あなたじゃない!

 最近衣装が増えたので、箪笥を大きなものに買い換えた。しっかりした立派なものにしては安く買えたし、これだけの大きさがあれば嫁入りの時にも持って行けそうだ。まだには嫁入りの予定は全く立っていないけれど、自分の買い物に大満足である。
 けれど安いものには必ず理由があるもので、この箪笥も宅配は無いとのこと。自分で持ち帰って自分で家に入れなければならないわけである。女の一人暮らしでそれは無理な相談で、かといって別料金を出して宅配と設置を頼むと通常の値段よりも高くついてしまうし、これでは安物買いの銭失いだ。
 というわけで、斎藤に頼み込んで二人の休みが重なった日に運び込みと相成ったのである。
「まったく………。安いからって飛び付くからこんなことになるんだ。大体、上司を休日に使うなんてどういう了見だ?」
 荷車から箪笥を下ろしながら、斎藤がブツブツと不満の声を漏らす。そう言いながらも、心の底から腹を立てているようではないのは、何だかんだ言っても手伝ってくれているところで一目瞭然だ。が提案した“お礼”が効いているのだろう。
 それが判っているから、は荷車から下ろすのを手伝いながら楽しげに応える。
「だって、こんなこと頼める男の人の知り合いって、斎藤さんしかいないし。それに、お礼は体で返すって言ったじゃないですか」
「天下の往来で誤解を招くような言い回しをするんじゃない!」
 実はこの作業を手伝ってもらう代わりに、一週間だけ斎藤の家に家事をしに通う約束をしたのだ。掃除に炊事に洗濯、それに毎日の弁当作りまで付いているのだから、よく考えてみれば運賃より高く付いているような気がしないでもないが、今月は一寸金欠なので、現金を払わなくて良いならそっちの方がいいかなとは思う。それにこの約束を口実にして、職場以外でも斎藤と一緒にいれるのだから、にとっては願ったり叶ったりの条件だ。
 掛け声をかけて同時に箪笥を持ち上げると、二人はゆっくりと家の中に入る。造りがしっかりしているだけあって重量があるし、大きさも結構あるから、思ったよりも運び込みには苦戦してしまう。持ち上げていると斎藤との間に大人と子供ほどの身長差があるのだから、尚更だ。
「一人暮らしのくせに、どうしてこんなでかい箪笥がいるんだ?」
 後ろ向きに家に上がりながら、斎藤が当然の疑問を発した。いくら女とはいえ、独り暮らしの家にこんな大きな箪笥が必要だとはとても思えない。
 けれどは涼しい声で、
「いやあ、安かったんで。それに、そろそろ結婚とかも考えなきゃいけない歳だし、それだったらお嫁入りに持っていけるようなのを買っちゃおうかなあって」
「道具だけ揃えてどうするんだ。予定も無いくせに」
「ひどぉい! もしかしたらある日突然とかあるかもしれないじゃないですか」
 斎藤の冷め切った呟きに、は甲高い声を上げて持ち上げていた箪笥をぐいぐいと押した。
 確かに斎藤の言う通り予定は無いけれど、でももしかしたら突然斎藤から求婚されることもあるかもしれないじゃないか。手も握ったことも無いけれど、でも夕立の雷が怖くて堪らなかった時は抱き締めてくれたことがあったし、七夕の時は「ずっと一緒だ」って言ってくれたのだから、のことを憎からず思っていることは確かだ。斎藤は何をするにしても突然だから、きっと求婚してくる時も突然だと思う。
 もし斎藤が求婚してくれたら、いつでも二つ返事で受けるつもりだ。今すぐ結婚しようと言われたとしても、この場で箪笥を置いて役所に婚姻届を貰いに走るだろう。それくらい、は斎藤のことが好きだ。
 もしかして、一週間家事をしに通えと言われたのも、の家事の腕前を見るためなのだろうかと、一寸考えてみる。ご丁寧に弁当を作れと言われたのも、結婚したら愛妻弁当というやつを持って行きたいと思っているのだろうか。
 妄想が止まらなくなっていつの間にやらニヤニヤし始めてしまったの顔をちらりと見て、斎藤は呆れたように溜息をついた。
「その妄想癖が治らん限り、嫁の貰い手は付かないんじゃないか? ほら、早いところ終わらせるぞ」
「うっ………」
 顔を真っ赤にして、は言葉に詰まってしまった。妄想癖がばれていたのは分かっていたが、こうやって指摘されると恥ずかしい。妄想の内容まで知られてしまったのではないと思う時さえある。
 恥ずかしくて俯いたまま、はぐいぐいと箪笥を押す。
「うわっ?! 阿呆、そんなに押したら………」
 早いところ終わらせるとは言ったが、後ろ向きに歩いている斎藤の都合も考えずに前に進まれたらたまらない。ただでさえよろよろしているのに、ますます足許がふらついてしまって、斎藤はそのまま後ろ向きに転倒してしまった。
「きゃあぁっっ!! 斎藤さんっ?!」
 箪笥の下敷きになってしまった斎藤に駆け寄って、は慌てて箪笥を押し退ける。あんなに重いと思っていた箪笥だが、火事場の馬鹿力というやつなのか、案外あっさりと退かすことができた。
 血は出ていないが、頭を打って脳震盪を起こしたらしく、意識が無い。
「どうしよう………」
 ぺたんと座り込んでは泣きそうな顔で呟いた。
 目立った外傷は無いし、呼吸も正常なようだから、多分大したことにはなっていないとは思う。でもこのまま目を醒まさなかったら………などと不吉なことも考えてしまって、そうなったらが責任を取って一生介護をしなければならないのだろうかと考える。日頃から妄想逞しいから、不吉なことも一度考え出すと止まらなくなるらしい。
 とりあえず、頭を打った時は迂闊に動かしてはいけないというから、そのままの状態では耳元に顔を近付ける。
「斎藤さん、斎藤さん」
「ん………」
 昏睡状態にはなっていなかったらしく、斎藤は一旦ぎゅっと目蓋に力を入れると、ゆっくりと目を開いた。焦点の合わないぼやけた目のままゆっくりと起き上がって、軽く頭を振る。
「斎藤さんっ!」
 不快そうに後頭部を擦っている斎藤を見て、の表情がぱっと明るくなる。さっきは不安で泣きそうになったが、今度は嬉しくて目が潤んでしまう。
 目を潤ませているの顔をじっと見ていた斎藤だったが、不意ににっこりと微笑んだ。
「………え?」
 斎藤が“にっこりと微笑む”なんて初めて見た。警邏中におかしな胡散臭い作り笑い顔になったり、皮肉っぽく笑うことはあるけれど、こんな風ににっこりと穏やかに笑う斎藤など、一年近い付き合いで初めて見た。
 猫が二足歩行するのと同じくらいありえないものを見てしまったような気分になって、は大きく目を見開いたまま硬直してしまった。やっぱり悪いところを打ってしまったのだろうか。
 石のように固まってしまっているの様子など気にも留めてないように、斎藤はの顔に手を伸ばす。そして、指先で頬をすっとなぞりながら、
「どうしたんだ、そんな変な顔をして。花のかんばせが台無しじゃないか」
「は……花の顔ぇ?!」
 斎藤の口から出たとは思えない言葉に、は顎が外れるのではないかと思うほど唖然としてしまった。この男が“花の顔”などという表現を知っているということも驚きだが、それを口にするというのはもっとありえない。やっぱり悪いところを打ってしまったらしい。
 にっこりと微笑んだり、小洒落た言い回しをする斎藤なんて、斎藤じゃない。たまにはそんなことをしてもらいたいなあとは思っていたけれど、いざそういう状況になると、何だか違和感ありまくりで怖い。
 硬直したまま斎藤の顔をよく見ると、瞳孔が全開になっている。一応こうやって意識が戻って動いてはいるものの、本当に意識が戻っているわけではないようだ。ということは今の斎藤は、通常の意識の下にあるもう“一人の斎藤”ということなのだろうか。
 最近読んだ翻訳ものの本で、人間の意識について書いてあるものがあった。それによると、日常生活を送る“対外的な自分”と、普段は決して表に出ることの無い“もう一人の自分”というのがどんな人間にもいるのだそうだ。そして、泥酔したり寝ぼけたり、何らかの条件で通常の意識が眠ってしまった時に、理性に抑えられることの無い“もう一人の自分”が出てくることがあるのだとか。ということで、今の斎藤は“もう一人の自分”というか“中の人”が出ている状態ということらしい。
 通常、“中の人”の方が“外の人”よりも粗暴だったり性格が悪かったりするはずなのだが、斎藤の場合は“中の人”の方が感じの良い人のようだ。こういう人間も珍しいだろう。斎藤はあんまり人付き合いが好きな方ではないようだから、もしかしたら普段はわざと感じの悪い人を演じていたのだろうか。にはよく解らない。
「そうだ。この箪笥は何処に置くんだ?」
 横に転がっている箪笥をぺちぺちと叩きながら言う斎藤の言葉に、は現実に引き戻された。
「あ、これはそこの空いている所に置きます。じゃ、あたし、こっち持ちますね」
 斎藤が元に戻る方法を考えるよりも、とりあえず目先の箪笥だ。箪笥を運んでいるうちに、もしかしたら本当の斎藤が目を醒ますかもしれないし。それに、こんな斎藤というのは二度と見られないのかもしれないのだから、もう一寸だけ見ていたい。
 が箪笥の端を持ち上げようとした時、それを制するように斎藤の手がの手首を掴んだ。
「女の子がそんな重いものを持つのは良くない。ほら、指に箪笥の角の跡が付いて、真っ赤になっているじゃないか。かわいそうに」
 そう言いながら、斎藤は赤くなっているの掌を優しく擦る。大きな掌に包まれているだけでもドキドキするのに、こうやって優しく擦ってもらえるなんて、やってもらっている今でも信じられない。おまけに斎藤は優しく微笑んでいるし、何だか夢みたいだ。いっそこのままの斎藤でいてくれないかと、は不謹慎なことを考えてしまう。
 真っ赤になって目を潤ませているを見て、斎藤は可愛くて堪らないといった感じで喉の奥で小さく笑う。そして指先に唇を触れさせて、
「お母さんからこんなに綺麗な手を貰ったんだから、大切にしないとな」
 あまりのことに、は全身の毛が逆立つかと思った。頭の先からつま先まで真っ赤になって、全身が心臓になったかのようにドキドキする。びっくりするやら嬉しいやら、自分でもよく分からなくて、頭の中が混乱して真っ白になってこのまま倒れてしまいそうだ。
 手に接吻をしてもらえるなんて、外国の物語に出てくるお姫様みたいだ。まるで自分が物語の主人公になったような気分になって、その辺をくるくる回りたいくらいだ。
 いつもは素っ気無い斎藤が、自分をこんなお姫様みたいに扱ってくれるなんて、夢みたいだ。もうずっとこのまま、斎藤が元に戻らなければ良いとさえ思えてくる。
 真っ赤になって呼吸が荒くなるから手を離して、斎藤は倒れている箪笥を見下ろす。
「かといって、一人で運ぶというのはどう考えても無理だな。近所の人間に手伝ってもらうか。この辺りで男でのある家は何処だ?」
「………あ、隣の隣のおじさんが、確か今日は仕事が休みだって………」
 まだドキドキしている胸を押さえて、は小さく答えた。





 近所の人に手伝ってもらって、漸く箪笥はあるべき場所に納まった。周りの家具に比べると妙に存在を主張している大きさだが、はまあ満足している。
 手伝ってくれた男に丁寧に礼を言って、と斎藤は遅めの昼食をとることになった。大した献立ではなかったのだが、斎藤は相変わらずにこやかにの料理を褒めちぎってくれて、いつもつまらなそうにの作った酒の肴を食べる彼とは別人だ。頭を打って二時間は経つというのに、まだ元に戻っていないらしい。
 最初のうちこそ、このまま優しい斎藤でいてくれたら良いなあと思っていたが、こうも別人状態が続くと、居心地が悪いというか、落ち着かない。情けないことに、斎藤には優しくされるよりも、雑に扱われる方が落ち着くらしい。
 考えてみれば、いつもは雑に扱っているのに、時々優しい言葉をかけてくれたり丁寧に扱ってくれるから、その扱いが嬉しくて舞い上がれるのだ。それをメリハリ無く優しくされても、優しさのありがたみというものが無くなって、それどころか胡散臭く感じてしまう。我が儘だと言われればそうなのだが、仕方が無い。
 もう一度頭を打ったら元に戻るだろうかと、は食後に出す林檎を剥きながら考える。同じところを上手い具合に打ったら、その衝撃で頭の中の接触が良くなってもとの斎藤に戻るかもしれない。が、もし下手なところを打ったらとんでもないことになる可能性もあるわけで、試すには危険が大きすぎる。もし失敗して今度は粗暴な斎藤が現れたら、の手には負えないのだ。
 林檎を兎型に剥いて皿に載せると、斎藤が待っている部屋に戻った。
「林檎、剥けました」
「ほう、兎か。やっぱり若い娘が切ると、同じ林檎でも全然違うな」
 林檎を一つ摘み上げると、斎藤はしげしげと見詰める。やっぱり元には戻っていないらしい。いつもの斎藤だったら、林檎をこんな切り方をしたら、うんざりしたような呆れたような顔をするはずだ。
 斎藤に気付かれないようには密かに溜息をつくと、彼の隣に座る。やっぱり箪笥に頭を叩きつけるしかないだろうかと、物騒なことを考えた。
「ほれ、食え」
「へ?」
 林檎を口許に突きつけられ、は困惑したように斎藤を見た。どうやら斎藤の手から林檎を食えということらしい。
「やっ……それは………」
 これには流石のもあわあわしてしまった。相手の手から直接林檎を食べるなんて、まるで熱愛中の恋人同士のようではないか。しかも相手は斎藤である。太陽が西から昇ることがあっても、これだけはありえない。
 真っ赤になって目が泳いでしまっているを見て、斎藤は可笑しそうに目を細めた。そして林檎をの唇に触れさせて、
「いいから食え」
「あぅぅ………」
 食べるまで解放してくれなさそうな斎藤の様子に、は観念したように林檎の端に噛み付いた。
 口の中に入れれば手を離してくれるかと思いきや、そんな様子は全く無くて、は仕方なくシャリシャリと林檎を食べ続ける。もう少しで指に噛み付いてしまうというところまで来たところで漸く手を離すと、斎藤は指先での口に残りを押し込んだ。
 指先が唇に触れて、それだけでは身体に電流が走ったようにビクッと身体を震わせてしまった。その様子が余程可笑しかったのか、斎藤はくつくつと肩を揺らして笑う。
「お前、兎みたいな奴だな」
「兎みたいって………」
 何だか馬鹿にされているようで、は俯いて膨れる。
「兎みたいに可愛いってことだ」
「……………っ!!」
 思わず気絶しそうになってしまった。斎藤の口から“可愛い”なんて評価が出てくるとは。今の斎藤は本当の斎藤ではないけれど、でも斎藤の口から“可愛い”と言われるのは気絶しそうなほど嬉しい。
 心臓がバクバクして、血液がものすごい勢いで全身を巡っている音が聞こえるような気がする。今に血管を突き破って毛穴から血が噴き出すのではないかと思うくらいだ。
 そんなの様子にはお構いなしで、斎藤は次の林檎を彼女の口許に持ってくる。
「あ……斎藤さんも食べてください」
 またあれをするのかと思うと恥ずかしくて、は蚊の泣くような声で言う。
「そうだな………」
 独り言のように呟くと、斎藤は林檎を皿に戻した。そして耳まで紅くなっているを見てニヤリと笑うと、その背中に腕を回して強引に引き寄せた。
「うわあああああっっ!!」
 あまりのことにわけが分からなくなって、は色気もへったくれも無い悲鳴を上げてしまった。夕立の時もそうだったけれど、斎藤の行動はいつも突然だ。
 頭が真っ白になって硬直してしまっているの頬に空いた手を添えて、斎藤は恋人にでもするかのように甘く囁きかける。
「林檎よりも、こっちを食いたいな、俺は」
「あっ……あっ……」
 林檎のように顔を真っ赤にして、は酸欠の金魚のように口をパクパクしてしまう。理解を超えた出来事に、本当に酸欠になってしまいそうだ。
 を見詰めて“こっちを食いたい”というのは、つまりそういうことだろう。まだ接吻どころか手も握っていないというのに、それは急展開過ぎる。それにまだ真昼間なのだ。真昼間からそういうことをするのは、道徳的に良くないと思う。
 とにかく落ち着かなくては。は一生懸命深呼吸をして、言葉を出そうと務める。
「あ……あのっ……それは………」
 目を潤ませて必死に訴えようとするを見て、斎藤は苦笑した。
「じゃあ、唇だけ。それなら良いだろう?」
 の返事も待たず、斎藤の顔がゆっくりと近付いてくる。
 接吻だけなら、いつでもして良いとは思っていた。斎藤と二人だけの時はいつもそれを期待していたし、彼が自分の方を見る度にそれを待っていたような気もする。けれど斎藤は今までそれらしい行動は何も起こしてくれなくて。それは多分、上司と部下という立場が枷になっているからなのだろう。それだったらこのまま既成事実を作ってしまえば、元に戻ってももしかしたらしてくれるかもしれない。
 そう思うと、もゆっくりと目を閉じた。今の斎藤は本当の斎藤じゃないけれど、でも斎藤が接吻してくれるなんて、こんな時しかないかもしれない。でも―――――
「やっぱり駄目―――――っっ!!」
 唇が触れ合う直前、は斎藤を思いっきり突き飛ばした。こういうことは、本当の斎藤が相手でなければ意味が無い。
「うわっっ?!」
 油断しきっていたところをいきなり突き飛ばされ、斎藤はそのまま倒れてしまった。ゴンッ! と鈍い音がして、斎藤の後頭部が件の箪笥の金具の取っ手にぶつかる。
 打ち所が悪かったのか、斎藤はそのままぐったりとしてしまった。またさっきと同じだ。
「斎藤さんっっ!」
 また別人の斎藤が出てきたらどうしよう。は泣きそうな顔で斎藤の名を呼んだ。
「う………」
 小さな呻き声を上げて、斎藤はゆっくりと目を開ける。即座に目を観察すると、今度は瞳孔は正常のようだ。
「いたたたた………」
 不快そうに顔を顰めて、斎藤はぶつけた後頭部を擦った。顔の顰め方も、“本当の”斎藤のものだ。
 自分の後ろにある箪笥を見て、斎藤は怪訝な顔をする。そして心配そうに見詰めているに、
「どうして此処に箪笥があるんだ?」
「はい?」
 何を言っているのか解らなくて、今度はが怪訝な顔をした。どうして此処に箪笥があるのかって、斎藤が此処まで運んだからではないか。
 もしかして、頭をぶつけてからの記憶が無いのだろうか。頭をぶつけた衝撃で、一時的な記憶喪失に陥ることがあるというのをも聞いたことがある。
「斎藤さん、隣の隣のおじさんに箪笥を運ぶの手伝ってもらったの、憶えてますか?」
「うーん………」
 恐る恐る尋ねるに、斎藤は腕を組んで考え込む。この様子では憶えていないようだ。本当に記憶が欠落しているらしい。
 けれど、記憶が欠落していて、ある意味良かったのかもしれない。もしこれまでのことを斎藤が憶えていたら、恥ずかしさのあまりと二度と会わないように転属願いを出していただろう。あんな言動をして平気でいられるほど、斎藤はチャラチャラした男ではない。
「まあ憶えてなくても良いですよ。箪笥もちゃんと置けましたし。
 あ、林檎食べます?」
 話を逸らすように、は林檎の皿を斎藤の前に出して勧めてみた。その皿を見て、斎藤は呆れたようなうんざりしたようなしかめっ面を見せる。
「何だ、この林檎は?」
「や、折角だから一手間掛けてみようかなーって。あははー」
 いつもの斎藤の反応が返ってきて安心した反面、やっぱり別人の斎藤の方が良かったかなあ、とは不謹慎なことを考えながら、乾いた笑い声をたててしまうのだった。
<あとがき>
 “真面目な(?)蒼紫or斎藤が人が変わって(酔った勢いか頭を打って)軟派な台詞を言って、それに困惑する主人公さんが見たい”というリクエストをWeb拍手でいただきまして、それの斎藤編です。先に書いた蒼紫編でクサい台詞を必死に考えて力尽きてしまったので、斎藤編では恥ずかしい行動に重点を置いてみました。如何なもんでしょうかね。
 しかし、クサい台詞にしても恥ずかしい行動にしても、意識して書こうとすると結構難しいですね。ある意味エロより難しい。もっとこう、気障なことをさせたかったんですけどねぇ……。ハーレクインロマンスでも読んで勉強しなきゃいけないです。ハーレクイン……何だかとんでもないゲロ甘な世界が繰り広げられてそうな響きですね。「僕の子猫ちゃん」とか言ってそう。斎藤が言ったら怖いなあ。「俺の子兎ちゃん」とか。
 リクエストを下さった方、蒼紫編、斎藤編、こんな物が出来上がってしまいましたが、いかがなものでしょうか。これに懲りずにまたリクエストを出していただけると幸いです。最近ネタに詰まり気味なんで(笑)。
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