始めの一歩

 雲一つ無い青空、山を吹き抜ける初夏の爽やかな風―――――今日は絶好の陶芸日和である。来月には梅雨入りして再来月には本格的な夏になるから、窯を使うのはもう今月一杯で終わりだろう。
 今年も満足できる作品が大量にできた。あとは町の業者が引き取りに来るのを待つだけである。しかし―――――
 轆轤ろくろを回しながら、比古は隣で土を捏ねているをちらりと見る。
 つい情に絆されて雪解け後も此処に留まることを許してしまったが、本格的に此処に住みつくことはまだ許していないつもりだ。何かきっかけがあれば、すぐに出て行けと言えるのだが、今のところ致命的な失態を犯すわけでもなく、ずるずると今日に至っている。いっそのこと、焼き物と一緒に何処かの店が引き取ってくれないだろうかと思うのだが、そんな酔狂な店主は何処にもいないだろう。
 気が付けば、が此処にやって来て、もうすぐ一年である。よくもまあ今日まで我慢してきたものだと、比古は自分を褒めてやりたい。これで追い出すことができれば、もっと褒めてやりたいところだが。
「先生、きりの良いところでお茶にしましょうよ」
 土を捏ねすぎて疲れたのか、手をぷるぷる振りながらが提案した。
「ああ」
 轆轤を蹴る足を止めて、比古も同意する。
 陶芸をするようになってから、は比古にそれなりに気を遣うようになってきたと思う。以前であれば、自分だけ勝手に茶を飲んでいたところを、比古にも淹れてやろうと言ってくるようになったのだ。たったこれだけのことではあるが、彼から見れば画期的なことだ。
 は手を洗うと、茶を淹れるために山小屋に引っ込んだ。
「うーん………」
 の後ろ姿を見送った後、比古は腕組みをして考え込む。
 何だかんだ言いながら、の存在はしっかりと比古の日常に組み込まれてしまっている。がが強引に比古の日常に割り込んできたというのが正確なのだろうが、とにかく彼女いなかった頃のことを思い出せないくらい馴染んでしまっている。これは、いつか追い出してやろうと思っている彼にとっては非常にまずい。
 許した覚えも無いのに、いつの間にやら山に粘土を掘りに行く時は一緒についてきているし、さっきのように比古の隣で陶芸をやっている。知らぬ人間が見たら、彼女を弟子だと思うだろう。それは甚だ不本意なことだ。弟子は取らないと常々公言していたのに、が弟子のような顔で居座っていたら、女だから弟子にしたのだと誤解されてしまうではないか。
 どうせ“女だから弟子にした”と誤解されるのなら、もう少し素直で大人しい女だったら良かったのに、と比古は的外れなことを考えてしまう。素直で大人しい女だったら、彼ももう少し快適な生活ができたに違いないのだ。
「何を真剣な顔をして考えてるんですか?」
 比古の前に湯呑みを置いて、が尋ねる。
「いや………」
 黙って茶を飲んでいると、の右手首に包帯が巻かれていることに気付いた。
「あ、これ………土を捏ねる時に一寸筋を傷めちゃったみたいで………。でも大丈夫ですから。すぐに治りますから」
 陶芸のせいで怪我をしたら、それを口実に町に帰されると思っているのか、は焦ったように早口で主張する。
 見た感じではひどく腫れているようでもなく、の言う通りすぐに治るものなのだろう。しかし、これまで通り陶芸を続けていては、治るどころか悪化させてしまうかもしれない。
「治るまで、陶芸は休みだな」
「大丈夫ですよ、これくらい。本当に、そんなに痛くないですから」
「何言ってやがる。無理して悪化させたら、本当に土を捏ねられなくなるぞ。大体前から思ってたんだが、手の力だけで捏ねようとするから、そんなことになるんだ。お前は俺と違って力が無いんだから、全身の体重を使って―――――」
 そこまで言ったところで、妙に熱い視線に気付いた。見ると、がキラキラした目で比古をじっと見詰めている。
「何だ? 気持ち悪ぃな」
「先生、本当に先生みたい………」
 感激したように、はうっとりと呟く。
 しまった、と比古は即座に後悔したが、もう遅い。此処で勝手に陶芸を始めるのは仕方が無いと許してきた。陶芸をするのを許す代わり、一切助言はしないつもりだった。一度助言をしようものなら、ますます弟子のような顔をするに決まっている。
 そして実際、は早くも弟子と認められたと勘違いしたらしい。キラキラした尊敬の眼差しで、は熱っぽく比古を見上げた。
「そうですね。ここで無理をして手首を駄目にしたら、元も子もないですもんね。先生の言う通り、少し休みます」
「うーん…………」
 勝手に弟子にしてもらえたと勘違いしているのは困りものだが、傷めた手首を休ませるということには比古も賛成である。彼が師匠のように言ったから素直に言うことを聞いたのだろうし、今更「お前は弟子ではない」などと言ったら、逆に意地になって土を捏ね始めるかもしれない。
 の身体のために、とりあえず師匠の振りをしてやるか、と比古はそのまま黙り込んでしまうのだった。
<あとがき>
 何だかんだ言いながら優しいじゃないですか、師匠。ここまでしてるんだから、もう弟子にしてあげれば良いのに(笑)。
 主人公さんも師匠の横で土を捏ねたり、師匠と一緒に山に土を掘りに行ったり、どこからどう見ても弟子です。町の焼き物屋さんが「おや、女のお弟子さんですか」なんてニヤニヤした日には、一体どうなることやら………。
 それにしてもこの二人、ラブラブになることあるのかなあ。
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