は今のままでも十分紳士です!」
「そ……そうか?」
 “蒼紫様は紳士”という言葉が強烈に響いたらしく、蒼紫は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「それなら髭はいらないかな………」
「ええ! 蒼紫様は今のままで十分です!」
 念を押すようには力強く言い切る。
 蒼紫が髭を断念してくれたことには心底ほっとした。蒼紫が髭を伸ばし始めたら、寝ている間に剃るしかないと本気で考えていたくらいなのだ。
 今回は何とか阻止できたものの、蒼紫のことだからまた変な知識を仕入れてきて、おかしなことをしでかしそうである。蒼紫が文明開化を楽しむのは結構だが、これからずっと彼の行動を監視しなければならないのかと思うと、は微妙な気持ちになるのだった。
<あとがき>
 操ちゃんが子供の頃(御一新直後?)から断髪してたりあのコートを着てたり、蒼紫って実はハイカラ好きなんじゃないかと思います。『春に桜』でもスーツ姿を披露してましたしね。もしかしてるろ剣一のお洒落さんじゃないか?(笑)
 御一新前後は色々あって思うところもあったでしょうが、文明開化な生活を楽しんでくれていたらいいなあ、と。
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